春秋戦国時代で最強の武将は誰か?と言えば、多くの人が白起を挙げるのではないでしょうか?
政のおじいちゃんに当たる昭王時代の武将なので、キングダムでは回顧録のような形でしか登場しません。
しかし、白起が春秋戦国時代を通して最強の武将である事に異論がある人は少ないと思います。
尚、白起に関しては中国の歴代武将の中でもトップ5に入る様な将軍です。
白起の実績は春秋戦国時代の武将の中でも、ずば抜けていると言えるでしょう。
戦国七雄の武将の中では、ナンバーワンの武将は間違いなく白起です。
白起の活躍により秦は天下を大いに引き寄せたとも言えます。
ただし、最後は悲惨な死に方をしています。
今回は白起の用兵の仕方がどのようなものか解説します。
他の武将を圧倒する戦績
春秋戦国時代に名将と呼ばれる人たちは数多くいましたが、白起は戦績が他を圧倒しています。
グラフを作ったので戦績を比べてみました。
孫武 | 呉の領土を拡大(具体的には不明) | 孫子の兵法書を執筆 |
范蠡 | 欈李の戦い、
姑蘇(呉の首都を陥落) | 越王句践を覇者にする |
田単 | 斉を復興させる | 火牛の計で燕軍を大破
燕から斉の領土を取り戻す |
孫臏 | 桂陵の戦い、馬陵の戦いで勝利 | 孫臏兵法を執筆 |
楽毅 | 済西の戦い
斉を壊滅状態にする | 燕・秦・趙・魏・韓の連合軍総大将となる |
呉起 | 秦から河西の地を奪還
楚の領土拡大 戦績76戦64勝12分 | 呉子の兵法書を執筆? |
信陵君 | 魏軍を率いて趙を救う
黄河の外で秦の蒙驁を大破する | 魏公子兵法を執筆? |
王翦 | 趙・燕・趙・楚を滅ぼす | 秦の天下統一に貢献 |
李牧 | 匈奴を破る
秦軍を何度も破る | 圧倒的戦力の秦に対して唯一抵抗できた将軍 |
廉頗 | 燕軍60万を破る
秦軍を破る 斉を破る | 様々な戦いで勝利する。具体的な戦闘内容は不明 |
上記の人物が春秋戦国時代において活躍した将軍の実績です。もちろん、この中に「なんで蒙恬が入っていないんだ?」「趙奢は?」「李信は?」という声もありそうですが、活躍した将軍を挙げてみました。
呉起辺りは76戦64勝12分という記録が残ってはいますが、具体的にどこで戦ったのかはイマイチ分かりません。
その他の武将は活躍もしていますが、2,3回勝利したとか、そういう場合もかなりあります。
それに対して下記が白起の実績です
白起 | 伊闕の戦いで韓魏連合軍24万人を斬首
魏を攻めて大小61城を落とす 鄢郢の戦いで楚の首都郢を陥落させる 趙の賈偃を破り2万人を黄河に沈める 陘城の戦いで韓の城を5つ落とし5万人を斬首 長平の戦いで趙軍40万人を生き埋め | 秦の昭王時代の領土拡大に圧倒的に貢献 |
これを見る限り他の名将たちを圧倒している気がしませんか?
尚、王翦あたりは様々な国を滅ぼしてはいますが、白起が戦っていた頃の国々と比べると弱体化しています。
白起が活躍した時代に、他国は大きく国力を削がれているわけです。
昭王時代の白起の活躍が秦の天下統一を決定づけたとも言えます。
この他にも魏冄や胡傷と共に魏を攻めて暴鳶を破り4万人を斬首したり、魏将である芒卯を破り13万人を斬首したりもしています。
白起は史実には記録がない斬首の人数を数えれば100万人は超えているのではないでしょうか?
ここまで斬首人数が多い将軍を白起以外では知りません。
白起の戦い方
史記などは多くの場合が、戦闘の結果のみを書かれています。
そのため、どのような戦い方をしたのか?などはほぼ分かりません。
廉頗あたりは戦績はあるのですが、戦い方の例は1つもないほどです。
白起に関しては若干ですが戦い方の記述があります。
邯鄲へ出陣するように宰相である范雎が白起に願い出た時の言葉です。
尚、范雎と白起のやり取りについては戦国策が詳しいです。
楚の首都郢を陥落させた戦い
白起は楚の首都である郢を数万の兵で陥落させました。この時、楚は大国で兵力では圧倒的に楚軍が有利だったようです。
この戦いで白起が楚の首都である郢を落とした理由を次のように言っています。
「あの時の楚王は大国を鼻にかけて政治を顧みなかった。人民からの指示も得られていないし、城は荒れ、王にへつらう者が幅を利かせて忠臣が退けられていた、忠臣も無く防衛も弱かった」
「わたしは敵陣奥深くに侵入し橋を壊し船を焼いて味方の戦意をかきたて村を略奪して軍量を確保した。秦の兵は軍営を我が家とし大将を父母の如く慕った」
「秦軍は一致協力して事にあたり死んでも退却はしなかった」
「それに引き換え楚兵は自国の領内で戦った事で家の事ばかり心配して闘志が感じられなかった。だから楚の都を陥落させる事が出来た」
これが白起が范雎に説明した楚の首都を陥落させる事が出来た原因です。
キングダムの白起を見ると惨殺した人数が多いイメージからか冷酷そうなイメージもあります。
しかし、実際の白起というのは戦術だけではなく、部下に対して士気を上げたりするのも巧みだったことが分かります。
あと、敵の情報を内部までしっかりと掴んで、緻密な戦い方も得意な事がわかるはずです。
白起というと、猛将で突っ込んで行くイメージが強いかも知れませんが、実際の白起はかなり理知的です。
さらに、橋を壊し船を焼いたという記述がある事から韓信以前に「背水の陣」を行っていた可能性もあります。
尚、この戦いで楚の国力は5分の1に低下したとも言われています。
伊闕の戦い
伊闕の戦いで白起は韓・魏の連合軍を破り24万人を斬首した事になっています。
ここで白起が勝てた理由は次のように述べています。
「伊闕の戦いでは、孤立した韓は魏ばかりをあてにしていた。韓は魏が戦ってくれる事ばかり考えて自国の兵を投入したがらなかった。」
「魏は韓の精鋭ばかりをあてにして、韓の精鋭を先陣に立たせようとしていた。韓と魏の利害が一致しなかった」
「そこで私は韓の陣地を襲うと見せかけて全軍一丸となって魏軍の不意をついた。魏軍が敗れ去った事で韓軍は浮足立ち勝つべくして勝った」
「さらに勝ちに乗じて追撃した」
これが白起が伊闕の戦いで敵を破った解説ですが、韓と魏の事をよく把握していて隙を見つけて攻撃している事が分かります。
白起も伊闕の戦いを振り返り形成を十分に計算して勝つべくして勝ったと言っています。
敵が大軍であっても十分に勝てる勝算があり行動している事が分かります。
尚、長平の戦いにおいて最初、白起は出陣していませんでした。この時は趙の将軍が廉頗であったため自分が出陣しても隙が無いと判断したためかも知れません。
初陣の趙括が将軍になった事で隙があると判断して出陣の許可を願い出た可能性もあります。
趙括の事も情報をよく掴んでいたのかも知れません。
邯鄲を攻めない様に進言する
長平の戦いは白起の最後の戦いになったわけです。
長平の戦いで白起は一気に趙の都邯鄲を落として滅亡させようと考えていたようです。
しかし、范雎が白起の功績を妬み進軍を阻止してしまいます。
1年後に、秦の昭王は再び趙を攻めて邯鄲を陥落させようとしますが、今度は白起が反対するわけです。
反対理由も戦国策に書かれています。
「昨年、長平の戦いで勝利した時は深追いをしなかった為に全滅させるチャンスを失った」
「その結果、趙は耕作に励んで蓄積を増やした。孤児を養い幼児を育てて人口を増やした。」
「武器を整備して堀を深くし守りを固めた。国王は家臣に家臣は勇士に礼を尽くしている」
「平原君の一族郎党などは全財産を投げうち妻や妾に兵卒の服のほころびまでつくろわえている」
「今の趙は越王句践が会稽山で和を請うた時と同じ事。一致団結して国力の増強に努めている。」
「今、攻めても趙の守りは固い。戦いを挑んでも応じない。都(邯鄲)を包囲しても勝てない、城を攻めても落とせない。村を略奪しても得るものがない」
「出兵をするからには勝たなければならない。勝たなければ諸侯は趙に援軍を出すはずだ。今、趙を攻めても得な事は一つもない。」
このように白起は述べています。
実際に、この時はキングダムで言う6大将軍である王齕に邯鄲を攻めさせていますが、陥落させる事が出来ませんでした。
さらに、白起の予想はあたり、楚は春申君を援軍に出しますし、魏は信陵君が魏軍の指揮権を奪って無理やり援軍に駆けつけて秦軍を大破しています。
白起の用兵をまとめてみると
白起の用兵をまとめてみると、自分の部下は上手に一致団結させて事に向かわせています。
部下に対しても面倒見がよかったのかも知れません。
さらに、敵の情報をしっかりと察知していて、敵の弱点を突くのが上手かったのでしょう。
白起本人は自分は神でも名将でもないような事を言っている記述はありますが、軍神と呼べるような将軍だと私は思っています。
戦の達人は敵の弱点を一目で分かるとも言われていますが、それが卓越していたのが白起ではないでしょうか?
個人的に白起が活躍した時代は魏冄(ぎぜん)宰相時代と范雎宰相時代に分かれますが、魏冄の方がウマがあったのではないかな?と思えます。
最後は、范雎に陥れられてしまうような記述もあるので、その点を司馬遷は指摘しています。
司馬遷は白起の弱点も指摘しているわけです。
白起の最後
白起の最後についても書いておきます。
白起は、長平の戦いの後に、秦の昭王に趙の都邯鄲を攻めるように命令されます。
昭王が頼んでも聞かないので、范雎を白起に元に行かせて説得に入ります。
そのやり取りが先ほどに紹介したお話です。
実は、このやり取りの前に趙を有利にするために蘇厲(蘇秦、蘇代の弟)が暗躍しています。
蘇厲が白起に出陣しないようにやり込める
蘇厲は趙に頼まれていたのでしょう。白起を出陣させないために、白起自身を説得しています。
蘇厲は、楚の弓の名手である養由基は、100発100中の弓矢の名手であったが、1発外しただけで名手とは呼ばれなくなった。
武安君(白起)は戦いでは100戦100勝だが、1回でも負ければ自分の名誉に傷が付く。これ以上は戦いに参加しない方が良い。
このような事を蘇厲に吹き込まれたわけです。
この頃の白起は、長平の戦いで進撃を許可しなかった事で范雎との関係は冷えていましたし、やる気も余りなかったのかも知れません。
趙の都邯鄲に出撃されるように命令が下りますが、病気を理由に断っています。
この病気については、仮病の説もありますが本当に病気だった説もあります。
史記の蘇秦列伝では、蘇厲の策略にはまり出陣を拒否して追放されて亡くなった事になっています。
白起・王翦列伝の最後
白起王翦列伝の最後では、白起と蘇厲のやり取りは出てきません。
しかし、邯鄲包囲戦に白起が出陣を断ります。
そして、邯鄲を落とせずに秦軍が度々後退している事に対して、「私の言う事を聞かなかったからこのザマだ」と言った情報が昭王の耳に入ります。
これについては本当に白起が言ったのか、范雎が讒言したのかよく分かりません。
ちなみに、この時に范雎が推薦した鄭安平は趙軍に敗れ降伏しています。立場が危うくなった范雎が昭王の怒りをそらすために言った可能性もあるでしょう。
それか、白起の活躍を妬む人が昭王に周りにいて讒言した可能性もあるかと思います。
昭王は白起が自分の命令に従わないので頭にきて流罪にしてしまいます。しかし、移動中に白起が昭王の悪口を言っている事を耳にして自刎するように剣を賜りました。
ここでは白起は「私に何の罪があって死罪を賜るのか」と言ったとされています。自分は無実だと言いたかったのかも知れません。
しかし、そのすぐ後に「私の死罪は当然の事だ。長平の戦いでは無抵抗な趙兵40万人を騙し生き埋めにしたのだから」
こう言って自刎したそうです。白起の頭の中には長平の戦いの生き埋めにした事への後悔と懺悔の念があったのでしょう。
尚、人々は白起の罪が無実だと知っていたから祠を建てて白起を祀ったという記録があります。
白起の死を見て思う事
白起の死を見て思う事があるのですが、白起が初めて歴史に登場するのは紀元前294年です。
紀元前294年に左庶長に任ぜられ、韓の新城を攻めるという記述があります。
白起が死ぬのは紀元前257年です。
その間に37年間も秦で活躍した事になります。白起が何歳まで生きたかは分かりませんが、最後は白髪も見えるような老将だったのではないでしょうか?
それを昭王は邪険に扱うようなところもあり、「名将なんだから、もう少し敬う態度があってもいいのでは?」と私は思ってしまいました。
功労者を邪険に扱うのが秦の風習としてあるのか、秦末期に章邯が楚に下るシーンで白起の事が出てきますが、この白起を殺す行為が秦の滅亡する原因に繋がっているような気もするんです。
秦は名将を殺す国というイメージがついてしまったような気がします。
尚、司馬遷は白起について戦争は上手いが応候の企みには手も足も出なかった。そこが白起の弱点だと指摘しています。
白起に比べると、王翦は秦王政に直言する事もなく天寿を全うしています。
史実での李信も天下統一した後に、行方が分からなくなります。もしかして、白起が殺されたのを思い出して引退したか、逃亡したのかも知れません。
尚、白起のライバル?の范雎ですが、宰相の印綬を返して昭王に蔡沢を推薦して天寿を全うしたようです。