その他 三国志 魏(三国志)

桓階(かんかい)は律儀で優れた人間性の持ち主

2022年4月23日

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宮下悠史

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名前桓階(かんかい) 字:伯序(又は伯緒)
生没年不明
時代三国志、後漢末期
勢力孫堅劉表曹操曹丕
一族祖父:桓超 父:桓勝 弟:桓彝、桓纂 子:桓佑、桓嘉 孫:桓翊、桓陵 配偶者:伏氏
年表208年 曹操に仕える
画像三国志(コーエーテクモゲームス

桓階の字は伯序(又は伯緒)であり、荊州長沙郡臨湘県の人です。

正史三国志の注釈・魏書によれば、桓階の祖父は桓超と言い、父は桓勝だと記録があります。

桓超、桓勝は州郡の長官を歴任し、桓勝は尚書になった事もあり、南方で名が通っていたわけです。

それらを考えれば桓階の家柄はよく、名士層の人間だったのでしょう。

桓階は劉表の時代に、張羨をそそのかし、謀反を起こさせるなどもありましたが、基本的には律儀な人だと言えます。

桓階は、曹操曹丕に信頼されるだけの、人間性は持っていました。

尚、呉で実権を握った孫綝に殺害された呉の尚書・桓彝は桓階の弟だと伝わっています。

孫堅に推挙される

桓階は郡に仕官し巧曹になったとあります。

後の事を考えると、長沙で仕官した事になるのでしょう。

孫堅が長沙太守になると、桓階を孝廉に推挙しました。

後漢末期になると孝廉の難易度も格段に上がっていた話もあり、桓階の能力と名声の高さが分かる様な気がします。

桓階は尚書郎となるも、桓階は父親が亡くなった事で郷里に戻りました。

当時は自分の家が最優先であり、父親が亡くなった時に、官を辞するのは普通にあったと考えられています。

孫堅の死

桓階が郷里に帰った後に、孫堅は劉表を攻撃しますが、黄祖呂公により戦死しました。

この時に、孫堅の遺体は劉表の元にありましたが、桓階は劉表の元に赴き、孫堅の遺体を請うた話があります。

一歩間違えれば、桓階は殺害されていたわけであり、危険を犯して劉表に会いに行った事になるでしょう。

三國志演義では孫策が捕虜にした黄祖と孫堅の遺体を交換する事を望み、三国志演義でも桓階が交渉役となっています。

ただし、正史三国志を見ると黄祖が孫堅軍の捕虜になった話はありません。

それでも、孫堅の遺体を取り戻す事が出来たのは、史実でも桓階のお陰だと言えるはずです。

劉表も桓階の義侠心に心を動かされ、孫堅の遺体を桓階に引き渡しました。

ただし、ここで桓階を処刑しなかったのは、劉表にとってみれば災いの種となり帰って来る事となります。

張羨の乱

曹操と袁紹は西暦200年頃に、雌雄を決するべく激突しました。

これが官渡の戦いです。

官渡の戦いの時に、劉表は袁紹と結び曹操を挟撃するべく動いています。

しかし、この時に長沙太守の張羨は劉表と折り合いが悪く、燻ぶった心でいました。

張羨に対し、桓階は春秋五覇の斉の桓公や晋の文公を例に出し、曹操と結び劉表に反旗を翻す事を勧めています。

ただし、桓階が張羨に反乱を勧めたの動機は不明です。

「孫堅の仇」と思い張羨に反乱を勧めた可能性もあるでしょう。

張羨も勝算ありと判断したのか、長沙及び三郡を率いて劉表に反旗を翻しました。

桓階が張羨をバックアップした事で、反乱の規模が大きくなったのか、劉表は数年が経っても張羨の乱を鎮圧する事が出来なかったわけです。

劉表は官渡の戦いでは、優柔不断から動けなかったとする話もありますが、実際には南方で張羨の乱が起きた事で、動けなかった可能性も十分にあります。

こうなると、劉表陣営の親曹操派の勢力が増したのか、劉表は韓嵩を偵察の為に都に派遣しました。

尚、張羨の乱ですが、張羨が病死してしまい張懌が後継者となりますが、結局は劉表により反乱は鎮圧されています。

劉表の誘いを断る

城が陥落し張羨、張懌の乱は終結すると、桓階は逃亡し身を隠す事となります。

しかし、何を思ったのか劉表は桓階を従事祭酒に任命し、妻の蔡氏の妹を娶せようとしました。

劉表は過去に禰衡を処刑しなかった話があり、南方で名が通っていた人物である桓階を処刑せずに誼を結ぼうとしたのかも知れません。

劉表は過去に桓階が孫堅の遺体を引き取りに来た事を知っており、桓階の事を高く評価していた様にも感じました。

ただし、別説として劉表は猜疑心が強く桓階を誘き出し、殺害するつもりだったとする話もあります。

桓階ですが、劉表の誘いを「自分は既に結婚しているから」と述べ断りました。

これを機に、桓階は病気を理由に官位を去る事となります。

桓階は劉表に仕えるつもりは全くなかったのでしょう。

趙郡の太守となる

劉表の死後に劉琮が後継者となりますが、曹操が南下してくると戦わずに降伏しています。

曹操は荊州に入りますが、桓階が張羨に乱を起こす様に進言した事を耳にします。

曹操は官渡の戦いの時に劣勢に立たされており、味方してくれた桓階を高く評価しました。

曹操は桓階を召し出すと、丞相掾主簿とし趙郡太守としています。

趙郡は北にある事から、桓階は故郷の長沙を離れ北に移動したのでしょう。

尚、桓階は216年頃に虎賁中郎将、侍中になったとする話もあります。

劉巴を推薦

話は前後しますが、赤壁の戦い後の桓階と劉巴の逸話が残っています。

曹操と孫権の間で赤壁の戦いが勃発しますが、大都督周瑜率いる呉軍に敗れました。

曹操は江陵を曹仁に任せ、自身は北方に退いています。

この時に曹操は桓階を、長沙などの三郡に派遣しようとします。

曹操としてみれば、桓階は過去に張羨と共に乱を起こした地が長沙であり、土地勘があると考えたのでしょう。

しかし、桓階は次の様に述べました。

桓階「自分は劉巴には及ばない」

桓階は劉巴を推挙し、辞退したわけです。

曹操は劉巴に意見を求めると、劉巴は次の様に述べています。

劉巴「劉備が荊州を支配しており難しい」

曹操は劉巴に対し「儂が六軍を率いて其方の救援に向かう」と述べた事で、長沙、零陵、桂陽の三郡に呼び掛けを行っています。

しかし、劉巴は結局は劉備に侵攻に対し、対処する事が出来ず、曹操の元にも帰れなくなり、交州の士燮を頼りました。

後に劉巴は心ならずも劉備に仕えますが、本心で言えば魏に仕えたかったのでしょう。

劉巴は差別的な思考の持ち主であり、劉備や張飛などの名士階層以外の人間に対しては、アンチとする心を持っていた様です。

劉巴は桓階の推薦により、酷い目に遭ってしまったとも言えます。

曹家の後継者争い

曹丕と曹植の派閥争い

曹操は後継者を曹丕にしようか、曹植にしようか悩んでいました。

曹丕の方が年長でしたが、曹操は曹植の文学の才能を愛し、後継者を決める事が出来なかったわけです。

曹操陣営では、曹丕派と曹植派に分かれて争う事となります。

曹植派の丁儀の暗躍により、曹丕派の崔琰は処刑され、毛玠が失脚する事態となりました。

毛玠は剛直な人物で在り、フォローする人は皆無に等しかったのですが、桓階と和洽が毛玠を助けています。

毛玠が処刑されず、免職で済んだのは桓階と和洽のお陰だとも言えるでしょう。

尚、桓階は毛玠と同様に剛直な人物で仲間が少なかった徐奕にもフォローを行った話があります。

桓階は人の美点を後推しして伸ばし、欠点を補ったと伝わっています。

桓階に助けられた人は多かったのでしょう。

因みに、桓階は魏諷の乱の時に、失脚した中尉の楊俊の後任に徐奕を推薦しています。

曹操の信頼を得る

曹丕と曹植の後継者争いですが、賈詡の進言もあり、曹丕が後継者に指名されています。

ただし、桓階も曹丕の方が年齢が上で、高い能力と徳を兼ね備えていると、何度も曹操を諫言していた話しがあります。

魏書によれば、曹植の事に対し質問した曹操に対し、次の様に述べた話があります。

桓階「今の太子(曹丕)の仁愛は諸侯第一であり、名は四海の内に明らかとなっております。

太子の仁愛や聖徳、十分な節義を天下の者で聞かぬ者はありませぬ。

それにも関わらず大王様(曹操)は最初に、曹植様の事を私にお尋ねになられました。

私は、この言葉に戸惑いを感じております」

桓階の言葉を聞いた曹操は、桓階が正義を貫き通す事に熱心だと感じ、さらに桓階を尊重したとあります。

桓階は曹丕が後漢の献帝より禅譲され、皇帝となるや尚書令に昇進し、高郷亭侯に取り立てられ、侍中にもなった話があります。

桓階の先ほどの言葉は曹操だけではなく、曹丕の信頼を勝ち得た言葉でもあるのでしょう。

樊城の戦い

劉璋から益州の地を奪った劉備が、定軍山の戦い夏侯淵を破ると、荊州の関羽は北上を始めます。

関羽は曹仁や満寵が籠る樊城を包囲しました。

これが樊城の戦いです。

曹操は于禁龐徳を派遣しますが、天候が味方せず于禁と龐徳は敗れました。

曹操は徐晃を関羽討伐に派遣しています。

この時に曹操は自ら兵を率いて、南方に行こうと考えると、諸将らは次の様に述べています。

諸将「王(曹操)が出陣せねば、戦いに敗れてしまうでしょう」

多くの諸将は曹操の出撃に賛成でしたが、桓階だけは次の様に述べました。

桓階「大王(曹操)は樊城にいる曹仁が事態を対処できるとお考えですか」

曹操は桓階の言葉に「曹仁なら対処出来ると思う」と述べると、桓階と曹操で次の様なやり取りをした話があります。

桓階「それなら曹操様は樊城の曹仁と襄陽の田常が力を出せないのではないか?と懸念しているのでしょうか」

曹操「そのような事はない」

桓階「なら、自ら救援に行こうとするのではなぜでしょうか」

曹操「儂は敵の軍勢が多く徐晃の軍だけでは、上手く行かない事を懸念しておるのじゃ」

この時の曹操は曹仁や徐晃を信頼していながらも、劉備や関羽に勢いがあると感じており、不安に思っていたのでしょう。

これに対し、桓階は次の様に述べました。

桓階「現在の関羽の軍勢は、曹仁の籠る城を幾重にも包囲しています。

この様な危機的な状況において、曹仁が二心を抱かないのは、大王様が外から威圧を掛けているからです。

殆ど助かる見込みがない状況であれば、必ず死を賭して戦う気持ちを持つ事になるでしょう。

死を賭して戦う気持ちを持てば、外部からの強力な救援を得られるものです。

大王は六軍を抑えて余力を示しているのに、なぜ敗戦を心配され、ご自身で救援に行こうとするのでしょうか」

曹操は桓階の言葉を最もと思い、摩陂に軍を駐屯させる事としました。

徐晃は関羽を破り、樊城に籠る曹仁の包囲は解ける事になります。

尚、関羽は呉の呂蒙の策により、捕らえられて処刑されました。

曹操に皇帝になる様に進言

魏と呉が協力して、関羽を倒そうとした時に、孫権は蜀との同盟を破棄し、曹操に上奏文を奉った話があります。

この時に孫権は遜り、自らを臣と称し、天命が漢から魏に移行している事を述べています。

これに対し曹操は「孫権の小僧は、儂に炉の火の上に座らせるつもりか」と述べ、帝位に就く意思がない事を示しました。

しかし、桓階と陳羣は曹操に次の様に述べています。

桓階・桓階「漢は安帝の時代より政治は王室から離れておりますし、皇統は何度も断絶しています。

現在に至っては、称号が存在しているのみであり、一尺の領地も一人の人民も漢のものではありません。

漢王朝の命運は既に尽きており、期限が終わっているのは周知の事実です。

それ故に後漢の桓帝や霊帝の時代には、神秘的な図像や予言書に明るい人々は『漢の持つ五行の気(火徳)は尽き果て、黄徳持つ家が興起に違いない』と述べています。

大王は時運に応え天下の9割を保有しておりながらも、建前上は漢に仕えております」

桓階と陳羣は後漢の安帝、桓帝、霊帝の事を述べ、既に漢は終焉を迎えていると述べたわけです。

実際に、この頃は曹操の最晩年にあたり、後漢の献帝は名前だけの存在となっていました。

さらに、桓階と陳羣は続けます。

「民たちは大王を希望としており、帝位に就かない事で恨み嘆いているのです。

それ故に、孫権は遠くにいながら、臣と称してきました。

私たちが考えますに、虞(瞬)と夏は謙譲の辞を用いず、殷と周は遠慮する事も無く、反対者を処罰追放しています。

天意を畏れ命運をわきまえられ、辞退される事は無き様に願いたいものです」

桓階と陳羣は三皇五帝の瞬や夏、殷、周の古代の帝王を例に出し、曹操が天子となる様に勧めたわけです。

魏氏春秋によれば、夏侯惇も曹操に帝位に就くように述べますが、曹操は周の文王を例に出し、帝位に就こうとはしませんでした。

周の文王は天下の三分の二を握りながらも、殷の紂王に仕え続けた話が残っています。

因みに、桓階と陳羣は「殷と周は反対者を処罰した」とあり、曹操が皇帝になる事に対し、異を遂げる者が出たら、処罰すればよいと述べた事になるでしょう。

仲王朝を開いた袁術などはあっさりと帝位に就きましたが、曹操は皇帝になるのに、かなり慎重だったと言えます。

余談ですが、孫盛は桓階と夏侯惇を比較し、桓階の方が道義に従った生き方をしているとも述べた話があります。

尚、曹操が亡くなり、曹丕が後継者となり魏王となると、桓階は郡臣たちと曹丕が禅譲を受け帝位に就くように進言しました。

因みに、曹丕は儀礼として何度も禅譲を断わり、その度に桓階が禅譲の上奏を読み上げた話があります。

曹丕に帝位に就くように進言した群臣

・劉廙 ・辛毗 ・劉曄 ・桓階 ・陳矯

・陳羣 ・王毖 ・董遇 ・傅巽 ・衛臻

・蘇林 ・董巴

孟達と親しくなる

孟達は劉備に恨まれ、劉封とも仲違いし、魏に亡命しました。

魏では孟達の事をいぶかしむ者も多かったのですが、桓階と夏侯尚は孟達と親しくなった話があります。

孟達が魏で数少ない友人と言えるのが、桓階だったのでしょう。

尚、孟達にとっての不幸は立て続けに桓階、夏侯尚、曹丕と亡くなってしまった事の様に思います。

曹叡が魏の皇帝になった頃には、孟達は上庸にいましたが、居場所を失っており、諸葛亮李厳と手紙をやり取りするうちに蜀に寝返る決断をします。

ただし、孟達は電光石火で動いた司馬懿により斬られました。

桓階の最後

曹丕の存命中に桓階は病に掛かってしまいます。

曹丕は自ら、桓階を見舞うと、次の様に述べています。

曹丕「儂は幼少の子を其方に託したいと思っていた。

天下の運命を其方に預けるつもりである。

頼むから元気になってくれよ」

曹丕は桓階に気を遣ったのか、安楽郷侯に国替えし、六百戸の領有を賜わった話があります。

さらに、曹丕は桓階の三人の子に関内侯の爵位を賜わります。

桓階の病没した子である桓佑には、関内侯の位を追贈しました。

桓階が危篤になると、曹丕は太常に任命しています。

曹丕が桓階に対し、かなり気を遣っている事が分かるはずです。

桓階は曹丕の願いも空しく没してしまうわけですが、曹丕は桓階の死に涙を流し貞侯と諡しました。

曹丕は夏侯尚や于禁に対しては酷い事をしたように感じますが、桓階に対してはかなりまともな対応をしたとも言えるでしょう。

桓階が亡くなると、桓嘉が後継者になった話があります。

桓嘉は升遷公主(内親王)を娶り安楽太守となり、呉の諸葛恪の軍との東関の戦いに参戦しますが戦死しました。

桓嘉が亡くなると、子の桓翊が後継者となり、桓階の血統は続く事となります。

尚、桓階が亡くなった年は不明ですが、曹丕の在位期間は6年ほどしかなく、程なく曹丕も亡くなった様に感じました。

西暦243年の曹芳の時代に、桓階は曹操時代の功臣として、曹操の霊廟に祀られています。

曹操の霊廟に祀られた功臣

曹真曹休夏侯尚桓階陳羣
鍾繇張郃徐晃張遼楽進
華歆王朗曹洪夏侯淵朱霊
文聘臧覇李典龐徳典韋

桓階の能力値

三国志14統率10武力25知力67政治78魅力68

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