名前 | 袁渙(えんかん) 字:曜卿 |
生没年 | 不明 |
時代 | 三国志、後漢末期 |
勢力 | 劉備→袁術→呂布→曹操 |
一族 | 父:袁滂 子:袁侃、袁㝢、袁奥、袁準 子孫:袁瓌・袁宏・袁耽など |
従弟:袁覇、袁徽、袁敏 | |
画像 | 三国志(コーエーテクモゲームス) |
袁渙は正史三国志に袁渙伝が立てられている人物です。
尚、三国志の世界では汝南袁氏が有名ですが、袁渙は別系統の陳郡袁氏となります。
袁渙が仕えた君主は劉備、袁術、呂布、曹操であり、何度も主君を変えたと言えます。
しかし、袁渙の場合は成り行きで主君が変わったわけであり、決して主君を裏切ったわけではありません。
さらに言えば、袁渙は清廉な人物でもあり、不正を嫌った部分も多々あります。
陳寿も袁渙の事を清潔な人物で功績を挙げたと評価したのか、袁張涼國田王邴管伝に収録しました。
袁張涼國田王邴管伝にまとめられた人物は清廉で有能な官吏であり、多くの実績を残しています。
名門出身
袁渙は正史三国志によれば、陳郡扶楽の出身であり父親は袁滂だとあります。
父親の袁滂は後漢王朝の司徒になった話があり、袁渙が名士の出だという事は確実です。
袁渙伝によれば、この時代の貴族の子弟たちは、法律を無視し行動する者が多かったとされています。
しかし、袁渙は清潔で落ち着きがあり、必ず礼に従い行動しました。
袁渙は名士層の人間ですが、当時の貴族達とは一線を画した人物だったのでしょう。
袁渙が郡の功曹になると、当時の不正を働いていた役人たちは、自分から官を辞した話があります。
この事から、袁渙の清廉潔白さは、世に鳴り響いていた事が分かるはずです。
袁渙は功曹を務めた後に仕事ぶりを評価されたのか、公府に招かれ優秀な成績で推挙され、侍御史に昇進しました。
袁渙は後に譙の令に推挙されますが、就任しなかったとあります。
なぜ袁渙が譙の令を受けなかったのかは不明です。
譙県は曹操の出身地でもありますが、何か関係があるのかも知れません。
茂才に推挙される
劉備は陶謙からの推薦で豫州刺史になっていましたが、劉備が袁渙を茂才に推挙した話があります。
この時に袁渙は劉備の配下になったとも言えます。
しかし、当時の北方は荒れていたのか、袁渙は劉備の元を去り南方に避難しました。
劉備の配下には名士の陳羣もいましたが、最終的に劉備と袂を分けており、劉備は陣営に名士層の人間を取り入れる事が出来ていません。
それを考えると袁渙と劉備の間にも、何かしらの軋轢はあった可能性があります。
袁術に仕える
袁渙は正史三国志によれば、南方の長江、淮河の中間地帯に避難したとあり、後の事を考えれば揚州に避難したと言う事なのでしょう。
袁渙が揚州に移動した頃に、従弟の袁徽と分かれ、袁徽は士燮がいる交州に向かったとも考えられています。
袁渙は寿春を本拠地とする袁術に仕える事になります。
袁術は袁紹と共に名門汝南袁氏の出身であり、袁渙も名門である事から顔馴染で、伝手を頼ったのかも知れません。
袁術は袁渙に対し、意見を求められる事が何度もあったようですが、袁渙はその度に正論を吐いたと言います。
袁術と言えば仲王朝を開き皇帝になるなど暴君としてのイメージもあるかも知れませんが、袁渙に対しては次の様に述べられています
※正史三国志・袁渙伝の記述
袁術は袁渙の意見に逆らう事が出来なかった。
それでも、袁渙に対しては礼を尽くした。
上記の記述から袁渙は袁術には、尊重されていた事が分かります。
袁術は皇帝になろうとした時に閻象に諫められており、袁渙も似た様な立場を取っていた様に思います。
ただし、袁術が張炯の意見に従い皇帝に即位するのは、止められなかった様に感じました。
呂布に仕える
呂布の配下となる
袁渙は袁術に仕えますが、呂布が阜陵を攻撃しました。
この時に、袁渙伝には下記の記述があります。
※袁渙伝の記述
袁渙は袁術に従い出掛けたが、結局は呂布に拘留される事となった。
拘留とする記述がある事から、袁渙は戦いに敗れて捕らわれたわけではなく、何らかの使者で呂布の元に赴き引き留められたのでしょう。
この辺りは正史三国志の記述が不足しており、想像に任せるしかありませんが、袁渙は袁術と呂布の友好の為の使者として赴き、呂布が袁渙が交流し、袁術も袁渙が呂布の傍にいてくれた方が役立つと判断し、袁術と呂布の調停役として呂布に仕える様になった様にも感じています。。
袁渙は呂布に仕える事になります。
手紙を書けと強要される
劉備と呂布は一時は親密な関係でしたが、呂布と劉備の関係は悪化します。
この時に、呂布は袁渙に命じ、劉備を侮辱する手紙を書くように要請しました。
しかし、袁渙にとってみれば劉備は自分を茂才に推薦してくれた恩人であり、とても、そんな気分にはなれなかったのでしょう。
袁渙は呂布に断りを入れます。
しかし、呂布は袁渙に断られても諦めず、何度も要請しますが、袁渙は聞き入れず、呂布は最後には武器を使い袁渙を脅迫しました。
この時に呂布は「手紙を書けば「生」。書かねば「死」だ」と述べたとあり、かなり本気で袁渙を脅した事が分かります。
しかし、袁渙の方では顔色も変えず、笑いながら次の様に答えました。
袁渙「私は徳こそが人に恥辱を与える事が出来ると聞いております。
罵詈では恥辱を与える事は出来ないでしょう。
あの方(劉備)が君子であったとすれば、将軍(呂布)の言葉で恥辱を感じる事はないはずです。
あの方が小人であれば、将軍の態度に返報する事になります。
そうすれば恥辱は、こちら側に来てしまい、あちらには無くなってしまう事でしょう。
それに、私は劉将軍と同じように将軍に仕えています。
もし将来に私がここを去る様な事があったら、将軍を罵倒してもよいのでしょうか」
呂布は袁渙の言葉を聞き、恥ずかしくなり劉備を罵倒する手紙を取りやめたとあります。
この時の袁渙の堂々とした態度は「見事」と言う他にはないでしょう。
因みに、呂布は下邳の戦いで曹操に敗れ陳宮や高順と共に斬られました。
曹操に仕える
正史三国志の注釈「袁氏世紀」によると、呂布が滅びた時に陳紀と陳羣の親子も呂布の軍中にいた話があります。
曹操に会うと陳羣親子らは平伏しましたが、曹操は袁渙にだけは対等の礼を行いました。
曹操は袁渙に対し、遠慮深い態度を取ったわけです。
曹操は呂布を破ると呂布の軍中にあった物資を部下達に取らせています。
人々は我先にと考え財宝を取りましたが、袁渙だけは数百巻の書物を取り、後は必要な分の兵糧しか取りませんでした。
人々は袁渙の姿を見て多いに恥じ入ったとあります。
前漢の高祖劉邦が秦の都・咸陽を落とした時に、蕭何だけは財宝に興味を持たず、秦の書物を取った話があります。
それを考えると、袁渙の書物を取った行動は、前漢の相国となった蕭何に倣った可能性もあるはずです。
尚、袁渙は書物を取って周りの者が多いに恥じ入った事を知ると、側近に次の様に述べた話があります。
袁渙「仮に儂が行軍に参加し、軍隊に出発命令が出た場合には、携帯兵糧とする。
これを儂の物としてはならない。
しかし、これが名声を上げる事になれば、残念でならないと思う」
袁渙としては、隠徳としたかった部分が大きかったのでしょう。
袁渙の謙虚さが分かる逸話でもあります。
袁渙の進言
正史三国志に袁渙が曹操に仕えた時の話があり、袁渙は次の様に曹操に進言しました。
※正史三国志・袁渙伝の記述
袁渙「武器と言うのは不吉な道具であり、やむおえない時にのみ使用しなければなりません。
道徳心を使い鼓舞し仁義を行い征伐するのが正しき道です。
その上では、住民を労わり彼らの苦を取り除く必要があります。
そうすれば民衆と生死を共にする事が出来ます。
大きな動乱が起きてから、十数年も経ちますが民衆たちの平和への欲求は、逆さ吊りから助かろうとする気持よりも強いと考えるべきです。
民衆が平和への願いが強いにも関わらず、動乱が終わらないのは、政治の方法を間違っていると考えるべきでしょう。
私は明君は国を治めるのが優れていると聞いております。
それならば、社会が混乱しているのであれば、道義を持ち整える必要があり、時代が詐術に満ちていれば、素朴を持ち落ち着かせるべきなのです。
時勢が変わればやり方が変わるのは当然の事であり、これらの事を思案する必要があります。
制度の変遷は昔と今では違いがあります。
天下に愛情を持ち社会を正しい状態に回帰する場合は、武力を用いて各地を平定しますが、それを完成させる時には道徳を用いるべきであり、全ての王者に無ければならない不変の法則です。
公(曹操)の優れた見識は世の中を超越しておりますし、過去の君主が民心を得た経緯に関しては、公は既に行う為の努力をしておられます。
現在の君主が民心を失った経緯については、公は既に警戒しておられますし、四海の内は公のお陰で危険滅亡の災難を逃れる事が出来るはずです。
しかし、人民はまだ道義をわきまえてはいません。
公が教化する立場となれば、天下は大きな福を得る事が出来ます」
袁渙は曹操に臨機応変の政治のやり方と、天下の大まかな治め方を述べた事になります。
正史三国志によれば袁渙の進言を曹操は「十分に受け入れた」とあり、曹操は袁渙を評価し沛の南郡都尉としました。
曹操にとってみても、名士の袁渙は役職を与えやすかった部分もある様に感じます。
屯田を嫌がる民衆
屯田には民屯や軍屯がありますが、三国志の世界で最初に屯田を行ったのは陶謙が陳登に命じて、やらせたのが始りだと考えられています。
曹操も韓浩や棗祗などの進言により、自国内で屯田を始める事としました。
屯田制と言えば民衆に喜ばれたイメージがあるかも知れませんが、初期の頃は屯田を嫌がり逃亡する者も数多くいたわけです。
袁渙は屯田制の実態を知り、曹操に次の様に進言しています。
袁渙「民衆たちは昔からの土地への安住を求め移住を嫌がるのが普通です。
その性質を早急に変えるのは、難しいと言わざるを得ません。
民衆の意向に沿って行動すれば物事は容易く成し遂げられ、逆らって行動するのは困難をきたすものです。
民衆の心に沿った形で行わせる必要があり、屯田を希望する者にはやらせ、希望しない者に強制すべきではありません」
袁渙は曹操に「民への屯田の強制はよくないからやめるべき」と進言した事になります。
曹操は袁渙の進言を受け入れ屯田制の強制を止めた所、民は多いに喜んだ話があります。
曹操は袁渙を梁国の相としました。
社会的弱者を救う
袁渙は梁国の相に転任しますが、、諸県に次の様に命令しました。
※正史三国志・袁渙伝の記述
「相方を失った男女。高齢者の慰安に務め、孝子貞婦を表彰せよ。
不変の言葉として『社会が安定している時は行き届いた礼法。社会が混乱している時は簡略な礼法』と聞いている。
全てはどの様に判断するかに掛かっておる。
今は争乱の時代ではあり、礼を用いて民衆を強化するのは困難なのかも知れない。
しかし、我々の対処方法のやり方に掛かっているのだ」
袁渙は儒教的な考えを行うのが良いとは思っていた様ですが、時と場合による事や統治を行う者の、やり方が大事だと伝えたかったのでしょう。
梁国の相として部下の引き締めの為の言葉でもあったはずです。
袁渙は政治を行う場合は「教化訓戒」を第一とし、思いやりを行ってから実行したとあります。
袁渙は徳を以って統治しようとしたのでしょう。
尚、袁渙の見た目は温和そうでしたが、よく決断したと伝わっています。
袁渙の人柄
清廉な人
後に袁渙は病気により、職を辞する事となります。
袁渙の恩恵は民衆に行き渡っていたのか「人民が袁渙思い慕った」とあります。
しかし、袁渙は病気が癒えたのか再び朝廷の役人となり「諫議大夫、丞相軍祭酒になった」と記録されています。
袁渙は役人をしていた時や復帰した時に多くの品々を下賜された話がありますが、それらを全て使い家に貯めこむ事は無かったとあります。
さらに言えば、土地や家屋などにも興味を持たず、蓄財とは無縁の人だったのでしょう。
ただし、袁渙でも物資が不足する事はあった様で、その場合は取り立てを行ったりした話もあります。
疑惑の行動などを行った様な話もありますが、袁渙は多くの人々から清廉さを認められていたと記述されています。
袁渙は資金が不足すれば、集めたりはしたはずですが、必要異常な事はしなかったのでしょう。
袁渙の思想
穀熟県長の呂岐は友人の朱淵と爰津が、祭酒の位を断わった事を理由に殺害する事件がありました。
この時に主簿の孫徽は呂岐の行為をやり過ぎだと判断し、弾劾しようとしますが袁渙が、孫徽を諭し弾劾しない様にと述べる話があります。
この辺りは袁渙の思想をよく表していると言えます。
荀閎が鍾繇、王朗、袁渙の意見に異を唱えた事がありました。
この時に曹丕が鍾繇に手紙を送り文中で「王朗と袁渙は春秋時代の虞や虢の国士の様だ」と述べた話しもあります。
さらに、袁渙の子に袁侃がいますが、司馬懿と荀顗(荀彧の子)があった時に、次の様に述べた話が伝わっています。
「流石は荀令君(荀彧)の子だけの事はある。袁侃もまた袁渙の子だけの事はある」
司馬懿の言葉からも袁渙が立派な人物だと言う事は、多くの人に知れ渡っていたのでしょう。
尚、曹操が王脩を抜擢しようとした時は「袁軍師(袁渙)が位階を飛び越えて抜擢するのは宜しくない」と諫めた話があります。
袁渙の順序を重んじる思想が見える部分にも感じました。
傅子の記録では「袁渙は徳を積み重ね行動は控えめである」と記録されており、華歆と共に春秋時代の名宰相である晏嬰や行父(季文子)にも匹敵すると称されています。
袁渙の人柄は、賞賛に値するものであったのでしょう。
魏の建国
西暦213年に曹操が魏公となった話があります。
この時に、曹操を魏公に推挙する名簿の中に「祭酒・袁渙」と記述があり、袁渙が曹操の魏公就任に賛成の立場だった事が分かります。
魏が建国されると袁渙は郎中令となり、御史大夫の事務扱いとなり出世しました。
袁渙は曹操に次の様に進言しています。
袁渙「現在の様子を見るに天下の災難は既に除去に向かっており、文武の臣を登用する事こそ、国家長久の策となります。
私が思うに書物を多く集め、先代の聖人の教えを明らかとし、民衆の耳目を一新させるべきです。
四海の人々を教化し靡かせる事が出来たならば、遠くの服従しない者達も文徳により招き寄せる事が出来ます。」
曹操は袁渙の進言に満足したのか嘉とした話があります。
因みに、曹操の魏公就任に推挙した人物の一覧は下記のようになっています。
劉備の死の誤報
魏に劉備が死去したとする誤報が入った事がありました。
これがいつ頃の事なのか記載がありませんが、劉備が劉璋から成都を奪った後の話だったのではないかと感じています。
この時に、多くの郡臣が劉備の死を祝い慶賀しました。
しかし、袁渙は過去に劉備に茂才に推挙されており、袁渙だけは祝賀しなかったとあります。
袁渙にとってみれば、劉備は恩人であり、敵国の君主とは言え、死を祝う気持ちにはなれなかったのでしょう。
袁渙の最後
袁渙ですが、「在官数年で亡くあった」と記録があります。
曹操は袁渙が亡くなった事を知ると涙を流し、穀物二千石を賜与した話があります。
この時に、曹操は次の様に布令を出しています。
※正史三国志・袁渙伝の記述
「大倉(政府の穀倉)から穀物千石を以って郎中令(袁渙)の家に下賜する様に」
「垣下の穀物(朝廷に蓄えられている穀物)を以って曜卿(袁渙)の家に下賜せよ」
曹操の命令に対し、多くの者が理解できませんでしたが、曹操は次の様な布令を出しています。
「大倉の穀物を用いるのは公の法であり、垣下の穀物を贈るのは旧知への信愛の証である」
曹操は国家から穀物を贈り、個人としても袁渙に対し穀物を贈った事になります。
曹操が如何に袁渙に対し、親愛の情を持っていたのかが分かる逸話です。
尚、袁渙が亡くなった後に、魏の曹丕が呂布と袁渙の話を聞き、袁敏に袁渙がどの様な人柄だったのか聞いた話があります。
ここで袁敏は「見た目は温和だったが、袁渙は危難に身を置いた時は孟賁や夏育以上だった」と答えています。
孟賁や夏育は古代の勇士であり、袁渙の気迫を現わす言葉にもなっています。
尚、袁渙には四人の子がおり袁侃、袁㝢、袁奥、袁準だと記録されています。
これは想像ですが袁渙が亡くなった時に、袁渙の子らはまだ幼かった様に感じました。
それ故に、曹操も多く穀物を支給した可能性もあるはずです。
袁渙の能力値
三国志14 | 統率30 | 武力17 | 知力72 | 政治83 | 魅力83 |