昌平君の史実の実績などをキングダムでの話と交えて解説します。
キングダムのネット上の噂を見ていると、最後のラスボスは昌平君と項燕だともっぱらの噂です。
他にも、桓騎がラスボスだという人もいますが、普通で考えれば昌平君がラスボスとなるでしょう。
最後の敵は李牧だという人もいます、李牧の事は記事にしましたが、趙の滅亡の3カ月ほど前に郭開に讒言されて趙王(幽穆王)に処刑されています。
これが紀元前229年の出来事です。
これ以降も、もちろん歴史は続き昌平君が淮南で項燕により楚王に立てられましたが、王翦・蒙武に攻められて破れてしまうのが紀元前223年の事です。
この時の戦いで昌平君は死亡したとされています。
昌平君は歴史書である史記に名前が出ている事から実在した事は間違いないでしょう。
しかし、史記の昌平君の記述は謎が多く実像が掴みにくい部分も多いです。
ここではキングダムや史実に基づいて昌平君の謎を紐解いてみたいと思います。
名前がよく分からない
昌平君なのですが、昌平君というのは、本名ではありません。役職みたいなものだと思ってもらえばと思います。
春秋戦国時代には臨武君や、信陵君、春申君、平原君、白起や李牧が武安君と呼ばれた様に、役職名で呼ばれる事が少なくありません。
同じ様な流れで昌平君も役職名での記載となっています。
尚、○○君などは、死後に呼ばれる事も多いようですが、昌平君の場合は生前から名乗っていたようです。
尚、昌平君の由来に対しては、「昌平」という地を与えられていたから、昌平君という説もありますし、「昌」という地か「平」という地を封土として与えられていて昌平君を名乗ったなど、様々な説があります。
昌平君の本名に関しては、熊啓という説があります。「十七年丞相啓状戈」という秦代の銅戈が見つかっていますが、丞相啓が昌平君ではないか?と考える専門家もいます。
この話が真実であれば、昌平君の本名は楚王室の氏である「熊」と名前の「啓」で「熊啓」となります。
ちなみに、昌平君の分かっている事で、若くして楚から秦に人質で行ったと言う事です。
しかし、人質で言ったにも関わらず、相国(秦で最も位が高い役職)についてしまうのは、流石だと思いました。
とても人質とは思えませんね。
昌平君の父親ですが、昌平君が楚王の血を引いている事を考慮すると、楚の考烈王か楚の頃襄王辺りではないかと思います。
楚の懐王の孫とか曾孫などの可能性もあるのかも知れません。
キングダムでは、昌平君は呂不韋四柱の一人として登場するわけですが、史実でも呂不韋が昌平君を引きたてたのかも知れません。
しかし、昌平君がどのようにして成り上がったかについては、史書にも記録がなく分かっていない事が多いです。
尚、秦には昌平君の他にも昌文君がいますが、昌平君と昌文君の関係もよく分かりません。
専門家によっては昌文君は昌平君の弟でだったのではないか?という人もいますし、昌平君の従者だと考える人もいます。
しかし、昌平君と昌文君の関係を表す資料のなさから決定打に欠けるのが現状と言えそうです。
嫪毐の乱を鎮圧
史記にも記述があるので、これははっきりとしているのですが、嫪毐(ろうあい)の乱を鎮圧したのは昌平君です。
正確に言えば、昌文君と昌平君で嫪毐の乱を鎮圧しました。
当時の嫪毐は、大后(秦王政の母親)の愛人として、絶大なる権力を持っていました。
呂不韋に比肩するほどの権力を持っていて、秦の文官、武官、大臣達は嫪毐につこうか、呂不韋につこうかで話題になっていた逸話があります。
しかし、嫪毐というのは、結局は巨根で大后の趙姫に気に入られていたのであって、昌文君や昌平君に敵うわけもなく乱は鎮圧されてしまいました。
ここで、秦王政のピンチを救った事で、かなり信頼されたのかも知れません。
尚、嫪毐が乱では呂不韋も連座し失脚する事になります。
軍師養成学校を開く
キングダムの昌平君は、イケメンでカッコいいですが、いつも怖い顔をしています。
その性格は、どのような感じかと言えばキングダムでは、自費で軍師養成学校を開き人材教育にも熱心な面が見受けられます。
ちなみに、軍師養成学校の講師は昌平君が自ら務めたり蔡沢がやったりと豪華な授業が受けられるようです。
他にも、才能があると見込んだ人物は、自分の食客にするなど、人を重視した政策もしています。
尚、蒙恬の弟の蒙毅もキングダムでは昌平君の軍師養成学校を卒業した優秀な生徒になっています。
因みに、昌平君の軍略の師匠は秦の六代将軍(白起、王騎、王齕、司馬錯、胡傷、摎)の胡傷という設定になります。
史実での胡傷は秦の昭王の時代に、魏冄や白起と共に紀元前273年の華陽の戦いで趙、魏連合軍の賈偃と芒卯に大勝したなどの記述があります。
しかし、史実での胡傷はキングダムで言う、趙の三大天の一人である趙奢に閼与の戦いで敗れた人物です。
史記などの記録を見ると胡傷が軍師風の人物だったという記録もありません。
秦の軍総司令官
キングダムでの昌平君は軍の総司令官という立場にいます。
昌平君が考えて戦略を立ててそれに従い、秦軍は行動しています。
キングダムでは魏の廉頗を破り(史実には廉頗が魏軍を指揮した事実はない)東群宣言をするなどの戦略を考えたのも昌平君になっています。
※史記には廉頗が魏軍を率いた記述はなく、魏王は廉頗を疑い用いなかった話がある。史実では魏の信陵君死後にチャンスと見た秦の首脳部が蒙驁(もうごう)に命じて魏を破り東郡を設置した。
他にも、紀元前241年の合従軍との函谷関の戦いでも、戦略を練っています。
尚、キングダムでは龐煖や李牧との蕞(さい)の戦いで、秦王である嬴政と共に蕞に出陣した事になっていますが、史実ではありません。
秦は紀元前236年に趙の鄴攻め(ぎょうぜめ)を行っていますが、鄴攻めでもキングダムでは最初に戦略を考えたのは昌平君です。
しかし、史実を見ると昌平君が鄴攻めに関与した形跡はありません。
秦の相国という立場から関わっていた可能性は高いですが、史実には名前は見えていません。
鄴攻めの頃には呂不韋も失脚しており秦王政の新政が始り、昌平君と同じ楚の出身である李斯の台頭が始まる時期なのかも知れません。
禍燐との関係
キングダムの架空のキャラで禍燐という女性が登場します。
禍燐は女将軍だったわけですが、春申君を李園が暗殺した後は、宰相になっています。
この禍燐には、生き別れの弟がいる設定になっているのです。
禍燐の弟が昌平君ではないか?と騒がれています。
昌平君は、元は楚人で何らかで人質として秦に行きました。
これを上手く物語をつけて整合させれば禍燐の弟が昌平君であってもおかしくはないでしょう。
後に、昌平君は楚に帰るわけですが、ここで禍燐と何かしらのドラマが合ってもおかしくはないはずです。
昌平君が秦を去るタイミング
史実を重視するのであれば、昌平君が秦を去るのは紀元前226年になります。
この年は、韓の貴族たちが秦に対して反乱を起こした年でもあります。
韓は紀元前230年に秦の騰(とう)により首都の新鄭が落とされ、戦国七雄の中でも最も早く滅亡しました。
滅亡したのは紀元前230年です。韓を滅ぼして潁川郡を秦は設置します。
潁川郡は秦では18番目で郡であり、後に秦が天下を36郡に分ける事を考えると、韓を滅ぼした時点で秦は一国で中華の半分を手にした事になります。
紀元前226年に韓の首都であった新鄭で韓の元貴族による大規模な反乱が起きました。
この反乱は鎮圧されてしまうわけですが、ここで何故か昌平君が郢に移ったという記述があるのです。
昌平君が郢に移った事に関しても、様々な説があり秦を去って郢に移ったとする話もあれば、楚の旧都で白起が陥落させた郢の責任者になったなどの話もあります。
さらに、楚では首都を郢とする風習があったようで、陳が郢と呼ばれた時期もあったりします。
こうした事情があり昌平君が行った郢が、どこなのかははっきりとしません。
1975年に発見された睡虎地秦簡’(すいこちしんかん)という資料がありますが、睡虎地秦簡によれば紀元前227年に騰が楚の旧都である郢に行き秦の法令を行き渡らせる様にした話があります。
騰が郢で楚の風習を改め、秦の法令を守る様に過度な押しつけを行い、郢の地で不穏な空気が流れた事で秦の首脳部は楚の王族の一人である昌平君を郢に向かわせたのかも知れません。
秦に反発しやすい楚の地を治めるのであれば、楚人である昌平君に任せるのが最適と判断した可能性もあるでしょう。
尚、昌平君が郢に行った年に、秦では昌文君が亡くなった記述があります。
昌文君の死と昌平君が郢に行った事は何かしらの関係があるのかも知れません。
昌文君が罪を犯し処刑され禍が身に及ぶ事を恐れた昌平君が出奔した可能性もあるはずです。
ただし、韓の貴族の反乱や昌文君の死と昌平君の郢に行った事などの繋がりを示す資料は無く想像の域を出ません。
昌平君と項燕
先にお話した様に昌平君は、最後の楚王であり楚の将軍である項燕に擁立される事になります。
項燕が昌平君を擁立する為には、昌平君が項燕と会い秦から楚に完全に移る必要があります。
どのタイミングで昌平君が秦に移ったのかですが、李信と蒙恬が紀元前225年に楚の項燕に敗れた時だという説があります。
この頃の楚の首都は寿春でしたが、過去には陳を首都に置き郢と呼んでいた次期があります。
項燕が李信と蒙恬率いる20万の秦軍を城父の戦いで破った事で、一時的に楚が優勢となり昌平君がいた陳(郢)が孤立し、昌平君は秦に戻る事が出来なくなった可能性はないでしょうか。
項燕が李信と蒙恬を破った衝撃は強く秦王である嬴政は、楚軍を恐れ引退した王翦の将軍復帰を願った話があります。
それを考えると、項燕が李信と蒙恬を破り陳まで進撃し、昌平君が項燕に降伏したとも考えられます。
項燕は楚王の血を引く昌平君を匿い自分の陣に置いた可能性もある様に思いました。
項燕により楚王の立てられる
項燕は李信と蒙恬は破りますが、紀元前224年の王翦との戦いには敗れています。
この時の王翦は史記によれば60万の軍勢を指揮した話もあります。
王翦は、項燕を破った勢いに乗り、楚の首都である寿春を陥落させ楚王負芻を虜にしました。
楚の首都が陥落し、楚の地を平定しますが、史記の始皇本紀だと負芻が捕らえられた後に、項燕が昌平君を楚王に立てたという話があるのです。
ただし、史記の楚世家の記述だと、項燕は王翦に敗れ戦死したとあります。
楚世家の記述が正しいのであれば、項燕は昌平君を楚王に立ててはいない事になります。
どの説が正しいのかは不明ですが、始皇本紀の記述に従えば項燕が擁立した最後の楚王が昌平君となるでしょう。
淮南で楚王になった昌平君と項燕は、王翦、蒙武の軍と再び戦いますが、昌平君らは敗れ楚は完全に滅亡する事になります。
昌平君も項燕もこの戦いで命を落とす事になります。
楚王昌平君・項燕と王翦・蒙武の戦いは伝説なのか史実なのかは不明ですが、700年を超える歴史があるとされる楚の国は昌平君と項燕の死を以って滅亡しました。
これが紀元前223年の出来事です。
楚が滅びると残っている国は、代王嘉と燕王喜、斉王建の三国だけとなります。
代王嘉は趙の王族ですが、紀元前229年に秦の王翦、楊端和、羌瘣に首都である邯鄲を落とされて趙の大部分は秦の領地となり代王嘉の勢力は代を擁するだけの弱小勢力でしかありません。
燕も太子丹が秦王政に刺客を送りつけた事で、秦王政が激怒し王翦が燕を攻撃し、首都である薊が落とされ遼東を擁するだけの弱小国に成り下がっています。
斉は大臣が秦の賄賂漬けになっている状態であり、代、燕、斉は王賁、李信、蒙恬らの手により呆気なく滅びています。
それを考えれば楚の滅亡が秦の天下統一を完全に決定づけたと言えるでしょう。
ちなみに、秦は始皇帝(嬴政)が死んだ後に4年で滅亡します。
秦を滅ぼすのは、項燕の孫である項羽です。
楚人は秦に対して、たいそう恨みが溜まっていたようで、「たとえ3家になろうとも秦を滅ぼすのは楚なり」という歌が流行ったとも言われています。
秦国が楚を滅亡させるときに、秦はかなりの恨みを楚人から買ったのではないでしょうか?
裏を返せば楚の正規軍を失った楚軍を率いる昌平君や項燕の奮戦が凄まじく、王翦・蒙武は戦いで苦しみ楚人に対して激しい弾圧を行ったのかも知れません。
この辺りもキングダムでは、どのように表現をしてくれるのか楽しみでもあります。
それでも、ストーリー的に考えれば楚の昌平君がキングダムのラスボスだと言う事は間違いない様に感じます。
昌平君に対して、分かっている情報は全て書きましたが、追加で分かった事があれば、その都度、お話を追加したいと思います。
ちなみに、昌平君・項燕VS王翦・蒙武の戦いは、どのような戦いだったのか記述がなく分かっていません。
史記だと一行で片付けられています。
キングダム作者の原泰久さんが、楚の最後の戦いをどのように描くのか今から楽しみです。
尚、キングダムの連載が始まる前に、原泰久さんの読み切りで「蒙武と楚子」があり、既に結末はネタバレされている状態となっています・・・。