斉(戦国) 春秋戦国時代

囲魏救趙は鮮やかな計略だが実際には使いづらい!?

2022年10月15日

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宮下悠史

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名前囲魏救趙(いぎきゅうちょう)
出典兵法三十六計
考案者孫臏

囲魏救趙は春秋戦国時代に、桂陵の戦い孫臏が見せた計略です。

名前の通り「を攻撃し包囲する事で、を救う」と言う策となります。

孫臏の囲魏救趙の戦略が成功した事で、趙を攻めていた魏軍は慌てて大梁に戻りますが、待ち構えていた斉軍に敗れました。

囲魏救趙の内容に関しては、敵の兵が集まっている部分ではなく、敵の弱点を急襲する事で戦いに勝利を収める方法です。

史記などでは孫臏が龐涓を相手に鮮やかに、囲魏救趙の策を決めていますが、実際には使いにくいのではないか?ともされている策でもあります。

尚、囲魏救趙の策は南北朝時代の東晋末期から宋の時代の名将である檀道済の兵法三十六計にも収録されています。

囲魏救趙の策は兵法家であれば、基本的に知らない人はいない様な計略です。

囲魏救趙の逸話

紀元前354年に趙の成侯は龐涓に首都の邯鄲を囲まれてしまいました。

この時代は魏の恵王が戦国七雄の中でも最強国であり、趙の成侯は単独では敵わないと感じたのか、に救援を求める事になります。

斉では魏が強かった事もあり、鄒忌と段干朋の意見の食い違いもありましたが、斉の威王は田忌を将軍とし趙への援軍を決めました。

田忌の参謀には天才軍師である孫臏が同行したわけです。

田忌は趙の成侯が籠る邯鄲に向かおうとしますが、孫臏は魏の重要拠点である大梁を攻めれば、趙の包囲は自ずと解けると述べました。

つまり、孫臏の目には大梁が魏の弱点になっていると読みが働いた事になります。

田忌は競馬の話などもあり、孫臏の能力を高く評価していた事で、の邯鄲に向かうのではなく、魏の大梁に向かって進撃しました。

これが囲魏救趙の「囲魏」の部分であり、魏の大梁が危機になれば、魏は趙の邯鄲の包囲を解き急いで引き返すと考えたわけです。

魏が趙を攻撃するのをやめれば、囲魏救趙の「救趙」の部分が出来上がり、趙は救われる事になります。

田忌が魏の大梁を攻撃すると、龐涓は趙の邯鄲に猛攻を加え、邯鄲を陥落させてしまいました。

邯鄲が落城した事を考えると、趙が救われたとは言い難い部分もある様に思います。

しかし、龐涓は急いで魏に引き返しますが、桂陵で待ち構えていた斉軍に大敗しました。

桂陵の戦いは孫臏の名を一躍有名にした戦いでもあり、これが囲魏救趙の策の語源となっています。

尚、魏軍は趙の首都邯鄲は陥落させましたが、3年後に魏は趙に邯鄲を返却しています。

この辺りの事情は詳しく書かれていませんが、囲魏救趙の策により、趙も最終的には救われたと言えるでしょう。

因みに、孫臏と龐涓は10年以上経ってから馬陵の戦いで再び対峙しますが、馬陵の戦いでも孫臏が勝利しました。

三国志における囲魏救趙

官渡の戦いでの囲魏救趙

三国志の世界でも囲魏救趙の策に似たようなものが使われた記憶があります。

三国志の中で天下分け目の戦いと呼ばれる官渡の戦いがありました。

曹操袁紹の戦いです。

前哨戦でもある白馬の戦いなどでは顔良文醜を討つなどもあり、曹操軍は戦いを有利に進めていました。

しかし、兵力、物資共に袁紹の方が上回っており、曹操軍は次第に劣勢となり、苦しい立場に身を置く事になります。

この時に袁紹軍の許攸が曹操に投降し、袁紹軍の補給基地が烏巣にある事を知らせました。

曹操は許攸の話を聞くと、自ら騎兵を率いて楽進らと共に淳于瓊が守る烏巣に向かいます。

袁紹軍では兵糧庫の烏巣が襲撃されている事を知ると、烏巣に援軍を出す様にと張郃は進言しました。

しかし、郭図は「今こそ、曹操の本陣を急襲すべき」だと述べます。

郭図は大軍である袁紹軍が、曹操の本営を攻撃すれば、曹操は慌てて引き返してくるから烏巣の包囲は解けると考えたわけです。

郭図の策は「囲魏救趙」だと言えるでしょう。

袁紹は烏巣に援軍を派遣しつつも、張郃には曹操の本陣を攻撃する様に命令しました。

張郃は正面の曹操の本営を攻撃しますが、本陣を守っていた曹洪が固く守り、張郃の攻撃を跳ね返す事になります。

曹操は烏巣に向かった時に、本営を攻撃される事を読んでおり、曹洪に命じて守りをしっかりと固めさせていたのでしょう。

曹操烏巣の戦いで淳于瓊を斬り、袁紹軍の兵糧を焼き払った事で、官渡の戦いは曹操軍の勝利となりました。

官渡の戦いの戦いで郭図が進言した囲魏救趙の策は失敗だったと言えるでしょう。

魏延の長安急襲策

劉備死後の諸葛亮第一次北伐で蜀将の魏延が「長安急襲策」を進言した話があります。

諸葛亮の本体が魏軍を引き付けている間に、魏延が秦嶺山脈を越えて魏の重要拠点である長安を襲撃する策です。

魏延の長安急襲策も見方によれば、囲魏救趙の策とも言えます。

しかし、多くの方が結果を知っている様に、諸葛亮は囲魏救趙の策を採用せず、趙雲鄧芝を囮として魏軍を引き付けた上で、諸葛亮の本体は祁山を包囲しました。

第一次北伐では、馬謖が街亭の戦いで張郃に敗れた事で、諸葛亮のプランが崩壊し第一次北伐で蜀軍は撤退を余儀なくされ、失敗に終わっています。

専門家の中には魏延の囲魏救趙の策こそが、魏を滅ぼす唯一の策と述べている人もいます。

しかし、最近では長安急襲策は過酷な秦嶺山脈を越える事もあり、補給の観点から現実的ではないとする指摘もある状態です。

さらに、長安急襲策はあくまでも魏国内で流れた噂であり、魏延自身も進言してはいないのではないか?とも考えられています。

囲魏救趙の策が実戦で使いにくい理由

囲魏救趙の策が実戦で使いにくい理由ですが、大半の場合で本拠地の守はしっかりと固めている事が原因だとも言えます。

官渡の戦いを例にしても、曹操曹洪に命じて、しっかりと防備を固めていた事もあり、袁紹の軍は曹洪を打ち破る事が出来ませんでした。

魏の鄧艾が263年に蜀を滅ぼした方法も、ある意味、囲魏救趙の策だとも言えます。

魏の鍾会が蜀の姜維張翼廖化らを引き付けている間に、鄧艾が蜀の成都に進撃し、落としてしまったからです。

しかし、この時の蜀では劉禅が黄皓の言葉などから防備を固めていなかったり、鄧艾にしても道なき道を進んで行ったなどの実情もあります。

さらに言えば、鄧艾が綿竹の戦いで諸葛瞻に敗れていれば、逃げ道もなく助かる見込みもなかった事を考えれば、かなり危険な賭けにもなっています。

それを考えると、囲魏救趙の策を鮮やかに決めるのは難しく、敵の油断やハンニバルのアルプス越えの様な絶対に攻めて来ない場所を進む必要があると感じました。

因みに、囲魏救趙の策が掲載されている兵法三十六計の中に「暗渡陳倉」があり、暗渡陳倉では鄧艾を主人公にして描かれています。

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