三国志に登場する馬謖の史実の実績などを紹介します。
馬謖は、諸葛亮の泣いて馬謖を斬るばかりが、クローズアップされていますが、実際には諸葛亮の南征伐の時に、助言をしたりしています。
劉備の評価は低かったわけですが、諸葛亮からは絶大なる評価を得ていたわけです。
諸葛亮の愛弟子とも取れるような馬謖の史実の実績を紹介します。
尚、正史三国志の馬謖に関しての記述は、馬良伝の中に収録されています。
上記の画像は、横山光輝さんの漫画三国志で、馬謖が余裕を見せて山頂に布陣する事を決定するシーンです。
もちろん、馬謖は、この後に悲惨な負け方をするという悲劇が起こる事を知りません・・・。
馬氏の五常
馬謖は荊州の出身です。
名士であり馬氏の五常とも呼ばれていて、地元でも優秀だともっぱらの評判でした。
ちなみに、「馬氏の五常白眉最も良し」という言葉があり、馬氏の五人兄弟の中で眉が白い馬良が最も優秀だという意味で使われています。
五常というのは、5人兄弟の全員が字(あざな)に「常」の文字が入っているから、5常と言ったそうです。
ちなみに、馬良は季常が字で、馬謖は幼常が字です。
季というのは、4男につけられる字と言う事になっていて、馬良は四男で、弟である馬謖は五男だったのでしょう。
尚、優秀と言われたその他の、兄弟に関しては記述がなく、何をしていたのかも史書に記録がありません。
蜀の李邈の兄弟が李氏の三龍と呼ばれたり、司馬懿の兄弟が司馬の八達と呼ばれたりしますが、全員の名前が明らかになっているわけではありません。
馬氏の五常も李氏の三龍や司馬の八達に似ていると思いました。
諸葛家が、諸葛瑾が呉で諸葛亮、諸葛均が蜀に仕えたように、馬氏の五常の残りの兄弟も魏や呉に仕えた可能性も十分にあります。
馬良や馬謖の出身地である荊州の襄陽は、魏の勢力圏になるため、魏に仕えたとしても何ら不思議はありません。
諸葛亮の高い評価を受ける
馬謖が劉備に仕えた時期ですが、赤壁の戦い後に荊州を得てからだと思われます。
兄である馬良伝に、馬良は劉備が荊州を支配すると召し出したとする記述があるからです。
この時に、馬謖も一緒に仕えたのかも知れません。
馬謖は劉備が、劉璋から蜀を奪う時には、既に劉備に仕えている事が分かっています。
そのため馬良と馬謖は同時期に、劉備に仕えた事は間違いないでしょう。
劉備が蜀を取ると、馬謖は「綿竹県」「成都県の令」「越巂郡(えつすいぐん)」の太守などになっています。
ここではそつのない業績をこなしたのか、諸葛亮から高い評価を得ています。
さらに、陳寿の書いた正史三国志でも、「人並み外れた才能を持っていた」と記載があります。
馬謖と諸葛亮は気が合ったのか、昼から議論を始めると夜更けまで語り明かす事もあったと記録が残っています。
諸葛亮は、馬謖の才気を気に入り重用していました。
しかし、主君である劉備は馬謖の事を危ぶんでいたわけです。
劉備に酷評される
この時の、劉備の快進撃は凄く、張飛が厳顔を下したり、黄忠が活躍し、さらに馬超が降伏してきたわけです。
蜀入りに関してですが、正史三国志に馬謖が「荊州従事として、先主(劉備)に従って蜀に入り」という記述があります。
この文章を読み取ると、馬謖が具体的にどのような活躍をしたのかは分かりませんが、劉備と行動を共にした事も十分に考えられます。
ただし、劉備の入蜀に関して、馬謖がどのような活躍をしたのかは伝わっていません。
しかし、この時に劉備と馬謖は話す機会も多かったと思いますし、馬謖の人柄や言動などを劉備はチェックしていた可能性もあります。
劉備は蜀を取り漢中に進撃すると、長年負け続けていた魏の曹操の軍を打ち破り、魏の夏侯淵を黄忠が定軍山の戦いで破るなど領土を広げています。
劉備の動きに連動して関羽も北上し、于禁や龐徳を撃破しています。
しかし、樊城にいる魏の曹仁の堅守に阻まれて、さらに徐晃などの援軍が来た事で戦線が膠着しだします。
さらに、孫権が呂蒙や陸遜の献策により、同盟を破棄した事で関羽は捕らえられて斬首されてしまいました。
劉備は敵討ちの軍を出すわけですが、夷陵の戦いにおいて陸遜に大敗してしまいます。
劉備が漢中を取った時や夷陵の戦いでも、馬謖が何をしていたのか分かりません。
郡の太守などをしている事を考えると、内政に関与していて戦いには参加していない可能性もあります。
尚、兄である馬良は夷陵の戦いで、武陵蛮の沙摩柯を味方にするなどの、活躍もありましたが戦死しています。
夷陵の戦いで破れると劉備は成都には帰らずに、永安に滞在する事になります。
しかし、体調を崩して亡くなってしまうわけですが、諸葛亮に対して劉禅の事などについて遺言を残しているわけです。
その中で、劉備は諸葛亮と馬謖が仲がいい事を危ぶみ忠告しています
「馬謖は言葉が実質以上に先行する人物であるから、重要な仕事を任せてはいけない。君(諸葛亮)はよく覚えておいた方がいい」
上記の言葉を諸葛亮に残しています。
入蜀の時や漢中での様子などを見て、劉備が判断したと思われます。
劉備は、中国の北方である幽州の出身であり公孫瓚や徐州の陶謙、曹操、袁紹、劉表、孫権などを渡り歩いてきた苦労人でもあります。
劉備は盧植の弟子になってはいますが、どう見ても儒者ではありませんし、出来の悪い弟子の部類に入るはずです。
決して、行儀正しい人間でもありませんし、現場で叩き上げられてきた人でもあります。
そういう人間である劉備が馬謖の話を聞いた時に「実行は出来ない」と判断したのでしょう。
諸葛亮は、劉備の言動があったにも関わらず、馬謖を重用しています。
それに対してですが、諸葛亮は三顧の礼により荊州で劉備の配下となりました。
年齢も若く劉備の軍師的な役割をしましたが、実戦経験でいえば自分が将軍として采配を取った事もなかったのかも知れません。
そういう状態の諸葛亮から見れば、弁が立ち自信満々に話してくる、馬謖は心強く感じたのでしょう。
馬謖が街亭の戦いで破れるまで、重用したのには、こういった経緯があるのではないかと思います。
城を攻めるのは下策、心を攻めるのが上策
諸葛亮は、劉備死後に南征を考える様になります。
しかし、王連が諸葛亮に「南は風土病なども多く、一国の宰相たるものが行くべきではありません」と諫めています。
そのため王連が生きている間は、諸葛亮は南征の軍を起こす事はありませんでした。
王連が亡くなると、諸葛亮はついに南征の軍を起こし、自らが指揮を執る事にしました。
諸葛亮にしてみれば、初めて自分が戦場で指揮を執る事になり、不安な部分もあったのでしょう。
この時に馬謖は、数十里も諸葛亮を見送ったと襄陽記にあります。
諸葛亮は馬謖に「何年にも渡って二人で作戦を立ててみたが、最後にもう一度、私に良策を授けて欲しい」と聞いています。
この言葉からは、諸葛亮が如何に馬謖の事を信頼し、頼りにしているかが分かるはずです。
それに対して、馬謖は次のように答えています。
「南中は要害の地であり、これを利用し長い期間に渡って服従する事はありませんでした。1回の戦いで勝利しても、明日になれば反旗を翻してしまいます」
「現在、公(諸葛亮)は、魏を倒すために北伐を決行しようとしています。南中の人々は北伐により軍事の空白を知れば、直ぐに反乱を引き起こす事でしょう」
「かといって、南中を完全に滅ぼしてしまえば、後顧の憂いは無くなりますが、仁者とは言えません」
「戦いは、城を攻めるのを下策といい、心を攻めるのを上策とします。武器を取り屈服させるやり方は下策、心を屈服させる事が上策です」
「公(諸葛亮)には、相手の心を屈服させる事を願います」
この馬謖の言葉を聞いて、諸葛亮は思う所があったのでしょう。
尚、三国志演義には、孟獲を7度捕らえて7度釈放するという「七縱七禽」が行われた事になっています。
この話ですが、漢晋春秋にも記載があり、孟獲を屈服させた話です。
史実かどうかは分かりませんが、その後に孟獲が反乱を起こした話も聞こえてきません。
そのため、史実の正確なやり方は分かりませんが、諸葛亮が馬謖の献策に従って、孟獲の心を屈服させた事は間違いないでしょう。
さらに、南征においての馬謖の発言は、非常に頼もしく映りますし、これが言えるのであれば、かなり立派な人物にも思えてきます。
街亭の戦いで大敗する
諸葛亮は、孟獲を屈服させた後に、第一次北伐を開始します。
この頃になると、魏は曹操の息子である曹丕も崩御しており、曹叡が即位しています。
この時に、諸葛亮は斜谷道から蜀軍を動かし郿を占領すると流言を放ち、斜谷に趙雲と鄧芝を囮として、諸葛亮の本隊は祁山を攻める作戦を考えたわけです。
この作戦も馬謖と練りに練った作戦だったのでしょう。
魏延が、夏侯楙(かこうぼう)が守る長安急襲策を、提案しますが退けています
諸葛亮が祁山を攻めると、天水などの三郡が蜀になびいて寝返ってきます。
これに危機感を覚えた魏の皇帝である曹叡は、長安に行き斜谷の趙雲達には、曹真に攻撃命令を掛けています。
さらに、街亭方面には、張郃(ちょうこう)を向かわせて、蜀軍を迎撃するようにしました。
これに対して、蜀軍も街亭に出撃する事にしたわけです。
軍議を開きますが、諸将の大半が魏延か呉懿(呉壱)を先鋒にするべきだと発言しています。
しかし、諸葛亮は馬謖を大抜擢したわけです。
副将には、戦場での経験豊富な王平を任命しています。
この時に諸葛亮は「王平の言う事に耳を傾ける事と、山に布陣してはいけない」と言ったともされています。
しかし、街亭に到着した馬謖はいきなり、山の上に布陣を始めてしまいます。
王平は止めますが、馬謖は聞く耳を持ちません。
結局、王平の部隊だけが麓に配置される事になりました。
馬謖は兵法書通りの鉄壁の陣を敷いたようですが、指示が複雑で将兵は理解に苦しんだとあります。
張郃は、山の上の馬謖を見ると山を囲み水源を絶ち、蜀軍を飢えさせようとします。
慌てた馬謖に隙が出きて、馬謖の複雑な命令で将兵も混乱したため、鉄壁の陣に穴が開いてしまったのでしょう。
ここを張郃は攻撃した事で街亭の戦いの勝敗が決まりました。
馬謖は撤退する時も、兵を失っています。
王平が陣太鼓を鳴らし伏兵がいるように見せかけたので、張郃は追撃を止めています。
これにより馬謖も逃げることが出来たわけですが、蜀軍は大敗を喫したわけです。
諸葛亮も撤退するしかなくなってしまい、馬謖の街亭での敗北により、第一次北伐は失敗に終わりました。
姜維が蜀の武将として加わった以外は、戦果はなく兵士だけを失ったとも言えます。
泣いて馬謖を斬る
街亭の戦いで馬謖が大敗した為に、諸葛亮は漢中に撤退しています。
馬謖も漢中に逃げ帰ってきますが、諸葛亮は馬謖を処分しなければ、ならなくなってしまいます。
馬謖は処刑される前に、諸葛亮に自分の子をお願いしていますし、処刑されても仕方がないという手紙も送っています。
一般的には、自分が可愛がっていた馬謖を斬らなければならない事になり、諸葛亮は涙を流したとされています。
街亭では多くの兵士が死亡した事もあり、責任を取らなければならなかったのでしょう。
さらに、言えば街亭の戦いでの馬謖の敗北は、かなり酷かったと言わざるを得ません。
馬謖に勝った魏の名将と呼ばれた張郃も戦いに敗れた事は何度もありますし、曹操でさえ大敗した事は一度や二度ではありません。
基本的に無敗の名将と言うのは韓信や白起の様な圧倒的な実力を持った将軍だけです。
馬謖が一度の敗戦で処刑されるのは、諸葛亮の命令の意図を理解していなかったなどの致命的なミスをしたように感じています。
諸葛亮が親しかった馬謖を斬ったのが「泣いて馬謖を斬る」の話に繋がっています。
ただし、向朗(しょうろう)伝には、馬謖が逃亡する所を、向朗が見かけたとも書いてあるわけです。
これが本当であれば、馬謖は逃亡しようとしたが捕まってしまい、処刑された事になります。
馬謖逃亡説については、向朗の記事の方で記載してあります。
真実は、どこにあるのか分かりませんが、馬謖が処刑された事は間違いないでしょう。
馬謖の葬儀には諸葛亮も臨席していますし、遺児も優遇したとされています。
尚、諸葛亮が馬謖を斬った事に対しては、襄陽記を書いた習鑿歯や蒋琬は批判をしています。
蜀は人材不足と言われているのに、優れた人材である馬謖を処刑してしまうのは、間違いだとする考えです。
これを考えれば、蒋琬は馬謖の事を評価していたわけであり、貴重な人材と考えられていたのでしょう。
馬謖の子孫
馬謖の子孫に関してですが、記述がないので分かりません。
馬謖の子らは諸葛亮が責任をもって面倒を見たようですが、息子たちがどのような役職に就いたなどは不明です。
馬謖の兄である馬良の子は、馬秉といい騎都尉になったとあります。
それに対して、馬謖の子らはどうなったのか分かりません。
将軍になった話も聞きませんし、罪を犯した話も聞こえてきません。
それを考えると、夭折してしまったとか、遺児は男性ではなく女性だった事も考えられるかも知れません。
後の時代にも、馬謖の子孫を名乗る人物も見つけられませんでした。
蜀は劉禅の時代に、宦官の黄皓が実権を握り政治が乱れた所を、鄧艾(とうがい)や鍾会(しょうかい)に攻められて滅んでいます。
この時に、一緒に滅んだか、劉禅と一緒に降伏して洛陽に送られた可能性もあるでしょう。
現段階では、馬謖の子孫がどうなったのかは、分からない状態です。
馬謖は外交官であれば成功出来たのか?
馬謖ですが、正史三国志の蜀書によれば、並外れた才能を持ち軍略を論じるのが得意だと記載されています。
ただし、実践経験に貧しい状態です。
弁論の上手さで言えば、諸葛亮をも納得させる事が出来て、論破する事も可能だったのでしょう。
劉備は「使えない」と酷評していますが、諸葛亮は馬謖の弁論を気に入り、共に数多くの作戦を立案したと考えられます。
兵法書で覚えた事が実践で役に立たなかった為に、春秋戦国時代の趙括と同様に、実践で破れてしまったはずです。
趙括も父親である、趙奢に酷評されていますし、馬謖と趙括は非常によく似ています。
趙括も長平の戦いで、秦の白起に敗れていますし、馬謖も街亭の戦いで張郃に敗れています。
歴史は繰り返すというのは、この事を言うのでしょう。
兵法書を暗記するだけではなく、実践で経験を積む事の大事さが分かるような気がします。
しかし、馬謖と趙括についてですが、二人とも弁は立つわけですから、外交官としてなら大活躍出来た可能性はないでしょうか?
孫権は、他国の使者に対して、不遜な態度を取ったりしたりしているわけです。
蜀の伊籍や鄧芝、馬良などは上手く切り抜ける事が出来ましたが、上手く孫権に対応出来なかった人もいる事でしょう。
もちろん、そういう人物は歴史に残らなかったはずです。
しかし、馬謖の弁舌の力があれば、伊籍、鄧芝、馬良、孫乾、麋竺にも引けを取らなかったような気がします。
馬謖は、兵法を論じるのが好きだった事から、将軍に任命されていますが、適材適所を間違えたと言えるのかも知れません。