名前 | 李厳(りげん) 字:正方 別名:李平 |
生没年 | 生年不明ー234年 |
時代 | 三国志、三国時代 |
勢力 | 劉表→劉琮→劉璋→劉備→劉禅 |
一族 | 子:李豊 |
年表 | 208年 劉璋に仕える |
213年 劉備に仕える | |
231年 第四次北伐 | |
コメント | 諸葛亮を信じる裏切り者 |
画像 | 三国志(コーエーテクモゲームス) |
劉備が崩御する時は、諸葛亮と共に後事を託された人物でもあります。
231年に起きた第四次北伐では、後方の漢中におり蜀軍に兵糧を届けるのが任務でした。
ここで長雨が降り李厳は兵站を繋げる事が出来ず、諸葛亮の軍は撤退しています。
李厳は蜀軍が撤退しだすと、嘘を吹聴し始めた事で問題となり、最終的に庶民にまで落されてしまいました。
李厳は庶民になりますが、諸葛亮を信じており、諸葛亮が亡くなると痛憤し、亡くなったとあります。
今回は「諸葛亮を信じる裏切り者」とも言える李厳を解説します。
尚、李厳は正史三国志の劉彭廖李劉魏楊伝に劉封、彭羕、廖立、李厳、劉琰、魏延、楊儀と共に伝が立てられています。
陳寿は劉彭廖李劉魏楊伝の面子に対し「禍を招き罪を得たのは身から出た錆び」と述べています。
劉表の配下となる
李厳は荊州の南陽郡の出身であり、若くして郡の官吏になったとあります。
李厳は能力を周りに高く評価された話もあり、若い頃から郷里で有名な人物だったのでしょう。
李厳は最初は劉表に仕えた話がありますが、たまたま、地元を支配していた荊州牧の劉表に仕えたと言ったところだと感じました。
劉表の死後に曹操が南下すると、秭帰県に李厳はいましたが、劉璋が支配する蜀の地に赴いたとあります。
曹操は荊州を手に入れると劉琮、蔡瑁、蒯越、韓嵩、文聘などの荊州の人材を優遇しました。
しかし、李厳は蜀に向かったわけであり、曹操に対して何かしら思う部分があったのかも知れません。
後に李厳は劉璋の配下なのに、劉備に呆気なく降伏した事を考えると、曹操の下にいては出世は出来ないが、劉備の下にいれば出世の可能性があると判断した可能性もある様に思います。
諸葛亮も曹操に仕える事をしなかった様に、似た様な気持ちが李厳にあったのかも知れません。
劉備に寝返る
李厳は蜀に向かいますが、後の主君となる劉備は魯粛のお陰もあり呉の孫権と手を結びました。
赤壁の戦いでは周瑜や黄蓋の活躍により、曹操を北方に追いやり劉備も荊州の一部を手に入れています。
ここから劉備は蜀を取る為に、張魯討伐を名目とし、劉璋の治める益州の地に入りました。
これが劉備の入蜀です。
劉備は漢中の張魯を討伐すると述べて北上しますが、張松の兄・張粛が、張松が劉備を蜀の主にしようと画策していると密告しました。
これにより張松は処刑され、劉璋と劉備の対立が決定的となります。
劉璋は劉備と絶縁し、劉璝、冷苞、張任、鄧賢らが涪城で、劉備軍と戦いますが敗北しました。
劉璋軍は綿竹に立て籠もり、劉璋は李厳に綿竹の諸軍の指揮を執らせようとしますが、李厳は軍勢を引き連れて劉備に降伏しています。
尚、この時に李厳配下に費観がおり、共に劉備に降伏しました。
李厳や費観が何を思って、劉璋を裏切り劉備に降伏したのかは不明です。
劉璋軍は、劉循や張任が雒城に立て籠もり奮戦し、龐統を討ち取られるなどしたが、結局は雒城も落ちました。
馬超が劉備に帰順した事もあり、簡雍の交渉も上手く行き、劉璋は劉備に益州を譲る事を決めます。
馬超程の衝撃は無かったのかも知れませんが、李厳の寝返りも劉璋にとって大きかったと考えるべきでしょう。
劉備は入蜀を果たすと関羽や張飛、麋竺、簡雍などの古参の臣下だけではなく李厳、黄権、董和などの益州の臣下も重用したとあります。
さらに、劉璋と姻戚関係であった呉懿や費観らも重く用い、劉璋から追放された彭羕や、恨みに思っていた劉巴なども配下とし厚遇しました。
正史三国志には「これにより、志のある者は競って忠勤に励んだ」とあります。
李厳も仕事が出来た事もあり、劉備に重用されたのでしょう。
尚、劉備の入蜀時に李厳は黄忠と互角の一騎打ちを繰り広げた話がありますが、これは史実ではありません。
蜀科の制定
伊籍伝などに諸葛亮、法正、李厳、劉巴、伊籍で蜀の法律である蜀科を作ったとある。
蜀科の制定は、この5人の力によると記載があります。
劉璋の時代は政治が緩く、厳格な法律が必要だと考え、劉備政権で蜀科の成立を行ったのでしょう。
ただし、李厳が後に処罰される時に「裁判においては法律を無視した」とする言葉があり、蜀科制定の功労者のはずである、李厳は自ら蜀科を破っていた可能性もあります。
犍為太守
劉備は李厳を犍為太守に任命した話があります。
この時に李厳の功曹として、地元益州犍為郡武陽県出身の楊洪がいました。
李厳は郡の役所を移転したいと考えたが、楊洪に諫められた話があります。
李厳は役所の移転をしたかったわけですが、楊洪は移転するなら職を辞すると述べます。
楊洪は地元の有力な名士だったのか、楊洪は煙たい存在だが、辞められても困る存在でもあったのでしょう。
李厳は楊洪を州に推薦し、楊洪は蜀部従事に任命されたとあります。
李厳としては、楊洪を説得する事は出来ないし、次善の策として州に推薦する事にしたのでしょう。
尚、楊洪は李厳が犍為太守の間に、蜀郡太守になった話もあり、功曹からかなり出世した事になります。
楊洪がいなくなった後に、李厳が役所の移転を実行したのかは不明です。
後方を守る
劉備は蜀の地を平定すると、北上し漢中を曹操から奪うべく動きます。
定軍山の戦いでは黄忠や法正の活躍もあり、夏侯淵を斬り劉備は漢中の地を手に入れました。
定軍山の戦いの時に、李厳は後方の守備を担当していた話があります。
この時に、李厳は後方で起きた馬秦と高勝らの乱を平定しました。
馬秦と高勝の乱は数万もの大軍に膨れ上がった話がありますが、李厳は郡の兵士5千を率いただけで乱を鎮定しています。
李厳が仮に馬秦と高勝に敗れていれば、漢中にいる劉備軍は正面には魏軍、後方には反乱軍となり危機に陥っていたはずです。
それを考えれば李厳は、かなり良い仕事をしたとも言えるでしょう。
さらに、李厳は高定が新道県を攻めた時には、救援として駆けつけ高定の軍を破る功績を挙げています。
李厳は功績により、輔漢将軍に任命されました。
上庸方面の戦いにも参加し李平(李厳)、孟達、劉封らが上庸にいる申耽を攻撃したとする記述もあります。
尚、申耽は曹操軍が撤退した事もあり、蜀軍に降りました。
李厳はこの頃に、かなりの手柄を立てていると思っても問題ないでしょう。
劉備が漢中を領有すると、臣下たちは劉備を漢中王に推挙し漢帝に上表していています。
劉備を漢中王に推挙した群臣の中に、興業将軍・李厳の名が残っています。
劉備を漢中王に推挙した人物
・馬超 ・許靖 ・龐羲 ・射援 ・諸葛亮 ・関羽
・張飛 ・黄忠 ・頼恭 ・法正 ・李厳
劉備の死と永安の守備
劉備は漢中王に即位しますが、関羽が樊城の戦いで破れ、麦城の戦いで孫権に捕らえられ処刑されています。
関羽が死去した後に、関羽討伐で活躍した呂蒙は病死しますが、劉備は呉を討つために夷陵の戦いを起こしますが、陸遜に手こずり大敗北を喫しました。
劉備が223年に崩御する時に劉禅、劉永などの遺児を、丞相の諸葛亮と尚書の李厳を託した話があります。
後に尚書は蔣琬や費禕が任命されており、この時点で既に李厳は蜀軍のナンバー2であったとも言えるでしょう。
李厳は劉備から諸葛亮と共に劉禅を託され、中都護となり内外の軍事を統括し、永安に留まり鎮撫する様に命じられています。
孫権との和睦は成立していましたが、劉備の死で呉が攻撃してくる可能性があり、劉備は呉への備えとして李厳を配置したのでしょう。
劉禅が即位すると、李厳は都郷侯となり仮節、光禄勲の位が付加されました。
雍闓の説得に失敗
劉備が永安で崩御すると雍闓が不遜な態度を取る様になった話があります。
劉備の死で国内が動揺したわけです。
李厳は雍闓に6枚に及ぶ手紙を送り利害を諭しました。
しかし、雍闓は1枚の手紙を送ってきただけであり、蜀に服従せず士燮を通じて呉に味方しています。
李厳の交渉は失敗していますが、元々雍闓は蜀に従う気持ちもなく、誰が手紙を送っても上手くは行かなかった様に思いました。
後に雍闓は永昌郡に侵攻するも、呂凱に阻止されています。
因みに、雍闓は諸葛亮の南蛮征伐の時に、部下に裏切られ命を落としました。
前将軍・江州に移る
226年春 李厳が永安より帰還し、江州に駐屯し大城を築いたとあります。
正史三国志の注釈には「今の巴郡の古城がこれである」と記述されています。
李厳の配置転換は諸葛亮が、李厳を北伐で活用したいと考えたのでしょう。
鄧芝が呉との同盟を上手く取りまとめた事で、蜀と呉の友好関係が回復し、呉との国境が安定した事も大きな要因だと感じます。
この時期に蜀では諸葛亮を中心に、急激に国力が回復していた次期でもあります。
南蛮征伐でも孟獲を破るなどし、南方を安定させる事に成功しました。
李厳は前将軍となり、江州に陣営を移す事になります。
尚、李厳の後任となり、呉の備えには陳到が選ばれました。
孟達への手紙
李厳が孟達に手紙を送った話があります。
諸葛亮は北伐を考える様になりますが、上庸にいた孟達を寝返らせようと考えます。
孟達は劉封と共に関羽の救援に行かなかった事もあり、劉備に恨まれ魏に寝返った過去があります。
曹丕が亡くなり曹叡が即位すると、孟達に対する風当たりが強くなっていました。
王沖と孟達の話の内容を諸葛亮と蔣琬、費詩で話し合った記録があります。
この時に諸葛亮は孟達と連絡を取る選択をしており、李厳も孟達と連絡を取ったのだと思われます。
李厳は孟達に、次の様な手紙を送っています。
李厳「私は孔明(諸葛亮)と共に先帝(劉備)から蜀を託されています。
憂いは深く責任は重大です。よき協力者を得たいと願っております。」
諸葛亮も孟達への手紙を送っており、その中で李厳の事も書かれていました。
諸葛亮「各部署が流れる様に動き、物事が停滞したいのは方正(李厳)の実績である」
手紙の内容から、諸葛亮も李厳に高い評価を与えている事が分かるはずです。
尚、諸葛亮と李厳が孟達と手紙でやり取りしていた事で、孟達の蜀に対する警戒心が解けたのか、孟達は第一次北伐で蜀に寝返っています。
ただし、孟達は電光石火で上庸に移動した司馬懿により命を落としました。
因みに、先ほど名前が登場した王沖ですが、李厳が江州にいる時に、李厳は王沖を憎んだ話があります。
王沖は李厳に処罰される事を恐れ、魏に亡命しました。
魏では王沖を楽陵太守にしています。
諸葛亮に王位を勧める
諸葛亮集に李厳が諸葛亮に王になる様に進言した話があります。
これに対して、諸葛亮は次の様に返信しました。
諸葛亮「私と貴方(李厳)は長い付き合いとなっていますが、それでも理解していないのでしょうか。
私は元は身分の低い者でしたが先帝に用いられ、位は人臣を極め莫大なる俸禄を賜わっております。
現在、賊共を討伐しても効果はなく、知遇に対しても応える事が出来ずにいると思っているのです。
春秋時代の斉や晋の様な恩賞を頂いておりながら、何もせずに自分から進んで高貴な身分になるのは、道義に外れた行いだと感じております。
魏を滅ぼし曹叡を斬り、天子が元の皇居に戻られるのであれば、皆で出世をする事となり、十の特別待遇でもお受けしようと考えております。
ましてや9の特別待遇であるなら猶更です。」
諸葛亮は李厳の「王位に就くべき」とする進言を却下しました。
李厳が諸葛亮に王位に就くように進言した理由ですが、この時点で李厳の上には臣下として諸葛亮しかいないわけです。
よって、「諸葛亮が出世しなければ李厳も出世出来ない」と考えての進言だったとも考えられています。
李厳の出世欲を表している手紙だとも言えます。
第四次北伐と李厳の嘘
兵站を繋ぐ任務
諸葛亮は魏軍と戦い子午の役では曹真の軍を撤退に追い込みますが、北伐を行っても思った様な戦果は挙げる事が出来ませんでした。
231年に第四次北伐を行いますが、ここで李厳が問題行動を起こします。
諸葛亮は祁山を包囲した。司馬懿や張郃が救援に来ました。
この時に李厳は漢中におり、蜀軍の本隊に兵糧を届けるのが任務だったわけです。
既に李厳は驃騎将軍になっており、驃騎将軍の上は大将軍しかおらず、誰が見ても諸葛亮に次ぐ存在であり蜀軍のナンバー2となっていました。
兵糧輸送と言えば、地味に聞こえるかも知れませんが、漢中から諸葛亮がいる祁山には300キロもの距離があり、兵站を繋ぐのは至難の業だったわけです。
馬車での補給の限界が200キロと言われる中で、300キロ先の軍隊に兵糧を届けるのは、並大抵の難易度ではありません。
この頃に李厳は名前を李平に改名していますが、李平に改名したのは、食糧輸送の重要性が分かっていたからこそ、心機一転し名前を変えた可能性もある様に思います。
尚、楚漢戦争で項羽に勝利した劉邦は、漢の三傑として韓信、張良、蕭何の三人を挙げています。
蕭何は戦場に出ずに兵站を繋ぐのが役目でしたが、項羽が何度も食料を切らしたのに対し、蕭何は兵站を繋げ続けたのも勝利の要因と言えます。
「素人は戦略を語りプロは兵站を語る」ともある様に、この時の李厳の任務は重大だったわけです。
因みに、諸葛亮は北伐で兵站を繋げるために木牛流馬を開発した話がありますが、これらの輸送器具を使って輸送を行った可能性もあるでしょう。
長雨で兵站を繋げる事が出来ず
李厳は兵站を繋げ続けますが、蜀軍と魏軍は膠着状態となります。
こうした中で長雨が降ってしまい、李厳は兵站を繋げる事が出来なくなります。
李厳は参軍の狐忠と都軍の成潘を諸葛亮への使者として派遣しました。
正史三国志には「諸葛亮を呼び戻させた」とある事から、李厳は劉禅に上奏し、劉禅の命令で諸葛亮を撤退させ様としたとも取れる記述があります。
これにより諸葛亮は撤退を始めました。
尚、この撤退戦で追撃してきた張郃を蜀軍は討ち取っています。
李厳の虚偽報告
諸葛亮が撤退を始めると、李厳は驚いた振りをし次の様に述べました。
「兵糧は十分にあったはずなのに、なぜ撤退したのだろうか」
李厳は兵站を繋げる事が出来なかった責任を、諸葛亮のせい転嫁しようとしいたのか、とぼけた発言をしたわけです。
ただし、漢中から諸葛亮の本隊までは300キロの距離があり、兵糧輸送は困難を極め、失敗しても正直に言えば李厳の責任にはならなかったのではないか?とする説もあります。
李厳はさらに成都にいる劉禅に、次の様に上表しました。
「軍は後退している様に見せかけ、魏軍を誘い出し討つつもりでいるのです」
詳しく調べられれば、直ぐにバレる様な嘘を李厳は連発した事になります。
他にも、李厳は岑述に罪を擦り付けようとしたとする話もある程です。
李厳にしてみれば、岑述はトカゲの尻尾切りのつもりだったのかも知れません。
李厳が岑述を斬るのは、責任の押し付けとはいえ、李厳版の泣いて馬謖を斬るに該当する可能性もあった様に思います。
諸葛亮は漢中に戻ると、李厳の自筆の手紙などを集め、提出した事で李厳の矛盾が明らかとなりました。
この間に李厳は諸葛亮に会おうとせず、沮、漳などに行き江陽に向かおうとした所で、配下の狐忠に諫められて諸葛亮に詫びた話があります。
これを見る限り李厳は、誠意という言葉とは、かなり遠い存在だったとも言えるでしょう。
李厳の失脚
諸葛亮は李厳が罪を認めた事で、次の様な上奏を行いました。
「先帝が崩御されてから、李厳は行く先々で財産と自己の保身、名誉だけを求め、国を憂える気持ちがありませんでした。
私が北伐を行うに際し、李厳の軍に来て貰い漢中の抑えとしたいと望んだ時は、文句を並べたて、漢中に来る意思がないにも関わらず、五郡をもって巴州の刺史になりたいと要求して来たのです。
昨年は西征を行おうとし、李厳に漢中を治めさせようとすると、李厳は『司馬懿は属僚を招聘しているから、自分も同じ様にして貰いたい』と申してきました。
私は李厳が卑しい心の持ち主であり、軍を発する度に、自己の利益を迫って来たのです。
そこで私は李厳の子である李豊を上表し、江州を治めさせ処遇を高めてやり、その場の要求を取り繕ったのです。
李厳がやってくると、あらゆる仕事を任せたので、上下問わず諸将は李厳に対する厚遇を不思議がっていました。
大業が成就されていない今の状態であれば、李厳の人間性を問題視するよりも、おだてた方が得策だと考えたからです。
私は李厳は栄誉と利益だけを追求するだけの者であり、ここまでデタラメであったとは思いもしませんでした。
ここで処遇を遅らせてしまうと、禍を自ら招く事になってしまいます。
これは私が不明な結果であり、説明すればするほど、私の責任は大きくなるばかりです。」
これにより李厳は庶民に落される事になりました。
李厳は梓潼郡へ流されています。
ただし、李厳の子の李豊の罪を問われず、そのまま任用され続けました。
尚、諸葛亮の第一次北伐で馬謖は街亭の戦いで張郃に敗れ、処刑されています。
世に言う「泣いて馬謖を斬る」の話です。
李厳は虚偽の情報を流したのに、庶民に落されただけで、処刑されなかった事を考えると、馬謖の失態は想像を絶するほどの大きさだったのでしょう。
尚、諸葛亮が李厳の嘘に関して、諸将と協議した話があり、参加した人物は次の通りだった話があります。
・許允 ・丁咸 ・劉敏 ・姜維 ・上官雝
・胡済 ・閻晏 ・爨習 ・杜義 ・杜祺
・盛勃 ・樊岐
蔣琬や董允の名前がなく、諸葛亮の北伐軍に参加した者たちで協議し、李厳が庶民に落される事が決定されたと考えるべきでしょう。
陳震の予言
諸葛亮は李厳の兵糧輸送が上手くゆかず、責任転嫁の為の嘘をついて免職になった事について蔣琬と董允に、次の様な手紙を送っています。
「孝起(陳震)は、過去に呉に向かう時に、自分に正方(李厳)は腹の中に棘があり、郷里の者でも近づけないと言っていると話してくれた。
自分は棘には触れなければいいと思っていたが、戦国時代の蘇秦や張儀の様な舌先の誤魔化しが、突然なされるとは思ってもみなかった。
孝起には、この事を知らせてやらねばならない。」
諸葛亮は陳震の先見の明があった事を認めた話にもなっています。
尚、陳震は235年に亡くなっているので、諸葛亮から李厳の話は聞いたはずですが、陳震が李厳の失敗に対して何といったのかの記録はありません。
李厳は一部では人間性を疑問視されていた可能性があります。
尚、諸葛亮から蘇秦と張儀の名前が出ていますが、蘇秦や張儀は戦国七雄の時代に諸国を渡り歩いた遊説家であり、合従連衡を説いた代表的な人物です
李厳の最後
李厳は失脚しましたが、子の李豊は健在であり、李厳は李豊の援助で生活をしていた様にも感じています。
234年に諸葛亮は第五次北伐の軍を起こしますが、五丈原の戦いで、司馬懿と対峙している最中に没しました。
李厳は庶民に落されましたが、諸葛亮であれば功績を立てれば自分を再び、元の位に戻してくれると信じていたとされています。
李厳は諸葛亮の能力を認めており、諸葛亮であれば勢力を拡大して、人材が必要となり自分も必要としてくれると、感じたのかも知れません。
しかし、諸葛亮の後継者である蔣琬や費禕であれば、それは無理だと考えていたとする話もあります。
もしくは、諸葛亮は個人的な感情よりも、公平性を重視し手柄を立てれば取り立てられると考えいたともされています。
李厳は諸葛亮の死を聞き、痛憤して亡くなったとあります。
廖立も庶民に落され諸葛亮の死を聞いて落胆した話がありますが、廖立はその後も生きて、李厳が亡くなっている事を考えると、諸葛亮が亡くなったショックは李厳の方が大きかったのかも知れません。
尚、李厳の子である李豊は朱提太守にまでなったとあり、これで正史三国志の李厳伝は締められています。
李厳の評価
楊戯が著した季漢輔臣賛に、李厳は下記の様に評価されています。
李厳は先主より遺命を受け、後に政治に参加したが、意見を述べる事も協調する事もなかった。
道に外れる言動をし、世間から追放され任務も功績も失った。
季漢輔臣賛では、かなり酷評されている事が分かるかと思います。
個人的には李厳は能力が高いが欲深く、欲に目を眩ませた人物にも感じました。
尚、李厳は陸遜に匹敵するとする話もありますが、人間性で考えれば陸遜には遠く及ばないとも言えそうです。
李厳の能力値
三国志14 | 統率83 | 武力84 | 知力76 | 政治74 | 魅力52 |