鄭泰の字は公業であり、正史三国志や後漢書に名前が登場する人物です。
鄭泰は正史三国志に伝は立てられていませんが、後漢書の方では鄭太の名で伝が立てられています。
後漢書で鄭泰を鄭太としたのは、後漢所の著した范曄が父の范泰の諱を避けた為です。
鄭泰の先祖には鄭衆や鄭興がおり、儒学者として名を馳せました。
鄭泰の出身地は、河南郡開封県であり、弟に鄭渾、子には鄭袤がいた事が分かっています。
鄭泰に関する記述は、正史三国志の鄭渾伝の注釈・漢紀に詳しく、権力を握った董卓との会話の内容などが掲載されています。
鄭泰は董卓暗殺計画に加担するなど、活発に動いた形跡がありますが、比較的早い時期に亡くなってしまいました。
因みに、鄭泰は同じく名士の荀攸や華歆と仲が良かった話があります。
何進に召し出される
正史三国志の鄭渾伝によれば、鄭泰は名士であり儒家の家系だった事が分かっています。
漢紀によれば、鄭泰は若い頃から才能知略があり、謀に長けていたとあります。
後に鄭泰は荀攸らと共謀し、董卓の暗殺を企てますが、青年期に既にそうした風格があったのでしょう。
鄭泰が生きた時代は後漢末期であり、鄭泰は社会の混乱を予測し、天下の豪傑たちと進んで誼を結ぶ事となります。
鄭泰の家は豊で四百頃の田地を持っていましたが、交友の為に食料はいつも不足したと記録されています。
しかし、鄭泰が多くの豪傑と誼を結んだ事もあり、鄭泰の名は山東に知れ渡りました。
後に鄭泰は孝廉に推挙され、三公の役所からも召し出されたりしましたが、応じる事は無かったわけです。
しかし、何進が政治の中枢に入ると、鄭泰は何進に召し出され、尚書侍郎、奉車都尉の官に就く事になります。
仕官しなかった鄭泰がなぜ、何進の求めに応じたのかは記載が無く分かっていません。
鄭泰は何進に対し、何かしらの期待があったのではないかと思われます。
何進への直言
霊帝が崩御すると、何太后の子である少帝が即位しました。
何進は外戚として権力を握りますが、宦官との対立があったわけです。
何進は袁紹らと宦官の排除を考え、董卓や丁原などを都に呼び寄せようと考えます。
鄭泰は何進が董卓を召し出そうとすると、何進に次の様に進言しました。
鄭泰「董卓は残忍で道義心に貧しいのに、大きな欲望を持った人物です。
もし董卓に朝廷の政治を預け、宦官殺害を任せれば、董卓の専横を許す事となり、朝廷を危険に晒す事になります。
明公(何進)はご威光と恩徳の上で、宰相の重責におられるのです。
明公は心を固め一人で決断する様にし、罪ある者は処罰し取り除くのが肝要となります。
今の状態であれば、董卓を後ろ盾にする必要はありませんし、事態が引き延ばされてしまうと事変が起きるものです。
その手本は近くにあるのです」
鄭泰は何進に董卓を後ろ盾にする危険性と、無駄に事を大きくする必要はないと述べた事になります。
しかし、何進は鄭泰の進言を却下し、鄭泰は身の危険を感じ官を棄てて去る事になります。
この時に鄭泰は友人の荀攸に「何公(何進)を補佐するのは大変だ」と述べた話があります。
この後に、鄭泰の述べた通りに事変が起き、何進は宦官に殺害され袁紹らが宮中に乗り込み宦官を虐殺しました。
董卓が棚ぼた式で少帝を保護した事で実権を握る事となり、鄭泰が思った通りの最悪な展開になってしまったわけです。
官を去ったはずの鄭泰ですが、何故かこの後に都に戻り董卓との問答が記録されています。
董卓の機嫌を取る10の説得
董卓との問答
董卓は帝を手中に収めると少帝を廃位し、陳留王(献帝)を擁立しようと考えました。
袁紹らは都を脱し反董卓連合を結成します。
董卓は関東で反発した諸侯に対抗する為に、多いに徴兵を行い会議を開きました。
会議では、皆が董卓を恐れて発言を控える事になります。
鄭泰は董卓に対し反発心を持っており、董卓の権勢が強力になり過ぎてしまい抑える事が出来なくなるのを心配しました。
鄭泰は次の様に述べた話があります。
鄭泰「政治の成否を考える上で徳が重要であり、兵力によるものではありませぬ」
鄭泰の言葉を聞くと董卓は不機嫌となり、次の様に述べました。
董卓「それなれば、兵力は役に立たぬと言う事ではないか」
董卓の言葉には怒気が含まれており、朝廷の文武百官が鄭泰を心配したとあります。
この時の鄭泰は一歩間違えれば、首が飛ぶような状態だったのでしょう。
朝廷の百官は震えおののき、鄭泰も状況が良くない事を察知し、心にもない言葉で董卓を宥める事になります。
鄭泰は「兵が役に立たないと言っているわけではない」と述べた後に、10の事例を述べ董卓の機嫌を取ります。
民が戦い慣れていない
鄭泰は山東に兵を向ける必要がないと述べると、現在の山東は兵を挙げようとは考えており、挙兵の可能性があると述べます。
しかし、鄭泰は王莽が新が崩壊し、光武帝により後漢が建国されて以来、大きな戦乱が無かった伝えました。
鄭泰は後漢が始まってから鶏が鳴き犬が騒ぐ程度の争乱しか起きなかったから、人々は戦いに習熟していないと述べたわけです。
孔子が「訓練していない民を戦場に出すのは、民を棄てる事を意味する」とした言葉も引用しました。
鄭泰は第一の理由として、民が戦い慣れていないから函谷関の東で乱が起きても大した事にはならないと述べたわけです。
それに比べ、董卓は西州におり若い頃から将軍となり、軍事を習熟し戦場で育っているから、既に名声があると言いました。
戦いに慣れた董卓が民に威光を示せば、人民は董卓を恐れ服従する事になると伝えます。
鄭泰は第二の理由として董卓が戦い慣れている事を理由とし、反董卓連合とは比べ物にならないと述べたわけです。
人材の差
鄭泰は人材の優劣についても次の様に述べました。
鄭泰「袁本初(袁紹)は貴族のボンボンで都育ちが抜けておらず、婦人の様な体型でしかありません。
張孟卓(張邈)は東平の長者でしかなく、勉強の為に書斎に座ったままの人物で座敷を覗こうともしませんでした。
孔公緒(孔伷)は、人物批判や高尚な議論などは長けており『枯れ木を蘇らせ、生木を枯れさせる』見事さはありますが、軍隊を指揮する才能は皆無で風雨に耐える事も出来ません。
戦場での槍働きで考えれば、明公(董卓)の相手になるはずもないのです」
鄭泰は第三の理由として袁紹、張邈、孔伷らは書生でしかなく、戦場を渡り歩いてきた董卓に勝てるはずがないと述べた事になります。
さらに、鄭泰は関東の諸侯が束になっても董卓に勝てぬ第四の理由として、次の様に述べています。
鄭泰「山東の人物を見てみると、馬に跨り弓を引く腕力、古代の勇者・孟賁に等しい勇気、春秋時代末期の呉の慶忌の様な俊敏さ、戦国時代に田単の攻撃を耐えた聊城の守備と似た信義、張良や陳平に匹敵する様な知略、一部隊を任せられ成果を問題に出来る様な将軍となると、山東の諸侯に該当する人物がいるとは思えません」
鄭泰は第四の理由として、山東の諸侯には孟賁、慶忌の様な武勇も無く、田単の攻撃を凌いだ聊城の司令官の様な信義もなく、張良や陳平の様な鬼謀の持ち主もいないと述べた事になります。
人材の質においても山東の諸侯は、董卓に劣っていると述べたわけです。
さらに、鄭泰は優れた人物がいても、山東の諸侯では爵位を与える事も妻と舅の官位を定める事も出来ないし、それぞれが独自で動いているだけだと述べます。
鄭泰は第五の理由として諸侯はお互いの動向を気にしてばかりで、心を一つにして進軍する事は無いと言いました。
第五の鄭泰の言葉は実際に当たっており、曹操や孫堅などは戦意がありましたが、多くの諸侯は積極的に戦おうとはしなかったわけです。
この辺りで董卓の機嫌は、かなり良くなってきたのではないかと感じています。
董卓軍の強さ
鄭泰は董卓に函谷関よりも西にある関西地方に関して、次の様に述べました。
鄭泰「関西の諸郡は北方の上党、太原、馮翊、扶風、安定と隣接しております。
この地方は近年何度も蛮族と戦果を交え、婦女であっても矛、戟、弓などの武器を扱える程です。
ましてや彼女たちの凶暴な夫達は、どれ程の強さを持っているのでしょうか。
関西の兵と山東の兵の強さを比較してみるに、狼と羊の群れほどの差があり、どちらが勝利するかは一目瞭然です」
鄭泰は董卓の有利な第六の点として、関西の兵の圧倒的な強さを述べたわけです。
さらに、鄭泰は董卓軍の強さに対し、次の様に述べました。
鄭泰「天下の勇者の中で現存しているのは、并州、涼州、匈奴、屠各、湟中、義従、八種の羌族しかおりません。
これらの全てに民衆は恐れ、服従しております。
それを明公(董卓)が権謀術数により爪牙の如く用いているので、偉丈夫でさえ震え、戦意を失くしております。
ましてや、ひよっこなど相手にならない事は明白です」
鄭泰は第七の理由として、董卓が西の涼州、并州及び屈強な匈奴、屠各、湟中、義従、羌族らの異民族を抑えている事の有利さを述べたわけです。
この辺りになると、鄭泰は董卓をかなり持ち上げている事が分かります。
団結力の強さ
鄭泰は董卓軍の司令官たちの団結の強さも語りました。
鄭泰「明公(董卓)の軍を預かる者は全て、父方、母方、妻の親族ばかりであり、長い間、辛苦を共にしてきた者達です。
三原・硖口の役依頼、恩愛や信義を十分に与えており、遠方の任務を任す事が出来るだけの忠誠心も持ってますし、智謀も兼ね備えておいでとなります。
彼らを用いて山東の見掛け倒しの軍と戦うわけですから、決して対等の相手とはなりません」
鄭泰は董卓軍の第八の強さの理由として、董卓軍の指揮官の忠誠心の高さを述べました。
董卓により十分な恩義も行き届いていると言ったわけです。
三つの滅亡の原因
鄭泰は戦いに関しても述べており、戦いには三つの滅亡原因があると指摘しました。
鄭泰「戦争には三つの滅亡する原因があると聞いております。
乱を用いて治を攻撃する者は滅び、邪を用いて正を攻める者は滅び、逆を用いて順を攻撃する者は滅びの道を歩みます。
現在の明公(董卓)は政治を行っていますが公平であり、諸悪の根源である宦官は滅し、忠義を示しておられます。
明公は三つの徳義を持ち、三つの滅びる条件を持った者と相対するのです。
天子の言葉で罪を討ち滅ぼすのですから、誰が歯向かうと言うのでしょうか」
鄭泰は董卓の優れている9番目の点として、董卓には3つの徳を持ち、山東の袁紹らは3つの滅亡理由があるから、負けるはずがないと述べた事になります。
ここまで来ると、鄭泰は董卓をかなり持ち上げていると言えるでしょう。
戦略を語る
鄭泰は董卓に対し山東の諸侯が、戦略において既に失敗している事も語りました。
鄭泰「東には鄭康成(鄭玄)や邴根矩(邴原)などの高名な学者がおり、学識や人柄で多くの人々に慕われております。
鄭玄や邴原に山東で謀反を起こした連中が相談したならば、書物を調べ過去の出来事と比較する事になるでしょう。
戦国時代の燕、斉、趙、梁(魏)などは強かったのに、結局は秦に滅ぼされております。
呉楚七国の乱では大軍であったにも関わらず、滎陽を超える事が出来ませんでした。
さらに、現在は道徳に則り政治は輝くばかりであり、手足となる臣下は優秀な者ばかりです。
乱を起こし不義をする輩であったとしても反対し、彼らの凶暴な企みを尊んだり、協力したりはしないでしょう」
第十の理由として、名が通っていた鄭玄や邴原の名前を出し、戦国七雄の国々を滅ぼした秦や呉楚七国の乱を例に挙げ董卓の正しさを主張したわけです。
将軍に任命される
鄭泰は10の董卓が優れている理由を述べると「兵を集めて世間を驚かせない様に」と言いました。
兵を無駄に集めれば、兵役を心配する人が現れよからぬ事を企む輩が現れると述べたわけです。
鄭泰は最後に「恩徳を捨て去り多数を頼りとし、威光を後退させる様な事態を引き起こすべきではない」と董卓に伝えています。
董卓は鄭泰の言葉に機嫌を良くし、鄭泰を将軍に任命し山東の軍と戦わせようと将軍に任命しました。
董卓は名士層を取り込みたいと考えていましたが、中々取り込む事が出来ずに苦心していた事もあり、鄭泰の言葉に気を良くしたのでしょう。
鄭泰を見ると董卓に対し「おべっか」を使っている様にも見えるかも知れませんが、実際には機転を利かせた言葉だった様に思います。
ここで鄭泰が意地を張っても、董卓に殺されるだけで意味は無かったはずです。
議郎に任命される
董卓は鄭泰を将軍とし、山東の諸侯と戦わせようとしました。
しかし、董卓の部下が鄭泰に対して、次の様に述べました。
「鄭泰は智謀の士であり、山東の賊たちに内通しております。
現在、鄭泰に兵士を与え、山東の諸侯を討つために出発させてしまいました。
私は明公(董卓)の事を考えると、悪い事態に転ぶのではないかと懸念します」
董卓は部下の言葉で鄭泰を怪しみ、軍を取り上げ長安に留めさせて議郎としました。
董卓は名士層の登用には悉く失敗しており、鄭泰に関しても不安を感じていたのでしょう。
尚、袁紹らが関東に出て挙兵した例もあり、鄭泰も漢中から出た途端に反旗を翻した可能性もあるはずです。
元より鄭泰は董卓に服従する気はないわけですから、乱を起こした可能性も高いと言えます。
尚、鄭泰に董卓がどれ程の兵を預けたのかは不明ですが、場合によっては前漢の呂后死後の灌嬰の様な役割を果たした可能性もある様に思います。
董卓暗殺計画
正史三国志の荀攸伝によれば荀攸、何顒、种輯、伍瓊は謀議を行い「董卓の所業は桀紂よりも酷いと述べ、董卓暗殺計画を企てました。
「桀紂」とは夏の桀王と殷の紂王を指し、古代の代表的な暴君です。
さらに、鄭泰らは董卓を排除した後は、春秋五覇の斉の桓公や晋の文公の様に、天子を補佐しようと相談しました。
尚、荀攸、何顒、种輯、伍瓊らは名士であり、成り上がりの董卓を嫌った面もある様に感じます。
しかし、鄭泰らの董卓暗殺計画は直前で露見してしまい荀攸、何顒は捕らえられ、鄭泰らは武関に向かいました。
荀攸と何顒は逃げる事は出来ませんでしたが、鄭泰らは告げてくれた者がおり、長安から脱出する事が出来たのでしょう。
尚、漢紀によれば鄭泰は王允と謀反を画策した話もあり、正史三国志の荀攸伝とは差異があります。
それだけ、当時の長安では董卓の排除を望む臣下が、多かったと言う事なのでしょう。
鄭泰の最後
鄭泰は長安から脱出し、武関に向かいました。
華歆伝の注釈によれば逃亡する鄭泰の一行の中に華歆もおり、人数は6,7人だったとあります。
少人数での逃亡である事から、事前に準備された逃亡ではなく、董卓暗殺計画が露見した事で、慌てて逃げる事にしたのでしょう。
尚、鄭泰らの計画が露見した後に、王允が呂布と共に董卓を排除した為、荀攸は命が助かりました。
関東の地では反董卓連合は崩壊しており、群雄割拠となっていましたが、袁術が鄭泰を揚州刺史に任命しようとした話があります。
鄭泰は揚州刺史になる為に、袁術の元に向かいますが、道中で亡くなったとあります。
漢紀によれば、この時の鄭泰の年齢は41歳だったとあります。
尚、袁術は揚州刺史に恵衢を登用しますが、朝廷が命じた揚州刺史の劉繇を打倒する事が出来ず、結局は孫策や周瑜が向かう事になります。
仮に鄭泰が道中で亡くならずに、揚州刺史になった場合を考えると、鄭泰は知略もあり孫策が出る前に、劉繇に対し上手く対処した可能性も考えられます。
鄭泰が長生きをしていたら、別の三国志があったのかも知れません。
ただし、「もしも」の話となるので、弟の鄭渾が袁術が長く続かないと考えた様に、鄭泰も袁術に愛想をつかす可能性もあり、分からない部分も多いと言えます。
鄭泰は智謀はありましたが、早すぎる死だったとも言えるでしょう。
尚、鄭泰が亡くなった時に、鄭泰の子の鄭袤は幼く、鄭渾が面倒を見た話があります。