向朗(しょうろう)は、正史三国志によると、諸葛亮に恨みを買ってしまった話があります。
向朗は馬謖と仲が良かったわけですが、馬謖は街亭の戦いで張郃に敗れてしまうわけです。
馬謖は獄に繋がれるわけですが、向朗が馬謖の逃亡を見逃したとする話が、陳寿が書いた正史三国志にあります。
この事から、向朗は諸葛亮の恨みを買ったと記載があります。
しかし、向朗は後に出世して光禄勲になっています。
のんびりと30年暮らしたとする記述もあり、生き方として共感できる部分もある人物です。
今回は、向朗がなぜ諸葛亮の恨みを買ってしまったのか?などを中心としたお話しとなります。
尚、向朗は荊州の襄陽郡の出身だったと記録があります。
向朗と仲がよかったとされている馬謖も、同じ荊州の襄陽出身だったと言うのも大きかったのでしょう。
上記の画像は、諸葛亮が街亭の戦いに敗れた馬謖が軍法会議で言い訳した時に、諸葛亮が発した「馬鹿者!」発言です。
向朗は、諸葛亮の恨みを買っていますが、同じセリフを言われたのかどうかは、定かではありません・・・。
因みに、向朗の兄の子で向寵がおり、同じく蜀に仕えました。
向寵は夷陵の戦いで敗戦の中で、無傷で撤退した人物でもあります。
尚、正史三国志の霍王向張楊費伝に向朗伝があり、下記の人物と共に記録が書かれています。
司馬徽の門下生だった
向朗は、司馬徽の門下生でした。
司馬徽は、水鏡先生とも呼ばれています。
臥竜鳳雛と言われた、諸葛亮や龐統の師匠というだけではなく、徐庶、孟建、石韜、韓嵩にも学問を教えていた人物です。
徐庶、韓嵩、龐統とは格別に仲がよかったとされています。
荊州はその頃に、劉表が支配していました。
しかし、徐庶、諸葛亮、龐統は劉表に仕官はしなかったようです。
それに対して、韓嵩や向朗は劉表に仕えています。
劉表は向朗を、臨沮県の長に任命しています。
尚、司馬徽の門下生の石韜、徐庶、孟建、崔鈞は「諸葛四友」とも呼ばれていますが、向朗は諸葛四友には数えられていません。
劉備に仕える
正史三国志の向朗伝によれば、劉表が亡くなると劉備に仕えたとあります。
劉表が死に劉琮(りゅうそう)が跡を継ぐと、曹操に降伏しています。
しかし、この時に劉備の配下には、徐庶や諸葛亮がいたので、このタイミングで劉備に仕える事にしたのかも知れません。
その後、劉備は長坂の戦いで、曹操軍の追撃を受けますが、呉の周瑜や魯粛と協力して赤壁の戦いで大勝しています。
周瑜が江陵の曹仁と戦っている間に、劉備は、趙範、金旋、劉度、韓玄を破り荊州四郡を手に入れています。
劉備が江南を領有すると、向朗は夷陵、秭帰、夷道、巫の4県を任されています。
劉備はその後、龐統や諸葛亮、張飛らと共に蜀の劉璋を破り益州を手に入れる事に成功しました。
益州を手に入れると劉備は、向朗を巴蜀太守に任命し、暫くすると牂牁太守に転任させて、さらに房陵太守に移動されています。
郡太守を転々とさせているわけです。
向朗伝に、若い頃の話なのですが「普段の品行を整える事をせず」という言葉があります。
しかし、実務能力は高く評判はよかった話があります。
それを考えると、実務能力は高かったが、任務先でスキャンダラスな事を起こして、太守を転々としたのかも知れません。
記録はないのですが、その可能性もあるのかな?と考えてしまいました。
蜀の人物で品行がよくないと言えば、法正も当てはまるのですが、同じようなタイプだった可能性もあります。
ただし、「若い頃は」という記述があり、年齢と共に節度をわきまえた人物に成長していったのかも知れません。
劉禅に仕える
劉備は夷陵の戦いで、陸遜に敗れてしまいます。
劉備は成都には帰らずに、永安に留まりそのまま亡くなってしまいます。
劉備が亡くなると、向朗はそのまま劉禅に仕えています。
王連が生きていたうちは、諫められて、諸葛亮は南征の軍を起こしませんでした。
しかし、王連が亡くなると、諸葛亮は自ら軍を率いて南征を行っています。
馬謖の「城を攻めるのは下策、心を攻めるのが上策」という言葉通りの展開となり、諸葛亮は孟獲を降伏させて、順調に南征を終わらせています。
この時に向朗は、王連の後任の丞相長史に就任しました。
諸葛亮が南征を行っている間は、諸葛亮の代わりに丞相府の仕事を取り仕切っています。
諸葛亮は、南征を成功させると、次は魏の領土を取るために北伐の軍を起こしているわけです。
この時に、向朗は漢中に行ったとされています。
諸葛亮の第一次北伐になるのですが、趙雲・鄧芝が囮となり、蜀軍本隊は祁山を攻撃しています。
さらに、諸葛亮は馬謖を先鋒にして大軍を率いさせて、街亭に行き張郃と戦わせています。
これが街亭の戦いです。
しかし、馬謖は山の上に布陣してしまったり、命令が上手く伝わらなかったりと失態を見せてしまい、張郃に大敗しています。
命令違反があった為に、諸葛亮に処刑される事になってしまいました。
泣いて馬謖を斬るの話です。
向朗が諸葛亮の恨みを買う
向朗伝によると、馬謖が逃亡して、向朗は知っていたが黙認したとあります。
諸葛亮は、これを恨んで向朗を免官し成都に帰らせたと、正史三国志にあります。
馬謖は、諸葛亮伝や馬良伝の馬謖の記述では、獄で亡くなったり、潔く処刑されたようになっているわけです。
それに対して、向朗伝では、馬謖が逃亡する記述があるので、これが本当だとすれば、馬謖は逃亡したが捕まってしまい処刑された事になります。
これに対して、諸葛亮が向朗を恨んだ記述があるのですが、なぜ?向朗が諸葛亮を恨んだのか謎な部分があります。
諸葛亮は馬謖を許そうとしていたのか?
諸葛亮が馬謖を恨む理由に関して考えてみました。
諸葛亮が馬謖を恨む理由ですが、諸葛亮は馬謖を上手くやって、許そうと考えていたのかも知れません。
しかし、体裁上として、向朗や蜀の諸将の前では「法を犯した馬謖を処刑する」と宣言していた可能性があります。
内心では諸葛亮は、劉禅に上表するなどして、馬謖を助けようと考えたのかも知れません。
しかし、向朗の方は諸葛亮は法に関しては厳格だと分かっていて「このままでは友人の馬謖が処刑されてしまう」と馬謖が窮地に陥っていると思ってしまった可能性もあります。
それを馬謖に伝えると、馬謖は逃亡を決意します。
もちろん、向朗は馬謖が逃亡する事を知っていますが、黙認するわけです。
しかし、馬謖は結局は捕まってしまい、さらに罪が重たくなり処刑されてしまったという話です。
逃亡したとなれば、諸葛亮は馬謖を絶対に処刑しなければ、ならなくなるでしょう。
馬謖が逃亡する時に、向朗が引き留めていれば許す事も可能だったのに、黙認した事で絶対に処刑しなければならない状態に、なってしまった事を恨んだのかも知れません。
これであれば、諸葛亮が向朗を恨み解任した理由も分かるような気がします。
ただし、これに関しては、明確な資料があるわけではなく、あくまでも想像になります。
単純に黙認した事を恨んだ
諸葛亮は、法には厳しい人なので馬謖の逃亡を知っていながら、黙認した向朗が許せなかった可能性があります。
諸葛亮と向朗は、司馬徽の元にいたわけで、付き合いば長いわけです。
長年付き合っていて、諸葛亮は向朗が法を犯すような事をする人物じゃないと、思っていたのかも知れません。
向朗の仕事ぶりも評価していましたし、信頼もしていたのでしょう。
しかし、馬謖が逃亡するのを黙認したりするのは、法を破る事でもあり諸葛亮は許せなかったはずです。
法を破った事に怒った、諸葛亮が向朗を恨んだ可能性もあるでしょう。
なぜ向朗は、馬謖が逃亡する事を知っていたのか?
正史三国志の向朗伝には「事情を知りながら向朗は、馬謖の逃亡を黙認した」という記述があります。
黙認と言う事は、「逃亡する事を知っていたが、見ない事にした」という事でしょう
これを考えてみると、向朗は馬謖が逃亡する事を知っていた事になります。
馬謖は漢中に戻ると獄に入れられていたはずです。
この時に、向朗は馬謖に獄で面会したか、手紙を出したのかも知れません。
馬謖の口から「逃亡するつもりだ」という話を聞いた可能性もあります。
それか、向朗は馬謖の才能を認めていて、獄にいる馬謖に下記のように言った事も考えられないでしょうか?
「お主はまだ若い。諸葛亮は情よりも法を取る人だから、必ず処刑される。このまま死ぬのは勿体ない人物である。人生は生きていればやり直しが利く、よく考えてみたらどうだ?」
文章は私が勝手に考えたものですが、暗に馬謖に逃亡を勧めたという事です。
この話を聞いていた人がいて、諸葛亮に密告した人がいたと言うのはどうでしょうか?
諸葛亮は、その話を聞いても信じませんでしたが、本当に馬謖が逃亡してしまいます。
しかし、結局は馬謖は捕まってしまい、向朗に問いただします。
すると、向朗は本当の事を話し、これにより諸葛亮は自分を欺こうとした向朗を恨んだ可能性もあるかと思いました。
それにより、向朗は免官となったわけです。
馬謖が死んだ時に、向朗は免官になり蜀に帰還した事から、何かしらの馬謖とのコンタクトがあってもおかしくはないでしょう。
それにより諸葛亮の恨みを買ったとするのが妥当かも知れません。
ただし、これも私の想像でしかなく、確かめようはありません。
諸葛亮は馬謖を嫌っていた?
この説は、可能性が低いかなとは思っていますが、ゼロではないと思うので記しておきます。
諸葛亮は、馬謖の事を嫌っていて処分したかったという話です。
馬謖はとにかく弁が立ちますし、時には諸葛亮を論破していたようです。
最初は、優れた人材だと思っていたが、段々と「ウザい男だな」と心変わりしてしまった説です。
しかし、能力的には申し分ないようにも思えたため、街亭の戦いで先鋒を任せてみたが、失敗してくれたので処刑しようと考えたとする説です。
この説の出所ですが、習鑿歯(しゅうさくし)の言葉で、「諸葛亮は馬謖を斬りたがっている様にしか思えない」と書いてある事から連想だと感じます。
諸葛亮は、馬謖を斬る気満々だったわけですが、向朗がその事に気が付き獄にいる馬謖に忠告します。
これを聞いた馬謖は、逃亡して蜀を去る決意をするわけですが、結局は捕まってしまい斬られるわけです。
しかし、馬謖の逃亡に向朗が助けた事実が明るみになってしまいます。
向朗は、馬謖の逃亡を黙認した事を正直に諸葛亮に告げます。
すると、諸葛亮は向朗が、自分よりも馬謖を味方した事に怒り恨みを抱いたという説です。
しかし、この説だと諸葛亮の器が余りにも小さいような気がするのは、自分だけでしょうか?
諸葛亮は、ここまで酷い人ではないと思いますので、自分としてはありえないかな?と感じています。
ただし、三国志演義で魏延にした行為に関しては、最悪だと思っていますが・・・。
向朗が大出世して特進となった?
諸葛亮によって、職を解任されてしまった向朗ですが、数年後に復職したようです。
光禄勲になったと正史三国志にあります。
さらに、以前の功績も評価されて顕明亭侯になったとも記載がありました。
その後は、三公に匹敵する役職である特進になったと記録が残っています。
ただし、役職に復帰したと言うよりは、政治にはほとんど関与しない名誉職だったのかも知れません。
長史をやめてから、悠々自適の生活を30年暮らしたと記載があるからです。
政治に関与していたら悠々自適の生活とは行かないでしょう。
向朗に関しては、品行は余り良くなかったようですが、実務に関しては非常に得意で評判がよかった話が残っています。
さらに、免官になってからは、古典の研究をしたり、多くの客と談笑したり弟子も多かったようです。
書物に関しては、蜀の国では一番の豊富に持っていた話もあります。
品行に関しても若い頃は悪かったのかも知れませんが、年齢と共に丸くなってきたのかも知れません。
それを考えると、向朗はかなり評判が良かったのではないかと思いました。
向朗の評判の良さに目をつけた、蜀の首脳陣らが民に自分たちが支持されるように、形だけでも向朗に役職を与えたのかも知れません。
向朗を官位に就けるのは、形だけの人気取りの政策だったようにも感じます。
尚、正史三国にには、向朗は悠々自適の生活を送ったのは、30年とありますが、実際には20年ほどの可能性が高いです。
正史三国志に注釈を入れた裴松之が、「泣いて馬謖を斬る」の年が、西暦228年で、向朗が死亡した年が247年と記載があるからです。
馬謖が死んだ年に、30を足してしまうと、向朗の最後の年と計算が合わなくなってしまいます。
しかし、こういう記述の曖昧さは、正史三国志にはあちこちにあります。
実際に、馬謖の最後にしても、諸葛亮伝と馬謖伝、向朗伝では違う事も書いてありますから・・・。
司馬遷の書いた史記にも言える事ですが、こういう曖昧さがあるから、様々な説が誕生する事で歴史を盛り上げてくれるのかも知れません。
向朗のような人生に共感が出来る
向朗のような人生に共感できる所があります。
免官になってから、悠々自適の生活を送っているような所がいいと思いました。
向朗に比べると、諸葛亮は北伐の軍を何度も起こしていますし、仕事に忙殺されているわけです。
最後は、北伐に向かいましたが、体調を崩してしまい、司馬懿と対峙した五丈原の戦いの最中に没しています。
「死せる孔明生ける仲達を走らす」などの名場面も作ってくれましたが、諸葛亮のような人生を送ってしまったら、自分にはストレスで耐え切れないでしょう。
司馬懿を相手に、策略の限りを尽くして戦うなど、物語としては面白いわけですが、実際に自分がその立場になったら嫌だな~と感じてしまうわけです。
こう思うのって自分だけですかね??
さらに、諸葛亮はどう見ても「過労死」で死亡しています。
諸葛亮の多忙さを知った司馬懿は、諸葛亮の寿命が長くない事まで予言した程です。
蜀に忠義を尽くした名臣ではあると思いますが、自分には無理だな~と思いました。
それであれば、向朗のように自分が今までに覚えた来た事を人に教えたり、客の談笑したりしていた方がいいなと感じています。
ただし、向朗は貧乏になってしまったという話もあり、気前が良すぎた部分もあるのかも知れません。
同様に蜀で車騎将軍にまで昇進した鄧芝も妻子は飢えや寒さを逃れる事が出来なかったとあります。
鄧芝は性格に問題がありましたが、兵士達には労をねぎらった話もあり気前がよい性格だったのでしょう。
気前が良すぎるのも家族から見れば問題行動なのかも知れません。