名前 | 高天原 |
読み方 | たかまがはら、たかまのはら、たかあまはら |
たかあまのはら、たかのあまはら | |
場所 | 日本各地や朝鮮半島にあったと考えられている。 |
コメント | 天津神が住む場所 |
高天原は日本神話に登場する神々が住まう場所です。
日本神話では高天原、地上(葦原中国)、黄泉の国を舞台に話が進んで行きます。
下記の図の様に高天原と葦原中国の間には天の浮橋があり、葦原中国と黄泉の国の間には黄泉比良坂があります。
神世七代の最後を飾るイザナギが天照大神に高天原の支配を任せた事で、天照大神が高天原の最高責任者となっています。
高天原に住む神を天津神と呼び、地上に住む神を国津神と呼び区分けしているのも特徴です。
高天原は実在したのか?や、何処にあったのか?などは様々な意見があります。
高天原天上説、九州説、常陸説、熊本説、金剛山説、朝鮮説などがありますが、何処に高天原があったのかは特定されてはいません。
高天原が実在したと仮定しての比定地は後半に解説します。
高天原は実在が疑われる部分も多く、答えの出ない難題でもあります。
尚、古事記には高天原という言葉は何度も出てきますが、日本書紀では高天原という言葉自体が殆ど登場しません。
因みに、同じ神であっても高天原にいる時は伊邪那岐神(いざなぎのかみ)と呼び、地上に出向くと伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と名前が変わったりします。
高天原では神であっても地上に降りると「命」や「尊」ら「みこと」の名がついたりするという事です。
高天原の読み方ですが「たかまがはら、たかまのはら、たかあまはら、たかあまのはら、たかのあまはら」などがあり、はっきりとしません。
古事記は漢字で高天原と記録されており、正確にはどの様な読み方が正しいのか分からないとする意見もあります。
古事記における高天原の誕生
古事記の記述を見る限りだと高天原は天地開闢の時から存在していた様な書き方をしています。
高天原に天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神ら造化三神が現れて隠れた事になっています。
その後に、宇摩志阿斯訶備比古遅神と天之常立神も現れますが、同様に直ぐに隠れてしまいました。
古事記の記述だと、神々が登場する前から高天原があった事になっています。
日本書紀における高天原の誕生
本文では1カ所しか高天原の文字はない
日本書紀の本文では意外にも高天原の言葉は一カ所しかありません。
ただし、日本書紀本文の一カ所の高天原の文字でさえ専門家によっては、本来は「高天」と書かれていたのが、後世に「高天原」に変わってしまったと考える人もいます。
しかし、異伝の方では何カ所か高天原という言葉が登場しています。
一書第四
日本書紀に最初に「高天原」の文字が現れるのは、一書第四となります。
一書第四によれば、最初に天地が別れた後に国之常立神と国狭槌尊が生まれ出たとあります。
その次に別説の様な形で「高天原に天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神ら三柱がおいでになった」と記述されています。
一書第四は別説の別説の様な形で高天原の言葉が出て来ており、流れは古事記と同じだと言えるでしょう。
高天原の統治者天照大神
高天原ですが、天照大神が統治する事になっています。
神世七代の最後であるイザナギとイザナミは国生みにより日本列島を生みだしますが、イザナミがカグツチを生んだ時に亡くなってしまいました。
その後に、イザナギは黄泉の国に行きイザナミと決別し、禊を行いました。
ここでイザナギの体から天照大神、月読命、須佐之男の三貴神が誕生する事になります。
イザナギは三貴神の誕生を喜び、天照大神に高天原の統治を命じました。
イザナギの勅命により天照大神が高天原の支配者となったわけです。
日本神話における高天原の逸話は意外と少なく、スサノオが高天原にやってきて誓約を行った後に、狼藉を働き機織女が亡くなり天照大神が岩戸に引き籠った天岩戸の時位しかありません。
尚、天界である高天原と地上の葦原中国の間には天の浮橋があります。
出雲の大国主が支配する葦原中国を天照大神が支配を企て、天忍穂耳命を派遣しますが、地上は混沌としており引き返した話があります。
天忍穂耳命が地上が恐ろしい場所だと考えた事を考慮すれば、高天原は神が住む場所に相応しく治安は、かなり良かったのでしょう。
高天原は何処にあったのか?
天上説
高天原は天の上にあったとする説が存在します。
実際に古事記や日本書紀を見る限りだと、天孫降臨で瓊瓊杵尊らは天から地上に舞い降りたのであり、高天原は天の上にあったとも考えられます。
瓊瓊杵尊が地上に降る時には、猿田彦が高天原と地上を照らしていた逸話があります。
ただし、実際に雲の上に高天原があるはずもなく、天上説を採用した場合は、高天原は架空の存在となってしまうはずです。
尚、邪馬台国九州説の先駆けとなった本居宣長は高天原の天上説を採用しています。
常陸説
高天原が現在の茨城県にあったとするのが常陸説となります。
常陸説ですが、常陸は日立であり天照大神が立たれた場所であり、常陸こそが高天原と考えたわけです。
常陸説では常陸国多賀郡に高天原があったと考えるのが主流となっています。
水戸光圀や新井白石などは高天原が常陸にあったと考えた代表的な人物です。
ただし、常陸の国は北関東にあり東北にも近く、古代日本の主役は西日本一帯だった事で、高天原常陸説は疑問視されるケースも目立ちます。
金剛山説
奈良県御所市葛城にある金剛山に高天原があったとする説があります。
高天原金剛山説は江戸時代までは通説となっていました。
現在の金剛山では高天原の石碑まで建っている状態です。
宮崎説
高天原が宮崎県高原町だったとする説もあります。
宮崎県は天皇家が大和に移るまでの日向三代が暮らした地でもあり、皇室を縁が深い地域です。
薩摩藩の三國名勝圖會には高天原が宮崎県高原町だと書かれています。
さらに、宮崎県には高千穂町があり、宮崎県北部には高天原という地名も存在しています。
尚、高千穂町には神々が集まり会議をしたとされる天安河原もあります。
高天原の場所に関しては様々な事が言われますが、九州にあったと考える人が極めて多い状態です。
熊本説
高天原は熊本にあったのではないか?とする説もあります。
熊本には神世の時代から多氏阿蘇氏が大宮司を務めていました。
熊本県には弊立神宮があり、弊立神宮こそが高天原だったのではないかとする説があるという事です。
弊立神宮 | 熊本県上益城郡山都町大野712 | 0967-83-0159 |
長野県川上村説
長野県南佐久郡にある川上村が高天原だったとする説もあります。
太古の時代に神々の戦いが起き、血がくまなく流れて千曲になったとする説です。
長野県には実際に千曲川があり、長野県の川上村こそが高天原だったのではないかとも考えられています。
尚、千曲川近辺では武田信玄と上杉謙信の間で川中島の戦いが起きており、神々の時代も川中島の近辺で戦いた起きたという事になるのかも知れません。
青森説
高天原が青森県にあったとする説があります。
青森県と言えば西日本とはかけ離れた場所にあり、とても信じられないと思うかも知れません。
しかし、青森県には縄文時代に栄えた亀ヶ岡遺跡や三内丸山遺跡があり、青森県こそが高天原だったのではないか?と考える説もあるという事です。
青森県は縄文時代では先進地域だったとも考えられており、高度な文明を持つ高天原だったのではないか?と考えたのでしょう。
他にも、高天原沖縄説や飛騨高山説なども存在しています。
朝鮮半島説
朝鮮半島に高天原があったとする説もあります。
縄文時代に縄文人が丸木舟を使い朝鮮半島に住み着いていた事が分かっています。
朝鮮半島の南部にいた倭人が奴国、末盧国、伊都国などを築きあげ、さらには邪馬台国があった場所ともされる甘木を高天原とする説です。
朝鮮半島南部の倭人が九州に上陸し国を造ったのであれば、朝鮮半島の南部こそが高天原だったのではないか?とする考えに繋げたわけです。
高天原アンケート
YouTubeのアンケート機能を使い高天原が何処にあったのか?のアンケートを取って見ました。
質問と結果は下記の通りです。
結果として6割くらいの方が高天原が九州にあったと考えている事が分かりました。
やはり、九州には天孫降臨の地とされる高千穂や日向三代が過ごした日向があり、九州こそが高天原と考えた人が多かったのでしょう。