劇辛(げきしん)は、春秋戦国時代に主に燕の将軍として活躍した武将です。
燕の昭王は、斉に騙された事で復讐に燃えていました。
しかし、燕は斉に国土を荒廃されていますし、国力はがた落ちした状態です。
この状況を何とかするために、優れた人材を多く国に入れたいと思っていました。
そこで、郭隗の「隗より始めよ」の言葉に従うと、次々に優秀な人材が燕に訪れた事になっています。
その中に劇辛がいました。
今回は、劇辛がどのような武将だったのか紹介します。
尚、龐煖に敗れた事は、史記にも記録があり史実でもあります。
ただし、キングダムのように金の亡者だったのかは、分からない部分もありましたので、その点も考えてみました。
趙の武将だった
司馬遷が書いた史記の燕召公世家では、劇辛は趙から燕に移って来た事が分かっています。
さらに、史記の孟子荀卿列伝には、「趙には公孫龍が堅白同異の詭弁をなし、劇子の言葉をつづった書もあった」と書かれています。
劇子と言うのが、劇辛だとは限りませんが、劇辛だとしたら武将として名高い人物だった可能性もあるでしょう。
孫武のように兵法書を執筆していた可能性もあるのではないかと考えています。
ただし、孫子の兵法書は現代でも読み継がれていますが、劇子の書に関しては現存していません。
始皇帝の焚書坑儒の時に、大半は失われてしまったの可能性もあるでしょう。
尚、当時の趙の王様は武霊王で、非常に領土拡張意欲が高い王様です。
英雄的な王様でもあり、武人として優れた能力がある劇辛を評価していた可能性もあるでしょう。
劇辛が趙から燕に移る
劇辛は、その後に趙から燕に移る事になります。
当時の燕は斉により壊滅的な打撃を受けて復興する最中だったはずです。
燕の昭王は、優れた人材を燕に招き寄せるには、どうすればいいのか?郭隗に相談したわけです。
郭隗は、「自分は世間では中くらいの人材です。私ごときを優遇した事を天下に広めれば、能力のある人は争って燕にやってくるでしょう」
この言葉に従い燕の昭王は、郭隗の為に豪邸を建てて優遇したわけです。
【隗より始めよ】という言葉の語源になった出来事でもあります。
これにより魏から楽毅が来て、斉からは陰陽家として名が知れ渡っていた鄒衍が来て、趙からは劇辛が来たと言われています。
諸子百家の書物ですと、「競って燕に来た」表現もありますが、具体的な人物名として分かっているのは、楽毅、劇辛、鄒衍くらいしか分かっていません。
キングダムでは、劇辛は金の亡者的な人物として描かれていますが、「隗より始めよ」の記述を考慮したんだと思われます。
実際の劇辛も豪邸が欲しくて燕に来た可能性もあるでしょう。
キングダムでは、蔡沢を相手に燕よりも多額の報酬をくれるなら秦に移っていもいいみたいな言葉があります。
しかし、普通に考えたら弱国である燕の将軍をやっているよりも、軍隊も強い秦の将軍をやっていた方が遥かに利になるはずです。
それを考えれば、キングダムの蔡沢への言葉とは史実では合致しない部分もあるように思います。
尚、劇辛は趙にいた時に龐煖と仲がよかったという話が残っています。
胡服騎射が嫌で燕に移った?
この説は自分で勝手に考えたのですが、胡服騎射が嫌で劇辛は燕に移ったのかもしれないと考えた事があります。
燕の昭王が即位したのが、紀元前312年です。
燕の昭王は即位してから、人材を集めだしたので、劇辛が燕に来たのは、紀元前312年よりも後と言う事になります。
さらに、当時はテレビも携帯電話もありませんから、燕が人材を優遇してくれる話が劇辛の元までたどり着くには、タイムラグがかなり生じたはずです。
当時の趙の武霊王は、中山国を滅ぼそうと考えていました。
中山という国は、地形の関係で平地のような中国伝統の兵車戦を行う事が出来ません。
そのため、武霊王は異民族の服である胡服を着て馬に乗り弓を射るという胡服騎射を採用する事にしたわけです。
胡服騎射に関しては、重臣の多くが反対していますし、武霊王の叔父である公子成も反対していました。
中山国を攻略するために、武霊王は説得を続けて胡服騎射を趙で取り入れる事になったわけです。
これが紀元前307年の事です。
もしかしてですが、劇辛は武霊王の胡服騎射に反発して、燕に移ったのではないか?と考えた事もあります。
胡服騎射に関してですが、中国の伝統的な服装を捨てて、野蛮な服装とされている胡服を着るわけで屈辱感があった人も多いようです。
それに耐えきれなくて、劇辛は趙から燕に移った可能性もあるかと思っています。
心が揺れている時期に、燕の昭王が人材を優遇する話を聞きつけて、燕に移ったと考えたわけです。
ただし、これについては、あくまで私の想像であり、その点はご容赦ください。
劇辛は楽毅から学んだのか?
劇辛と楽毅が同時期に燕の昭王に仕えていた事は間違いありません。
劇辛が楽毅から学んだ事もあったのではないかと思います。
ただし、劇辛自体も自分が名将だと思っていて、相手から学ぶ事はプライドが許さなかった可能性もあるでしょう。
楽毅と劇辛がどのような仲だったのかは、記載がないので分かりません。
ただし、燕の昭王は劇辛よりも楽毅の方を優遇していた事は間違いないでしょう。
実際に、斉を滅ぼすための戦いでは上将軍として楽毅を任命しています。
楽毅は、合従軍(燕・趙・秦・韓・魏)を率いて、斉を破り首都である臨淄(りんし)を占拠したわけです。
この時に、劇辛も従軍した事も十分に考えられます。
燕は快進撃を続けて、斉の城で陥落していない城は即墨、莒の2城を残すのみとなったわけです。
しかし、燕の昭王が死亡して恵王が立つと楽毅を疑い解任して、騎劫(きごう)を将軍に変更しました。
楽毅は趙に亡命しています。趙の恵文王は楽毅が来ると大いに喜んだそうです。
その後、騎劫は即墨を守っている斉将である田単の策に引っ掛かり、斉から奪い取った城を全て奪い返されています。
この時に、劇辛は燕にいたのか、斉にいたのかは分かりませんが、斉にいたとすれば斉から奪取した領土を守り切れずに敗走した事になるでしょう。
長寿の武将だった
劇辛ですが、燕の昭王に招かれて燕に来たわけです。
昭王が亡くなると、恵王に仕え、さらに武成王、孝王、燕王喜と5代に渡って仕えています。
それを考えれば、かなり長寿だったと言えるでしょう。
その間に、秦が楚・韓・魏・趙などを侵略する所を見聞したのではないかと思います。
さらに、秦の白起が趙の趙括を完膚なきまでに破った長平の戦いもありました。
燕王喜は即位すると、趙と友好を結ぶために宰相である栗腹を趙に使者として派遣します。
しかし、栗腹は帰ってくると「趙は長平の戦いで大敗して孤児は成長していないから攻撃のチャンス」と報告します。
これにより燕王喜は栗腹を将軍として、自ら指揮を執り趙を攻めたわけです。
この時は、廉頗に反撃されてしまい燕の都である薊を囲まれてしまいます。
この戦いは燕は大敗したわけですが、劇辛が出陣した記録はありません。
そのため参戦していない可能性もあるでしょう。
楽毅の子である楽間などは、戦いに反対していますが、同じように劇辛も栗腹も策に反対した可能性もあるでしょう。
後に、趙の李牧が燕を攻めて武遂と方城を陥落させた記録はありますが、この時も劇辛が何をしていたのか記録はありません。
劇辛という武将は、燕から趙に移ってきているわけですが、戦いで出陣した記録がほとんどないので、何をしていたのか分からない部分が大半です。
劇辛の最後は龐煖に敗れる
劇辛は長く燕にいたわけですが、戦いに出た記録もなく不明な点が多かったわけです。
しかし、紀元前242年(燕王喜の13年)に突如として史書に名前が登場します。
劇辛は趙にいた頃に、龐煖と仲がよかったと言う事で、燕王喜は龐煖がどのような人物か尋ねます。
すると、劇辛は次にように答えています。
龐煖など至って組みしやすい相手です。
これにより、燕王喜は劇辛を将軍に任命して趙を攻めさせたわけです。
劇辛はかなり自信満々に言ったのでしょう。
燕王喜としても、国威高揚になればよいと思ったのか、劇辛に趙を攻撃させました。
趙は、龐煖を大将にして反撃したわけですが、劇辛は呆気なく敗れ兵士2万人が捕虜になっています・・・。
あの自信満々の発言はなんだったのでしょうか?
この時に、史記には劇辛が捕虜となったと書いてある記述もあれば、討ち取られたとされる記述もあります。
しかし、これ以降に劇辛は登場しなくなるので、斬られたか捕虜になって燕に返されたが、将軍は解任されたのかも知れません。
史実を考えると、龐煖も劇辛も趙の武霊王の時代から名前があるので、老将対決だった事は間違いないでしょう。
ちなみに、劇辛と龐煖の戦いは、どのような戦闘だったのかも史書にはなくよく分かっていません。
人を侮ってはいけない
劇辛を見て思うのは、「人を侮ってはいけない」と言う事でしょう。
趙にいた頃(武霊王時代)は、龐煖よりも劇辛の方が評価が高かったのかも知れません。
そのため龐煖の事を「組みしやすい相手」という言葉が出た可能性もあるでしょう。
しかし、それから50年以上の経過しているわけで、大器晩成型であった龐煖には実力で圧倒されてしまったのかも知れません。
やはり人間は日々成長する事が大事なのだと感じました。
歴史上の人物を見ていると、范雎(はんしょ)を侮った魏斉とか、徳川家康を虐めた孕石元泰など後に復讐された人もかなりいるわけです。
人を侮ったところで、何の得もないと思いますし、侮るのはよくないと思いました。
ただし、侮られた場合は切れた方がいい場合も多々あります。
威張ってはいけませんが、舐められてもいけないと思うからです。