名前 | 馬騰(ばとう) 字:寿成 |
生没年 | 生年不明ー212年 |
時代 | 後漢末期、三国志 |
一族 | 父:馬平 子:馬超、馬休、馬鉄 親族:馬岱 |
年表 | 192年 征西将軍に任命される |
194年 安狄将軍に任命される | |
208年 衛尉となり鄴に移住 | |
画像 | ©コーエーテクモゲームス |
馬騰の正史三国志の各所に名前が見られる人物であり、主に西涼で活動した人物です。
三国志の世界で北東の位置に割拠する群雄と言えば公孫度や公孫瓚を思い浮かべ、反対の西北の群雄を思い出せば馬騰だと感じる人も多い様に感じました。
馬騰は三國志演義でいう蜀の五虎将軍の馬超の父親としても有名でしょう。
馬騰は恵まれた体格を持ち、貧しい生活から成りあがった人物でもあります。
馬騰と韓遂は義兄弟の契りを結んだ事もありますが、お互いを攻撃しあい何年も争った話があります。
馬騰は最後は朝廷に出仕しますが、馬超が曹操に対し反旗を翻した事で、子の馬休や馬鉄と共に命を落しました。
今回は三国志にも登場する馬騰の解説をします。
若き日の馬騰
典略によれば、馬騰の字は寿成であり、前漢の馬援の子孫だと伝わっています。
さらに言えば、馬援は戦国時代の趙の名将である趙奢の子孫です。
趙奢は閼与の戦いでの功績により、馬服君に任命されており、そこから姓を取ったのが馬氏の始まりだとされています。
馬騰の父親の馬平は県尉になった事がありますが、後に官位を失ったとあります。
馬平はそのまま、、隴西に留まった様ではありますが、家は貧乏だった話があり、何かしらの罪で官位を剥奪されてしまったのかも知れません。
馬平は羌族の娘を娶り、生まれたのが馬騰です。
馬騰の家は財産が無かった事で、馬騰は彰山で材木を切っては街に売りに行く生活を続けていました。
それでも、馬超の身長は八尺を超え体は大きく、顔も鼻も立派であったと記録されています。
この記述から想像するに馬騰は今でいう濃い顔のイケメンだったのでしょう。
身長八尺は180cmを超える事になり、張飛や趙雲と同じであり体格にも恵まれていたと言えます。
馬騰は見た目がよいだけではなく、性格も賢明で信義があり、多くの人から敬愛されたとあります。
馬騰は体も大きく目立つ存在でもあったのでしょう。
氐族・羌族の反乱
典略によれば霊帝の末期に涼州刺史の耿鄙に任用した官吏の質が悪かった事で、氐族と羌族が反乱を起こしたとあります。
後漢末期の頃は寒冷化により、羌族などの異民族は東に移動し、漢民族の居住地と重なっていました。
こうした事情もあり、漢民族の官吏と氐族と羌族の間で揉め事が多発し、反乱が起きてしまったのでしょう。
氐族と羌族を討伐する為の軍を編成しますが、この中に馬騰がいました。
馬騰の母親は羌族であり、羌族と戦うのは心苦しい部分もあったのかも知れませんが、馬騰は立身出世を夢見て募兵に応じた事になるはずです。
馬騰自身も優れた容姿と人望があった事で、成り上がる為のきっかけを求めていたのかも知れません。
馬騰は一般人離れした体格もあり、州や郡の役人の目に留まったのか、軍の従事に任命され部隊を指揮する事になったとあります。
ただし、後漢書の記述では中平四年(187年)に馬騰が反旗を翻したとあり、馬騰は最初から反乱軍だった様な記述もあります。
典略と後漢書で記録に差異があり、どちらが正しいのかは不明です。
尚、西方での反乱は加速され韓遂や辺章も乱を起こしました。
韓遂は過去に皇甫嵩、張温、董卓、孫堅、陶謙らの軍を撃破した戦巧者でもあります。
韓遂に寝返る
典略の記述に従えば、馬騰は功績を挙げ耿鄙の司馬となり戦いますが、耿鄙は傅燮の策を却下しました。
結果として耿鄙は部下の裏切りもあり、命を落す事となります。
総大将である耿鄙は戦死したわけですが、この時に馬騰は韓遂側に寝返るという行動を取っています。
「裏切るなんて酷い」と思うかも知れませんが、西方の人々は友好を結んでも、直ぐに裏切る性質があり馬騰も、西方の論理に従っただけなのでしょう。
韓遂にしても味方であったはずの辺章や北宮伯玉を殺害した記述もあり、一筋縄ではいかない様な人物です。
仁義道徳に感化される人ではなかったのでしょう。
韓遂と馬騰は盟主として王国を立てる事になります。
翌年である188年に王国、韓遂らは陳倉城を攻撃しますが、落とす事が出来ず撤退しました。
この後に、王国が追放されており、韓遂や馬騰の意向が働いたのでしょう。
ここで涼州勢の盟主が韓遂になったかに思われましたが、韓遂は曲者ぞろいの賊軍を纏めきる事は出来なかった様で、西方は暫くの間大人しくなります。
征西将軍
董卓は三輔に駐屯していましたが、何進に呼ばれた事で洛陽に移動しました。
董卓がいなくなり三輔が空きましたが、関中は攻撃される危険性もなく、馬騰や韓遂らも中央に進撃しなかった事で、涼州は平穏を得たと言えます。
洛陽では政変が起こり大将軍の何進が宦官に暗殺され、袁紹や袁術が宦官らを皆殺しにし、棚ぼた式で董卓が少帝と陳留王(劉協)を保護しました。
董卓が実権を握りますが、袁紹や曹操らが反董卓連合を結成し、董卓と敵対した事で、涼州に目が行かず馬騰らは比較的平和だったとも考えられています。
董卓は後に献帝を連れて長安に遷都しますが、資治通鑑によれば董卓は馬騰と韓遂を懐柔すべく使者を送ったとあります。
しかし、董卓は王允や呂布に殺害され、そこから混乱が広がり、董卓配下の李傕、郭汜により王允は殺害され、呂布は関東の地に逃げ延びました。
李傕や郭汜は馬騰を征西将軍に任命し郿に駐屯させ、韓遂は鎮西将軍となります。
今までの馬騰や韓遂は賊軍でしかありませんでしたが、ここに来た急に官軍となってしまったわけです。
尚、典略の記述では征西将軍となった馬騰は汧や隴の辺りに駐屯した事になっています。
馬騰は寒家の出身ではありましたが、大出世を果たしたと言えるでしょう。
さらに、馬騰は征東将軍となりました。
李傕排除に動く
194年に馬騰は李傕に頼みごとをしましたが、李傕は承諾しませんでした。
これにより馬騰と李傕は対立し、献帝は場を収めようとしますが、どちらも譲る事はしなかったわけです。
馬騰と李傕の不仲を聞いた韓遂は仲裁に動きますが。李傕では頼りにならないと考え、馬騰と結託してしまいます。
資治通鑑によれば种卲、馬宇、劉範らも李傕を苦々しく思っており排除したいと考え、馬騰に長安を襲撃させ、内応しようと画策しました。
正史三国志の記述なども合わせて考えると、劉範は益州牧の劉焉の長子であり、劉焉も馬騰に与していた事は明らかでしょう。
長平に馬騰と韓遂は駐屯しますが、劉範らの計画は漏洩してしまい、劉範らは槐里に逃亡しますが命を落しました。
この時に、劉焉の次男である劉誕も処刑されています。
李傕は長平に駐屯する馬騰らに樊稠、郭汜、李利らを向かわせ打ち破りました。
戦いに敗れた馬騰らは涼州へ逃亡します。
尚、献帝は後に馬騰らを許し馬騰を安狄将軍に任命し、韓遂は安降将軍としました。
李傕や郭汜が仕切る後漢王朝の中央政府では、西涼の馬騰や韓遂を討伐するだけの実力も無かったのでしょう。
長平に移る
何年ごろの話なのかは記載が無く分かっていませんが、典略に次の話があります。
後漢末期は全国的に食料が不足しており、馬騰の軍でも同様の悩みを抱えていました。
馬騰は配下の軍人に穀物が不足していると考え、朝廷に「池陽に行き食料を得たい」と願い出た話があります。
馬騰は長平の岸辺に駐屯地を移しました。
馬騰は長平に駐屯しますが、将軍の王承は「馬騰の軍は我らに危害を及ぼすのではないか?」と考えます。
馬騰の軍は食料が不足した事で、長平に移動したわけであり、王承は「何をされるのか分からない」と思った可能性もあるでしょう。
馬騰は王承の事など考えてもおらず、無防備であり馬騰自身も付近に外出しているなど、備えが全く出来てはいなかったわけです。
このタイミングで、王承は馬騰不在の軍に攻撃を仕掛けました。
馬騰は身体能力も高く戦いは得意だったと考えらえますが、馬騰不在では軍は何も出来ず、敗走しています。
馬騰は外出先から戻ったら、自軍が壊滅しており驚いたのかも知れません。
典略にも長平の文字が出ており、李傕の軍に敗れた時と同時期の話になる可能性もあるでしょう。
尚、春秋戦国時代に長平の戦いがあり、馬騰の一族とも関係がある趙括が秦の白起に大敗北を喫しています。
趙括が大敗北した事で、趙氏は国民の恨みを買い馬服君の馬氏に姓を変えたとも言われています。
それを考えると、馬騰は長平という地名を見た時に、何かしら思った事があるのかも知れません。
長平という地名は馬氏にとっての鬼門でした。
韓遂との対立
典略によれば、馬騰は鎮西将軍の韓遂と義兄弟になったと記述されています。
最初のうちは馬騰と韓遂は仲良くやっていましたが、仲違いしお互いが兵士を用い争う事となります。
馬騰は韓遂を攻撃し、韓遂は馬騰の家族を殺害するなど、戦争は継続し泥沼化しました。
こうした中で建安初年(196年)に、司隷校尉の鍾繇と涼州牧の韋端は使者を派遣し、馬騰と韓遂を和解させています。
朝廷では馬騰を前将軍・仮節とし槐里侯に封じました。
馬騰は前将軍になったわけですから、将軍位の中でもかなりの高位に昇った事になるでしょう。
馬騰の役目は北方の異民族の侵入があれば対処し、東方は鮮卑族の騎兵に備える任務でした。
馬騰はここでも士を厚遇し、賢人を取り立て民衆を守った事で、三輔は安定したとあります。
ここでも馬騰は多くの者に慕われ敬愛されました。
馬騰と言えば武人のイメージがあるかも知れませんが、民を懐ける能力にも長けていたのでしょう。
朝廷への人質
西暦197年に曹操の配下の荀彧と郭嘉が揃って、呂布を討伐する様に進言します。
当時は北方で袁紹が公孫瓚を攻撃し、易京の戦いの真っ最中でした。
郭嘉は袁紹が公孫瓚を攻めている間に、呂布を滅ぼすべきだと述べます。
しかし、曹操は袁紹が漢中に侵攻し羌族らが乱を起こす事を考えて躊躇しました。
この時に荀彧は次の様に述べています。
※資治通鑑より
荀彧「関中の軍閥は10を数え一つになる事が出来ません。
関中の軍閥では馬騰と韓遂が極めて強力ですが、山東が争っている時は、自分を保持する為に動きます。
馬騰や韓遂に使者を派遣し、恩徳により慰撫し安んずるべきです。
さすれば、山東を攻略する期間位は、馬騰や韓遂を大人しくさせる事が出来ます」
荀彧は曹操に馬騰らと和睦する様に進言しました。
さらに、荀彧は関中の責任者として鍾繇を推薦しました。
曹操は鍾繇を侍中・守司隸校尉に任命し、関中を見張る事になります。
馬騰らは曹操の使者が来ると、自分の子を朝廷に派遣し出仕しました。
朝廷に出仕という事になっていますが、実際には馬騰は朝廷に人質を入れたという事です。
揺れる馬騰
曹操は西暦200年に官渡の戦いで袁紹を破りました。
袁紹は202年に亡くなると、袁氏は袁譚と袁尚の二派に分裂する事となります。
袁尚は郭援を派遣し、匈奴や高幹と共に河東に進軍しました。
袁尚は馬騰にも使者を派遣し、馬騰は内密に袁尚に味方すると約束します。
この頃の馬騰が心が揺れていた部分もあるのでしょう。
郭援に味方する者は非常に多く次々に城が降り、絳を守る賈逵も奮戦しましたが、結局は壺関に幽閉されました。
曹操は鍾繇に命じて平陽で匈奴と戦わせますが、この時に馬騰が匈奴の援軍として到着します。
鍾繇は張既を使者として馬騰に派遣し、懐柔しようと考えました。
馬騰は張既の言葉を聞いても決断出来ませんでしたが、傅幹の言葉で漸く納得しています。
馬騰は長子の馬超に1万の兵を率いさせ、鍾繇の軍に合流させています。
この戦いで馬超は負傷しますが奮戦し、龐徳が郭援を討ち取りました。
張晟討伐
205年に高幹が再び反旗を翻すと、張晟、衛固、張琰らも呼応する事となります。
曹操は張晟の動きに対処する為に、張既を派遣しました。
張既は馬騰を呼び寄せています。
馬騰は兵を率いて現れ張既に協力し、張晟、衛固、張琰らを破りました。
衛固、張琰ら首謀者は斬首しましたが、残りの兵士らは全て許された話があります。
馬騰の入朝
典略によると、建安13年(208年)に馬騰は衛尉として召し出されたとあります。
典略の記述は簡単ですが、実際には曹操が馬騰の軍閥を解体したいと考えており、張既に馬騰を説得させたわけです。
典略の記述を見ると「自らの老いを考え」とあり、体力的にも戦場を駆け回るには辛い年になっていたのでしょう。
馬騰は曹操の求めてに応じ、衛尉となる事を承諾しました。
ただし、馬騰の長子である馬超を偏将軍に任命し、馬騰の軍を継承する事となります。
馬騰は子の馬休や馬鉄を連れ鄴に移住しました。
曹操からしてみれば、馬超が謀反を起こさない為の人質の役割として、馬騰を鄴に迎えたとも言えます。
尚、馬騰が鄴に移った208年は劉表が亡くなり、曹操が南下を始め孔融が処刑された年でもあります。
馬騰の最期
曹操は208年の赤壁の戦いでは、呉の孫権に敗れますが、勢力を挽回し211年頃には漢中に割拠する張魯を討伐しようと考えていました。
しかし、馬超や韓遂、羌族ら関中の諸将の間では動揺が走ります。
関中の軍閥らは曹操の張魯討伐は名目であり、本当の目的は関中を討つ事ではないか?と考えたわけです。
ここで羌族ら異民族らは馬超に反乱を願ったともされています。
しかし、馬超の父親である馬騰は朝廷におり、馬超が反旗を翻せば馬騰が処刑させる事は確実でした。
馬超は馬騰ら一族を取るか、羌族を取るかの選択を迫られますが、反乱を選ぶ事となります。
この時点で馬騰を始め馬休、馬鉄らの命も風前の灯火となってしまった事でしょう。
馬超は韓遂を誘い反乱を起こしました。
これにより馬騰を始め馬鉄や馬休など一族は、悉く処刑されてしまいます。
三国志演義では曹操が馬騰を殺害した事から、馬超が反乱を起こした事になっていますが、史実を見る限りでは逆で馬超が反乱を起こしたから、曹操は馬騰を処刑しました。
ここから潼関の戦いが始まりますが、馬騰は一族と韓遂の人質の子と共に処刑されています。
馬騰の最後の言葉などは記録がなく分かっていません。
馬騰の評価
馬騰ですが体格もよく寒家から出世出来たのは「見所がある」と多くの人に思われたからなのでしょう。
馬騰は入朝した時は、年齢的な衰えもあり半ば引退の様な形で、鄴に入った様にも感じます。
ある意味、馬騰は安寧を求めて鄴に行ったとも見受けられました。
しかし、義兄弟の契りを結んだ馬騰と韓遂が仲違いし、馬騰の妻子も韓遂に殺害されている様に、西方では裏切りが多いです。
馬超と韓遂であっても親子の契りを結んでも、結局は反発している事実があります。
それを考えると、西方の論理は裏切りが日常茶飯事の様にも見受けられます。
そうした事実があるにも関わらず、入朝してしまった馬騰は、安寧を求めて死地に行ってしまった様にも感じました。
尚、馬超の反乱で馬騰を始め馬氏の一族は大半が処刑されてしまい、残ったのは馬岱くらいだったわけです。
馬超は後に劉備傘下となりますが、最後は馬岱に劉備を頼んで亡くなっています。
馬超は亡くなる時に、父親である馬騰や馬休、馬鉄の事を思い出したのかも知れません。