劉備には甘夫人もいましたが、正室は糜夫人だった事でしょう。
劉備は妻子を置き去りとし、何度も逃亡していますが、その度に糜夫人らは捕虜となってしまったはずです。
因みに、劉備の後継者となる劉禅は甘夫人の子であり、糜夫人の子は確認する事が出来ませんでした。
糜夫人は三国志演義では長坂の戦いで、阿斗(劉禅)を趙雲に預け、自らは命を断ちましたが、正史三国志を見る限りでは、どの様な最後を迎えたのかは不明です。
今回は謎多き女性である糜夫人を、正史三国志と三国志演義の両方を見てみたいと思います。
正史三国志の糜夫人
劉備の嫁ぐ
糜夫人の兄である糜竺は徐州東海郡朐県の出身だとあります。
それを考えれば糜夫人も、徐州の出身という事になるでしょう。
糜竺の家は大資産家であり小作人が、1万人もいた話があり、糜夫人は生活には何一つ困らず成長した事でしょう。
糜夫人の兄の糜竺は陶謙に仕え、さらには劉備にも仕えています。
劉備は袁術を討伐しますが、呂布に裏切られ正面には袁術、後方には呂布がおり窮地に陥ります。
こうした中で麋竺は劉備を励ますつもりで、二千人の奴僕と金銀財宝、さらには妹を劉備に嫁がせています。
この時に劉備の嫁いだのが糜夫人であり、糜氏と呼ばれたりもします。
正史三国志を見る限りでは、糜夫人のちゃんとした記録は、ここだけであり、他は劉備の妻子とする記述はありますが、糜夫人や糜氏の名前は登場しません。
糜夫人がどうなったのかは想像によるところが多いです。
その後の糜夫人
198年に呂布の攻撃を受けた劉備は、曹操の元に逃亡しました。
この時に劉備の妻子が呂布の捕虜となってしまった話があり、糜夫人も名前は存在しませんが、捕虜になってしまったの可能性があります。
呂布は199年に曹操に敗れ陳宮や高順と共に斬られ、捕虜になっていた劉備の妻子は戻ってきました。
糜夫人も劉備の元に帰れたと考えられています。
しかし、後には董承による曹操暗殺未遂事件が発覚した時に、劉備も名を連ねており、劉備は袁術討伐に出ていた事もあり、曹操に反旗を翻しました。
この後に、劉備は妻子を関羽に預け、曹操配下の劉岱と王忠に勝利しますが、曹操が自ら出陣して来ると、関羽も妻子も捨てて逃亡する事となります。
関羽及び劉備の妻子は曹操の捕虜となり、糜夫人も再び捕まってしまったと考えられます。
劉備は長坂の戦いでも妻子を捨てて逃亡していますが、糜夫人もこの中に含まれているのかも知れません。
正史三国志では注釈も含め、糜夫人が劉禅を趙雲に託し亡くなった記述は見つける事が出来ませんでした。
劉備は入蜀すると呉懿の妹を呉氏を皇后をしていますが、ここまでの間には糜夫人も亡くなってしまったのではないかと考えられます。
尚、麋芳が孫権配下の呂蒙に降伏した時に、兄の糜竺は憤怒の感情から発病し亡くなりますが、糜夫人が亡くなった記述は存在しません。
ただし、兄の糜竺や麋芳が、それなりに長寿の家計であり、糜夫人もそれなりに長寿だった可能性もある様に思います。
三国志演義の糜夫人
杜遠に捕らわれる
三國志演義でも糜夫人は劉備の夫人となっており、関羽が曹操に降伏した時に、同じく降伏しています。
関羽は袁紹配下の顔良、文醜を切り曹操陣営を離れますが、関羽が曹操や張遼と話をしている隙に、山賊の杜遠に糜夫人は甘夫人と共に捕らえられました。
杜遠の山賊仲間に廖化がおり、廖化は関羽を慕っていた事から、杜遠を斬り糜夫人と甘夫人を返還しています。
廖化は関羽の家来になりたいと望みますが、元は黄巾賊の盗賊であり糜夫人、甘夫人の世間体も考え断わりました。
尚、廖化は後に関羽の配下となっています。
セリフがない糜夫人
関羽の千里行では、郭常の子が放蕩息子であり、関羽を恨みに思い裴元紹と共に現れました。
裴元紹は山賊ではありましたが、関羽だと知ると郭常の子を馬から引きずり落とし、関羽に詫びを入れさせています。
裴元紹の仲間の周倉が配下と共に関羽に配下になりたいと述べ、関羽は糜夫人と甘夫人に相談しました。
この時に甘夫人が廖化の同伴を断わった事などを理由にあげ、結局は周倉だけが関羽の共をする事になります。
この時に関羽は二夫人に訪ねたとありますが、答えたのは甘夫人です。
さらに、張飛と関羽の一騎打ちが始り、孫乾や糜夫人、甘夫人が止めますが、この時も張飛を止めるセリフを述べたのが甘夫人となっています。
甘夫人は劉禅を生んでおり、糜夫人に比べると三國志演義でも優遇されているのかも知れません。
長坂の戦い
劉表の死後に曹操が南下すると、劉備は江陵を目指して10万の避難民と3千の兵で移動を始めます。
この時に、糜夫人及び甘夫人、阿斗らの護衛を任せれたのが趙雲です。
趙雲は曹操軍の曹仁らの追撃が苛烈だった事もあり、劉備の家族と離れ離れになってしまいました。
趙雲は糜夫人らを探しますが、途中で負傷した簡雍に会うと「糜夫人らは車を失い徒歩で移動している」とする情報を入手する事となります。
趙雲は簡雍に従者の馬を与え、糜夫人らを探す事となります。
この時に糜夫人らは髪を振り乱し裸足で逃走していました。
趙雲は最初に甘夫人を見つけ出し、さらには麋竺も救出し保護しています。
趙雲は糜夫人と阿斗を探しに戦場に戻りました。
糜夫人の最期
三国志演義では糜夫人の最期が用意されており、趙雲は逃げ惑う民衆から情報を集め糜夫人を探し出す事に成功しました。
糜夫人は民家で阿斗を抱き、涙に濡れていたわけです。
趙雲は糜夫人の前に行くと平伏し、糜夫人は次の様に述べました。
※三国志演義より
糜夫人「将軍(趙雲)のお陰で、この子(劉禅)の命も助かりました。
殿(劉備)のただ一人の子である、この子を憐れに思ってくださいませ。
この子が父の顔を見れるのであれば、私は死んでも悔いはありません」
糜夫人は死を覚悟していましたが、趙雲は、こんな事になってしまったのは自分の責任だと述べ、糜夫人に馬に乗る様に勧めました。
趙雲は糜夫人を馬に乗せて、自分は徒歩で敵陣を破ると述べます。
糜夫人は自分がいては敵陣を突破出来ないから、自分をここに置いて阿斗と共に脱出して欲しいと願います。
趙雲は糜夫人を共に脱出する様に説得しますが、首を縦に振る事はありませんでした。
趙雲は遂に言葉を荒らげ「敵が直ぐにここに参りますぞ」と言い、糜夫人は地面に阿斗を置き趙雲に任せ、自らは古井戸に飛び込んでいます。
趙雲は古井戸を埋めて、阿斗を手に取り敵陣を突破し、劉備の所まで辿り着く事に成功しました。
これが三国志演義での糜夫人の最期です。