許攸は正史三国志や後漢書に登場する人物で、荊州南陽郡の出身です。
許攸は官渡の戦いで袁紹から曹操に寝返り、烏巣の兵糧庫の場所を教えた人物でもあります。
許攸が淳于瓊が守る烏巣の兵糧庫をリークした事で、曹操は官渡の戦いで勝利する事が出来たとも言えるでしょう。
許攸は烏巣の戦いでのイメージが強いですが、史実の許攸を見ると霊帝を廃位させようと画策したりもしています。
しかし、許攸は貪欲な性格をしており功績を誇り、それが元で曹操に疎まれ最後を迎えたとも言えます。
今回は官渡の戦いでキーポイントにもなった許攸を解説します。
尚、三国志演義では許攸が功績を鼻にかけ、許褚の癇癪により最後を迎えた事になっています。
しかし、正史三国志を見る限りでは、許攸が許褚に殺害された記録はありません。
奔走の友
正史三国志の袁紹伝によれば、許攸は袁紹と奔走の友になった話があります。
奔走の友というのは、苦難に陥れば駆け付ける仲間という事であり、若き日の許攸は袁紹と深く交わったのでしょう。
尚、袁紹伝によれば奔走の友は張邈、何顒、許攸、伍瓊、呉巨の5名だとされています。
ただし、袁紹や奔走の友のメンバーの性格的な問題もあったのか、袁紹は後に張邈を恨んだ話もあり、許攸も袁紹を裏切っている事から、生涯に渡って貫かれた友というわけでもありません。
許攸も含めて若き日に友情を誓いあっても、偉くなるにつれて変心もあったという事なのでしょう。
ただし、袁紹は天下に名の知れた人物としか会わなかった話もあり、許攸は高い名声を持っていたと見る事も出来ます。
貪欲な性格
何顒は袁紹とは親しくしていましたが、袁術とは付き合わない様にしていました。
袁術は何顒を嫌い、次の様に述べています。
※漢末名士録より
許子遠(許攸)は貪欲な性格をしているのに伯求(何顒)は親しくしている。
この記述を見ると許攸と何顒が親しくしている事が分かりますが、それと同時に許攸の欲深い性格を袁術が指摘しているわけです。
袁術は許攸の貪欲な性格だと大勢の前で言っており、許攸は名は通っていましたが、貪欲な人物としても有名だったのでしょう。
袁術は何顒を批判する為に、許攸を例に出したわけですが、陶丘洪は何顒を庇い許攸に関しては、次の様に述べています。
陶丘洪「許攸は確かに不純な性格をしております。
しかし、危難に立ち向かい泥をかぶる事も厭いません」
陶丘洪は許攸の性格は不純とは言いましたが、許攸の良い部分もピックアップした事になるでしょう。
陶丘洪は許攸の欲望さえ満たす事が出来れば、非常に役立つ人物だと述べた事にもなります。
それでも、袁術や陶丘洪が指摘している様に、許攸の性格に問題があったのは間違いない様に感じています。
霊帝廃位計画
正史三国志の武帝紀に下記の記述が存在します。
冀州の王芬、南陽の許攸、沛国の周旌らは天下の豪傑たちと連合し、霊帝の廃位と合肥侯の擁立を計画した
上記の記述を見ると分かる様に、許攸は王芬や周旌と皇帝を廃位にするなど、大それたことを行おうとしていた事が分かります。
ただし、合肥侯が誰なのかは不明であり、よく分からない存在です。
霊帝は張譲や趙忠ら宦官を重用していましたが、許攸に取ってみれば目障りだったのでしょう。
王芬や許攸、周旌らは曹操も仲間に引き込もうとしますが、曹操は断った話があります。
陶丘洪も許攸らは味方にしようと考えますが、陶丘洪は華歆の反対により霊帝の廃位計画には参加しませんでした。
尚、霊帝廃位計画は失敗に終わり、王芬は自害しています。
しかし、許攸は生き残りますが、罪を問われなかったのか?などに関しては、記録がなくよく分かっていません。
袁紹に従う
霊帝死後に何進が宦官に暗殺され、董卓が実権を握ると少帝廃位を巡り、董卓と袁紹が対立しました。
袁紹は冀州に出奔しますが、許攸と逢紀が付き従った話があります。
許攸は逢紀と共に袁紹の最古参の臣下となります。
魏略によれば許攸は会議があると、常に議論に参加したとあり、袁紹の重臣となった事は間違いないでしょう。
官渡の戦い
荀彧の予言
袁紹は韓馥から冀州を譲り受け、199年には公孫瓚を滅ぼし河北四州を治める勢力に成長しました。
公孫瓚討伐に対し、許攸の具体的な策などは残っていませんが、後の事を考えると何かしらの進言はあったように思います。
袁紹の次のターゲットは曹操となりますが、沮授や田豊は持久戦を主張し、郭図や審配は短期決戦を主張します。
ここで袁紹は短期決戦を選択します。
曹操陣営の方では、孔融が田豊と許攸の智謀を警戒するなどもあり、長期戦がよいと主張しました。
それに対し荀彧は「許攸は貪欲で身を正す事がない」と許攸の性格的な問題を取り出すなどもあり、短期決戦を主張します。
さらに、荀彧は袁紹が出陣している間に留守番をする審配と逢紀は、許攸の家族が罪を犯しても見逃す事が出来ないと述べています。
荀彧は官渡の戦いの前に「許攸が寝返る」とまで言っています。
曹操は荀彧の言葉に心を打たれ、短期決戦を選択しました。
袁紹と曹操の双方が短期決戦を主張した事で、官渡の戦いが勃発する事となります。
許攸の策
袁紹と曹操の軍は対峙しますが、白馬の戦いで顔良が関羽に討たれ、延津の戦いでは劉備と文醜が曹操軍と戦いますが、荀攸の策により文醜が討ち取られています。
官渡の戦いの前哨戦とも言える白馬の戦いや延津の戦いでは、曹操軍は勝利を得ますが、袁紹軍は強大であり、物資や兵力も曹操の軍を圧倒していたわけです。
こうした状況の中で許攸は、袁紹に次の様に進言しました。
※漢晋春秋より
許攸「曹操と正面から戦う必要はありません。
急いで諸軍を分散し、曹操の軍と対峙させ、別動隊が間道を通って、許都にいる天子を迎えさせるのです。
そうすれば、勝負を決する事が出来ます。
許攸は袁紹に許昌にいる献帝を、迎える様に進言したわけです。
しかし、袁紹は次の様に述べました。
袁紹「儂はあやつを包囲して倒さねばならぬのだ」
袁紹は奇策を遣わずに、あくまでも正面からの攻撃で曹操を倒そうとしたわけです。
袁紹は兵に勢いがあると感じており、策を弄さずとも勝てると判断したのかも知れません。
しかし、策士の許攸としては、自分の策に絶対の自信を持っていたのか、袁紹に対して怒りを覚えた記録があります。
許攸は貪欲な部分があり、献帝を迎え入れ戦いに勝利すれば、自分は大功を立てた事になり、大きな恩賞を手に出来ると考えたのかも知れません。
再び進言
袁紹と曹操の対峙は、続きますが再び許攸は進言しました。
※資治通鑑より
許攸「曹操の兵は少なく、全軍を以って我等と対峙しております。
その為、許には僅かな兵士がいるだけで、空とも言える状態です。
ここで兵を分けて軽装の軍で夜間も急行し、許を襲撃すれば、許を抜く事が出来ます。
許を落す事が出来れば、天子を奉迎して曹操を討つのです。
そうすれば曹操を虜に出来ます。
それに、曹操軍を壊滅する事が出来なかったとしても、曹操を前後から挟み撃ちに出来る事となり、曹操の軍を破る事になります」
許攸は間道を通っての許都襲撃策を捨てておらず、再び袁紹に進言した事になります。
しかし、袁紹は許攸の策を採用する事がありませんでした。
この時点で許攸のフラストレーションは酷いものだった事でしょう。
正史三国志の武帝紀に「袁紹が貪欲な許攸の欲望を満足させる事が出来なかった」とする話があります。
これは、許攸の策を袁紹が取り入れる事が出来ず、許攸の功績を袁紹が潰した事を指すのかも知れません。
曹操に寝返る
許攸は進言が取り入れられずフラストレーションが溜まっていたはずですが、ここで決定的な事件が起きます。
後方にした許攸の家族が罪を犯し、審配に捕らえられました。
これが決起となり、許攸は曹操に降る事となります。
曹操は許攸が降伏して来ると、裸足で出迎え「君が来てくれたら勝具は決まった様なものだ」と述べる事になります。
許攸は曹操に袁紹の兵糧庫が烏巣にあり、淳于瓊が1万の兵で守っているだけだとリークしました。
許攸は淳于瓊が守る烏巣を急襲すれば、曹操が勝利できると伝えます。
しかし、曹操陣営では許攸の偽投降ではないか?と疑う者も多くいたわけです。
ここで曹操の軍師とも言える荀攸や賈詡が、許攸の策に賛同しました。
これにより曹操は許攸の策を実行し、淳于瓊が守る烏巣を急襲する事になります。
曹操は楽進と共に烏巣を急襲しました。
袁紹陣営では、この動きに対し郭図の策もあり、張郃が曹操の本営を攻撃しつつも、烏巣に救援を送る策を実行します。
烏巣の戦いでは楽進が淳于瓊を斬るなどもあり、曹操の軍が大勝しました。
袁紹は兵糧庫を焼かれ兵を維持する事が出来ず、北方に撤退する事となり、これにより官渡の戦いは曹操の勝利で幕を閉じたわけです。
許攸が投降するまでは、曹操が圧倒的に不利であり、許攸は曹操の救世主になったとも言えます。
許攸の最後
正史三国志によると、曹操は嫌悪の情が強い人物であり、孔融、許攸、婁圭の三名を特に嫌っていた話があります。
魏略によると、許攸は自分の功績を頼みとし、曹操をからかう様な事まであったとされています。
曹操と同席する時も遠慮する事もなく、曹操を幼少時の字で呼び、次の様に述べたとあります。
許攸「貴方は私がいなければ、冀州を手にする事が出来なかったのですぞ」
許攸に言われると曹操は「貴方の言っている言葉は正しい」と笑って述べました。
しかし、曹操は心の中では許攸が無礼であると考え嫌っていたわけです。
曹操としてみれば許攸のお陰で袁紹に勝つ事は出来たが、許攸の態度が礼を失せるものであり、嫌悪したのでしょう。
その後に、許攸は曹操に従い鄴の東門を通った時に、左右にいた者に次の様に述べました。
許攸「この男(曹操)は私がいなかったら、この門を出入りする事は出来なかったであろう」
許攸は、ここでも自らの功績を誇り、側にいた者に誇ったわけです。
許攸の言葉を曹操に告げる者がおり、問題となり許攸は遂に逮捕されてしまいました。
魏略には「ついに逮捕された」とあるだけですが、正史三国志には許攸が処刑された話が書かれています。
許攸が最期を迎えた年に関しては、記録がありません。
しかし、鄴の東門を通った事が書かれており、袁紹死後に袁譚と袁尚が争い、曹操が審配が守る鄴を攻め落とした204年の事ではないか?と考えられています。
許攸の評価
許攸を見ていると、策士であり人並み優れた能力は持っていた様です。
しかし、自分の過去の功績に拘り、曹操に対しても無礼な態度が続いた事で最後を迎えました。
性格に問題があるというのは、長い目で見ればマイナスに働くのかも知れません。
あと、過去の功績に、いつまでも拘るべきではないというのは、許攸を見ていると感じる事です。
許攸には能力はあっても、謙虚さが足りなかったとも言えるでしょう。