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霊帝は無能な暗君ではなく、後漢の再興を目指した皇帝だった!?

2021年3月18日

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宮下悠史

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三国志で霊帝と言えば、無能で暗君の代名詞にもされています。

ちなみに、霊帝の本名は劉宏です。

後漢を滅びてしまったのは、霊帝が無能だったからと思っている人も多い事でしょう。

しかし、霊帝の実績が最近になって見直されてきている現実があります。

見直されてきた結果として、無能な暗君ではなく、後漢の再興を目指した皇帝だったのではないか?と考えられる風潮が出て来ました。

今回は、後漢の霊帝がどの様な人物で、どの様な政策を行ったのかを見ていきたいと思います。

尚、一般的に霊帝と言えば、宦官を重用し政治を腐敗させたイメージがあります。

宦官の張譲を我が父と呼び、趙忠には我が母と呼んで親しんでいます。

霊帝の宦官愛?に関しては、本物なのかも知れません。

余談ですが、上記の画像は、横山光輝さんの漫画三国志の一コマです。

霊帝が「とてもつらい」と言っていますが、これも三国志の名言の一つと言えるのかも知れません。

尚、霊帝は後漢王朝において最後の実権を持った皇帝でもあります。

霊帝の後に即位した少帝や献帝などは、董卓李傕郭汜曹操などが実権を握り後漢の皇帝は有名無実の存在になっています。

霊帝が皇帝になった経緯

霊帝ですが、帝位に就けるかどうかは微妙な位置にあった人物です。

霊帝の前の皇帝は、桓帝と言います。

桓帝は、15歳で即位しますが、37歳で亡くなってしまいます。

桓帝の子の中に男子がいなかったので、霊帝が即位する事になりました。

桓帝が河間王家の出身である事から、同じ河間王家の出身である霊帝が選ばれたのでしょう。

桓帝の時代は、宦官の権力が大きくなっています。

それを考えると宦官の意向なども大きく関わっているのかも知れません。

尚、桓帝が崩御した時に、桓帝の弟である劉悝を皇帝に推す声もありました。

その事から、霊帝は劉悝を警戒するようになり、後に宦官の王甫の進言により殺害しています。

劉悝を殺害した事が、霊帝の死因と関わっています。

余談ですが、三国志の東夷伝に、「桓霊の間に倭国が大いに乱れ」という記述があります。

後漢の桓帝から霊帝の間で、倭国が大きく乱れた事を指す記述です。

これが倭国大乱であり、後に卑弥呼の擁立に繋がる話になっています。

霊帝は巡り合わせの悪い皇帝だと思う。

霊帝と言うのは、後漢末期の皇帝です。

国が亡びる末期と言うのは、国家財政が破綻していたり、様々な問題が起こり社会不安に襲われる時代と言えます。

そういう時代に皇帝になってしまう霊帝は、やはり巡り合わせの悪い皇帝です。

特に、最後の方の皇帝や王様となると、次の王朝により皇帝の〇〇が悪政を行なったから国が滅びたなども言われやすい傾向にあります。

さらに、改革が失敗したりすれば悪評も立ちやすいと言えます。

霊帝の時代ですが、国家財政は悪化を辿っていますし、政治も腐敗している状態です。

霊帝が即位する前に、どの様にして国家が腐敗していったのかを紹介します。

霊帝の時代に後漢の財政は危機的な状況にあった

霊帝が即位する頃には、後漢の財政は危機的な状況にあった事が分かっています。

その原因の一つが西羌という、異民族の大移動です。

後漢の前は、王莽の新が短期間存在し、劉邦が建国した前漢があり、その前にはの時代と春秋戦国時代がありました。

最近の研究によれば春秋戦国時代は、気温が現在よりも高かったそうです。

前漢の時代から後漢の初期は、現在と同じくらいの気候だったとされています。

しかし、後漢の途中から寒冷化が深刻になってきたようです。

西羌は、元々寒冷地で遊牧を行ったり、寒冷地でも適した麦を作ったりして生計を立てていました。

西羌は移動する遊牧民の集団だったわけですが、漢民族は温暖な地域で農耕を営んで生活しています。

そのため春秋戦国時代などは、生活様式の違いなどから、居住区域も分かれていたわけです。

しかし、寒冷化により牧畜が適さなくなっていき、漢民族の居住地に移動し始めました。

後漢の政府などは、後漢に組み入れようとも考えましたが、儒教を重んじる後漢政府と独自の価値観を持つ西羌では、相容れない存在になっていきます。

西羌の方は、自分たちの生活を求めて後漢の領内に入り込んでくるわけです。

最後は、西羌と後漢の間で戦争が起きますが、これが連年のように続きます。

さらに、戦乱は広範囲に広がっていきます。

尚、西羌の一部では強大な勢力を持つ者まで現れて、天子を名乗ったりもしています。

後漢側では西羌討伐で、張奐、皇甫規のような名将も輩出しましたが、国家財政は大きく傾いてしまったわけです。

連年のように戦費が増え続けてしまい、霊帝の時代では国家財政はかなりヤバイ状態になっていました。

既に、霊帝の前の時代から、後漢の国家財政は悪化の一途を辿っています。

幼帝が続き政治も腐敗している

霊帝の時代に、政治が賄賂や売官により腐敗したと思っているかも知れません。

しかし、それ以前から後漢の政治は腐敗していたわけです。

腐敗する理由が、皇帝の短命にあります。

後漢は光武帝劉秀から献帝までを数えると、14人の皇帝が即位した事が分かっています。

最後の皇帝である献帝は、董卓やら曹操らに実権を握られていて、身動きが取れませんでしたので除外しますが、

一番長生きした皇帝が、後漢を建国した劉秀で64歳まで生きました。

次に長生きした皇帝が二代目の明帝で48歳です。

3番目に長生きした皇帝が桓帝で37歳となります。

後漢王朝は、30代で亡くなった皇帝が5人、20代で亡くなった皇帝が2人、10代で亡くなった皇帝が1人、10歳未満が3人います。

この様に後漢王朝は、短命な皇帝が続いたわけです。

10歳未満で亡くなった皇帝に関しては、もちろん、政治を行う事も不可能です。

後漢王朝は、子供なのに皇帝に即位した例が非常に多いと言えます。

もちろん、子供なので皇帝になっても、政治のやり方は分かりませんし、これをいい事に宦官や外戚、大臣達は自分の利益を得るような事を先行させたとも言われています。

霊帝にしても、13歳で即位しているわけですから、政治に関しては右も左も分からない状態で即位したはずです。

前皇帝である桓帝の時に、濁流派と清流派の争いがあり、党錮の禁と呼ばれている清流派の粛清も行われたりしました。

こうした状況で、霊帝の住まいには、面倒を見ている宦官がいますから、宦官が政治に強い影響力を持つようになります。

正確に言えば、漢王朝は外戚(皇帝の親戚)と宦官の権力闘争が繰り返し起きているわけです。

皇帝の短命は、政治を腐敗させる一因だったようです。

霊帝の前から、政治は腐敗していたのが実情と言えるでしょう。

尚、後漢書には、民が苦しんでいる事を知った霊帝が救う様に指示したが、官吏などが横領してしまい民に行き届かなかった話もあります。

後漢政府の財政立て直し政策

後漢政府も連年のように、財政が悪化したわけですが、何もしなかったわけではありません。

霊帝は、三国志に詳しい人であれば、お金儲けが大好きだったというイメージがあるはずです。

しかし、霊帝のお金儲けの政策も財政再建策だとも取れます。

霊帝が即位する前から、なりふり構わない財政政策を行っています。

兵役は民衆にも与えられた責務だったわけですが、お金を払えば兵役も免除出来たりしたようです。

さらに、税金を臨時徴収したり、官位の売買も行われていました。

因みに、曹操の父親の曹嵩も売官により、太尉に就任しています。

曹嵩の場合は、献金だけでなく、宦官に対して大量の賄賂も送っていたようです。

さらに、死刑囚であっても絹織物を差し出せば、死刑にならずに済んだとされています。

こういう状態になると、国民のモラルも低下してしまうわけです。

金持ちであれば、死刑になるような事をしても、お金を払えば許してもらえる世の中が到来してしまった事も指します。

「世の中金だ!」という言葉は、日本でも聞く言葉ですが、本当にそういう世の中になってきてしまったのが、後漢王朝でした。

しかし、後漢政府は財源を作るために、質素倹約をしたり諸侯から借金をするなども行っていたとされています。

こういう世の中になってくると、貧富の差もどんどん開いていきますし、社会不安も大きくなっていくわけです。

黄巾の乱が勃発する

社会不安の世の中では、奇跡を起こしてくれるような、張角のような存在が求められたのでしょう。

張角は太平道を立ち上げて、次々に信者を獲得したとされています。

太平道に入信するためにも、お金が必要だった可能性もありますが、人々は張角を支持するようになります。

後漢政府の中には、太平道を危険視する声もありましたが、腐敗が進む後漢政府にあっては霊帝まで声が届かなかったようです。

そうした中で、張角は信者を扇動して黄巾の乱を起こします。

しかし、張角自体が戦下手だった事もあり、黄巾の乱は1年もしないうちに鎮圧されました。

尚、黄巾の乱では、董卓、曹操、孫堅なども戦場に出て軍隊を指揮した記録が残っています。

ただし、黄巾の乱で最も活躍した将軍は皇甫嵩朱儁盧植です。

因みに、黄巾の乱では霊帝死後の反董卓連合で、中心人物となった袁紹袁術が参戦した記録がありません。

三国志演義のの主人公ともいえる劉備も目立ちませんが、史実では黄巾の乱に参戦していた話もあります。

霊帝の財政再建政策

後漢の財政は、二つの財布があったとされています。

国家財政と帝室財政の二つです。

国家財政はインフラ整備や戦争などの費用を指し、帝室財政は皇帝の直属のお金となります。

霊帝は帝室財政を何とか増やそうと、躍起になっていたとされています。

劉邦が項羽を破り建てた前漢の文帝や景帝などの頃は、帝室財政が非常に豊かだったする研究結果が出ています。

しかし、前漢の武帝の頃に匈奴への北伐を何度も行い、帝室財政の大半を国家財政に入れてしまったそうです。

武帝は、衛青や霍去病、李広などの名将に助けられて領土を大きく広げましたが、漢の財政は大きく悪化しています。

後漢の霊帝の頃には、帝室財政がほとんど無いような状態だったとも言われています。

霊帝は帝室財政をもっと潤そうと考えていたようです。

帝室財政を潤すと言うと、自分の遊楽の為に使いそうなイメージがありますが、実際には改革の為の費用にしようと考えてた説もあります。

霊帝の改革

霊帝といえば、宦官に操られていた皇帝のイメージが強いです。

世の中の真実を知らないまま、宦官に遊びばかりを勧められて世を終えたイメージです。

しかし、実際の霊帝を見ると、遊んでばかりいたわけではありません。

霊帝が宦官を重用していた事は事実ですが、独自の改革も行っています。

張角が病死して黄巾の乱が終結すると、西園軍と呼ばれる皇帝直属の親衛隊を設立しています。

西園軍には、八人の指揮官がいて西園八校尉とも呼ばれています。

尚、8人のメンバーには、曹操や袁紹も含まれています。

さらに、意外な人物として官渡の戦いで袁紹配下として参戦した、淳于瓊も西園軍の司令官の一人に選ばれました。

淳于瓊は、三国志演義では酒ばかり飲んでいるダメな奴ですが、実際の淳于瓊は優秀な将軍で、曹操が奇襲を掛けて来た時も、一時は曹操を追い詰めるまでに逆襲しています。

曹操や袁紹を選ぶ辺りは、霊帝自身が有能な人材が欲しいと考えたのでしょう。

尚、西園軍の閲兵式には、霊帝自らが甲冑を身に着けて馬に乗り参戦しています。

真相は分かりませんが、霊帝は次の反乱が起きた時は、西園軍を指揮して自ら戦場に行く覚悟だったのかも知れません。

ただし、西園軍を統括するのは、宦官の蹇碩が選ばれています。

蹇碩の身体能力が優れていたとされる記述と、霊帝の宦官好きが興じてこういう結果になったのでしょう。

しかし、これを見る限り自分の手元に、有能な人材を配置しておきたかった、心情の現れのような気がします。

尚、霊帝は自らを「無上将軍」と名乗った記述があります。

皇帝が将軍を名乗るのも変だと思いますが、名乗った事は間違いありません。

他にも、鴻都門学(こうともんがく)と呼ばれる教育機関の設置も行っています。

これを見れば霊帝が無能で暗君とは呼べない部分がある事が分かります。

霊帝は女性関係で失敗していた!

霊帝は女性関係で失敗していた事実があります。

霊帝の最初の后は、宋皇后でした。

しかし、宋皇后は気が弱く、霊帝も余り好きではなかったようです。

霊帝から寵愛されない事を見た宋皇后を、讒言する後宮の女性が多かったとされています。

さらに、霊帝は桓帝の弟である劉悝を殺害しています。

劉悝の妃が、宋皇后の一族だった為に、無実の罪を着せて廃位に追い込んでいます。

さらに、宋皇后の一族もろとも殺害してしまったわけです。

次に、皇后のなったのが、何皇后です。

屠殺業を営んでいた何進の妹で、気が強く周りの女性たちにも恐れられていたとされています。

霊帝にも寵愛を受けた事もあり、何皇后に関しては周りの女性から、讒言されたりする事はなかったようです。

何皇后が、霊帝の次の皇帝となる劉弁(少帝)を産んでいます。

尚、何皇后の兄である何進は、妹が皇后になった事で大出世を果たし、黄巾の乱の時には大将軍に任命されています。

その後、霊帝は何皇后だけではなく、王美人も寵愛するようになります。

王美人は、劉協(献帝)を産んだわけです。

しかし、何皇后は王美人に嫉妬し、毒殺してしまいました。

この事が露見すると、霊帝は激怒しますが、宦官たちの取りなしにより、何皇后は廃位を免れています。

後に、何皇后は董卓が実権を握るようになると、幽閉され殺害されています。

三国志演義では、董卓の腹心である李儒に毒殺されそうになりますが、拒むと李儒に幽閉されている塔から突き落とされています。

何皇后の殺害に関しては、「因果応報」だとも評される事があるわけです。

尚、霊帝は突然死んでしまうわけですが、宋皇后の死とも大きく関わっています。

これらを見ると、とても大奥が安定している様には見えませんし、女性関係で上手く行っている様には思えません。

霊帝の死因は夢で桓帝に説教されたから?

霊帝の死因ですが、病気だったとする説が強いです。

暗殺されたとか、政変が起きて殺されたなどの記録はありません。

人によっては「遊びすぎて体調を崩して死んだ」とか、そういうイメージを持っている人もいるようですが、実際にはよく分かっていません。

ただし、霊帝の死に関しては、次のような話が残っています。

霊帝が寝ていると、夢の中で前皇帝である桓帝が出てきて、宋皇后と劉悝を殺害した事について、怒りの説教を霊帝はされたわけです。

この時の、桓帝の怒りが酷かったようで、霊帝は狼狽したとされています。

それを臣下の許永に相談すると、宋皇后と劉悝の改葬を行うように進言します。

しかし、改葬を行ってしまえば、霊帝の失敗を天下にさらすようなものだと考えて実行しませんでした。

そうしている間にも、霊帝の体調はどんどん悪くなっていき亡くなってしまったわけです。

この時に、正式に後継者を指名しなかった事が、後漢王朝の完全崩壊に繋がったとも言えなくはないでしょう。

尚、霊帝は夢に桓帝が出てきて、宋皇后らを殺害した事を問われています。

しかし、桓帝ですが、悪人といえる外戚の梁冀(りょうき)を宦官と協力して誅していますが、今度は宦官と党錮の禁により多くの清流派の人達を弾圧しているわけです。

これを考えると霊帝が、桓帝に夢で説教されても「お前の方が遥かに弾圧してるだろ!」と思ってもおかしくは無いような気がします。

しかし、桓帝が既に亡くなっていて、幽霊という存在であった為に、恐怖した可能性もあるでしょう。

後継者を正式に決めなかった事が後漢を崩壊させた!?

霊帝ですが、突然体調がどんどん悪くなっていき崩御したとされています。

霊帝は、後継者として次男である劉協を皇帝にしたいと考えていました。

霊帝は、劉協の母である王美人に対する想いの強さもあった事でしょう。

他にも、霊帝の生母である董太后に劉協は育てられていた事も大きく関係しています。

ただし、この時に大将軍は何皇后の兄である何進ですし、一族の何苗も健在です。

さらに、何皇后もいます。

もちろん、何皇后は野望も高く自分の子である劉弁(後の少帝)を即位させたくて、堪らないわけです。

それを考えると、劉協を皇帝にする為には、何進と何苗を罷免して、何皇后も廃位しておかねばなりません。

しかし、この命令が発せられる前に、霊帝は亡くなってしまうわけです。

ただし、側近である宦官の蹇碩に、劉協を皇帝に出来るように依頼していました。

蹇碩は何進の暗殺に失敗して逆に殺されてしまい、劉弁が少帝となり即位しています。

しかし、宦官の張譲らは、霊帝の意向に従い何進を暗殺したわけです。

これにより、何進の部下である汝南袁氏袁紹らが怒り宮中に乗り込み、これにより宦官は皆殺しにされています。

この時に、董卓が政変を制して実権を握り、劉協(献帝)が即位しています。

後に、董卓により何皇后と少帝は殺害されたわけです。

しかし、献帝の時代は後漢の皇帝は天下を治める力がなく、飾りだけの存在となっています。

そのため、霊帝が後漢において、最後の実権を握っていた皇帝とも言えるでしょう。

霊帝の死は、後漢王朝の滅亡を意味したようにも感じます。

霊帝が急死だったのも、後漢王朝の滅亡を早めたはずです。

人々の評価が低い理由

最後に霊帝が評価が低い理由を解説します。

霊帝は改革も実行しようとしているのに、評価が低いわけです。

霊帝が行った、帝室財源を潤う為というのは、全くの悪い事ではありません。

しかし、人々から見れば自分の財産を潤しているばかりに見えたともされています。

さらに、官位を売るという行為で、お金を集めた事も批判の対象となっています。

尚、霊帝の「霊」という諡号は、余りよい部類ではないでしょう。

中国には様々な諡号がありますが、「霊」「幽」「厲」などは、名君と称えられる人物には、つけられません。

どちらかと言えば、暗君につけられる諡号です。

春秋戦国時代に楚に霊王がいましたが、楚の領域は広げましたが、最後は謀反を起こされて、山中を彷徨い死亡しています。

先例を考えても、諡号がよいとは言えないでしょう。

ただし、霊帝は34歳で亡くなっています。

もう少し長生きしていれば、改革を成し遂げていたのかも知れません。

それにしても、後漢王朝の政治の腐敗などは、皇帝の短命に原因があるように思えてしまいます。

皇帝にも運がある

霊帝を見ていると、皇帝になった時期にも運があると思いました。

秦の始皇帝は、中華で初めて皇帝を名乗った人物でもありますし、戦国七雄を滅ぼし天下統一を成し遂げています。

始皇帝も勤勉で有能な人だったのかも知れませんが、秦は商鞅が法律を定めてから強国の道を歩み続けています。

始皇帝が秦王に即位した時には、秦が他国を圧倒する国力を持っていて、天下統一は時間の問題でした。

日の出の勢いの国なわけです。

他にも、漢の武帝は文帝・景帝の時代に豊富な資金をため込んでいたお陰で、盛んに外征を行う事も出来ています。

それを考えれば、霊帝は後漢末期の混乱期に即位しているわけで、巡り合わせの悪い王様だと言えるでしょう。

これに関しては、周の幽王周の厲王三国志の魏の曹髦などにも言える事でしょう。

最高権力者である皇帝になるタイミングによって、政治の難易度は変わって来ると思いました。

皇帝になるにしても、父親が政務をしっかりと行い、政治のやり方をしっかりと覚えたタイミングで即位する場合もあれば、子供なのに即位しなければならなかった例もあります。

それを考えると、皇帝の有能さ以外にも、即位した年齢や環境、政治が腐敗していないのか?なども大きく関係していると思いました。

さらに、前皇帝が有能で忠誠心が高い家臣団を残してくれたかも、皇帝の実績を大きく関わっているように感じています。

霊帝もかなり巡り合わせが悪い皇帝だなと感じました。

民衆には民衆の苦しみがあるように、皇帝には皇帝の苦しみがあるのでしょう。

尚、鎌倉幕府の滅亡間近の頃には、幕府の執権を誰もやりたがらなかった話も伝わっています。

北条高時が最高責任者ではありましたが、国難が迫っている状態では、決断の一つで国が滅びますし、誰もやりたがらなくても不思議ではありません。

そうした中で後漢の霊帝は、幼く政治が分かっていない時期に即位し、国を任されたわけですから、難しい部分もかなりあったのでしょう。

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