名前 | 劉循(りゅうじゅん) |
生没年 | 不明 |
時代 | 後漢末期、三国志 |
勢力 | 劉焉→劉璋→劉備 |
血縁関係 | 祖父・劉焉 父・劉璋 兄弟・劉闡 |
年表 | 214年 雒城を堅守するも開城 |
コメント | 雒城を堅守し龐統を討ち取るも落城 |
画像 | 三国志14(コーエーテクモゲームス)、能力値は最下部に記載 |
劉循は劉璋の長男であり、劉備の入蜀時には劉循は劉璝、張任らと雒城を守備しました。
劉備軍の龐統が雒城を攻撃しますが、劉循は1年以上も持ちこたえています。
籠城戦の中で、出撃した張任を失うなどもありましたが、劉循は奮戦を続け龐統を討ち取る大金星も挙げています。
最後は、援軍を得た劉備軍の前に雒城は落城し、劉璋も劉備に降伏する事になりました。
しかし、劉循は雒城で堅守を見せるなど意地を見せたとも言えるでしょう。
今回は劉璋の息子で龐統を手こずらせた武将である、劉循を解説します。
尚、三国志演義の劉循も呉懿、呉蘭、雷銅らと雒城を守備しました。
正史三国志でも三国志演義でも、劉循の最大の見せ場が雒城の戦いだと言えるでしょう。
劉焉の野望
張角が引き起こした黄巾の乱は、皇甫嵩らの活躍により鎮圧されています。
しかし、益州は郤倹の政治が悪かった事で、黄巾を名乗った馬相や趙祗らが綿竹で反旗を翻しました。
劉焉は新たなる益州刺史に任命され三男の劉瑁と共に巴蜀の地に向かいますが、賈龍の活躍により馬相の乱は平定されています。
劉焉は益州に入ると、張魯に漢中を制圧させるなど独立を目指すかの様な動きを見せています。
この時に、中央の朝廷には劉焉の子である劉範、劉誕、劉璋らがおり、後漢の献帝は三男の劉章に劉焉を諫める様に益州に向かわせています。
劉焉は劉璋を朝廷に戻さず、独立志向を強める動きを見せました。
この時に、劉璋の子である劉循は中央にいたと考えられています。
劉焉が不穏な動きを見せれば見せる程、劉循は朝廷から白い目で見られ、命の危険を感じる事になったはずです。
劉焉の敗北
朝廷では実権を握っていた董卓が、王允と呂布に暗殺され、董卓を倒した王允も賈詡の進言を入れた李傕と郭汜により命を落としています。
劉焉は息子である劉範や西涼の馬騰らと連絡を取り、李傕排除計画を実行しようとしますが、露呈してしまい馬騰は破れ、劉範、劉誕らは殺害されています。
この時に、劉循も身の危険に冒されますが、劉焉と親交があった龐羲が劉焉の孫たちを匿い益州に逃亡しました。
名前の記載がありませんが、龐羲が助けた劉焉の孫の中に、劉循や弟の劉闡もいたと考えられています。
劉焉は策が失敗に終わった事でショックを受けたのか、失意のうちに亡くなってしまいます。
劉璋が益州刺史となる
劉璋は末子であり本来であれば、後継者になる立場ではありませんでした。
しかし、兄である劉範や劉誕らが李傕に処刑された事で、後継者の座が回ってきたわけです。
さらに言えば劉璋の性格が温仁だとの事で、益州の趙韙らの意向もあり、末子の劉章が益州刺史に任命されています。
この時に記録はありませんが、劉璋は自分の後継者として劉循を指名した様に思います。
劉璋が益州を劉備に奪われなければ、劉循が益州刺史になっていた可能性もあるでしょう。
尚、劉循は龐羲の娘を妻にした話があります。
劉焉や劉璋にとってみれば、龐羲は一族を助けた大恩があり、最大限の配慮として長男の劉循の妻を龐羲の娘としたのでしょう。
雒城を守る
西暦211年になると劉璋は、張松の進言により荊州の劉備を招き寄せる事となります。
この当時の曹操は、208年に赤壁の戦いで孫権、劉備連合軍に敗れますが北方の大部分を制圧しており、益州にも危機が迫っていました。
張松らは劉備に張魯討伐を行わせ、曹操に備えさせようと進言したわけです。
しかし、張松や法正など多くの臣下が劉璋を見限っていました。
劉璋は劉備を招き寄せて張魯討伐を行わせますが、最終的に劉備が益州を狙っている事を知り敵対関係となります。
劉璋は鄭度の立てた策である焦土作戦は用いませんでした。
劉璋は劉備を迎え撃ちますが、李厳が寝返るなど劉璋は非常に不利な立場に立たされています。
劉璋に対して忠義心が厚い張任と劉璝らは涪城を守りますが、劉備軍に敗れ雒城を守る劉循と合流しました。
劉璋軍が各地で劉備軍に敗れる中で、劉循、劉璝、張任らは必死で雒城を守る事となります。
この時に、雒城を攻撃する劉備軍の大将が、劉備の軍師とも言える龐統でした。
龐統を討ち取るも敗北
劉循らは雒城を守りますが、守ってばかりではなく、益部耆旧雑記によれば張任が雁橋に討って出た記録もあります。
ただし、張任は劉備軍に捕らえられて処刑されてしまいました。
しかし、劉循や劉璝の堅守は続き、龐統の攻撃を1年以上も耐え凌ぐ事となります。
龐統と言えば謀臣ですが、劉循に隙がなく城を落とす事が出来なかったのでしょう。
劉備軍は各地で劉璋軍に勝利を収めましたが、劉循が守る雒城だけは落とす事が出来ません。
劉備は荊州に関羽を残し、後続部隊として諸葛亮、張飛、趙雲らを蜀に入れました。
この時に、張飛が厳顔を破るなど、劉璋勢はますます苦しくなっていきます。
こうした中で、龐統は将軍を解任されると思い焦ったのか、前線で指揮を行い流れ矢により、討ち取られています。
劉循は張任の仇だと言わんばかりに、龐統を討ち取った事になるでしょう。
しかし、劉循が守る雒城は214年に落城し、劉備陣営に馬超が加わった事で、劉璋は降伏を決意します。
劉璋は劉備配下の簡雍に降伏を伝え、成都を開城しました。
劉璋の降伏により、劉循が益州の主になるのが立ち消えたとも言えるでしょう。
一族の分裂
降伏した劉璋は次男の劉闡を連れて、荊州の公安に移り益州を離れる事になりました。
しかし、劉循は益州に残り、劉璋、劉闡と劉循の親子は離れ離れとなります。
劉循が益州に残る事になった理由は、劉循の義父であった龐羲が、劉備から左将軍司馬になった事が原因だとされています。
劉備は劉循を奉車中郎将に任命しました。
ただし、西暦219年に関羽が北上し曹仁が籠る樊城の戦いが起きますが、徐晃に敗れ呂蒙の策を入れた孫権軍に捕らえられています。
関羽が荊州を失った時に、劉璋は孫権の配下に移る事となり、益州の牧に任命されています。
しかし、長男の劉循は蜀にいるわけであり、劉循と劉璋、劉闡の親子は国をまたぐ事になってしまいました。
これ以降の劉循の記録は途切れてしまっており、どの様な最後を迎えたのか分かりません。
劉備はこの後に、夷陵の戦いで陸遜に大敗北を喫しますが、劉循が夷陵の戦いに参加した記録もないです。
劉循の評価
劉循ですが、個人的には中々の武将だった様に感じております。
劉備の入蜀では、張松が国を売り法正や李厳、孟達などが劉璋に見切りをつけて寝返る中で、孤軍奮闘したと言えるでしょう。
雒城の防衛では、張任の活躍が目立ちますが、実際に最後まで雒城を守っていたのは、劉循だったはずです。
それを考えると、劉循の評価はもっと高くてもいい様にも感じています。
尚、三国志演義では劉循が呉懿、呉蘭、雷銅らと雒城を守備した話があります。
しかし、華陽国志に劉焉が生きている時代に、雒城を任されたとする話しもあります。
劉焉時代に雒城を任されたのであれば、劉循は雒城の守備をいざという時の為に堅固にし、備えを疎かにしなかったとも言えるでしょう。
雒城の堅守は、備えあれば患いなしを実行した結果なのかも知れません。
劉循の能力値(コーエーテクモゲームス)
三国志14 | 統率68 | 武力54 | 知力45 | 政治50 | 魅力62 |