桓騎(かんき)の史実の実績を紹介します。
因みに史実では、桓齮となっていて、王騎も王齮です。
桓騎は、原泰久さんが描く漫画キングダムでは、元野党の親分として登場します。
部下なども、ゴロツキ系が多いなど、柄が悪い連中が目立ちます。
しかし、史記や戦国策などの資料を見ても、桓騎が野党の親分だったとか、そういう記述はありません。
もちろん、暗殺を得意としていたとか、捕虜をいたぶりつくすなどの行為も記録されているわけでもないわけです。
史実の桓騎を見ると、王翦と共に鄴攻めに参加したり、平陽において扈輒を破り10万人を斬首する大功を挙げたのは事実です。
その後、桓騎は燕に亡命した説や樊於期と名前を変えた説などもあるわけです。
今回は、史実の桓騎の活躍のお話となります。
史記などでは桓騎ではなく「桓齮」と記載されていますが、ここでは桓騎に統一してお話をします。
尚、キングダムでは男前でイケメンとして描かれていますが、史書などを見ても桓騎がイケメンだった話は残念ながら存在しません。
桓騎は野党の親分ではない
先にお話したように、史実の桓騎を見てみると野盗の親分だったような記述はありません。
ただし、逆を言えば将軍の家柄だったとか、貴族の家柄だったという話もないわけです。
そのため野党の親分であっても、あながち嘘ではありません。
史記などを見ると桓騎が初登場するのが、王翦、楊端和らとの鄴攻めが最初の記述となります。
秦王政(始皇帝)に大抜擢されたのか、春申君が主導で結成された紀元前241年の函谷関の戦いや蒙驁(もうごう)と共に魏を攻めて東郡宣言をするなどにも活躍した可能性は十分にあるでしょう。
桓騎の場合は、李信と同様に史記にも個人の列伝がないため、分かりにくい部分も多いわけです。
前半生などは、資料もなく分かっていません。
もちろん、トリックスターだったとする記述もないわけです。
秦と言えば、呂不韋とも関係が深い人物は多いわけですが、呂不韋と桓騎がどのような繋がりがあったのか?なども分かってはいません。
鄴攻めに参加して大功を立てる
鄴攻めに、桓騎が将軍として参加した事は間違いありません。
鄴攻めというのは、ちょっと特殊な戦いでもありました。
王翦、楊端和、桓騎は、少数精鋭部隊を作りあげたわけです。
10人中8人を秦に返してしまい、残りの2割の精兵を率いて戦ったとあります。
最初に、9城を取り桓騎が鄴を陥落させて、王翦は閼与(あつよ)を陥落させたわけです。
さらに、橑陽(りょうよう)に対して、王翦と桓騎は猛攻を加えて陥落させています。
韓非子の飾邪篇には、燕を遠征中の趙の将軍である龐煖(ほうけん)が、鄴の救援に来たが間に合わなかった話もあります。
ちなみに、鄴攻めにより漳水(しょうすい)沿岸の城で残っているのは、平陽だけとなってしまったわけです。
つまり、趙は南部と西部の交通が遮断されてしまい、実質的に国土が半分になってしまいました。
鄴攻めは、秦にとって大戦果を挙げた事になります。
キングダムでは、朱海平原において、秦と趙の李牧がぶつかった事になっていますが、そういう事実は記録に残っていません。
それどころか、鄴攻めで李牧が指揮を執った記録すらないわけです。
尚、鄴攻めと同じ年に、悼襄王は崩御しているわけですが、鄴攻めのショックで死んでしまったのか、悼襄王が死んだ事で趙に動揺が走り秦に大敗したのかは定かではありません。
悼襄王が亡くなると、太子嘉ではなく、幽穆王となる遷が趙王として即位しています。
桓騎が扈輒を破り10万人を斬首
漳水沿岸の趙の城で残っているのは、平陽だけとなってしまいました。
ここが陥落させてしまうと、趙は国として維持して行けないのではないか?と思われる程のピンチに立たされてしまうわけです。
趙の全盛期であった武霊王の頃の領土と比べれば、3分の1くらいまで縮小されてしまいます。
趙は、扈輒という将軍を平陽を守らせたのでしょう。
もしくは、扈輒が平陽の太守だったのかも知れません。
ただし、趙世家には扈輒を武城に救援に行かせたが、桓騎に敗れた記述があるので、扈輒は武城に向かったが平陽で待ち構えていた桓騎に敗れた可能性も残っています。
扈輒はキングダムでは、王都の守護神として名高い武将になっていますが、史実では桓騎に敗れた事くらいしか分かっていません。
尚、桓騎ですが、鄴攻めなどに関しては王翦の副将扱いでしたが、平陽の戦いにおいては、総大将となっています。
平陽の戦いは、開始される前から激戦が予想されていた為、桓騎としても秦軍の中でも有数の将軍になっていた事が分かります。
逆を言えば、趙は国家存亡の危機に立たされているわけで、扈輒も龐煖の下で実績がある将軍だったのかも知れません。
ただし、趙の佞臣である郭開が扈輒を推薦したのであれば、能力には疑問を呈しますが・・・。
平陽において、桓騎がどの様な戦い方をしたのかは分かりませんが、扈輒を破り10万人を斬首した事が分かっています。
桓騎は、平陽の戦いで大戦果を挙げたわけです。
桓騎が生涯の中で最も輝いていた時期は、平陽の戦いで勝利した後だったでしょう。
さらに、秦は雲中郡・雁門郡を手に入れていますので、桓騎の他にも北方に秦軍がいて、大勝したのだと思われます。
もしかしてですが、北方に展開する軍の中に、李信、蒙恬、王賁などがいたのでははいかと言う事も考えられます。
尚、李牧が趙軍の主力として活躍するのは、史実では平陽の戦いの後からです。
それまでは、北方の長官として匈奴に対して睨みを利かせていました。
桓騎の弱点
キングダムで李牧が「桓騎の弱点」を見つけた話があります。
後に、この話が李牧が桓騎に大勝する事に結び着くのでしょう。
史実ですと、平陽を破った後に、桓騎は勢いにのり北方に進軍させて宜安を攻めているわけです。
趙は、これに対して李牧に命じて応戦させています。
李牧の戦い方というのは、情報収集を重視していたようです。
北方にいる時も、情報網をしっかりと構築して、匈奴の備えとしていますし、匈奴の油断を誘い攻撃を仕掛けて大勝しているわけです。
これを見る限り、かなり緻密な戦い方を李牧がする事が分かっています。
さらに、李牧は北方での実績もあり、手足の如く動かせる兵も多かったのでしょう。
それに対して、桓騎の方は数では優勢であり、さらに平陽を破った勢いのまま李牧と対峙してしまったのだと思われます。
大勝した後でもあり、桓騎は緻密な戦い方が出来なかったのかも知れませんが、李牧に隙を突かれて大敗した事も十分に考えられます。
ここの桓騎から学べるは、「勝って兜の緒を締めよ」という事なのでしょう。
宜安の戦いに敗れた桓騎は、秦王政に報告に行けば罰せられる事を恐れて燕に逃亡したとも、李牧に敗れて戦死したとも言われています。
これが史記や戦国策に見られる桓騎の最後の記述です。
李牧は、趙の廉頗や秦の白起などと共に春秋戦国時代きっての名将でもあり、相手が悪かったとも言えます。
尚、桓騎と樊於期が同一人物説があります。
桓騎と樊於期は同一人物だったのか?
桓騎と樊於期が同一人物だったとする説があります。
キングダムだと、樊於期は嫪毐の乱の時に、趙姫や嫪毐側の武将として登場しています。
しかし、史実だと樊於期は、嫪国に関与した形跡もありません。
樊於期が史実に登場する時は、秦で罪を得て秦王政に妻子を皆殺しにされて、燕の太子丹に保護を求めた時です。
樊於期が具体的に、どのような事で罪となり燕に逃亡したのかが分かっていません。
これに目を付けた人が、桓騎が敗れて燕に逃亡した記述があるから、燕で名前を変えて樊於期になったと考えたのでしょう。
桓騎が宜安の戦いで敗れた時に、秦にいる妻子が殺された事にすれば、樊於期の記述と合致するわけです。
そこから、燕の太子丹は菊武や田光と知り合い、荊軻を得る事になります。
荊軻は刺客となりますが、秦王政を油断させるために、樊於期の首が欲しいと説得に行き、「家族の仇が討てるのであれば」と樊於期は自刎するわけです。
結局、荊軻は秦王政の暗殺に失敗するわけですが、その名は天下に鳴り響いています。
これを見ると樊於期の漢気を感じるわけですが、桓騎と同一人物だったのか?は不明です。
余談ですが、桓騎と樊於期の呼び方は中国語だとかなり近く、それらも桓騎と樊於期が同一人物とされる原因にもなります。
桓騎が李牧と蒙恬の命を救ったのか?
桓騎は、李牧に大敗した時に、秦王政の処罰を恐れて燕に逃亡した話を先にしました。
この時に、桓騎は処罰を恐れて逃亡したのは、戦いに敗れれば、処刑されたりする事も頭にあったはずです。
秦は商鞅の頃より、法治国家のへの道を歩んでいるわけですが、敗戦将軍に対しても、重い罪があったと思われます。
もちろん、蒙驁のように信陵君に黄河の外で敗北(荘襄王の時代)を喫しても、再起への道が開かれた将軍もいます。
しかし、そうした例は少なく重い罰が下された場合が多かったのではないでしょうか?
桓騎は、平陽において大勝したにも関わらず、逃亡した事も、その事を物語っている様にも思うわけです。
後に、李信と蒙恬は、楚へ出征した時に、項燕の反撃に合い大敗を喫しています。
しかし、処罰された形式もなく、後には燕や斉を滅ぼすのに活躍したのは、桓騎の二の舞になる事を考えて法律を緩めたのかも知れません。
それか、李信は始皇帝の寵臣だったようなので、その事も大きく関わっているでしょう
その辺りは、記録が無いので分かりませんが、桓騎の逃亡が後に失敗する李信や蒙恬を助けたと言えなくもないでしょう。
まあ、私の想像に過ぎないんですけどね・・・。
桓騎は名将と言えるのか?
桓騎は名将と呼べる武将なのか?を考えてみました。
扈輒を破り10万を斬るなどの実績を考えれば名将と言えそうです。
ただし、圧倒的な戦力を有した秦にあり、弱小である趙の李牧に敗れた事は名将と呼ぶには相応しくないとも思いました。
桓騎が李牧に敗れたのは、油断もかなりあったように思います。
ただし、平陽の戦いで扈輒率いる趙軍10万を破った事を考えれば、愚将とは言えないでしょう。
結論を言えば、桓騎は春秋戦国時代を代表する廉頗、白起、李牧、王翦、信陵君、呉起などに比べると見劣りすが、上の下位の将軍ではあったように思います。
三国志の曹操なども名将と呼ばれていますが、何度も負けているわけであり、1回の敗戦で逃亡してしまったのは残念にも感じます。
李牧に敗れた時の、桓騎の負け方がかなり酷かった可能性もありますが・・。
もしかしてですが、桓騎は李牧に糧道を断たれて困窮し、一人で逃げてしまったのかも知れない?と考えた事もあります。
あくまで資料があるわけではなく、想像の域を出ない事になってしまいますが・・・。