
| 名前 | 楚の考烈王 |
| 姓・諱 | 熊完 |
| 生没年 | 生年不明ー紀元前238年 |
| 在位 | 紀元前262年ー紀元前238年 |
| 一族 | 父:頃襄王 配偶者:李環 |
| 子:幽王、哀王、負芻、昌平君?、昌文君? | |
| 紀元前256年 魯を滅ぼす | |
| 年表 | 紀元前241年 函谷関の戦い |
| コメント | 春申君を令尹とした。 |
戦国四君の春申君を令尹とし、政務を執らせており、楚の考烈王の治世は春申君の時代だったとも言えるでしょう。
楚の考烈王の時代に秦は趙、魏、韓を攻撃し多くの土地を奪ったのに対し、楚では魯を滅ぼすのに留まりました。
紀元前241年に楚の考烈王が盟主となり、合従軍が結成され函谷関の戦いや蕞の戦いが勃発しますが、秦に勝つ事が出来ませんでした。
楚の考烈王の時代は、秦に攻められる事はありませんでしたが、秦が多くの土地を得たにも関わらず、楚の領土は魯を滅ぼした分くらいしか拡がっておらず、差を付けられたといえるでしょう。
楚の考烈王が亡くなると、春申君も暗殺され、楚の幽王が即位し李園が実権を握る事になりました。
これ以降の楚の君主である楚の哀王、負芻と全て考烈王の子とされており、項燕と共に戦った昌平君も楚の考烈王の子とする説があります。
尚、楚の考烈王は漫画キングダムにも登場しており、楚の汗明や臨武君の戦死を聞くと「楚の恥辱」と激昂し、自尊心の高さと気性の荒さもみせています。
秦の人質となる
史記の楚世家によると、楚の頃襄王の27年(紀元前272年)に、秦と和平し太子を人質として秦に入れたとあります。
この太子が熊完であり、後の楚の考烈王となります。
熊完が秦への人質となった経緯については、史記の春申君列伝が詳しく、秦の昭王は白起に楚の攻撃を命じていましたが、楚の黄歇(春申君)が秦におり、秦の昭王に書簡を出し和平を取りまとめました。
秦の昭王は楚と和平を結ぶ条件として、楚の太子である熊完の身柄を要求し、楚の頃襄王が呑んだ事で楚秦同盟が成立したわけです。
史記の世家には左徒(春申君)が侍従として、熊完と共に秦に人質として入った記録があります。
熊完は黄歇と共に秦で暮らす事になりました。
楚の考烈王が立つ
史記の楚世家によると、楚の頃襄王の36年(紀元前263年)に、楚の頃襄王が病み太子(熊完)が楚に逃げ帰ったとあります。
熊完が楚に帰った経緯に関しても春申君列伝に詳細が記録されており、秦の昭王は熊完を楚に帰そうとしませんでしたが、黄歇は無断で熊完を楚に帰してしまい、自らは秦に残りました。
黄歇は命を賭して秦に残り、熊完が遠くまで行った所を見計らい出頭する事になります。
秦の昭王の寵臣である范雎と黄歇の仲が良好であった事から、范雎の口添えもあり黄歇は許されただけでななく、持て成されて楚に戻りました。
熊完は楚の考烈王として即位しますが、黄歇には絶大なる信頼を寄せたわけです。
楚の考烈王は黄歇を令尹とし、呉に封じました。
令尹となった黄歇は、春申君と号する事になります。
楚は弱体化したのか
楚の考烈王は即位元年(紀元前262年)に、州の地を秦に献納し、秦と和睦したとあります。
楚の考烈王は楚王になる為とはいえ、秦に無断で楚に帰還してしまったのであり、お詫びの印として秦に州を割譲したのでしょう。
秦とは和平を結びましたが、史記の楚世家には「この頃の楚の力は益々弱体化した」とあり、国が弱くなった事が書かれています。
実際に、この頃の楚は頃襄王の時代に、秦に奪われた郢を奪い返す事も出来ず、秦に対しては国力で大きく離されていたと言えます。
さらに、楚の西方には秦がおり、楚の考烈王の時代の楚は、西方に領土を拡げるのは絶望的な状態となっていました。
ただし、楚の考烈王は北伐を行い紀元前261年に魯の徐州を奪いました。
趙への援軍
趙は長平の戦いで白起に敗れ、45万を失う大敗北を喫しました。
趙の孝成王は邯鄲で籠城しますが、平原君とその食客たちを楚に派遣し、援軍要請を行っています。
楚のと平原君の会見の様子は史記の平原君列伝に詳しく、楚の考烈王は秦を怖れて趙への援軍を渋ったわけです。
楚と秦は和睦していたのであり、楚の考烈王としても、秦との和親を損ないたくないと考えるのが自然であり、難色を示したと言えるでしょう。
この時に、平原君の食客である毛遂が動き、半ば脅迫に近い形で、趙と楚の同盟を取りまとめました。
史記の楚世家では楚の考烈王が将軍の景陽を派遣し、趙を救わせたとあります。
楚軍が新中に到着すると、秦兵は邯鄲の囲みを解き去りました。
史記の春申君列伝では、趙への援軍として宰相の春申君が軍を率いた事になっており、楚世家とは記述が異なっていますが、楚軍が趙に味方した事だけは事実なのでしょう。
この時に信陵君が勝手に魏軍の指揮権を奪い、邯鄲に援軍に駆け付けており、信陵君の活躍もあり趙は救われました。
尚、楚の考烈王が趙に味方した事で、秦と楚の仲は険悪になるかに思えましたが、秦は趙、韓、魏への侵攻を優先させた事で、楚は秦の禍を受けませんでした。
魯を滅ぼす
史記の春申君列伝によると、春申君が宰相となって8年目に魯を滅ぼしたとあります。
春申君の8年は、楚の考烈王の8年(紀元前256年)でもあり、楚の考烈王が魯を滅ぼした事になります。
楚軍は趙を救う為に北上したわけですが、返す力で魯を滅ぼしてしまったのかも知れません。
この頃の楚は秦、魏、斉と国境を接しており、攻め滅ぼすべき国が魯以外に無かったのでしょう。
尚、楚の考烈王が魯を滅ぼした事で、戦国七雄以外で残っている国は、僅かに衛が濮陽を領有するだけとなりました。
春申君列伝によると、この頃の楚はまた強大となったとあります。
魯を滅ぼした時が、楚の考烈王の全盛期と言ってもよいでしょう。
尚、紀元前251年に、秦の昭王が亡くなり、楚の考烈王は春申君を秦に派遣し弔わせたとあります。
史記の楚世家には楚の考烈王の16年(紀元前247年)に、秦の荘襄王が亡くなり、趙政(嬴政)が立ったと記録されています。
函谷関の戦い
史記の楚世家によると、楚の考烈王の22年(紀元前241年)に「諸侯と共に秦を討つも、形成不利で退却した」とあります。
これが紀元前241年の函谷関の戦いであり、楚、趙、魏、韓、燕の合従軍が結成されますが、盟主には楚の考烈王がなっています。
楚の考烈王も春申君を函谷関に向かわせ指揮を執らせました。
春申君は龐煖と連携して秦を討ちますが、龐煖も蕞の戦いで撤退を余儀なくされており、合従軍は失敗に終わりました。
楚の考烈王の治世は魯を滅ぼすなど順調に行っていましたが、秦によって挫折したと言えるでしょう。
楚の考烈王と春申君の亀裂
楚の考烈王は即位してから春申君を令尹とし、二人三脚でやってきました。
しかし、函谷関の戦いで敗れた事で、楚の考烈王と春申君の間に亀裂が走る事になります。
楚の考烈王は函谷関の戦いで敗れた責任は、春申君にあるとし、疎んずる様になったと言います。
春申君は自分の領土である呉に移り政務を執ったとありますが、楚の考烈王との間が冷え込んだのでしょう。
春申君は過去には忠臣でしたが、この頃から楚の考烈王に対して、忠誠心が失われていったのかも知れません。
都を陳に遷す
紀元前241年に函谷関の戦いが行われましたが、同年に楚の考烈王は陳から寿春に遷都しました。
春申君の食客である朱英が春申君に陳から遷都する様に進言し、楚の考烈王が了承したのでしょう。
既に魏、韓、趙が弱体化しており、秦に驚異を感じ寿春への遷都を行ったとみる事が出来ます。
楚の考烈王は寿春を郢と名付けました。
後継者問題
春申君列伝に、楚の考烈王に子が出来なかった話が掲載されています。
春申君は子を産みそうな女性を何人も、楚の考烈王に紹介しますが、中々に子が誕生しなかったとあります。
この状況を見た李園が妹の李環を春申君に紹介し、李環が春申君の子を身籠ると、春申君には楚の考烈王に嫁がせる様に進言しました。
史記では春申君が王位に色気を見せた事で楚王に献上し、楚の考烈王は李環を后として迎え子が誕生しました。
これが熊悍(楚の幽王)であり、後には熊猶(楚の哀王)を生む事になります。
史記の話では楚の幽王は楚の考烈王の子ではなく、春申君の子となっていますが、単なる世間の噂話に過ぎないとも考えられています。
尚、春申君列伝の話では、楚の考烈王に子が出来なかった話もありますが、後の事を考えると庶兄の負芻もおり、さらには秦に仕えた昌平君や昌文君も楚の考烈王の子だとする説もあります。
楚の考烈王の子に関しては、不明な点が多いと言えるでしょう。
楚の考烈王の最後
史記の楚世家によると、楚の考烈王はその25年に亡くなったとあります。
楚の考烈王は紀元前238年に没したのでしょう。
楚の考烈王が亡くなると、楚の幽王が立つ事になります。
春申君が楚の考烈王の葬儀の為に都にやって来ると、李園は春申君を暗殺しました。
春申君が亡くなった事で、楚の幽王の時代は、李園や李環が権力を握る事になります。
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