悼襄王の史実の実績などを紹介します。
悼襄王は、趙王であり趙の最高責任者でもあります。
キングダムでも悼襄王は登場しますが、はっきり言いますが、最低な性格をした暗君として描かれています。
悼襄王が発した言葉として、「国がどうとか、民がどうとか、後のことなど知ったことか」などの最悪発言などもあるわけです。
秦王である嬴政(後の始皇帝)がかなりまともに描かれている事もあり、暗君ぶりが際立ちます。
しかし、史記などを読んでも、戦国策にも悼襄王が無茶苦茶な性格をしていたとか、少年を集めて入浴をするのが好きだったなどの記述もありません。
もちろん、廉頗に「バカ」呼ばわれされたとも記載がないわけです。
キングダムでは最悪の君主とされてしまった、悼襄王が史実ではどの様な人物なのか解説します。
因みに、戦国策などに春平君を寵愛していた記述があり、秦とやり取りした話もあります。
ただし、春平君が美少年だったのかどうかは定かではありません。
尚、春平君が趙の太子だった説があり、それを考えると春平君は趙嘉(後の代王嘉)か趙遷(幽穆王)のどちらかの可能性もあるでしょう。
即位していきなり廉頗が出奔
趙の悼襄王は孝成王が亡くなると、即位する事になります。
悼襄王は即位すると、いきなり魏の繁陽を攻めていた廉頗を解任してしまいます。
悼襄王が、廉頗を解任した理由ですが、イマイチ分かっていません。
廉頗と趙の佞臣である郭開は、仲が悪かったようなので、郭開が巧みに讒言した可能性もあるでしょう。
尚、悼襄王の父親である孝成王も即位して3年目に長平の戦いが起きるわけですが、ここで廉頗を解任しています。
後任の趙括は白起に大敗して、趙は40万の兵士を失うなど大阻害を被ったわけです。
廉頗は恵文王の時からの大臣であり既に老齢になっていた事は間違いなく、国の新陳代謝の為に解任したのかも知れません。
趙の孝成王の時には、廉頗は更迭に素直に従ったわけですが、悼襄王の時に解任された時は、後任の将軍である楽乗を攻撃して敗走させてから、魏に亡命しています。
後に、悼襄王は廉頗が去った事を後悔し、魏から楚に移った廉頗を呼び戻そうとした事があります。
しかし、様子を見に行かせた使者が郭開に買収された為に、結局は廉頗は趙に戻る事はありませんでした。
結局、廉頗を去らした事を後悔したのであれば、悼襄王の廉頗を解任した事は失敗と言えるでしょう。
尚、趙の恵文王が即位した後に、父親である武霊王が後継者問題により餓死するなど、趙という国は世代が変わると名将が排除される歴史があります・・・。
李牧に燕を攻めさせる
李牧はキングダムでは趙の宰相として扱われていますが、史実をみると宰相になった記述は史記の始皇本紀に宰相の李牧が秦に来た話があるだけです。
李牧が宰相になったとしても、いつ頃の時代なのかも分かりませんし、宰相の時に行われた業績なども定かではありません。
李牧は北方の長官であり匈奴に大勝した事があり、匈奴から多いに恐れられていたわけです。
李牧が匈奴を破った事で北方が安定したのか、悼襄王は李牧を将軍に任命し燕の武遂と方城を攻めた記録があります。
当時の趙は西の秦が相手だと苦戦を強いられますが、東北に位置する燕に対しては優位に戦いを進めています。
かつて燕王が60万の軍勢を率いて攻めて来た時に、廉頗が大勝したのも大きかったのでしょう。
因みに、この時に東周列国志によれば廉頗の副将を李牧になっています。
これが本当であればキングダムファンに取ってみれば、廉頗と李牧の夢のコラボとも言えるでしょう。
李牧を北方の守備だけではなく、6国(秦・楚・斉・燕・魏・韓)との戦いに投入した事は、趙の悼襄王の功績となるはずです。
龐煖を将軍に任命する
悼襄王が行った実績として、龐煖(ほうけん)を将軍にした事があります。
龐煖の事をキングダムの影響で武神とか、バーサーカー的な人だと勘違いしている人もいます。
実際の龐煖は、悼襄王の曽祖父である武霊王の時代から名前が見え、悼襄王の時代には老臣となっていたはずです。(別人説あり)
趙の老臣と言えば廉頗ですが、廉頗の名前が見えるのは、武霊王の子である恵文王の時代からとなっています。
そのため、年齢で言えば廉頗よりも龐煖の方が上の可能性もあるくらいです。
尚、悼襄王が龐煖を将軍にしたのは、廉頗がいなくなった事での苦肉の策として任命した可能性もあります。
龐煖の話を聞いた悼襄王は、龐煖を気に入り信頼し重用しました。
劇辛を返り討ちにする
悼襄王が龐煖を将軍に任命した事は、隣国である燕にも伝わっていきます。
この当時は、燕王喜が即位していたわけですが、燕の武将である劇辛は過去に趙にいた事がありました。
燕の昭王の時代に、郭隗の進言による「塊より始めよ」を実行した事により、趙から燕に移って来たわけです。
余談ですが、この時に陰陽家の鄒衍や元中山国の将軍であった楽毅も燕の臣下となっています。
しかし、燕の昭王が死去し恵王が即位し楽毅が趙に去り、さらに栗腹が廉頗に大敗し国都である薊が包囲されたりと、弱小国になっていました。
燕王喜は劇辛に、「龐煖はどの様な人物なのか?」と問うたところ、劇辛は「いたって組みしやすい人物」と言った事から、劇辛を将軍として趙を討たせています。
しかし、龐煖は劇辛が知っている昔の龐煖ではなかったのか、劇辛は返り討ちにされてしまいました。
龐煖の方は、この勝利により悼襄王の信頼を勝ち得たのかも知れません。
合従軍で秦を攻める
龐煖が劇辛を討ち取った翌年には、楚の宰相である春申君と趙の龐煖が連動して秦を攻めています。
紀元前241年に楚の春申君は、楚、趙、韓、魏、燕の軍勢を率いて秦の函谷関を攻撃しています。
さらに、趙の龐煖が蕞(さい)を趙・楚・魏・燕の精鋭を率いて攻めた記述が史記にあります。
函谷関の戦いでは春申君は敗北しましたし、蕞の戦いでも龐煖の軍勢は蕞を抜く事が出来ませんでした。
ただし、蕞の戦いで龐煖は蕞を抜く事はできませんでしたが、龐煖は兵を東に向け斉の饒安を取っています。
紀元前236年の鄴攻めの年に韓非子に龐煖が燕を攻めた記述があり、趙の悼襄王は蕞を抜けなかった龐煖をそのまま将軍として起用し続けた事が分かります。
尚、龐煖は四カ国の精鋭を率いていたようなので、春申君が函谷関を攻めたのは、秦の兵を函谷関にくぎ付けにする為の囮だったのかも知れません。
函谷関の戦いの記事でも紹介しましたが、春申君が函谷関で敗れた為に、秦の内部での孤立を恐れた龐煖は撤退を余儀なくされた可能性もあります。
この時の龐煖は破れたとは言え、秦の咸陽の付近にある寿陵(後の兵馬俑)を占拠した記述があり、秦の首脳部に危機感を抱かせた事は間違いないでしょう。
ただし、この作戦は失敗に終わり、これ以降は合従軍が結成される事はありませんでした。
それと同時に秦の統一を決定的にした戦いの様に感じています。
因みに、龐煖が秦を攻めた翌年に、傅抵と慶舎を将軍に任命しています。
この人事がどの様な理由なのかは不明です。
合従軍を破り勢いに乗った秦が攻めて来る事を、趙の悼襄王が恐れ傅抵と慶舎に平邑と東陽を守らせたとも考えられます。
尚、慶舎も傅抵もこれ位しか記述がなく、どの様な活躍をしたのかも性格なども不明な部分が多いと言えます。
慶舎と傅抵は悼襄王のお気に入りだった可能性もあるでしょう。
悼襄王と成蟜は結託していた!?
悼襄王の6年に秦王政の弟である、成蟜が秦軍を率いて趙を攻めた記述があります。
しかし、成蟜は屯留で反乱を起こし秦に反旗を翻しています。
史実の秦王政は疑い深く残忍な人物だったとする話もあり、成蟜は命の危険を感じていた可能性もあり、趙を攻める事を口実にして、趙に亡命した可能性もあるはずです。
この年に趙は、長安君を饒に封じた記述があります。
秦では成蟜は役職が長安君だった為に、悼襄王が成蟜を饒に封じた可能性もあるという事です。
饒は饒安の事で函谷関の戦いの後に、龐煖が斉から奪った土地に趙の悼襄王が成蟜を報じた可能性もあるでしょう。
成蟜の反乱に対しては、悼襄王と裏で通じ合っていた可能性もあるかと思いました。
しかし、成蟜は戦死してしまいますし、これが本当だとしたら悼襄王は秦王政に恨まれた可能性もあるでしょう。
太子を変える
史記によれば趙の悼襄王は太子を趙嘉から趙遷に変えた話があります。
趙の悼襄王は遊女出身で美貌の女性である、悼倡后を寵愛した事が原因です。
悼倡后は戦国策を書いた劉向の列女伝では、悪婦として描かれており、趙嘉を悼倡后は讒言した事が書かれています。
列女伝の記述を信じるのであれば、趙の悼襄王も夏の桀王の末喜、殷の紂王における妲己、周の幽王における褒姒の様に国を乱されたと考えるべきでしょう。
尚、末喜、妲己、褒姒は実在しなかった可能性もありますが、悼倡后は高確率で実在の人物だと考える事が出来ます。
鄴を魏から割譲される
悼襄王の6年に魏から鄴を貰い受けた記述があります。
鄴は、戦国時代初期に魏の名臣である西門豹が改革した地であり、農業生産なども盛んでしたし、魏にとっては馴染み深く重要な拠点だったはずです。
しかし、魏は何らかの理由により鄴を維持する事が出来ないと判断して、趙に割譲したのでしょう。
この頃の魏は、戦国四君の中でも最強と言われた信陵君もいませんし、秦の蒙驁(もうごう)に東部を奪われるなど、秦に対抗する力が無かったわけです。
蒙驁が魏の東部である東郡を設置した時に、魏の最北端にある鄴が孤立し、魏の景湣王(けいびんおう)が秦にくれてやる位ならと、趙に鄴を割譲した可能性もあります。
魏は趙と合従を結ぼうとした為か、秦の矛先を魏から趙に向けさせる為かは分かりませんが、趙に重要都市である鄴を魏が譲った事は間違いありません。
余談ですが、魏の文侯の頃の名臣である西門豹は、三国志の曹操が尊敬した人物でもあります。
戦国時代の趙は邯鄲を首都にしていましたが、後の世になると鄴の方が大河の付近にあり水上輸送がたやすい為か重要都市になっています。
後世では、後趙、冉魏、前燕、東魏、北斉などの国が鄴を首都としています。
趙の宰相が秦に行く
斉は斉王建が自ら行き、趙も誰かは分かりませんが、使者を送ったのかも知れません。
趙側の使者は漫画キングダムでは李牧という事になっていますが、史記や戦国策、資治通鑑などを見ても李牧が使者になった話がありません。
趙の使者が秦に行った翌年に、趙の龐煖が燕を攻めた年でもあります。
当時の秦は尉繚(うつりょう)や李斯の献策により、他国の臣を積極的に買収していた時期でもあります。
一説によると、趙の使者が来た時に、秦は趙の使者を買収してしまいます。
そして、秦王が燕を憎んでいると趙の首脳陣に伝えて、趙は燕を攻める事にしたわけです。
秦は趙が燕を攻めた事を確認すると、素早く燕と同盟を結び、趙の鄴を攻めたという説があります。
キングダムでは李牧が秦王である嬴政に同盟を持ちかけた話がありますが、実際には秦は謀略を使い趙に燕を攻めさせて、その隙をついて鄴を攻めるのが目的だったのではないかと思われます。
司馬遷が書いた史記の李斯列伝に下記の言葉があります。
他人の過失を、ぼんやり待っている物はその機会を逃してしまうものです。
大きな功名を成し遂げる者は、他人の過失にすかさずつけこみ、人情抜きでやってしまうものなのです。
この李斯の言葉を実行したのが、悼襄王が燕を攻めた、過失につけこみ秦が鄴を攻めたのではないのか?とも思いました。
鄴を秦に奪われる
悼襄王は、龐煖に北方の燕を攻めて貍・陽城を取る戦果を挙げます。
しかし、秦が趙の首都である邯鄲の南部に位置する、鄴に攻め寄せてきたわけです。
趙の領土というのは、太行山脈を境にして、東西にあるわけですが、鄴の一帯を取られてしまうと趙の東西は遮断されてしまい、国土は一気に半分になってしまいます。
秦は王翦、桓齮、楊端和の3人に鄴や閼与(あつよ)などを攻めさせて陥落させたわけです。
韓非子の書物によれば、龐煖がこの時に急いで南下して鄴を救おうとしたが、間に合わなかった記述があります。
キングダムだと、邯鄲と鄴の間にある、朱海平原で李牧と王翦が戦った事になっていますが、これは事実ではないでしょう。
趙の主力軍は燕に遠征中であり鄴は、趙の援軍をひたすら待つしかない状態だったのではないかと思われます。
しかし、結局は鄴は陥落してしまい趙は大きく領土を失ってしまうわけです。
悼襄王の死はストレスが原因!?
鄴攻めの年に悼襄王が亡くなっています。
悼襄王の死が先なのか、鄴の陥落が先なのかは明確な資料があるわけでもなく、よく分かっていません。
キングダムだと悼襄王は病弱設定になっていますが、史実だとストレスで死亡してしまってもおかしくはないと思いました。
まず、秦に騙されて燕を攻めてしまった可能性もあるからです。
主力軍を燕に送り込んでしまった為に、趙の悼襄王は鄴に対して援軍を送る事も出来なかったのではないでしょうか?
さらに、鄴の一帯を攻め落とされてしまえば、国土は半分になってしまいますし、魏が東郡を失った時の様に、秦に対して決定的な抵抗力が失われてしまう可能性もあったはずです。
鄴からは趙の首都である邯鄲に連日の様に援軍要請が来ますが、援軍を送る事も出来ない状態だったのかも知れません。
それらがストレスとなり病気を発症して死亡してしまった可能性もあるでしょう。
鄴を攻められた時の、趙の悼襄王はかなりのストレスだったはずです。
悼襄王は名君なのか?
悼襄王は名君なのか考えてみました。
悼襄王ですが、諡号に「悼」の文字が入っています。
「悼」という諡号が付く人物を春秋戦国時代で考えてみると、晋の最後の名君と呼ばれた悼公と楚の悼王を思い出します。
晋の悼公は29歳で若くして亡くなってしまいますが、名臣である魏絳(戦国時代・魏の先祖)や叔向を登用したりと国政を盛んにしました。
楚の悼王は、呉起を用いるなど楚の改革を遂げるべく精力的な君主だったわけです。
しかし、楚の悼王が死去すると呉起も殺されてしまい、楚は法治国家になる事が出来ずに、旧態に戻ってしまいました。
それらを考えると「悼」が付く君主は比較的名君が多く、惜しまれて亡くなった様な意味合いがあるようにも感じたわけです。
諡号で考えれば、趙の悼襄王は名君だと言えるのかも知れません。
実際に李牧や龐煖を将軍に任命していますし、燕に対しては優位に戦争を進めています。
それらを考慮すれば、名君の要素はあるのかな?とも感じました。
ただし、廉頗を解任した事や、龐煖を燕に攻めさせてしまった事は失敗と言えるのではないかと思います。
さらに、太子を趙嘉(後の代王嘉)から趙遷(幽穆王)に変えた事も失敗と言えるでしょう。
趙は幽穆王が郭開の言葉を信じて、李牧を殺害し、司馬尚を庶民に落とした事から滅亡したとも言えます。
邯鄲が陥落した時も、幽穆王は捕らえられてしまいますが、趙嘉は無事に代まで逃れて代王嘉となったわけです。
趙嘉の方が人望があり逃亡を手伝う人が多かった事から、代まで逃げる事が出来たのではないかとも考えた事もあります。
それを考えれば、悼襄王は後継者選びでは失敗したと言えそうです。
因みに、キングダムの悼襄王は暴君の素質もあり、普通の人では絶対に言い放たない様な言葉を吐いています。
言わなくてもいいような事をわざわざ言うという事は、案外、正直者で根はいい奴なのかも知れません・・。
普通で考えれば、絶対にありえないとは思いますが・・。
史実の悼襄王はキングダムの様な暴言を吐く暗君ではなかった様に思います。