春秋戦国時代

魏王仮に魏滅亡の責任はない

2022年3月5日

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宮下悠史

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名前魏王仮、又は魏王假
時代春秋戦国時代
年表紀元前228年 魏王に即位
 紀元前225年 王賁により魏が滅亡
コメント即位した時から魏は風前の灯だった

魏王仮は戦国七雄の、の最後の君主です。

紀元前228年に魏王に即位しますが、3年後の紀元前225年には王賁の水攻めにより、魏は滅亡しました。

魏王仮は即位して、僅か3年で魏が滅びたとも言えます。

それを考えると、魏王仮は暗君に思えるかも知れません。

しかし、魏王仮が即位した時には、既に韓王安が捕らえられは滅亡し、幽穆王が捕虜となり、兄の趙嘉が代王嘉として即位しましたが、国は風前の灯でした。

魏王仮が合従軍を結成しようと思っても、自国の他国も頼りにならない状態とも言えます。

その様な状態で魏王に即位した、魏王仮は気の毒な王であり、誰が即位しても魏の滅亡は避けられないと感じました。

今回は戦国七雄の魏の最後の王である魏王仮を解説します。

絶望的な状況で即位

史記の魏世家によれば、景湣王の15年(紀元前228年)に、次の記述があります。

景湣王は15年に死去し、子の魏王仮が立った

魏の景湣王が亡くなった事で、魏王仮が魏王に即位した事が分かります。

YouTubeより

上記が魏王仮が即位した時の勢力図です。

既に、魏王仮が魏王となった時には、戦国七雄の内史騰により、滅ぼされています。

さらに、でも名将李牧が奮戦していましたが、秦から賄賂を受け取った郭開韓倉悼倡后の讒言により李牧が処刑され、趙の幽穆王も捕らえられました。

しかし、趙の悼襄王の元太子であった趙嘉が辛うじて代の地を保っている状態です。

さらに、信陵君が死去してからは、秦に対する抵抗力も失い蒙驁に東郡を奪われるなどしています。

魏王仮が即位した状態では、天下の半分以上の土地を秦一国の支配下となり、魏も風前の灯だったわけです。

つまり、魏王仮は絶望的な状況で、魏王に即位した事になるでしょう。

魏王仮は「王」は名乗っていましたが、国力で言えば秦との差は30倍以上は軽くあった様に思います。

尚、こうした状況を憂いていたのは、も同じであり、魏王仮が即位した年に、燕の太子丹は荊軻を刺客として、秦王政に送り込んでいます。

暗殺に失敗した荊軻は殺害され、秦王政は燕に攻撃命令を出した事で、王翦は燕の首都である薊を陥落させました。

魏の滅亡

魏王仮の3年である紀元前225年に、王賁に攻めて来ました。

この時には、も遼東を残すだけとなっており、魏や燕は秦の郡県程度の国力しかなかったはずです。

魏王仮は大梁を守る事になります。

王賁は圧倒的な大軍を率いていたと思われますが、力攻めで魏の大梁の城を攻める事はしませんでした。

王賁は黄河から水を引き、大梁の城に流し込んだわけです。

司馬遷が書いた史記の魏世家には、次の様な記述となっています。

「魏王仮の3年、秦が大梁の城に水を注ぎこみ、魏王仮を捕虜とした。

ついに、魏を滅ぼし、郡県とした」

この事から、魏王仮は王賁の水攻めにより降伏し、捕虜となったのでしょう。

これにより、魏の文侯、武侯と戦国初期に強勢であった魏は滅亡したわけです。

因みに、司馬遷は魏の大梁に現地取材に行ったらしく、魏の滅亡に関しては、次の様な記述もあります。

「秦が梁を破った時に、河や溝の水を大梁に注ぎ入れ、三カ月で城を陥落させた。

魏王仮は降伏を願ったが、遂に滅ぼされた」

司馬遷が現地の人から聞いたのが上記の言葉ですが、魏王仮は降伏した後に、殺害されてしまったのかも知れません。

魏は戦国七雄の中では、秦に対しては多くの場合で敵対していました。

専門家の中には、戦国七雄の戦いは「秦と魏の戦いだ」と述べる人もいる位です。

秦に対して頭を下げる事を知らない魏に対して、秦では恨みが積もり魏王仮の降伏を許さなかった可能性もあります。

尚、魏の滅亡により、戦国七雄で秦以外で残ったのは燕、代、楚、斉でしたが、王賁が魏に続き代や燕を滅ぼしました。

さらに、王賁の父親である王翦蒙武の項燕を破り楚王負芻を虜とし、項燕昌平君を楚王に擁立しますが、結局は楚も滅亡しています。

最後に残ったも紀元前221年に李信蒙恬、王賁らにより王建王が捕虜となり、戦国七雄の国は秦により統一されたわけです。

魏王仮が捕虜となり魏が滅亡してから、3年後には秦が天下統一を成し遂げました。

安陵君と唐且

大梁が王賁により陥落し、魏王仮が捕虜となりは滅亡しました。

しかし、首都である大梁が陥落しただけであり、魏王から安陵の地を守る様に命じられた安陵君は健在だったわけです。

ただし、安陵君は五百里程度の土地しかなく、秦に抵抗するだけの戦力はありませんでした。

秦王政は安陵君を尊敬しており、安陵の五百里の地をもっと豊かな地を交換する様に持ち掛けています。

この時に、安陵君は唐且を派遣し、秦王政に専諸、聶政、要離の話をして、秦王政を脅した話があります。

この時に、魏王仮が生きていたのかは分かりませんが、生きていたとしたら安陵君や唐且を見事だと感じた事でしょう。

尚、安陵君と唐且の逸話は戦国策に記述があり、史記にはない話です。

魏の滅亡は魏王仮に責任はない

魏王仮はの最後の君主でしたが、魏の滅亡の責任は魏王仮にはないと感じています。

魏王仮が即位した時には、魏は既に風前の灯であり、周の文王の如き名君だったとしても、滅亡から逃れる事は出来なかったはずです。

さらに言えば、信陵君の様な名将がいたとしても、秦と魏では国力が離れすぎており、滅亡の回避は出来なかったと考えられます。

中国の王朝では最後の君主は、暗君にされてしまう事もあります。

例を挙げれば夏の桀王や殷の紂王、趙の幽穆王などです。

しかし、魏王仮の場合は、既に滅亡寸前で即位したわけであり、どんな名君であったも逆転は不可能だった事でしょう。

さらに、天下の民も周の幽王が申公や犬戎に攻められ、周の東遷があり、春秋戦国時代なる戦乱の時代が続き、統一に関しては民も望んでいた様に思います。

そうした状況で、魏王仮がどんなに英邁な君主であったとしても、やはり滅亡は逃れる事は出来なかったと感じます。

秦の滅亡は胡亥趙高に責任はあっても、子嬰に責任はないとも言えます。

同じ様に魏王仮には、魏滅亡の責任はないと感じました。

魏王室の子孫

魏王仮の時代に、戦国七雄としてのは滅亡しました。

しかし、秦末期や楚漢戦争の時代に、魏咎や魏豹が魏王として、魏王室を再興した話があります。

魏王仮と魏咎、魏豹の関係は、イマイチ分かっていません。

資治通鑑では魏王仮は捕虜となった後に、に殺害された話があり、魏咎、魏豹の時代には魏王仮は亡くなっていたはずです。

それか、史記にある様に魏王仮は降伏を許されずに亡くなった可能性もあります。

魏咎は秦の章邯に敗れ民衆の命と引き換えに焼身自殺を行い、魏豹は楚漢戦争の時に韓信に敗れて捕虜となり、その後に殺害されています。

これで魏王家は、完全に滅亡したと思うかも知れません。

しかし、楚漢戦争で項羽を破った劉邦の妃の一人である薄姫は、魏王室の出だと伝わっています。

薄姫は劉邦に寵愛されなかった事から、呂后に粛清される事も無く、呂后の死後には薄姫の子である劉恒が陳平や周勃の要請により即位しました。

劉恒は漢の文帝とも呼ばれ、子の漢の景帝、孫の文帝と繋がっていきますが、女系とはいえ魏王室の血が流れているとも言えます。

魏王仮の時代に、戦国七雄としての魏は滅びましたが、漢王朝の5代皇帝である文帝以降は、魏王室の血は生き続けたと言えるでしょう。

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