名前 | 曹叡(そうえい) 字:元仲 |
生没年 | 204年?ー239年 |
勢力 | 魏、明帝 |
時代 | 三国志、三国時代 |
一族 | 祖父:曹操 両親:曹丕、甄姫 子:曹芳など |
年表 | 226年 魏の皇帝に即位 |
234年 第四次合肥の戦い | |
画像 | ©コーエーテクモゲームス |
曹叡は正史三国志に記載がある人物であり、魏の二代皇帝となります。
曹叡の父親は曹丕であり、母親は甄姫です。
正史三国志には明帝紀があり、これが曹叡の伝となります。
曹丕が急死した事で曹叡は皇帝となりますが、蜀の諸葛亮の北伐を的確な指示で何度も跳ね返しました。
呉の孫権に対しても魏の領地を守り抜く事に成功しています。
ただし、治世の後半生は宮殿のリフォームに費やすなど暗君になってしまったとする指摘もあります。
一般的には治世の前半は有能であり、後半は暗君だったとも伝わっているわけです。
しかし、個人的には曹叡は魏の地を守り抜いた名君だと考えています。
曹叡の能力の高さは多くの歴史家の間で一致しているとも言えます。
今回は魏の二代皇帝である曹叡を解説します。
尚、曹叡の髪は長く地面につくほどであったとも伝わっています。
曹叡の生い立ち
曹操に可愛がられる
正史三国志によれば、曹叡は曹丕の太子であり、曹操は曹叡を可愛がったとあります。
魏略には曹叡は5,6歳の頃より人並み外れた才能の片鱗を見せており、曹操は次の様に述べていたと言います。
※魏略より
曹操「我が基は、汝の代で三代になるであろう」
曹操の言葉から如何に曹操を可愛がり、高く評価していたのかが分かるはずです。
曹操は宴会があれば曹叡を同行させ、側近たちと共に帳の中に列席させたとあります。
曹叡自身も聡明で利発な子だった様で、学問を好み、その中でも法律学に興味を示した話があります。
尚、曹叡の本当の父親は曹丕ではなく、甄姫の元夫である袁煕だとする説もあります。
しかし、曹操が曹叡を可愛がり後継者として目していた所を見るに、曹叡は曹丕の子だと感じた次第です。
郭皇后に育てられる
曹叡の母親の甄姫は、曹丕の怒りを買い処刑されました。
母親の死というのは、曹叡にとってみれば衝撃であり、トラウマになったとも考えられます。
曹丕は郭皇后に子供がいなかった事で詔を発行し、郭皇后の子として曹叡を養育しました。
曹叡は郭皇后に嫌われない様な行動を取った様で、郭皇后にも子供がおらず、曹叡を寵愛する様になります。
しかし、曹丕は甄姫の子だという事もあってか、曹叡を好まず徐氏の子である曹礼を後継者にしようと考えてもいました。
曹叡は後に魏の二代皇帝となりますが、皇太子として中々指名されなかったわけです。
鹿の親子
魏末伝によると、曹丕は狩りの共として曹叡を連れて行った事がありました。
ここで鹿の親子に遭遇し、曹丕は母鹿を仕留め、曹叡には小鹿を仕留めさせようとしたわけです。
しかし、曹叡は曹丕の命令に従わず、涙を流し次の様に述べました。
※魏末伝より
曹叡「陛下は既に母親を仕留めています。
私は子を手に掛ける事は出来ません」
曹叡にとってみれば、甄姫と自分を鹿の親子に重ね合わせ、涙が出てしまったのでしょう。
曹叡を様子をみた曹丕は直ぐに弓矢を放りだしたとあり、曹丕にも思う所があったようです。
曹叡は鹿の親子の一件以来、曹叡を高く評価し、後継者にしようと考えたとあります。
尚、曹丕は甄姫を処刑してしまいましたが、曹叡もまた毛皇后から郭氏に寵愛が移ると毛皇后に死を賜わっており、残念ながら歴史は繰り返す事となります。
皇帝に即位
曹叡は15歳の時に武徳侯に封じられ、221年には斉公、222年には平原王となります。
226年の曹丕が重体となってしまうと、曹丕は曹叡を後継者に指名しました。
これにより曹叡が魏の二代皇帝となりました。
曹丕が亡くなり曹叡が魏の皇帝に即位すると、大赦を行い皇太后に尊称を与え、生母の甄姫には文昭皇后の諡号を追贈しています。
さらに、弟の曹蕤を陽平王としました。
曹叡が即位した時には、劉備も既に亡くなっており蜀の皇帝は劉禅であり、呉では孫権が呉王として君臨していました。
孫権は229年に皇帝を名乗る事になります。
劉曄の評価
曹叡は魏の皇帝となりますが、曹丕が重体になってから太子に立てられた事で、魏の大臣達もどの様な人物なのか分からなかったわけです。
大臣達は曹叡の人物像を想像し、あれこれ話をした様であり、曹叡にとってみれば大変な船出だった事でしょう。
曹叡は皇帝になっても暫くは誰とも合わず、侍中の劉曄とだけ面会し1日中語り合ったといいます。
多くの者が曹叡の事が気になり、劉曄に曹叡の事を訪ねると、次の様に答えました。
※世語より
劉曄「秦の始皇帝や漢の武帝の仲間ではあるが、資質は少し及ばないかも知れない」
劉曄は曹叡を戦国七雄の国々を平らげた秦の始皇帝や匈奴を破り漢の領土を拡げた武帝に見立てたわけです。
劉曄のいう資質が少し及ばないというのは、彼らに比べて歴史に名を残す事は出来ないと考えたのかも知れません。
しかし、劉曄からみて、まずまずの君主ではあると感じたのでしょう。
さらに言えば、曹叡は法学を好んだ話もあり、始皇帝や漢の武帝に近いと考えた可能性もあります。
それか、始皇帝や武帝は宮殿の造営などの土木工事を盛んに行っており、曹叡に見立てた可能性もあるはずです。
石陽の戦い
226年の8月に呉の孫権が5万の兵を率いて江夏郡を攻撃し、諸葛瑾は襄陽を攻めました。
朝廷で軍議が開かれると、軍隊を派遣し江夏を救援すべきとする意見が多く出ますが、曹叡は次の様に発言しています。
※正史三国志 明帝紀より
曹叡「孫権は水戦が得意にも関わらず船を棄てて攻撃して来たのは、不意を衝こうとしたからに違いない。
既に文聘(魏の江夏太守)とは持久戦となっており、攻撃側は守備の倍以上の兵を必要とするはずだ。
孫権は長く戦場にはいないであろう」
曹叡は直ぐに援軍を派遣しようとせず、治書侍御史の荀禹を派遣し、国境地帯の慰労に務めさせました。
荀禹は江夏に到着すると、千人の歩兵・騎兵を使い山に登って狼煙をあげさせました。
孫権と文聘は石陽の戦いが行われていましたが、孫権は結局は江夏を取れず撤退に移る事になります。
石陽の戦いでは文聘の優秀さが光る逸話もありますが、曹叡の判断力もかなりよかったと言えます。
襄陽の方でも司馬懿が諸葛瑾の軍を撃退し、張覇を討ち取る戦果を挙げました。
曹休も尋陽で敵を破った話もあり、魏軍は呉軍の攻撃を見事にしのいだと言えます。
論功行賞と人事
呉の侵攻を防いだ後で、論功行賞が行われますが、人によって差をつけた話があります。
論功行賞で差をつけるのは、明帝紀ではよく見られる記述です。
この年に曹叡の子の曹冏を清河王としますが、同年に曹冏が死去しました。
曹叡は鍾繇を太傅とし、華歆を大尉、王朗を司徒、曹真を大将軍、陳羣を司空、司馬懿を驃騎将軍に任命しています。
227年には武帝(曹操)や文帝(曹丕)を天帝や上帝とあわせて祭り、江夏郡を分割して江夏南部都尉を設置しました。
西平で麹英が反乱を起こしますが郝昭、鹿磐が鎮圧しています。
その他にも、曹叡が五銖銭を発行した記録もあります。
毛氏を皇后に立てました。
諸葛亮の第一次北伐
上庸太守の孟達が蜀に寝返りますが、司馬懿が李輔と鄧賢を寝返らせ電光石火で乱を鎮圧しました。
しかし、この時に諸葛亮の第一次北伐は既に始まっていたわけです。
諸葛亮が北進すると、天水、南安、安定の三郡が呼応する事態となります。
游楚は隴西で奮戦しますが、魏の朝廷では諸葛亮の北伐に対し、激震した事でしょう。
大臣達は蜀の動きに狼狽しますが、曹叡は次の様に述べました。
※魏略より
曹叡「諸葛亮は山を頼りに防備を固めていたはずなのに、自分の方からわざわざ出向いて来た。
それならば、我等は兵法の『人を招く述』に合致しているはずだ。
諸葛亮は三郡を寝返らせ、前に出る事は知っているが、後ろに退く事は知らない。
この機会に諸葛亮を撃破できる事は確実だ」
曹叡は冷静に状況を分析し、朝廷を落ち着け歩兵・騎兵と合わせて5万を動員して諸葛亮に当たらせました。
さらに、曹叡は夏侯楙と曹真を交代し、自らも長安に出向き指揮を取っています。
長安に到着した曹叡は劉備の恩知らずな事や諸葛亮が劉禅から権力を奪っている事などを指摘し、蜀の官吏、民衆で諸葛亮に脅されて従軍した者は全て許すと宣言しました。
曹叡としても蜀軍の切り崩しを図ったのでしょう。
蜀では趙雲と鄧芝の囮部隊を曹真が対応し、街亭の戦いでは張郃が馬謖を大破し諸葛亮を撤退に追い込んでいます。
游楚も隴西を守り切り、三郡は平定されました。
第一次北伐の時は、劉備が陸遜に大敗北を喫した夷陵の戦いの傷跡が残っていると考えられており、魏は蜀に対してはノーマークの状態だったわけです。
郭淮であっても諸葛亮の北伐に驚いた話があり、不意を衝かれた形で始まった諸葛亮の第一次北伐を曹叡は見事に防いだと言えるでしょう。
第一次北伐の行動を見る限り、曹叡はかなり有能な皇帝だという事が出来ます。
諸葛亮が撤退すると、曹叡は洛陽に戻りました。
洛陽では論功行賞が行われ、それぞれが差をつけて褒賞された記録があります。
尚、第一次北伐で魏軍は蜀軍を撤退に追い込み勝利していますが、魏の姜維が蜀に降りました。
曹叡崩御のデマ
曹叡は諸葛亮の第一次北伐の時に、洛陽を離れ長安に向かいますが、この時に洛陽では曹叡が崩御したという噂が流れました。
曹叡が崩御し雍丘王の曹植が皇帝に立てられるというデマが流れたわけです。
曹叡が崩御したという噂に卞氏や郡臣が恐れおののいたといいます。
しかし、曹叡は生きており皆が驚く中で、卞氏は「誰が悪い噂を流したのか」調べようとしますが「皆が言っているのに、調べる事は不可能」と述べた話があります。
これらは曹叡の聡明さを示す逸話だと言えるでしょう。
旱魃
228年に旱魃があり、曹叡は詔勅を発行し次の様に述べています。
※正史三国志 明帝紀より
儒者を尊び学問を大事にするのは、帝王の強化の根本である。
近頃、儒学で仕える官吏に適任者が存在しない場合があるが、これでは皇帝の優れた道を天下に広める事が出来ない。
博士を選りすぐりで選抜し、能力に応じて侍中、常侍に就かせる様にせよ。
郡国には詔勅を発行し、経学に優れた者を優先させる様に取り計らう様にさせよ。
曹叡は旱魃が起きた事で、儒学を以って国を安定させようと考えたのでしょう。
曹休の死
228年に呉の孫権と周魴が策を用いて曹休をおびき寄せ、石亭の戦いが勃発しました。
呉軍の陸遜、朱桓、全琮、朱然らの活躍もあり、曹休は敵に包囲されますが、賈逵に助けられています。
しかし、曹休は石亭の戦いの後に賈逵を恨み最後を迎えました。
曹休は曹真、司馬懿、陳羣らと共に曹叡を補佐する様に曹丕に命じられた臣下でもあり、曹叡にとってみれば大きな打撃となったはずです。
この年に司徒の王朗も亡くなりました。
曹叡は228年に曹穆を繁陽王としますが、229年に亡くなり、同じ年に曹礼も亡くなりました。
魏の皇族や先代からの重臣が亡くなる度に、曹叡にも思う所はあった様に感じています。
陳倉の戦い
西暦228年から229年にかけて魏と蜀の間で陳倉の戦いが勃発しました。
陳倉の戦いは諸葛亮の第二次北伐と言った方が馴染が深い人もいる事でしょう。
曹叡は蜀軍の防備を曹真に任せました。
曹真は曹叡の期待に見事に応え、陳倉の守備をした郝昭も見事に守り抜いたわけです。
曹真は費曜を派遣し、諸葛亮は撤退しました。
陳倉の戦いは魏軍の勝利に終わっています。
ただし、追撃を行った王双が蜀軍に討ち取られました。
郝昭が帰還すると、曹叡は郝昭を絶賛し孫資の方を振り返って「君の国には君同様に素晴らしい人物がいる」と述べた話があります。
この頃に、遼東では公孫淵が公孫恭の位を奪いますが、魏では公孫淵を遼東太守にそのまま任命しました。
因みに、陳倉を攻略出来なかった蜀軍ですが、陳式が武都、陰平を抜き、郭淮が救援に行きますが、諸葛亮の大軍がいた事で撤退しています。
第二次北伐と第三次北伐は繋がっており、第三次北伐だけは蜀軍の勝利だと言えるでしょう。
位牌を安置
229年に曹叡は高祖父の曹騰に尊号を送り、高皇帝とし夫人の呉氏を高皇后としました。
さらに、曹叡は詔勅を発行し、漢の宣帝、哀帝、華元らを例に出し、法典を書き留めました。
霊廟が完成すると、韓曁に天子の印を持たせ、曹騰、曹嵩、曹操、曹丕の位牌を鄴から迎え洛陽の霊廟に安置しています。
裴松之は曹叡の行動に着目し、この時に「七廟の制度」が定められたと述べ、孫盛は「位牌を移したのは節義がある」と称賛しました。
この年の末に大月氏国の波調が魏に使者を派遣し、貢物を献上しており、曹叡は波調を親魏大月氏王に任じています。
230年の初めになると、曹真を大司馬、司馬懿を大将軍、遼東太守の公孫淵を車騎将軍としますが、曹操時代からの功臣である鍾繇が死去しました。
子午の役
230年に大司馬の曹真が蜀への遠征を提言しました。
曹叡は曹真、司馬懿、郭淮、張郃、夏侯覇らの出陣を許可しています。
これが子午の役です。
しかし、天候不順などもあり子午の役は上手く行かず、蜀の諸葛亮、魏延、呉懿らがよく防戦し、最終的に曹叡は魏軍の撤退を命じました。
子午の役の後に曹真は体調を崩し洛陽で療養しますが、回復する事はなく曹真は最後を迎えます。
この時に曹叡は曹真を見舞った話もあり、曹真に関してはかなり気を遣い回復を願ったはずです。
曹丕は後事を皇族の曹真、曹休、名士の司馬懿、陳羣に任せて世を去りましたが、皇族の二人が先に世を去った事になります。
曹真は名将でもあり、曹叡にとってみれば、もっと長生きして欲しかったというのが実情だったはずです。
諸葛亮の第四次北伐
231年に諸葛亮の第四次北伐が行われました。
司馬懿は祁山に向かい諸葛亮を迎撃しました。
この時に魏の朝廷では蜀軍は兵站が繋がらず自滅すると考える意見を述べる者が多く、上邽付近の麦を刈り取り敵を兵糧不足にすればいいと意見する者もいました。
しかし、曹叡はこれらの意見に耳を貸さず、司馬懿の軍を増やし麦を監視させるなど万全の体制で挑む事になります。
司馬懿はこの麦を頼りとし、諸葛亮と対峙した記録もあり、曹叡は見事な後方支援を行ったとも言えるでしょう。
第四次北伐の戦いの方は司馬懿が蜀軍に攻撃命令を出しますが、魏延、王平、高翔、呉班らの反撃を受けて失敗に終わりました。
しかし、司馬懿は敗走する事無く戦線を維持し、踏みとどまっています。
蜀軍は天候不順などもあり、漢中の李厳が兵站を繋げる事が出来なくなり、蜀軍は撤退に移りました。
しかし、撤退する蜀軍に司馬懿は張郃に追撃を命じますが、張郃は討ち取られて亡くなっています。
曹叡が即位してから曹操時代からの功臣であった曹休、王朗、曹真、鍾繇らが既に世を去り、数多くの戦場で功績を挙げた張郃の死は感慨深いものがあったはずです。
特に張郃は曹叡の最初の危機であった街亭の戦いを防いだ将軍であり、思い入れも深かった事でしょう。
この後に大尉の華歆も亡くなりました。
尚、この年に鮮卑族の軻比能が幽州を訪れ名馬を献上した話があります。
同年に曹叡の子である曹殷が誕生し大赦まで行いますが、残念ながら曹殷は翌年に亡くなりました。
この時代は幼児死亡率が高く皇帝の子が生まれても、早くに亡くなってしまう事も多かったのでしょう。
曹叡の布令
231年の8月に曹叡は、次の詔勅を発行しています。
※正史三国志 明帝紀より
過去に諸侯を朝廷に参内させたのは、親類同士で親交を持ち国々を和ませ協力させるのが目的であった。
先帝が布令を出し諸王を都に置く事を望まなかったのは、幼君が即位し母后が政治を取っており、些細な事が大きくなるのを防ぐ為である。
これらは国家の盛衰に関わる事だと考えられてきた。
朕(曹叡)が思案するに、諸王とは12年間も顔を合わせておらず、思慕の念を抱かずにはいられない。
よって、諸王お呼び親類の公侯に、それぞれの嫡子の一人を朝廷に出す事を命じる。
後年に幼少の君が誕生し、母后が宮中にいた場合は、先帝の命令の様にせよ。
朕は布令をはっきりと書き示しておく事とする。
曹叡は幼君主が即位した場合の事や曹氏一族の権力が奪われない様に考えて布令を出した事になります。
国内安定策
232年にも曹叡は詔勅を発行し、次の様に述べています。
古代の帝王たちが諸王に領土を与え統治させたのは、王室を守り助けるのが目的であった。
秦や漢は周の封建制度を継承してはみたが、藩国は弱すぎたり強すぎたりと加減を失っていた。
魏は建国されると、諸王は藩国を開いてはいたが、定まった制度が存在しておらず、後代の規範となる様なものではなかった。
よって新たに諸侯・王に領地を与え全て一郡を以って領国とする事に致す。
諸葛亮が北伐をしてこなくなったこの時期に、曹叡は国内を整備し安定させようと考えたのでしょう。
尚、この年に殄夷将軍の田豫が呉の周賀を破り討ち取った戦功を挙げています。
曹植が亡くなったのも、この年です。
功臣を祭る
西暦233年に青色の龍が井戸の中に出現し青龍と改元しました。
曹叡は夏侯惇、曹仁、程昱を曹操の霊廟の庭園に祀らせ、次の様な詔勅を発行しています。
※魏略より
昔の先王の礼では功臣に対し、存命中に爵位俸禄を上げ没後には祭りを行う事になっていた。
よって漢王朝で功績を挙げた臣下は天子の霊廟の園庭に祭られたのである。
魏の元勲の中で功績に優れ終始一貫し、立派だったものは全て礼によって祀る事にせよ。
曹叡の詔勅により曹操時代の功臣である夏侯惇、曹仁、程昱の三名が祀られる事になりました。
鮮卑族の反乱
233年に鮮卑族の歩度根と軻比能が誼を結び并州に侵攻する構えを見せます
并州刺史の畢軌は軻比能を威嚇し、歩度根を鎮圧するべきだと上表しました。
畢軌の上表文を見た曹叡は、次の様に述べています。
※正史三国志 明帝紀より
歩度根と軻比能は結束している様に見えるかも知れないが、まだためらいの心がある。
今の状態で畢軌が兵を出したら、驚いた歩度根と軻比能は完全に組む事となり、一つに結束してしまうはずだ。
威嚇や鎮圧など出来るはずもない。
曹叡の詔勅が届かぬうちに、畢軌は将軍の蘇尚・董弼を派遣しますが、歩度根と軻比能は曹叡の読み通りに結束し蘇尚・董弼を撃破しました。
曹叡は畢軌の作戦が失敗した事を聞くと、秦郎を派遣し鮮卑の軍を破っています。
秦郎の活躍により、鮮卑は北方に逃走しました。
鮮卑との戦いを見ると、やはり曹叡の洞察力の高さが分かります。
尚、この年に匈奴の胡薄居姿職も反乱を起こしますが、司馬懿が派遣した胡遵の前に降伏しました。
さらに、歩度根部落の載胡阿狼泥が并州を訪れ降伏を告げた事で、秦郎は都に帰還しています。
公孫淵の外交
233年に遼東の公孫淵が孫権が派遣した使者である許晏、張弥を斬り首を送ってきました。
これにより孫権は激怒する事となります。
しかし、曹叡は公孫淵の功績を認め楽浪公とし重用しました。
ただし、公孫淵は魏に完全に臣従しようと思っていたわけでもなく、外交上の迷走の一つが孫権の使者を斬った事件に繋がります。
公孫淵は後に反旗を翻す事になります。
鞭打ちを削減
234年に曹叡は、鞭打ちに関しての詔勅を次の様に出しています。
※正史三国志 明帝紀より
鞭打ちが管理としての刑罰としてあるのは、職務の怠慢を起こさない為である。
しかし、最近は無実の罪でありながら、鞭打ちで死に至る者が非常に多い。
よって鞭打ちの制度を削減し、それを政令に記する様にせよ。
曹叡は鞭打ちの刑を削減した記述があります。
これを見ると曹叡が恩徳の政治を行おうとした様にも見えますが、別の記述では曹叡が些細な罪で処刑した話も残っています。
献帝の死
曹叡の時代である234年に山陽公が亡くなりました。
山陽公と言うと聞きなれない名前に思うかも知れませんが、後漢の献帝の事です。
献帝が亡くなると曹叡は白い喪服を着て喪に服し皇帝の印の旗を持った使者を遣わして葬儀を行いました。
この年に曹叡は大赦を行っています。
曹叡は曹丕の霊廟に祭り山陽公の死を報告し、山陽公の死後の諡として漢孝献皇帝とし漢の礼式で葬らせています。
五丈原の戦い
諸葛亮は斜谷を通り渭南に駐屯し、司馬懿と対峙する事になります。
これが諸葛亮の第五次北伐であり、別名が五丈原の戦いです。
曹叡は司馬懿に詔勅を発行し、次の様に命じました。
※正史三国志 明帝紀より
ひたすら砦の守を固め防衛を、強化する事で敵の勢いを挫け。
敵が進撃をしてきても思う様に任せず、退いても合戦にならず長期戦で食料が無くなり、略奪しようにも出来ないのなら、敵は必ずや逃走するだろう。
逃げた敵を追撃する場合は、自軍の安全を確保した上で疲労した敵と戦う事こそが必勝の策である。
曹叡は蜀軍と戦わぬ様にし、追撃を行う時も慎重にやる様に述べたわけです。
司馬懿の方でも理解しており、諸葛亮が女性用の飾り物を送りつけて来ても、表面上は激怒しても内面は冷静でした。
司馬懿は部下を抑える為に曹叡に出撃の許可を取ろうともしますが、曹叡は辛毗を派遣し戦いの許可をしなかったわけです。
こうした中で諸葛亮が亡くなり、蜀軍は楊儀、姜維、費禕が撤退を始めますが、いざこざもあり魏延が死去しました。
五丈原の戦いでは、曹叡の守に徹する命令が徹底し、司馬懿も曹叡の意図をよく理解していた事もあり、蜀軍を寄せ付けなかったわけです。
死せる孔明生ける仲達を走らすなどの場面が強調されがちですが、結果で言えば魏が防衛戦争に勝利したと言えるでしょう。
第四次合肥の戦い
蜀軍が西から魏を攻撃している最中に、孫権は居巣湖の入り口から、合肥新城に向かって進撃を続けていました。
これが第五次合肥の戦いであり、呉軍は合肥に進軍するだけではなく、荊州方面では陸遜と諸葛瑾の軍は沔水から襄陽を目指し、孫韶と張承らは淮水から魏の領内に攻め込んでいます。
合肥新城の守備は満寵に任せますが、満寵は新城を放棄し寿春で呉軍を迎え撃ちたいと、曹叡に上表しました。
しかし、曹叡は満寵の上表を却下し、次の様に指示しました。
曹叡「昔、後漢の光武帝は軍隊を出し、遠くの略陽を占拠し隗囂を破っている。
先帝は東方の合肥に砦を設置し、南方には襄陽の守を強化し、西では祁山の防備を固め、この三城で敵を破っている。
敵が攻めて来る度に、この三つが係争地となるのは、争うべき土地が存在するからである。
仮に孫権が合肥新城に攻め寄せて来たとしても決して城を抜く事は出来ない。
諸将に命じて合肥に守備を固める様にせよ。
私が自ら出陣し、これを征伐するが、私が到着する頃には、孫権は既に逃げ去っているであろう」
曹叡は満寵に合肥新城の死守を命じました。
満寵は歴戦の猛者であり、関羽の北上を曹仁と共に阻んだ人物ですが、満寵よりも上の戦略眼を、この時の曹叡は持っていたと言えるでしょう。
諸葛亮と孫権で東西両方から攻め込んだ作戦ですが、張潁の奮戦もあり、曹叡の本隊が近づくと孫権は撤退しました。
孫権が撤退すると陸遜、諸葛瑾、孫韶らも撤退し、魏軍の完全勝利が決定します。
尚、第五次合肥の戦いでは、孫権の甥である孫泰が戦死しました。
曹叡は合肥新城の守備隊を多いに労った話が残っています。
宮殿の造営とリフォーム
蜀では諸葛亮が亡くなると蔣琬が政務を執り、蔣琬は蜀の東征計画を立てた事もありますが、実行に移される事はありませんでした。
諸葛亮が亡くなり西の脅威が去ると、曹叡は宮殿の造営やリフォームに走り暗君に成り下がったと言われる事が多いです。
正史三国志によると曹叡は洛陽宮を大規模に造り替え、昭陽宮、太極殿、総章観を造営しましたとあります。
曹叡の大規模宮殿に関しては、魏略に詳しく、かなり壮麗な宮殿を造った様です。
立派な宮殿を造った事で、民衆は農期を逃す事態になった話もあり楊阜、高堂隆らがきつく諫めました。
曹叡は楊阜と高堂隆の諫言を罰する事はありませんでしたが、宮殿の造営を止める事は無かったと言います。
同郷の張茂も曹叡を諫めますが、曹叡は聞き入れる事はありませんでした。
ただし、三国志演義の様に諫めた張茂と罵り合いをして処刑したなどの記述は史実ではありません。
曹叡の諫言した者を処罰しない態度は、趙匡胤に通じるものがある様にも感じました。
尚、曹叡の宮殿増築及びリフォームは「悪」と捉えられがちです。
夏の桀王や殷の紂王の様に、自分の快楽の為に大規模な宮殿を造営したと考える人もいる事でしょう。
しかし、前漢の劉邦の元で宰相となった蕭何は「後世に壮麗な宮殿を造る必要が無くなる」と述べ、宮殿を造営した話もあります。
さらに言えば、江戸時代に徳川綱吉の散財が日本の経済を回していた話もあり、曹叡の政府支出の増加により、経済が回る様になったとも考えられます。
それを考えると、曹叡の大規模宮殿の造営が必ずしも悪いと言えない部分もあるはずです。
ただし、この時代は火災に対する脆弱性もあり、同年に洛陽の崇陽殿が炎上した話があります。
同年に曹叡は曹芳を斉王とし、曹詢を秦王としました。
この曹芳が曹叡の後継者となる人物です。
しかし、中山王の曹袞が亡くなった話があります。
曹袞は曹操の数多くいた子の一人となります。
曹叡の心
236年に曹叡は詔勅を出し、次の様に述べました。
※正史三国志 明帝紀より
古の有虞氏(舜)の時代には刑罰を示す衣服を着せるだけで、人民は罪を犯さなかったと聞く。
周の時代では刑罰はあったが、用いられた事はなかった。
朕は多くの王者たちの後を継ぎ、過去の時代を考えてはみたが、なぜこんなにも隔たりがあるのだろうか。
法令は既に明らかとなっているのに、犯罪を犯す者は多く、刑罰を使う頻度も増えているのに、悪を止める事が出来ない。
過去に死刑の基準に対し検討し多くの者を削減したのは、人々の命を救う為であり、これこそが朕の心である。
それにも関わらず、郡国で獄死する者の数は1年で数百を超えてしまうのは、朕の教化が行き届かず人々が犯罪を軽視している為なのか。
担当の官吏は裁判をもっとよく理解し死刑を緩和し、寛大な処置に従う様にせよ。
また恩情を請う者や弁明の余地がある者を裁いて、刑罰を与えるのは道理に奏でた情を尽くす手段とは言えない。
死刑にするなら、十分に裁判を行ってから判決を下す様にせよ。
叛逆を企てた者と人を殺めた者以外は、速やかに両親に連絡をし処置させる様に。
恩情を請う者があれば判決の上奏を文書と共に持って来れば、朕はその者が保全する道を考えようと思う。
天下にこれを発布し、朕の考えを明らかとする様に。
上記の記述から曹叡が刑罰を好まなかった事が分かります。
ただし、先にも述べましたが、別の記述では曹叡が厳格な刑罰を行った話もあり、バランスを取った政治を行ったというべきなのかも知れません。
劉曄は曹叡を始皇帝や漢の武帝の様な人物と評しており、諸子百家で言えば法家を重視している様にも見えるからです。
尚、この年に高句麗王の位宮が、孫権の使者胡衛を斬り送って来た話があります。
孫権は遼東公孫氏だけではなく、高句麗とも誼を結び魏の背後を伺っていた事になります。
この年に董昭、陳羣が亡くなりました。
既に曹休、曹真は亡くなっており、曹叡の後見を任せれたのは司馬懿だけとなったわけです。
周の制度に倣う
正史三国志の明帝紀によると、担当官吏が次の様に述べたと記録されています。
武皇帝(曹操)は戦乱の世を正常に戻し、魏の太祖となり音楽には武始の舞を用いました。
文皇帝(曹丕)は天の意志に応え天命により魏の高祖となり音楽には咸煕の舞を用いています。
陛下(曹叡)は制度を整備し将来の太平の為に烈祖となり、音楽には章ひんの舞を用いられました。
この三祖の霊廟は万世の後まで壊さない様にして、他の四廟は近しき関係が絶えれば、順次壊し周の后稷、文王、武王の三祖の霊廟の制度と同じようになさいませ。
官吏は曹叡に天子の七廟のうち曹操、曹丕、曹叡のものは残し、それ以外の四廟は、周の制度に倣って順次変えて行く様に進言したわけです。
后稷、周の文王、周の武王は儒教では非常に重要なポジションにおり、曹叡も倣ったのでしょう。
ただし、孫盛は進言に対し、曹叡が死んでもいないのに前もって、自分を尊んでいると非難しました。
孫盛は「魏の役人はこれにより正当さを失った」とまで述べています。
尚、この年に尚書令の陳矯を司徒とし、衛臻を司空としました。
ただし、陳矯は翌年である237年に亡くなっています。
陳矯は袁術、孫策、陳登らの時代から名前が見える人物でもあり、曹叡の時代になるとかなり高齢になっていたのでしょう。
237年は呉の孫権が朱然を使って江夏郡を攻撃しますが、胡質が撃退した年でもあります。
公孫淵の反乱
孫権は公孫淵の背信外交もあり、過去に遼東遠征を画策しますが、陸遜や張昭の反対もあり取りやめとなった事がありました。
この時に孫権は高句麗と組んで遼東の公孫淵を打ち破ろうとも考えていたわけです。
魏では毌丘倹を派遣し、鮮卑・烏桓と共に遼東の南堺に駐屯し、曹叡の詔勅により公孫淵を召し出そうとしました。
ここにおいて公孫淵が反旗を翻した事で毌丘倹は討伐しようとしますが、天候の悪化により遼水の氾濫もあり、曹叡は毌丘倹に軍を引き上げる様に命じています。
曹叡は遼東の将校、軍吏、兵士、庶民のうちで公孫淵に脅されて仕方なく従った者を全て許す事にしました。
しかし、公孫淵は毌丘倹が退いた事で増長し、燕王を名乗る事態となります。
こうなると、曹叡も見過ごす事は出来ず、司馬懿に命じて遼東を平定する事としました。
この時に何曾が司馬懿に副将を置くようにと、曹叡に進言した話が残っています。
曹叡は何曾の言葉で毌丘倹を司馬懿の副将としました。
司馬懿は公孫淵を短期間で平定する事に成功しています。
尚、公孫淵が滅んだ事で倭国が魏と友好関係を結ぶ事となり、邪馬台国の卑弥呼が朝貢した話があります。
曹叡は卑弥呼を親魏倭王としました。
日本書紀の神功皇后の39年に魏志倭人伝の明帝(曹叡)の話が出てきますが、これは日本書紀の間違いだとされています。
神功皇后は曹叡よりも100年以上も後の人物です。
この年に司空の衛臻を司徒に戻し、司隷校尉の崔林を司空に任命しています。
曹叡は燕王曹宇を大将軍とし曹肇・曹爽・夏侯献・秦朗らで補佐する体制を構築しようと考えました。
しかし、劉放と孫資の言葉もあり曹宇は解任され、変わりに武衛将軍の曹爽が大将軍となります。
曹叡の最後
曹叡は238年の後半の頃には、体調を崩していた様です。
この時に寿春の農民の妻が天界の神より仙女となる様に命じられ、人に水を飲ませたり傷口を洗ったりすると、治癒すると噂された者がいました。。
曹叡はこの話を聞くと、この女性を手厚く待遇しますが、自分が病に陥った時に、その水を飲みましたが効果はなく、女性を殺害してしまった話があります。
尚、曹叡と水の話に関しては、卞蘭が病に掛かった時に、曹叡は水を飲ませようとしますが、卞蘭に断られた話もあります。
曹叡は健康志向が強かったのか、不老不死を目指したのかは不明ですが、怪しげな水を信じていた話もあるわけです。
ただし、曹叡にとってみれば、単なる水であっても、これだけで健康によいなら飲む価値はあると考えたのかも知れません。
しかし、曹叡の病は回復せず、曹叡は遼東征伐が終わった司馬懿を早馬で召し寄せ、病室の中に入れました。
曹叡は司馬懿の手を取ると、次の様に述べています。
※正史三国志 明帝紀より
曹叡「私の病は非常に重く後事は、其方(司馬懿)に任せたいと思う。
其方は曹爽と共に幼い息子を補佐して欲しいと願う。
私は其方に会えたのであるから、思い残す事はない」
司馬懿は曹叡の言葉を聞くと、涙を流したとあります。
司馬懿と曹爽に後事を託した曹叡は、その日のうちに亡くなったとあります。
239年春正月に曹叡は36歳で崩御しました。
曹叡の遺体は高平陵に埋葬されています。
尚、後継者となる曹芳はまだ8歳の子供であり、曹爽と司馬懿に曹叡は後事を託すしかなかったのでしょう。
因みに、249年に高平陵の変が勃発し、曹爽が排除され、司馬懿が魏の実験を握り、最終的に司馬師、司馬昭、司馬炎により魏が乗っ取られたのは皮肉にも感じました。
曹叡の評価
陳寿は正史三国志の評の部分で、明帝(曹叡)は沈着剛毅で決断力と見識を兼ね備えていたと言います。
民衆に対しても優れた気概があったと高く評価しました。
しかし、この時代の民衆が疲弊しているにも関わらず、始皇帝や漢の武帝を真似て宮殿の造営に走った事は重大な失敗だったと述べています。
魏書や孫盛などの曹叡の評価を見ても、能力の高さは一貫して認めている状態です。
ただし、皇族に根本を固めさせず、国家の大権を皇族以外の臣下に偏らせた結果として、魏の皇族の弱体化を招いたとする指摘もあります。
曹叡の様な聡明な君主が存命であれば、魏は存続で来たかも知れませんが、後世の事を考えると、マイナスに作用する部分もあったと評価されている状態です。
曹叡が36歳の若さで亡くなってしまった事は、非常に惜しい事であり、魏の崩壊に繋がっていると感じました。