沙羨の戦いは江東の大部分を制圧した孫策と、袁術配下で江夏を守る黄祖の間で起きた戦いです。
三国志では数多くの戦いがありましたが「沙羨の戦い」という名は、殆ど聞いた事がないのではないでしょうか。
タイトルを「沙羨の戦い」としたのは、呉録に掲載された孫策の上表文に、下記の記述があるからです。
「黄祖が陣を敷く沙羨県まで軍を進めました」
上記の記述から、孫策と黄祖の勢力が沙羨の近くで激突したと考え、沙羨の戦いとしました。
199年に黄祖と孫策の間で一大決戦が起きた事は確かですが、正式名称は不明とも言えます。
学術的な戦いの名称は聞いた事がありません。
そうした事もあり、沙羨の戦いを名付けて解説します。
尚、孫策は200年に暗殺されており、孫策最後の一大決戦とも呼べる戦いです。
西塞山の戦い
沙羨の戦いの前に、孫策は劉勲との間で西塞山の戦いを起こしています。
199年に袁術が亡くなりますが、袁術の兵士や後宮の女性などを劉勲が取り込みました。
孫策は劉勲を計略を使い陥れ、劉勲と孫策は西塞山で戦う事になります。
これが、西塞山の戦いです。
孫策は戦力で劉勲を圧倒しており、劉勲は江夏太守の黄祖に援軍を依頼しました。
黄祖は黄射を劉勲への援軍として派遣しますが、黄射が到着する前に、孫策は劉勲を破っています。
孫策に敗れた劉勲は劉偕と共に、北方に逃れました。
劉勲が敗れた事を知った黄射は慌てて逃亡し、孫策は勢いのままに江夏に向かって進撃したわけです。
孫策が荊州の江夏に向かった事で、沙羨の戦いが勃発した事になります。
両陣営の内容
孫策軍の内容
呉軍は総大将は孫策であり、軍隊指揮能力に関しては、三国志でもトップ3に入るのでは?と思える程の実力の持ち主です。
沙羨の戦いでは、孫策配下の部将として周瑜、程普、呂範、孫権を出撃させています。
当時の孫策陣営において周瑜、程普、呂範の3人は軍事部門のトップと言ってもよい人材です。
さらに、韓当、周泰、蒋欽、黄蓋など孫呉を代表する武官を引き連れ、孫策は沙羨への遠征を決行した事が分かっています。
周瑜、程普、呂範の3人を同じ戦場に駆り出している辺りは、孫策としては本気で黄祖を潰しに掛かっている様にしか見えません。
孫策としては江東を平定した勢いのままに、江夏を攻略し荊州も切り取ってしまいたかったのでしょう。
黄祖軍の内容
黄祖は荊州と揚州の境とも言える江夏に配置されていました。
劉表が黄祖に与えた役目は、孫策の侵攻を防ぐ事と、隙を見て揚州を攻略する事だったはずです。
黄祖は荊州の東である江夏にいた事で、孫策が短期間で江東を制圧した事を知っており、油断ならぬ相手だと考えていた事でしょう。
黄祖は主君に劉表に、援軍要請をしました。
襄陽にいる劉表は一族の劉虎と、南陽の韓晞に5千の兵を預け援軍に出しています。
黄祖は劉勲が敗れた情報をキャッチするや、直ぐに劉表に援軍要請をしたのでしょう。
孫策が完勝だった!?
孫策と黄祖の軍は激突しますが、沙羨の戦いの内容に関しては、孫策の上表文に記載があります。
「臣(孫策)は黄祖を討伐する為に、黄祖が陣を布く沙羨まで進みました。
劉表は配下の部将を出陣させ黄祖を助け、私に向かって兵を繰り出してきました。
私は周瑜、呂範、程普らの臣下を指揮し、時を一斉にして攻撃を掛け、自ら馬に乗り戦場を駆け巡った次第です。
我が軍の軍吏や兵士らは奮い立ち争って命令を遂行しました。
矢を雨の如く降らせ午前9時頃には、黄祖の軍を壊滅させる事に成功しました。
黄祖は逃げ去りましたが、黄祖の一族の男女七人を捕虜とし、劉虎や韓晞を始め2万人を斬首しています。
水に嵌り溺死した者は1万を数え、船が六千余隻と多くの財宝を手に入れました。
劉表はまだ捕虜にしておりませんが、黄祖が悪知恵を持つ様になったのは、劉表の腹心となり悪事を行ったからであり、劉表が悪心を抱いたのは黄祖が吹き込み助長したからです。
然るに、今の私は黄祖の一族を捕えました。
劉表は既に孤立無援の囚人に過ぎず、生きる屍でしかありません。
こうした出来事は全て神聖なる漢王朝の御神威が辺境まで及んだ結果であり、私も罪人を討伐し、忠勤の心を示す事が出来たのであります」
呉録の結果を見ると、孫策軍が黄祖の軍に圧勝した事が記載されており、孫策軍が黄祖軍を圧倒した様に書かれています。
しかし、孫策の上表文はあくまでも、呉が書いた上表文であり功績は、かなり盛っている様にも感じました。
実際の所は??
沙羨の戦いですが、実際の所は孫策と黄祖の軍は激しく争い両軍に多くの被害が出た様に思います。
劉表の援軍である劉虎と韓晞は長矛部隊を指揮しますが、戦死している事が分かります。
しかし、戦死者が出ているのは孫策軍も同じであり、徐琨が沙羨の戦いで亡くなった記録があります。
徐琨の母親は孫堅の妹であり、平虜将軍・広徳侯になっていた記録があるわけです。
それを考えれば徐琨は、孫呉の首脳部の一人であり、孫策軍も多くの死者を出した様に思います。
沙羨の戦いを見る限り、黄祖は討ち取られたわけでも、江夏を孫策軍に占領されたわけでもありません。
それを考えれば、黄祖は多大な犠牲を出しながらも、江夏の城を守り抜いたと考えるべきではないでしょうか。
孫策は江東では無敵状態で戦えば勝利を収めましたが、黄祖は正面から戦おうとはせず、巧みに江夏の城を守った部分がある様にも思いました。
沙羨の戦い後はどうなったのか?
孫策は沙羨の戦いの後を見ると、明らかに方向転換した様に見えます。
孫策は劉表や黄祖、劉磐などの抑えには太史慈を配置し、鄱陽を呂範に任せ、韓当、周泰、蒋欽らには江東の抵抗勢力を潰しに掛かります。
沙羨の戦いが終わった後を見ると、孫策は江夏への侵攻を諦め、江東の地盤強化や別方面に軍を展開しているわけです。
呉録の上表文にある様な劉表を捕虜にする様な意気込みは感じられません。
因みに、孫策ですが、沙羨の戦いの翌年には、許貢の食客らにより命を落とす事になります。
孫策の後継者には弟の孫権が立ちますが、孫家と黄祖の争いは続き、西暦208年の夏口の戦いで、漸く終焉を迎えています。
黄祖は10年近くも孫家の攻撃を跳ね返す事となり、有能な人物像も垣間見れる部分でもあります。