古代日本 天皇の治世

神功皇后は古代日本の女傑

2023年8月19日

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宮下悠史

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名前神功皇后、気長足姫尊
時代古代日本
生没年不明
登場日本書紀、古事記

神功皇后は日本書紀や古事記に登場し、仲哀天皇の妃となった人物でもあります。

仲哀天皇が崩御すると、神功皇后が摂政となり政治を行いました。

神功皇后は日本書紀で唯一天皇以外で、一巻を成している人物であり、実質的に天皇として扱われています。

実際に、日本書紀の記述を見る限り神功皇后は死ぬまで、応神天皇を天皇として即位させませんでした。

それを考えると、日本で最初の女帝とも呼ぶ事も出来るはずです。

神功皇后の時代に三韓征伐などを行っており、功績で言えば仲哀天皇よりも大きいと言えるでしょう。

尚、神功皇后の卑弥呼の同一人物説もありますが、その可能性は極めて低いと考えております。

神功皇后と卑弥呼の同一人物説に関しては、最後に扱っています。

今回は実質的な天皇でもあった神功皇后を解説します。

美貌の持ち主

日本書紀によると、神功皇后の名は気長足姫尊だと記録されています。

神功皇后は開化天皇の曽孫であり、息長宿禰王と葛城高顙媛の間に出来た娘です。

神功皇后は幼い頃から聡明であり、叡智があったと言います。

それでいて、神功皇后は容姿端麗であり、父親の息長宿禰は神功皇后を見ていぶかしんだとあります。

息長宿禰は神功皇后の美貌と才能を目にし「なぜこんなに美しく優れているのだろう」と考えた事になります。

摂政

仲哀天皇は熊襲討伐を行う為に九州に行きますが、突如として崩御しました。

神功皇后は仲哀天皇が神の言葉に従わずに崩御したと考え、どの神に祟られたのか知り、神が述べた宝を手に入れようと考えました。

神功皇后は郡臣に命じて罪を祓い過ちを改め、斎宮を小山田邑に造営しています。

さらに、神功皇后は吉日を選び斎宮に入り、自ら神主となりました。

神功皇后は武内宿禰に琴を弾かせ、中臣烏賊津を審神者とし、神を聞き出し祀らせました。

九州を平定

神功皇后は神を祀った後に、鴨別に熊襲を征伐させようとしますが、熊襲は自然と服従したとあります。

さらに、神功皇后は九州の従わない勢力である羽白熊鷲を討ち、松峡宮に移りました。

松峡宮への移動の最中に神功皇后が被っていた御笠が吹き飛ばされ、その地を御笠になったと言います。

御笠が現在の福岡県太宰府市御笠ではないかと考えられています。

神宮皇后は羽白熊鷲を討ち取ると「熊鷲を討ち取り、心が安らかになった」と述べ、その地を「安」と名付けたと言います。

安が現在の筑前町にある夜須だと考えられています。

過去には夜須町がありましたが、三輪町と合併し筑前町となりました。

さらに、神功皇后は山門県に進出し土蜘蛛・田油津媛を討伐しています。

神宮皇后は田油津媛と兄の夏羽を破った事で、九州を平定したと言えるでしょう。

神功皇后の神がかり的な伝説

神功皇后の鮎釣り

北九州を平定した神功皇后は肥前国松浦県に向かいました。

松浦県は魏志倭人伝に登場する末盧国だとも考えられています。

神宮皇后は玉島里の小川の付近で、食事をしました。

神功皇后が飯粒を餌として裳を釣り糸にして、河の中の石の上で釣りを行ったわけです。

神功皇后の釣りは単なる釣りではなく、神意を聞く行動でもあり、次の様に述べました。

※日本書紀より

神功皇后「私は西の財物を求めております。

成就するのであれば、河の魚よ。釣り針にかかれ」

神功皇后が竿をあげると見事な鮎が掛かりました。

神功皇后は魚を見ると「珍しい魚」と述べ、梅豆羅国と呼ばれる様になったと言います。

現在の松浦は梅豆羅が訛ったものだと伝承されたとあります。

神功皇后の話もあり、松浦の女性は4月上旬になると、釣りをして年魚を取る様になったと言います。

ただし、男が釣りをしても魚が獲る事が出来ないと日本書紀には書かれています。

西方を討つの謎

神功皇后は鮎が釣れた事で神の言っている話が間違いないと悟りました。

日本書紀には次の記述が存在します。

※日本書紀より

神功皇后は神を祀り自ら西方を討とうと考えた。

上記の記述を見ると、神功皇后は西にある国を討とうと考えた事になります。

しかし、後の展開を見ると、神功皇后がターゲットにしたのは、北方(北西)の新羅であり、なぜ西を討つとあるのかは謎です。

一説によると、神功皇后や仲哀天皇が過去にいた敦賀から見て、西方を指すのではないか?と考える専門家もいます。

それでも、方角を気にしなければ、神功皇后は新羅を討とうとした事だけは間違いないでしょう。

後に西方が正しいとする解釈となり新羅遠征をおこなう事にもなります。

裂田の溝

神功皇后は神を祀り神田を定めました。

この時に那珂川から水を引いて神田に水を注ごうとしますが、大岩が邪魔をしていたわけです。

神功皇后は大岩を何とかしたいと考えて祈ると、落雷があり岩が砕けました。

如何にも現実離れした話にも聞こえますが、裂田の溝は安徳台遺跡に実在しています。

神功皇后と落雷の話は史実とは言えないと思いますが、全くの嘘の話という訳でもなさそうです。

神功皇后の決意

神功皇后は香椎宮に帰還すると、海に行き海水に頭を入れ次の様に述べました。

※日本書紀より

神功皇后「私は神の教えにより皇祖の霊を頼みとし、青海原を渡り自ら西方を討とうと考えております。

頭を海水で洗いますが、神の御加護があれば、髪が勝手に分かれて二つになりますように」

神功皇后が海水で髪の毛を洗うと、髪はひとりでに分かれたとあります。

神功皇后は分かれた髪を「みずら」にしたと言います。

みずらは古代日本の男性の髪型でもあり、神功皇后は男性の様な勇ましさを自らに求めたのでしょう。

神功皇后は、さらに群臣に向かい次の様に述べました。

神功皇后「軍を出動させるのは国の大事である。

安危と成敗は、ここに掛かっているのである。

現在は討つべき所があり、これは郡臣たちに委ねるのが普通だと思う。

しかし、これでは事が成就されなかった時に、罪は郡臣にあると言えるだろうが、これはとても辛い事だ。

私は未熟な女ではあるが、暫くは男装し、勇ましい計画を立てようと思う。

上は神霊を蒙り下は郡臣の助けにより、軍勢を整え高い波を渡り、船団を率いて宝の国に挑もうと思う。

事が成就されれば群臣の功績であり、失敗すれば私一人の罪である。

既にこの覚悟は出来ているから、皆でよく相談せよ」

神功皇后は遠征をおこなう決意表明をし、失敗したら全責任を自分で持つと宣言した事になります。

神功皇后の言葉を聞くと、群臣らは次の様に述べました。

皇后は天下の為を国家の社稷を安んずる為を第一としております。

敗れても罪が臣下に及ぶ事もありますまい。

謹んで詔を承ります。

群臣らは罪が自分達に及ばない事を確認した上で、神功皇后と共に軍事遠征をおこなう事を承諾したわけです。

兵を集める

神功皇后の新羅討伐に関しては、古事記は簡略な話となっており、日本書紀をベースに記述します。

神功皇后は諸国に布令を出し、船と兵を集めました。

しかし、兵士が中々集まらず、神功皇后は次の様に述べています。

※日本書紀より

神功皇后「これが神の御心となるのであろう」

神宮皇后は神の心が兵士を集める事に向かっていないと考えたわけです。

神功皇后は大三輪神社を建設し、刀や矛と奉りました。

すると、兵士が自然と集まったとあります。

尚、日本書紀の記述を見る限りでは、この時点で神功皇后は攻撃対象を定めておらず、攻撃対象を決めてもいないのに兵を集めてしまった事になります。

西の国

神宮皇后は吾瓮海人烏摩呂に命じ、西の海に行き国を確認する為の偵察を行っています。

吾瓮海人烏摩呂は帰還しますが、「国はありません」と答えました。

次に神功皇后は磯鹿(志賀島)の海人である「草」を派遣し、西に向かわせました。

暫くすると戻って来て「西北方に山があり、雲が横たわっており国があるのでしょう」と報告しました。

これにより神功皇后は西ではなく西北にある新羅の攻撃を決断する事になります。

尚、神は西を討てといいましたが、最終的には西北を討つ事になり、神の意思に反している様にも見えるわけです。

一説によると、神が述べた「西」というのは、神功皇后や仲哀天皇が過去にいた敦賀(福井県)から見て西を指すのではないかとも考えられています。

敦賀から見て西であれば、確かに新羅は西となります。

しかし、日本列島に沿って移動し、九州まで行くと西北に新羅の位置となってしまうわけです。

それを考えると、神がいう西は敦賀から見て西を指したとした方が記述と合致しています。

ただし、日本書紀や古事記の記述だと、仲哀天皇や神功皇后が九州に上陸した後で「西」だと答えており、この辺りが混乱する部分でもある様に感じました。

信賞必罰

神功皇后は海を渡り新羅征伐を敢行する事に決定しました。

神功皇后は斧や鉞を手にし、次の様に述べています。

※日本書紀より

神功皇后「士気を上げる鐘鼓の音が乱れ、軍旗が乱れている時は軍が整ってはおらず、財を貪り物を得たいと願ったり、欲に未練があれば敗北するに違いない。

敵の兵士が少なくても決して侮ってはならない。

敵が大軍であっても心が挫けてはならない。

暴力を婦女に行ってはならない。自分から降伏する者の命を奪ってはならない。

戦いに勝ては必ず恩賞があり、逃げる者は処罰する」

神功皇后は斧や鉞などの刑罰の道具を持って述べたのであり、軍規を犯す者は赦さないと宣言した事になります。

さらには、戦いに望む心構えや戦いに勝てば、褒美を必ず出すと伝えた事になるでしょう。

信賞必罰を神功皇后は約束したわけです。

さらに、次の様な神の教えもありました。

※日本書紀より

和魂は王の身を守り荒魂は先鋒として軍船を導いてくれるであろう。

出雲の大国主の話では幸魂と奇魂が出て来ましたが、神功皇后の所では和魂、荒魂が出て来たわけです。

神功皇后は神の言葉を聞くと拝礼し、依網吾彦男垂見を祭の神主としました。

神功皇后の臨月

神功皇后のお腹には応神天皇がおり、新羅征伐を前にして神功皇后は臨月となります。

新羅征伐を前にして出産するわけにはいかず、石を腰に挟み次の様に述べました。

神功皇后「事が終わり帰還出来たら、この場所で生まれて欲しい」

神功皇后は新羅遠征の決意を固めました。

神功皇后は荒魂を招き寄せて軍の先鋒とし、和魂を船の守りとしています。

尚、日本書紀によると神功皇后が使った石は筑前怡土郡の道のほとりにあると記録されています。

新羅遠征

新羅に到着

神功皇后は朝鮮半島の新羅を目指し船を出しますが、次の記述が存在します。

※日本書紀より

風の神が風を起こし、波の神は波を上げて、海中の大魚は全て浮かんで船を助けた。

神功皇后の船団は風や波だけではなく、魚まで味方につけて、あっという間に朝鮮半島まで到達しました。

日本書紀によれば舵などを使わなくても、新羅に到着したとあります。

さらに、波は強く神功皇后の船を国の中ほどにまで到達させたとあります。

古事記にも日本書紀と同様の記述であり、この話は現実離れし過ぎている様に感じました。

トビウオの大群などが、たまたま発生していた可能性はありますが、史実とは言えないでしょう。

日本書紀の記述によれば、神が神功皇后に味方したとも言えます。

新羅王の絶望

日本書紀の記述に従えば、神功皇后の神がかり的な奇襲により、新羅を侵略した事になります。

新羅王は神功皇后を恐れなすすべを知らなかったとあります。

新羅王は群臣を集めると、次の様に述べました。

新羅王「新羅が建国してから、海水が国の半ばまで来た事は無かった。

天運が尽きて国が海になってしまうのかも知れない」

新羅王は大和王権の襲来に対処出来ず、神功皇后の軍は軍船に満ち溢れ旗は日に輝き、鼓笛の音は山川に響いたとあります。

神功皇后の神がかり的な奇襲の前に、新羅王は絶望感を味わったわけです。

新羅王は我に返ると、次の様に述べています。

新羅王「東に神の国があり日本と名乗っていると聞く。

日本には聖王がおり天皇と呼び、きっとその国の神兵が攻めて来たのであろう。

我等が太刀打ちできる相手ではない」

新羅王は降伏を決断しました。

新羅の降伏

新羅王は白旗をあげて降伏しました。

新羅王は白い軛をつけて自ら囚われの格好となり、地図や戸籍を日本軍に差し出しました。

新羅王は次の様に述べています。

※日本書紀より

新羅王「私は長い服従を誓い馬飼いとなります。

船を出し春秋には珍奇な品を献上し、求められていなくても生産物を献上する事を約束します」

新羅王は大和王権に貢物を贈ると願い出ただけではなく、次の様にも述べています。

新羅王「東から昇る日が西から昇ったり、阿利那礼河の水が逆流し、河の石が天に昇り星にならない限りは、春秋の貢物を欠かさず献上する事を約束します。

約束を違えたら天地の神から罰を受ける事になるでしょう。

新羅王は神功皇后への服従を大げさな言葉で誓った事になります。

勿論、この後に倭と新羅は敵対関係となっており、約束が永久に守られる事はありませんでした。

大臣の中には新羅王を処刑するべきだと考えた者もいました。

しかし、神功皇后は次の様に述べています。

神功皇后「神の導きにより金銀の国を得ようとしているのである。

降伏を申し出たのだから、命を奪ってはいけない」

神功皇后は新羅王を許しました。

ただし、日本書紀には「馬飼い」にしたとあり、完全に許したわけでもないのでしょう。

謎の新羅王

神功皇后は新羅の国内に入ると、重宝の倉を封じ地図や戸籍を没収したとあります。

神功皇后が持っていた矛は新羅王の門に立てられ後世への印としました。

日本書紀には「その矛は今も新羅王の門に立っている」と記録されていますが、新羅は後に高句麗や百済を倒し朝鮮半島を統一しました。

新羅王にとってみれば神功皇后の矛は屈辱的なものであったに違いなく、日本書紀が完成された頃には撤去させられていたはずでしょう。

新羅王の波沙寝錦は微叱己知波珍干岐を人質とし、金、銀、彩色などの大量の財物を日本の軍船に載せました。

神功皇后の新羅征伐があってからは、新羅は沢山の貢物を日本に贈る様になったと言います。

尚、新羅王の波沙寝錦は謎の人物であり、歴代新羅王の誰を指すのかはイマイチ分かっていません。

新羅の第五代婆娑尼師今は名前が似ている事から、波沙寝錦ではないか?と考える人もいる様です。

しかし、婆娑尼師今は在位が西暦80年から112年の新羅王であり、年代がズレている様に感じました。

尚、波沙寝錦の「寝錦」は新羅独自の「王」を指す言葉であり、そもそも名前ではないとする指摘もあります。

高句麗と百済の降伏

新羅が日本に降伏した話を高句麗と百済が知る事になります。

新羅王が戸籍や地図を日本に差し出したと聞くと、百済と高句麗は「とても敵わない」と考え陣の外に出て頭を下げて次の様に述べました。

※日本書紀より

「今後は永く西藩と称し、朝貢を絶やさない様に致します」

新羅に続き百済と高句麗も神功皇后に降伏した事になります。

大和王権は内官家屯倉を定め、これを三韓と呼ぶ様になったと言います。

これが神功皇后の三韓征伐と呼ばれ、日本書紀の記述によれば戦闘が起きた記録も無く、神功皇后が新羅を訪れただけで三韓は降伏した事になっています。

しかし、神功皇后が朝鮮に行き新羅を降伏させただけで、高句麗と百済が降伏したというのは史実とは言えないでしょう。

国同士の戦いでは明らかに負けていても、勝った事にしてしまう事が普通であり、大和王権側が勝手に新羅、高句麗、百済を降伏させたと述べているだけだと感じました。

尚、神功皇后は朝鮮半島から帰還すると、応神天皇を出産し、その地を宇美と名付けました。

これが現在の宇美八幡宮であり、出産の為に訪れる人も多いです。

宇美八幡宮(HP)

別説1

神功皇后の新羅討伐には、日本書紀に別説も記載されています。

仲哀天皇が香椎宮にいた時に、沙麼県主の祖先である内避高国避高松屋種に神がかりがあり、仲哀天皇に次の様に述べました。

内避高国避高松屋種「天皇が宝の国を得たいと考えるならば、授けてもよい。

琴を持って来て皇后に弾かせよ」

神の言葉に従い神功皇后が琴を弾くと、今度は神功皇后に神がかりが起きて、次の様に述べました。

神功皇后「現在、天皇が得ようとしている国は鹿の角の様なもので、得る物がない国である。

今、天皇が乗る船と穴戸直践立が奉った水田。

名は大田をお供えとして、私をよく祀れば、乙女の眉の様に金銀が多く目が眩むような国を天皇に授けようと思う」

神は自分を祀れば仲哀天皇に金銀が大量にある国を授けると言ったわけですが、仲哀天皇は神を信じてはおらず、次の様に述べています。

仲哀天皇「神を名乗っていても騙されては困ります。

その様な国が何処にあるのでしょうか。

また私が乗る船を神に奉り、私はどの船に乗ればよいのでしょうか。

しかも、どの神なのかも聞いておりません。

名前を教えて欲しいと感じております」

仲哀天皇は神を疑い問い質すと、神は「表筒雄、仲筒雄、底筒雄」だと述べます。

仲哀天皇に宝の国を授けると言った神は住吉三神という事になります。

さらに、仲哀天皇と神の間で次の様なやり取りがありました。

神功皇后(神)「我が名は向匱男聞襲大歴五御魂速狭騰尊である」

仲哀天皇「聞き取りにくい名前だ。どうして速狭騰などというのだ」

神功皇后(神)「天皇が信じないのであれば、宝の国を得る事は出来ないだろう。

ただし、今、皇后が孕んでいる皇子が、それらを得る事になるであろう」

仲哀天皇は神の言葉に従わず、その夜に発病し急死しました。

日本書紀の異説でも仲哀天皇は神の怒りにより崩御した様な記述があるわけです。

神功皇后は神の言った様に祀り男装で新羅討伐を敢行しました。

神功皇后は神に導かれ波が新羅の国の半ばまで達し、新羅王宇留助富利智干は額を地に付けて、次の様に述べました。

宇留助富利智干「私めは日本においでになる神の御子の内官家(うちつみやけ)となり、耐える事なく朝貢する事を約束します」

ここで、この説は終わっていますが、日本書紀の本文と新羅王の名前が変わっている事が分かります。

新羅王の宇留助富利智干ですが、新羅第16代の訖解尼師今(在位310年から356年)と同一人物説があります。

宇留助富利智干と訖解尼師今の同一人物説ですが、個人的には年代的な矛盾が少なく史実に近い様にも感じています。

ただし、神功皇后に簡単に降伏し朝貢を約束したのは史実とは言えないと感じました。

別説2

日本書紀には日本と新羅の間で、もう一つの説が述べられています。

新羅王を捕虜にすると、日本軍は海辺に連行し膝の骨を抜き石の上に寝かせたとあります。

これを見ると日本側が新羅王に拷問を加えた事になり、しかも新羅王を斬り砂の中に埋めてしまいました。

日本側は一人の男だけを残し、新羅における日本の使者として帰還させています。

その後に新羅王の妻が、夫の屍を埋めた地が分からず、男を誘惑し次の様に述べています。

新羅王の妻「お前が王の屍の場所を教えてくれたら厚く報いる事を約束する。

さらに、自分はお前の妻になるであろう」

男は新羅王の妻の嘘を信用し、屍を埋めた場所を教えました。

新羅王の妻は目的を果たすと、国人と計り男を殺害しています。

さらには、王の屍を取り出して他所に葬りました。

この時に男の屍を王の墓の土の底に埋め、王の棺の下とし「尊い者と卑しい者の順番は、この様なものだ」と述べました。

新羅側の行為に怒ったのが日本の天皇であり、大軍で新羅を滅ぼそうとしました。

日本書紀の別説だと神功皇后ではなく天皇と記載があり、神功皇后を天皇の扱いとしたのか、別の天皇を指しているのかがイマイチ分かりません。

日本軍が新羅に到着すると、新羅の国人は恐怖し、新羅王の妻を殺害し日本側に謝罪したとあります。

この話でも軍事力では日本側が新羅を圧倒している事になります。

神を祀る

軍に従った神である表筒男、中筒男、底筒男の住吉三神は、神功皇后に次の様に述べました。

住吉三神「わが荒魂を穴門の山田邑に祀りなさい」

穴門直の先祖である践立・津守連の先祖、田裳見宿禰が神功皇后に向かって、次の様に述べています。

「神の居たいと思われる地を定めてはどうでしょうか」

これにより神功皇后は践立を荒魂をお祀りする神主とし、社を穴門の山田邑にたてたと言います。

これにより神功皇后の新羅征伐は完全に幕を閉じたと言えるでしょう。

忍熊王・香坂王の反乱

神功皇后の帰還

神功皇后は武内宿禰らと共に近畿に帰還しようと考えました。

しかし、仲哀天皇と大中姫の子である香坂王忍熊王は、応神天皇の擁立を許せるものではなかったわけです。

神功皇后も香坂王と忍熊王の動きを警戒していたのか、古事記には喪船を用意し「御子は崩御した」と嘘の情報を流した事が書かれています。

香坂王は赤い猪により殺害されてしまいますが、忍熊王は神功皇后との戦いを選択しました。

神功皇后は忍熊王が軍を率いて待ち構えていると知り、武内宿禰に命じて迂回し南海から紀伊水門に移動する事になります。

ここで神功皇后の船がぐるぐると回ってしまい前に進まなくなります。

天照大神を祀る

神功皇后は武庫の港に帰還し占うと、天照大神の神託があり次の様に述べられました。

※日本書紀より

天照大神「我が荒魂を皇后の傍に置くのは良くない事である。

広田国に置くのがよい」

天照大神は摂津の広田に自分の荒魂を置くように述べたわけです。

これが現在の廣田神社であり、御祭神は天照大神の荒御魂となっています。

神功皇后は天照大神の荒魂を山背根子の娘・葉山媛に祀らせました。

廣田神社兵庫県西宮市大社町7番7号電話:0798-74-3489

稚日女尊を祀る

日本書紀によると天照大神の妹である稚日女尊(古事記の機織女)は、次の様に伝えたとあります。

稚日女尊「私は活田長峡国に行きたい」

これにより稚日女尊を摂津国生田神社に祀らせました。

これが現在の兵庫県神戸市にある生田神社です。

神功皇后は稚日女尊を海上五十狭茅に祀らせました。

生田神社神戸市中央区下山手通1丁目2-1電話:078-321-3851

事代主を祀る

事代主は次の様に述べました。

事代主「自分を長田の地に祀る様に」

神功皇后は葉山媛の妹の長媛に事代主を祀らせました。

これが現在の兵庫県神戸市にある長田神社です。

長田神社兵庫県神戸市長田区長田町3丁目1番1号電話:078-691-0333(代)

住吉三神を祀る

表筒男、中筒男、底筒男からなる住吉三神は、次の様に述べました。

住吉三神「我が和魂を大津の渟中倉の長峡に置くべきである。

さすれば、往来する船を見守る事が出来るはずだ」

神功皇后は住吉三神の言う様に、その場所に鎮座して貰いました。

神功皇后が住吉三神を祀った事で、船は無事に海を渡る事が出来る様になったわけです。

神功皇后は紀伊の国に入りました。

住吉大社大阪府大阪市住吉区住吉2丁目 9-89電話:06-6672-0753

阿豆那比の罪

紀伊に上陸した神功皇后は太子の応神天皇と日高で会い、それが終わると忍熊王との戦いを決意する事になります。

神功皇后は忍熊王との決戦を行う為に、小竹宮に移りました。

小竹宮では夜の様な暗さが何日も続いたと伝わっています。

当時の人は「常夜に行く」と述べたとあります。

神功皇后は世の中がおかしくなっていると感じたのか紀直の先祖である豊耳に「この変事はどういう事であろうか」と問いました。

この時に一人の老人が次の様に述べました。

※日本書紀より

聞く所によれば、この様な変事を阿豆那比の罪と言うそうです。

神功皇后が老人に阿豆那比の罪について問うと次の様に答えています。

老人「二つの社の祝者を同じ場所に葬っているからでしょう」

神功皇后は、さらに村人に問うと、次の様に答えが返ってきました。

村人「小竹の祝と天の祝は仲の良い友人だったと伝わっています。

小竹の祝が先に病で亡くなると、天野の祝が強く泣き叫び

『私は小竹の祝が生きている時に、良い友人であった。

どうして死後に穴を同じとする事を避ける事が出来ようか』

そう言い終わると、天野の祝は屍の傍にひれ伏して、そのまま亡くなりました。

それで合葬を行ったのですが、原因はこれからも知れません」

神功皇后は話を聞き終わると、墓を開いてみる事にしました。

墓の中からは二つの遺体が見つかり、別々の所に埋める事にしたわけです。

別の所に埋めた事で呪いが解けたかの様に、日の光が輝き、昼と夜の区別が出来る様になったと言います。

この話から思うのは、古代から仲が良くても合葬はタブーだったのでしょう。

尚、小竹の祝と天の祝の話は日本最古の同性愛の話だとも考えられています。

決戦

神功皇后と忍熊王の戦いとなりますが、神功皇后は軍の指揮を武内宿禰と武振熊命に任せました。

忍熊王の方では熊之凝が歌を詠むなど、軍の士気は高かったのでしょう。

武内宿禰や武振熊命は神功皇后が崩御したとする噂を流したり、弓の弦を兵士の髪に隠すなどして忍熊王と和議を結ぼうとしました。

忍熊王は武内宿禰らの策略に引っ掛かり武装解除した所で、武内宿禰らは攻撃を仕掛け大勝しています。

忍熊王は川に身を投げて亡くなり、これにより忍熊王の乱は平定されたわけです。

都を定める

乱を平定した神功皇后は皇太后と呼ばれる様になり、この年から摂政の元年となりました。

ただし、神功皇后の時代の日本書紀の年表は正確性に欠けており、これが何年なのかはイマイチ分かりません。

神功皇后は大和に帰還した事で、夫の仲哀天皇を長野陵に葬ったとあります。

さらに、誉田別皇子(後の応神天皇)を皇太子とし、大和国の磐余に都を造営したとあります。

日本書紀によれば神功皇后が造営した都は若桜宮と呼ばれたそうです。

尚、新羅王が汙礼斯伐・毛麻利叱智・富羅母智を派遣し、人質になっていた微叱己知波珍干岐を策を以って帰還させようとしました。

神功皇后は葛城襲津彦に同行されますが、葛城襲津彦は毛麻利叱智らに欺かれています。

葛城襲津彦は新羅を攻撃した上で帰還しました。

酒の歌

これ以降は比較的平穏な時代が暫く続いた様であり、氣比神宮にお参りをした応神天皇を出迎え次の歌を詠んでいます。

※日本書紀 全現代語訳 著者・宇治谷孟子 201頁より

この神酒は私だけの酒ではない。

神酒の司で常世の国におられる少御神が、側で歌舞に狂って醸して天皇に献上してきた酒である。

さあさあ残さずにお飲みなさい。

この時の応神天皇はまだ子供であり神功皇后は子供に酒を勧めた事にもなります。

しかし、神功皇后の歌の返歌は武内宿禰が詠んでいます。

神功皇后が勧めた酒は武内宿禰が飲んだという事なのでしょう。

尚、神功皇后の歌で名前が登場した少御神は、出雲の大国主の相棒でもあるスクナビコナの事です。

魏志倭人伝の記述

日本書紀では神功皇后の39年に突如として、魏志倭人伝の記述が引用されています。

※日本書紀神功皇后の39年より

魏志倭人伝によると、明帝の景初3年6月に倭の女王は大夫難斗米らを派遣し、帯方郡に至り、洛陽の天子に目通りしたいと貢物を持ってきた。

太守の鄧夏は役人を付き添わせ洛陽に行かせた。

魏志倭人伝の倭の女王の記述が、日本書紀に入っている事が分かるかと思います。

ここで名前が登場した魏の明帝は、三国志曹叡の事であり、司馬懿公孫淵を滅ぼした事で、倭国と道が繋がらい交流が出来る様になりました。

日本書紀では「卑弥呼」「邪馬台国」の文字はありませんが、明らかに卑弥呼や邪馬台国を指していると言えるのでしょう。

さらに、神功皇后の40年、43年にも魏志の引用が入っており、卑弥呼と神功皇后が同一人物かの様な書き方をしています。

日本書紀では神功皇后の66年が「晋の武帝の泰初2年である」とする表記もあり、これだと神功皇后の66年が西暦266年となってしまいます。

日本書紀は中国側の記録で「倭の女王が何度も通訳を重ね貢献した」と記していると記載してあります。

しかし、結果論で考えれば、日本書紀に編集者は、古代日本の暦の狂いに惑わされたと考えるべきでしょう。

正史三国志に注釈を入れた裴松之は「倭は人年の数え方を知らない」とあり、古代日本の1年が現在の1年ではなかった事は明らかでしょう。

日本書紀の編集者にも混乱があり、日本側の言い伝えをそのまか記録として、残してしまったのでしょう。

百済の近肖古王と神功皇后が同年代の人物であり、神功皇后は卑弥呼よりも100年ほど後の時代の人物となります。

尚、神功皇后が生きた時代に関しての特定は七支刀の記事の方で記載してあります。

繰り返しになりますが、神功皇后と卑弥呼の同一人物説に関しての詳細は、最後に記載しました。

百済との国交

神功皇后の46年に斯摩宿禰を卓淳国に派遣しました。

斯摩宿禰は卓淳国の王である末錦旱岐から、百済王の近肖古王が倭国と国交を結ぶために久氐、弥州流、莫古の三名を寄越したとする話を聞きます。

ここで斯摩宿禰はは配下の爾波移を百済への使者としました。

近肖古王は倭国からの使者に喜び大いに爾波移を持て成しています。

後に斯摩宿禰は爾波移と共に倭国に帰国し、これにより倭国と百済の国交が樹立されたわけです。

ただし、神功皇后は過去に新羅征伐を行っており、倭国の神がかり的な話を耳にした百済と高句麗は降伏した事になっており、記述に矛盾が生じている様に感じました。

それでも、神功皇后の時代に百済と国交が結ばれた事は事実なのでしょう。

新羅と百済の貢物

新羅と百済の使者が来朝

神功皇后の47年の夏四月に百済の近肖古王は、久氐、弥州流、莫古の三名を倭国に派遣しました。

この時に新羅の朝貢の使者も来ており、神功皇后と応神天皇は次の様に述べています。

※日本書紀より

先王が望んでおられた国の人々が来られた。

在世にならなかった事が誠に残念である。

ここでいう先王が誰なのかは不明ですが、普通に考えれば仲哀天皇となるのでしょう。

ただし、仲哀天皇は朝鮮半島の新羅や百済を討とうとした形跡がなく、誰を指すのかは分からない部分もあります。

神功皇后の先祖であるアメノヒボコが、新羅出身の渡来人ともされており、先王はアメノヒボコを指すのかも知れません。

横取りされた貢物

神功皇后は新羅と百済の貢物を調べました。

すると新羅は珍奇な品物が多いのに対し、百済の貢物は少なくて粗悪な物が多かったわけです。

神功皇后は新羅の使者である久氐に次の様に問いました。

神功皇后「百済の貢物が新羅に及ばないのは何故か」

久氐は道に迷い新羅の領内に入ってしまい貢物を奪い取られた事を詳細に説明しました。

久氐は自分達の貢物を新羅に奪い取られ、新羅が百済の貢物を倭国に献上したと伝えたわけです。

神功皇后は新羅の使いを責めて取り調べを行おうとしました。

神の意思(占い)

神功皇后は新羅を疑いましたが、実際のところ久氐が嘘をついているのか、新羅が本当に貢物を奪ったのかは分からなかったはずです。

新羅の使者も認めてしまえば首が飛ぶ可能性もあり「知らない」「百済が嘘をついている」としか言いようが無かった事でしょう。

そこで、神功皇后と応神天皇は天意を神に任せ、次の様に占いをしました。

誰を百済に派遣し嘘か本当か調べればよいでしょうか。

誰を新羅に派遣し罪を問わせるのがよいでしょうか。

天神は次の様に答えました。

武内宿禰に任せるのがよい。

千熊長彦を使者とすれば願いは成就するであろう。

神功皇后は千熊長彦を新羅に向かわせ百済の献上物を奪った事を責めました。

百済の朝貢

神功皇后は新羅征伐を決定し、荒田別と鹿我別を将軍としました。

荒田別と鹿我別は木羅斤資と沙沙奴跪の活躍もあり、沙白、蓋盧を味方につけ新羅軍に大勝しています。

この時の日本軍は破竹の勢いだった様で、朝鮮半島南部の7カ国を平定しました。

さらに、日本側では耽羅(済州島)を百済に与えており、近肖古王が神功皇后に感謝の言葉を述べた話しが伝わっています。

神功皇后の50年に千熊長彦と久氐が百済から帰ってきました。

この時に、神功皇后は久氐に次の様に問いました。

神功皇后「海の西の多くの国を既にお前の国に与えている。

再びここにやって来たのは、何故だろうか」

ここで久氐は「百済が倭国に朝貢を怠る事はない」と約束したわけです。

神功皇后は久氐の言葉に満足し、多沙城を賜わり往還の駅としたとあります。

神功皇后の51年にも百済は久氐を派遣し、倭国への朝貢を行っています。

神功皇后は応神天皇や武内宿禰に、次の様に語った記録が残っています。

神功皇后「我等と親交する百済は天の賜わり物である。

人為によるものとは思えない。

見た事も無い様な珍奇な献上物を時をおかずとして、献上してきている。

自分は百済の誠意をみて常に喜んでいる。

私と同じように、後々まで恩恵を加える様に」

神功皇后は百済の献上物に喜びの意を示したわけです。

日本は卑弥呼の時代は中国王朝に奴隷を献上しており、日本には海外が満足する様な特産物が無かったのでしょう。

それは神功皇后の時代になっても変わっておらず、百済の進んだ文化が倭国にもたらされたと解釈する事も出来ます。

神功皇后は百済の朝貢に満足し久氐が帰国する時に、千熊長彦を付けて行かせました。

神功皇后は千熊長彦には百済の近肖古王に、次の様に言わせています。

「私は神の御示しに従い、日本と百済を往来する道を開いた。

海の西を平定した時は、百済に与えている。

現在、誼を結んでいるが、長く褒美を与えたいと思う」

神功皇后は日本書紀では百済を臣下として扱っていますが、倭国と百済は長く同盟関係を維持していく事になります。

神功皇后の52年には、百済は七支刀をと七支鏡を献上しており、七支刀が石上神宮に現存しています。

七支刀に書かれた銘文が日本書紀の年代を解く鍵にもなっており、注目されている状態です。

尚、日本には「くだらない」という言葉がありますが、「百済ない」であり「百済にないものはつまらないもの」を指すと言う説があります。

ただし、「くだらない」は明治以降に出来た言葉であり、デタラメな話だとする人もいます。

近肖古王の死

百済の近肖古王は、神功皇后の55年に死去したとあります。

近肖古王の死は朝鮮側の史書である三国史記に記録があり、これが西暦に換算すると375年になります。

暦に関しては、大和王権の暦よりも大陸の暦の方がしっかりとしており、神功皇后の55年が西暦375年ではないかとする説は、多くの人に支持されています。

七支刀の記事でも記載しましたが、百済王の死と神功皇后の年表を見ると、一致する事にもなります。

・神功皇后55年 百済の近肖古王が亡くなった。(三国史記 375年)

・神功皇后64年 百済の貴須王が亡くなった。(三国史記 384年)

・神功皇后65年 百済の枕流王が亡くなった(三国史記 385年)

ただし、これだと日本側の暦が大陸と同じものを使われた事にもなり「合致しない」と言われた、日本側の暦が正確になってしまうわけです。

神功皇后の時代は百済から多くの貢物があり、大和王権でも大陸の暦を使われる様になり、何処かで一旦、日本側の暦に戻した可能性もあるのかも知れません。

尚、神功皇后の65年に百済の枕流王が亡くなると、皇子の阿花王が年が若かった事で、百済王の座を叔父の辰斯王が奪い取ったとあります。

辰斯王は枕流王の弟とされています。

新羅討伐

神功皇后の62年に新羅が朝貢せず、襲津彦に命じて討たせたとあります。

襲津彦は過去に新羅の人質だった微叱己知波珍干岐を送らせた葛城襲津彦だったのではないか?とも考えられています。

日本書紀の記述では葛城襲津彦が新羅に勝利したとも敗北したとも記載されていません。

尚、日本書紀に百済記の引用が掲載されており、沙至比跪が新羅を攻撃しましたが、美女に目が眩み新羅攻撃を中止し、加羅国を討った話があります。

百済記に登場する沙至比跪と葛城襲津彦が同一人物とする説もありますが、この辺りはイマイチはっきりとしません。

それでも、日本書紀に勝敗が書かれていないと言う事は、神功皇后は新羅征伐の軍を葛城襲津彦に任せましたが、戦いには敗れたという可能性もあるはずです。

神功皇后の最後

日本書紀によれば神功皇后の69年夏4月17日に神功皇后が崩御したとあります。

この時の神功皇后の年齢は古事記と日本書紀で共に100歳だったと記載があります。

日本の古代天皇の年齢は100歳超えが多く史実とは考えられておらず、神功皇后が100歳で亡くなったと言うのも史実ではないでしょう。

神功皇后は狹城盾列池上陵に葬られたとあります。

狹城盾列池上陵が現在の五社神古墳です。

五社神古墳は大型の古墳であり、全国でも12番目の広さがあります。

神功皇后は10月15日に諡が奉られ気長足姫尊と呼ばれる様になりました。

神功皇后と卑弥呼の同一人物説

日本書紀に登場する魏志倭人伝の引用

卑弥呼と日本書紀に登場する神功皇后の同一人物説があります。

神功皇后と卑弥呼が同一人物だとされる最大の原因は、日本書紀の記述にあります。

日本書紀の神功皇后の39年に次の記述が存在しています。

※日本書紀 神功皇后39年

魏志倭人伝によると、明帝の景初3年6月に倭の女王は大夫難斗米らを派遣し、帯方郡に至り、洛陽の天子に目通りしたいと貢物を持ってきた。

太守の鄧夏は役人を付き添わせ洛陽に行かせた。

日本書紀の神功皇后の39年に突如として邪馬台国と卑弥呼の魏志倭人伝からの引用が入っているわけです。

さらに、神功皇后の40年には次の記述が存在します。

※日本書紀 神功皇后40年

魏志にいう。正始元年、建忠校尉梯携らを遣わして詔書や印綬をもたせ、倭国に行かせた。

さらに、神功皇后の43年に次の記述が存在しています。

※日本書紀 神功皇后43年

魏志にいう。正始四年、倭王はまた使者の大夫伊声者掖耶ら、八人を遣わして献上品を届けた。

ここまでの記録を見ると分かるのが、日本書紀の編集者は神功皇后の時代と卑弥呼が同時代の人物として書いているわけです。

さらには、次の記述も存在します。

※日本書紀 神功皇后66年

この年は晋の武帝の泰初二年(266年)である。晋の国の天子の言行などを記した起居注に、武帝の泰初二年十月、倭の女王が何度も通訳を重ねて、貢献したと記している。

日本書紀は晋書の266年に倭人が朝貢した記述に着目し、神功皇后の66年を西暦266年として記載したわけです。

ただし、卑弥呼が亡くなったのは西暦248年とする説が有力であり、神功皇后と卑弥呼の同一人物説だとズレが生じています。

尚、晋書に倭人が266年に朝貢した時は「倭人」とは書かれていますが、魏志倭人伝の様に女王とは書かれてはいません。

日本書紀の年表だけを追うと、卑弥呼と神功皇后が同一人物とすると、完全に合致する事はありません。

卑弥呼と神功皇后の人物像

卑弥呼と神功皇后の人物像を見る上で、重要になって来るのが魏志倭人伝の記述となります。

魏志倭人伝には卑弥呼の人柄を次の様に書いています。

※魏志倭人伝より

卑弥呼は鬼道を行い、人々を上手に惑わした。

夫を持たず、弟の補佐で政治が行われた。

王となって以来、その姿を見た者は少なく、侍女が千人いて、男子一人だけが出入りする卑弥呼の宮殿は厳重に囲われ、常に武器を持っている人が守衛していた。

神功皇后は鬼道を行ったとする記録はありませんが、神功皇后には次の逸話があります。

  • 敦賀を出航し食事の時に海に酒を注いだら鯛が酔って浮かんできた。
  • 飯粒を餌にして誓約を行ったら鮎が釣れた。
  • 神田に水を引こうとしたら大岩が邪魔しており剣と鏡を捧げたら大岩が破壊された(裂田の溝
  • 新羅を攻撃する時に風と波と魚の大群により船が運ばれ一気に新羅の国の半ばまで達した。
  • 新羅討伐の前に御子(応神天皇)が生まれそうになったが、石を使って出産を先延ばしにした。

上記の神功皇后の記述が、卑弥呼の鬼道とは違う感じがしますが、神功皇后も神懸かり的な事は行っていた事にはなるのかも知れません。

夫の存在

魏志倭人伝の記述だと卑弥呼は「夫を持たず、弟の補佐で政治が行われた」とあります。

神功皇后ですが、夫には仲哀天皇がいます。

それを考えると夫を持たなかったわけではありません。

しかし、仲哀天皇は熊襲征伐に向かった先の北九州で崩御しており、それ以降に神功皇后が夫を娶ったという記述は存在しません。

卑弥呼が夫を持たなかったのは、仲哀天皇の死後であれば合致すると言えるでしょう。

政治の補佐

卑弥呼は弟の補佐で政治が行われたとありますが、日本書紀を見る限り神功皇后を補佐して政治を行ったのは、武内宿禰となるはずです。

神功皇后に息長日子王や大多牟坂王などの兄弟がいた記録はありますが、どの様に政治に参画したのかは記録がありません。

それを考えると、神功皇后の政治を最も補佐したのは武内宿禰と考えるべきでしょう。

補佐する存在においては、神功皇后は弟ではなく景行天皇の時代から活躍した武内宿禰だと言えます。

政治を補佐する人物で考えれば卑弥呼と神功皇后で違いがあると言わざるを得ません。

護衛

卑弥呼は千人の侍女と男子が一人だけが出入りする宮殿におり、武器を持った人が厳重に警備されていた話しがあります。

神功皇后も記録はありませんが、大和王権の規模が大きい事から千人の侍女がいたり、厳重に警備された可能性は十分にあります。

ただし、神功皇后は卑弥呼と違い三韓征伐を行ったり、船で敦賀から九州に移動するなど、宮殿の中にずっといたなどと言う事はなく、積極的に活動を行っています。

あくまでも想像になってしまいますが、神功皇后はアクティブに活動している事もあり、その姿を見た人は多かったのではないかと感じました。

神功皇后が百済の近肖古王の使者である久氐と面会した記録も残っています。

神功皇后は政治や軍事に積極的であり、卑弥呼の様に人前に姿を現さないという事は無かったはずです。

神功皇后と卑弥呼は何世紀の人なのか?

神功皇后と卑弥呼は何世紀の人なのか?で考えた場合ですが、卑弥呼は魏志倭人伝の記述以外に存在せず、紀元前3世紀の人物だと言えます。

238年に魏の司馬懿が遼東に割拠する公孫淵を滅ぼし、道が開いた事で239年に邪馬台国の卑弥呼は魏の曹叡、もしくは曹芳に朝貢を行っています。

さらに、魏志倭人伝の記述を見れば卑弥呼は248年頃に没した事になります。

神功皇后ですが、日本書紀の記述を見れば、卑弥呼と年代が重なります。

しかし、神功皇后の時代に百済の近肖古王が七支刀を倭国に献上しました。

七支刀は石上神宮に現存しており「泰■四年」に造られたと銘文が彫られています。

これが東晋の「太和四年」であり、西暦に換算すると369年ではないかとする説が有力です。

さらに、日本書紀と朝鮮半島の正史である三国史記を見比べると、次の様になります。

・神功皇后52年 百済が七支刀を日本に奉った。(七支刀の銘文369年)

・神功皇后55年 百済の近肖古王が亡くなった。(三国史記 375年)

・神功皇后64年 百済の貴須王が亡くなった。(三国史記 384年)

・神功皇后65年 百済の枕流王が亡くなった(三国史記 385年)

日本書紀と三国史記の年表で考えると、明らかに神功皇后は4世紀の中頃から後半に活躍した人物だという事が分かるはずです。

神功皇后は在位69年で崩御しており、西暦389年頃に亡くなったと考えられます。

日本書紀の年表の問題点

日本書紀の古代天皇の年齢を考えると、100歳超えで崩御した人物が多くいる事が分かります。

神功皇后も100歳で亡くなっていますし、子の応神天皇も110歳、仁徳天皇なども100歳超えで崩御しています。

初代神武天皇から仁徳天皇までの16代で100歳を超えている天皇が12人もいます。

17代の履中天皇からは100歳超えの天皇は存在しません。

天皇の年齢が100歳超えを連発しているのは、明らかに不自然です。

天皇の100歳超えの謎が正史三国志の注釈・魏略にヒントがあります。

魏略に次の記述が存在します。

※正史三国志注釈・魏略より

倭人は正月を年の初めとする事や四つの季節の区別が知られておらず、ただ春の耕作と秋の収穫を目安にして年を数えている。

魏略の記述が正しのであれば、倭人は春秋歴を採用している事になり、1年を2年として換算していた事になります。

しかし、日本書紀は天皇が100歳を超えた記述があっても、普通に換算している事で、卑弥呼と神功皇后の時代が重なってしまったとも考える事が出来るはずです。

日本書紀の編集者の方々も「おかしい」と思いながらも、言い伝えをそのまま書き残した結果として、神功皇后と卑弥呼の時代が重なってしまったと言えるのではないでしょうか。

個人的には卑弥呼が亡くなったのは西暦248年頃で、神功皇后が亡くなったのは389年頃で100年以上も開きがあると考えています。

ただし、日本書紀の神功皇后の年表を見ると、三国史記の百済の年表と一致しており、春秋暦を使った様には見えません。

この点は謎であり、日本書紀における年表の謎はまだ完全に解明されたわけでもありません。

神功皇后を見ると百済の文化に傾倒している様にも見える部分があり、神功皇后の時代に百済の暦を採用し、何処かのタイミングで再び元の日本独自の暦に戻した可能性もある様に感じています。

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宮下悠史

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