蒙毅を紹介します。
蒙毅は、父親が蒙武、兄が蒙恬、祖父が蒙驁(もうごう)という名将の家系です。
その中で、史実の蒙毅を見てみると、戦場に出た形跡はなく、文官として秦の政策立案などに大きく関与していたようです。
原泰久先生が描くキングダムでは、昌平君が運営する軍師養成所の生徒にもなっています。
尚、同じ養成所の生徒として、信の軍師である河了貂もいます。
昌平君が授業で戦場に行くと、蒙毅も剣を持って参戦するなど、力強さも見せてくれているわけです。
こういう事情もあり、秦の首脳部の中でも期待されている若手の人材となっています。
尚、史実の蒙毅は文官のため蒙恬や蒙驁に比べると、派手な実績はありませんが、始皇帝に寵愛され秦の中枢にいた人物です。
司馬遷の書いた史記には、蒙恬列伝にその様な記述があります。
それにしても、蒙家というのは、蒙驁、蒙武、蒙恬、蒙毅といい優秀な人材が揃っていると思いました。
3代続けて名将が出るなどは、珍しいのですが、その点を考えると蒙家は凄い一族だと考えられます。
文官として出世する
蒙毅ですが、史書に名前が登場するのは、秦が天下統一を成し遂げてからです。
統一後に、蒙恬が秦の精鋭30万を率いて北方の匈奴の討伐に成功しています。
さらに、万里の長城を築くなど実績が十分すぎるほどにあるわけです。
六国(趙・魏・韓・燕・楚・斉)との統一戦争でも、祖父や父親である蒙驁、蒙武が王翦らと共に活躍しています。
秦は嬴政の時代に、王翦、王賁、李信が戦国七雄の国々を滅ぼす事になり天下統一を成し遂げる事になります。
戦国七雄を滅ぼす戦いにおいて、蒙恬や蒙武も活躍した事は言うまでもないでしょう。
そのため、蒙家の人間は秦王政(始皇帝)からは篤く信頼されていました。
蒙毅も同様に信頼されていて、上卿に任命して身近に置いています。
さらに、始皇帝の行幸の時は、馬車に陪乗する事を許されていますし、朝廷においては始皇帝の前に控えていたという記述があります。
外では、蒙恬が将軍として匈奴を震撼させていますし、内では蒙毅がいたわけです。
史記には、蒙恬・蒙毅と競い合おうとする将軍・大臣もいなかったと書かれています。
この事からも始皇帝からは、絶大なる信頼を寄せられていた事がわかるはずです。
蒙毅は、秦の政策の考案などに関わっていました。
ただし、焚書坑儒などの政策に対しては、どれほど関わっていたのかは分かっていません。
知力の高さや信義の厚さで始皇帝からも一目置かれる存在だったようです。
趙高の恨みを買う
趙高が大罪を犯して、蒙毅に裁かれる事件がありました。
趙高は、この時に胡亥(始皇帝の末子)の家庭教師のような事もしていて、胡亥に裁判について教え込んでいたとされています。
趙高がどの様な罪を犯したのかは分かりませんが、大罪を犯したと史記に書かれています。
蒙毅は、この時に法律通りに「死刑」を決定します。
しかし、これに関して、始皇帝が待ったを掛けるわけです。
趙高は、仕事熱心だから罪を許すとしました。
つまり、始皇帝が法律を捻じ曲げてしまい、趙高の命を救ったわけです。
趙高が始皇帝死後に、胡亥を腑抜けにさせて、暴走する事を考えれば、この時の始皇帝の行動が秦を滅亡させたとも言えなくはありません。
始皇帝が趙高を独自の判断で許した事を考えると、当時の秦は始皇帝が絶大なる権力を持っていて、法の上に始皇帝がいた事が分かります。
尚、キングダムでは斉王建との秦斉同盟の密約の中で統一後のビジョンとして、法治国家を述べています。
簡単に言えば「王侯であっても法の下に置かれる」と言う事です。
しかし、趙高を始皇帝が許したところを見ると、法の上に王(始皇帝)がいるわけで、ちょっと違うんじゃない?とツッコミを入れたくなってしまいましたw
キングダムは史実と違っている部分もあるので、話を盛り上げるためには、仕方がない部分だとは思いますが・・・。
話を戻しますが、趙高が罪を犯した時に、蒙毅は趙高に対してフォローを一切行わずに、死罪という結果を出したわけです。
これにより趙高は、蒙毅に対して深い恨みを持ったとされています。
これが後の、蒙恬や蒙毅に災いとして降りかかる事になります。
蒙毅も、李斯が韓非子を毒殺したように、さっさと趙高を死罪にしてしまえれば歴史は変わっていたのかも知れません。
始皇帝の死に立ち会う事が出来ず
始皇帝は、体調が悪くなると巡幸に出るのがよいと占いがでます。
この時に蒙毅は、首都である咸陽を離れて始皇帝について行く事になりました。
始皇帝は、病が重たくなると、蒙毅には咸陽に帰って「山や川の諸神」に病気の祈祷を行わせる事にします。
これが蒙家にとって、最悪の事態を引き起こします。
蒙毅は祈祷のため、咸陽に戻ったわけですが、その間に始皇帝が崩御してしまいます。
普通であれば、蒙毅も始皇帝の傍にいて、遺言を聞いてもいい位なのですが、不幸にして始皇帝の近くにいなかったわけです。
趙高・李斯・胡亥が結託して、跡継ぎを始皇帝の長男の扶蘇でなはなく、末子の胡亥にしてしまいます。
始皇帝の遺言を偽装してしまいました。
李斯などは、扶蘇が皇帝に即位してしまうと、遠ざけられてしまう事はほぼ確実でした。
そのため、趙高の企みに協力したとも言われています。
追記
※新資料である趙正書では、始皇帝が自らの意思で胡亥を後継者に指名し、趙高を殺害したのは章邯になっています。
趙高の讒言される
胡亥は、二世皇帝に即位すると扶蘇と蒙恬に死を命じています。
扶蘇は、命令に従いすぐに自害していますが、蒙恬は命令に疑問を持ち、沙汰を願っています。
二世皇帝は扶蘇が死亡した事を知ると、満足して蒙恬を許そうとしました。
しかし、趙高は蒙恬や蒙毅がいると、再び高位に昇り自分を罰しないかと考えて胡亥に讒言しています。
蒙恬や蒙毅は、始皇帝が胡亥を跡継ぎにするつもりだったのに、それを妨害したとか、主君を惑わす不忠者だと吹き込んだわけです。
これを信じた胡亥は、蒙恬や蒙毅を殺害する事を決意します。
蒙恬を陽周の牢に繋ぎ、蒙毅は代の牢に入れています。
これにより、3代続けて功を立てた、蒙家の命運は風前の灯となってしまいました。
蒙毅の最後
蒙毅は、曲宮(人名)が派遣されてくると、堂々と正論を言い自分がどのような罪なのか納得させて欲しいと言います。
さらには、秦の穆公が百里奚(ひゃくりけい)を殺した事、楚の平王は伍奢を殺した事。
秦の昭王が白起に自殺させた事。呉王夫差が伍子胥を殺した事。を例に挙げて、天下の人々に非難された事を述べたわけです。
「道のよって治める者は、罪なき者を殺さず、無実の者に罪を加えず」と言い、曲宮に対して胡亥に再考するように依頼しました。
しかし、曲宮は胡亥が蒙毅を殺す気だと言う事が分かっていた為に、蒙毅の言葉を聞く気はありませんでした。
そのため、蒙毅は結局は殺されています。
尚、蒙恬の最後の言葉として「万里の長城を建設した時に、地脈を絶ったのが原因」だと言っています。
蒙毅の方ですが、史記などにも最後の言葉は記されていませんでした。
そのため、最後に何と言ったかはわかりません。
尚、司馬遷は蒙恬列伝の太史公曰くの部分で、次のような事が書かれていました。
蒙恬や蒙毅は統一したばかりで人民の傷も癒えていないのに、始皇帝におもねって人民の乱費というべき土木工事を推進した。
このような事をしていたら、処刑されても当たり前だ。
司馬遷は、蒙恬列伝の中では、蒙恬や蒙毅に対しては、同情的に書いていますが、太史公曰くの部分では手厳しい事が書かれています。
司馬遷は、項羽本紀にも同様の処置が見られます。
しかし、始皇帝の近くにいながら、阿房宮や万里の長城などを諫言しなかったのは、罪と言えるのかも知れません。
出処進退の大切さ
出処進退という言葉があります。
出るところは出て、退くところは退くという意味です。
歴史上では名将・名臣などは数多くいますが、出処進退が完全に出来た人は少ないように思います。
逆に名将であるが故に疑われてしまう場合もあるわけです。
春秋戦国時代の趙の名将李牧は、郭開に讒言されて、幽穆王の命令により命を落としています。
さらに、秦の昭王の元で長平の戦いで趙に大打撃を与える活躍した白起も自刃を命じられています。
これらは、王様との関係が上手く行かなかった為に、起きてしまった不幸です。
もう一つ多いのが、代替わりで殺されるパターンです。
秦の孝公の元で法治国家を作った商鞅は、跡継ぎである恵文王に殺されています。
魏や楚で名将として活躍した、呉起も楚の悼王が亡くなると、呉起を恨む貴族たちに殺されているわけです。
他にも、春申君も李園に殺害されていますし、王様が死んだ時に命を落とした人物も少なくないと言えます。
同じ事が蒙恬や蒙毅に起きてしまったと言えるでしょう。
秦の昭王に仕えて宰相となった、范雎(はんしょ)などは、蔡沢が忠告した為に、昭王が生きている間に、宰相の印綬を返しています。
名将や名臣と呼ばれる人たちでも、出処進退に失敗した人は多いです。
尚、現代においては、流石に社長が変わったからと言って殺される事はないでしょう。
しかし、仕事などで上司が変われば評価されなくなる事もあるようです。
だからと言って、転職と言う訳にも行かない場合も多いでしょうし、そこが人生の難しさなのかも知れません。
最後にまとめると、蒙毅や蒙恬の場合は、扶蘇の死で運命が決まったとも言えるでしょう。