夏口の戦いは孫家と黄祖の最終決戦でもあります。
孫策や孫権の父親である孫堅は、黄祖に射殺された話もあり、孫家にとってみれば因縁の相手でした。
袁術の下で江東を平定した孫策が、199年の沙羨の戦いで、黄祖は大きな損害を出した話がありますが、孫策は江夏を攻め取る事が出来なかったわけです。
203年に孫権勢力の周瑜や孫瑜が黄祖を攻めますが、勝利を得る事が出来ませんでした。
黄祖は甘寧を冷遇するなど評価が低くなる傾向にありますが、実際には何度も孫家の勢力を跳ね返して来た実力の持ち主とも言えます。
今回は黄祖と孫家の最終決戦であり、208年に行われた夏口の戦いを解説をします。
孫家と黄祖の因縁
孫家と黄祖の戦いと言えば「孫家が攻めて黄祖が守る」展開が、多いと感じるかも知れません。
しかし、実際には廬江の劉勲が援軍を欲すれば黄祖は黄射を派遣したり、鄧龍を柴桑に進軍させるなど、黄祖もしばしば孫家の領土を侵している状態です。
孫策時代の最晩年の辺りから黄祖とは争っています。
孫家は黄祖の軍を破ったりもしましたが、黄祖には逃げられてしまうなど、勝ちきれない状態が続いたのでしょう。
孫権の時代になっても203年、207年と黄祖と戦っていますが、江夏を落とす事は出来ませんでした。
尚、207年の戦いの前に、呉範が「翌年の劉表の死」と「今年は戦っても敗れるが来年に攻めれば勝てる」と予言した話があります。
呉範の予想通りに、207年の戦いでは、江夏を攻め取る事が出来ませんでした。
孫権の勢力は、局地的には勝利しても、決定的な勝利を得る事が出来ない状態だったのかも知れません。
夏口の戦いの前哨戦
208年に孫権は、周瑜、董襲、淩統、呂蒙、周泰などに命じ、本腰を入れて黄祖討伐を行っています。
これにより夏口の戦いが勃発します。
孫権としては中途半端に黄祖を攻めても江夏は取れないと判断し周瑜、董襲、呂蒙、淩統、周泰などの一級の将軍を出して勝負を挑んだ様に思いました。
199年の沙羨の戦いで孫策は呉の軍事トップ3である周瑜、呂範、程普を参戦させていますが、それに次ぐ大規模な江夏への侵攻が夏口の戦いだったのでしょう。
孫権は夏口の戦いでは、先鋒に淩統を命じています。
淩統の父親である淩操は203年の黄祖との戦いで、撤退の最中に甘寧(当時は黄祖陣営にいた)に討ち取られ命を落としています。
そうした事もあり、淩統としては黄祖討伐に対しては、誰よりも気概を以って挑んだ様に感じます。
記録はありませんが、孫権も淩統の気持を汲み取り、淩統を先陣としたのでしょう。
淩統が自ら先陣を希望した可能性も十分にある様に思います。
淩統伝の記述によれば夏口の戦いで、淩統は先陣となるや、右江に入り黄祖軍の部将張碩を斬る功績を挙げています。
淩統は水軍を率いて長江の分岐点である右江に入り、張碩を斬ったのでしょう。
淩統も張碩も本体からは飛び出した感じで先行し戦いが始り、淩統が張碩を斬った様に思います。
淩統は張碩の水軍を扱う兵士らを捕虜にするなど、大きな手柄を挙げました。
夏口の戦いの本戦
蒙衝と碇を繋いだロープ
夏口の戦いですが、黄祖は二隻の蒙衝(駆逐艦)を並べ、夏口を守った話があります。
黄祖は太いロープに大きな石を碇とし、防備を固めます。
董襲伝によれば蒙衝の上には千人の兵がおり、弩を乱射して呉の攻撃を防ぎました。
黄祖軍の蒙衝が上手く機能した事で、呉軍は近づく事も出来なかったとあります。
こうした中で、董襲と淩統が先鋒となり鎧を二重に着込み戦いを挑みます。
董襲や淩統は大型船で黄祖軍の蒙衝に近づき、蒙衝の腹の下に潜り込みます。
この時に董襲は遮二無二に前を突き進み、敵を打ち払い蒙衝を繋いであったロープを斬る事に成功しました。
黄祖の蒙衝は碇に繋がれていたロープを斬られた事で、船は長江の流れていってしまいます。
これにより、黄祖軍が崩れます。
呉軍は黄祖軍が崩れたと知り、大挙して攻め込んだわけです。
呂蒙が陳就を斬る
董襲や淩統の活躍により、黄祖の軍は崩れますが、この後に黄祖は夏口(江夏)の城に籠った様に思います。
呂蒙伝には下記の記述があります。
「黄祖は都督の陳就に命じ、水軍を動かし呉軍を迎撃した」
これに対し、呂蒙は先陣を指揮し、自ら陳就の首を挙げ、呉の将兵は勢いを増し、夏口の城を攻め立てたのでしょう。
黄祖は陳就が戦死した事を知ると、戦意を失くし逃亡しました。
黄祖が逃げた事で、夏口の戦いでの呉の勝利が決まったわけです。
黄祖の死
孫権は黄祖が逃亡した事を知ると「取り逃がすのではないか?」と不安になりますが、ここでも呉範が「黄祖を捕える事が出来る」と予言しています。
呉範伝によれば、黄祖は無事に呉軍に捕らえられた事になっています。
ただし、呉主伝によれば馮則なる騎兵が黄祖の首を挙げた事になっていました。
208年の夏口の戦いで、黄祖は破れ命を失った事は間違いないでしょう。
夏口の戦いの戦後
董襲を褒め称える
夏口の戦いが終わると、孫権は董襲に次の様に述べた話があります。
孫権「こうして宴会を開く事が出来たのは、其方(董襲)が碇を繋いであったロープを斬る手柄があったからだ」
孫権は董襲の手柄を認め宴会で褒め称えたわけです。
呂蒙を褒め称える
孫権は呂蒙に対しても、次の様に述べています。
「事が上手く運んだのは、陳就を真っ先に始末する事が出来たからだ」
孫権な黄祖の都督である陳就を、呂蒙が斬った事を高く評価したわけです。
正史三国志は紀伝体という書き方をしており、個人を主体とした書き方をしている為、董襲が先にロープを斬ったのか、呂蒙が陳就を先に斬ったのか?などの詳細は分かりません。
尚、胡綜なども黄祖討伐に参加し功績を立て、鄂県の長に任命された話があります。
蘇飛が許される
黄祖の都督は陳就だけではなく、蘇飛もいました。
蘇飛は黄祖が戦いに敗れると捕虜となり、牢に入れられています。
蘇飛は過去に甘寧を助けた事があり、甘寧が孫権に強く蘇飛の助命嘆願した事で許されています。
尚、蘇飛は夏口の戦いで、どの様な役割をしたのかは不明ですが、陳就が海軍都督だった話があり、蘇飛は陸軍の都督だったのかも知れません。
劉琦が江夏太守となる
孫権陣営は夏口の戦いで、黄祖を斬りますが、江夏の地は放棄した話があります。
劉琦は弟の劉琮を後継者にしようと企てる蔡氏、蔡瑁、張允などにより危うい状態だったわけです。
こうした中で、劉琦は諸葛亮からアドバイスを貰い江夏太守に自薦し、劉表の本拠地襄陽から離れました。
時代は赤壁の戦いへ
江夏の戦いに勝利した後に、周瑜などの将軍が江夏ではなく、鄱陽に向かった話があります。
周瑜らは水軍の軍事訓練を行いました。
夏口の戦いがあった208年になると、北方を平定した曹操の南下が始り、長く荊州を治めていた劉表が病死しました。
劉表の後継者に劉琮が選ばれ、劉琮は曹操に降伏しています。
劉備が江陵を目指し、荊州の視察に向かった魯粛と出会う事になります。
曹操は荊州を取ると、江夏太守として文聘を任命し、文聘は数十年に渡り江夏を守備しました。
周瑜ら呉の将軍らも曹操の脅威が近づいて来る事が分かっており、夏口の戦いの後に江夏に入らず、鄱陽湖に向かい軍事訓練を行ったのでしょう。
時代は赤壁の戦いに向かう事となります。