前漢 春秋戦国時代 秦末期・楚漢戦争

史記のあらすじ(本紀)と感想で歴史の流れを掴む

2021年3月27日

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宮下悠史

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司馬遷の書いた史記には、本紀という部分が存在します。

史記の世家が諸侯の歴史を記載されているのが特徴ですが、本紀は古代からの中国を治めた帝王を書いた部分になります。

五帝本紀の皇帝から始まり、夏・殷・周・・西楚(項羽)・漢(武帝まで)の歴史が書かれている部分です。

史記の本紀を読めば、史記のあらすじが分かりますし、人物を書いた列伝の部分も非常に分かりやすいかと考えています。

今回は、史記のあらすじとして、本紀の部分にスポットを充ててみました。

尚、上記の画像は中国帝王図の黄帝を描いた画像です。

中国人の起源が黄帝にあると考えている人も多く、「すべてはこの人(黄帝)」から始まったと思っている人も多いです。

黄帝は五帝本紀で最初に登場する人物となっています。

五帝本紀のあらすじ

五帝本紀と言うのは、伝説上の5人の帝王を紹介した部分となります。

中国の伝説では、五帝の前に三皇がいたともされていますが、司馬遷もさすがに三皇は、存在が疑わしいと考えて、五帝本紀を最初に置いたのでしょう。

尚、後の世に史記はいくつも注釈が書かれていますが、注釈版では三皇の部分が出て来たりします。

しかし、三皇の姿は人間の形をしてないなどの問題もあり、受け入れがたい部分も司馬遷にはあったのではないかと考えています。

五帝本紀ですが、名前からも分かるように5人の聖帝を指しているわけです。

史記では黄帝・顓頊 ・嚳・堯・舜の5人を五帝としていますが、戦国策、淮南子、易経、礼記などによってメンバーが違ってきます。

五帝の中に、炎帝が入ったりするわけです。

春秋戦国時代に春秋五覇という権力を持った5人の諸侯が現れますが、必ず入るのは斉の桓公と晋の文侯がいます。

しかし、五帝の場合は必ず入るメンバーがいないという不思議な事態になっているわけです。

実際に、五帝のメンバーは本当にいたのかも分かりませんし、あくまで想像の中の人物の可能性もあります。

尚、五帝本紀の中には、黄帝が蚩尤との戦いで猛獣を使った話や指南車を作った話などもあります。

他にも、尭の後継者に瞬がなる話や、瞬の親孝行の話なども存在するわけです。

ただし、五帝本紀は遺跡が見つかっていない夏王朝よりも、さらに前の時代の話でもあり真実なのかは微妙な所があります。

しかし、日本人が神武天皇を信じている人が多いように、中国人が黄帝の存在を信じている人も多くいるのが現状です。

尚、五帝の時代は血縁関係よりも、徳が高いかどうかが帝王に選ばれる要素だったともされています。

ただし、尭と瞬の関係に疑問を持つ人もいるのが現状で、史記では尭は徳が高い瞬に位を譲った事になっていますが、山海経には「囚堯城」という言葉があり、尭は実力者の瞬に強制的に退位を迫られたという人もいます。

しかし、どれが本当なのか?全て想像の域なのかは、当時の書物も遺跡も一切なく、何も分からない状態となっています。

尚、血縁による世襲王朝となるのは、夏王朝以降からです。

余談ですが、キングダムでも有名な秦の始皇帝は、皇帝となりますが、「皇帝」という名称は三皇五帝から「皇」と「帝」の字を抜き取って出来た言葉だと言われています。

夏本紀のあらすじ

夏本紀のあらすじですが、大半が禹の治水工事の話となっています。

禹の父親である鯀は、治水事業に失敗して処刑されていますが、禹は水を上手に流す事により成功させています。

一般的には、禹から世襲王朝が始まったと言われていますが、禹は益という人物に位を譲って死んだわけです。

しかし、益は帝位に就いたが、禹の子である啓に帝位を譲るつもりで、啓の方に諸侯が集まった為に、これにより世襲王朝である夏王朝が始まっています。

啓が益を殺して帝位を奪ったとする説もあるのですが、これも伝説上の話で真実は分からないと言ってよいでしょう。

夏王朝ですが、大半が帝位に就いた人物の名しか分かっていなくて、延々と即位した人物名が流れるだけです。

ただし、途中で「帝太康」が国を失うという記述があるのですが、ここでも何事もなかったかの様に、「太康崩ずる。弟、中康立つ。」とあり、王朝が続いています。

夏王朝の記事でも書きましたが、国を失ったのに、国が続くのは変な話ですが、竹書紀年や春秋左氏伝によれば后羿や寒浞により、国を乗っ取られた事になっているわけです。

しかし、后羿や寒浞の記述が夏本紀には一切書かれていません。

ここは司馬遷があえて書かなかったのか、伝説が上手く採取できなくて書かなかったのかは不明です。

夏本紀と言っても、分かる事は即位した人物名くらいで、大半の人物は実績すら書いてありません。

夏王朝の最後の王となる傑王は、頭がよくて力も強かったが、末喜という女性を溺愛して、さらに民衆を弾圧した暴君だったと描かれています。

そして、天命を受けた殷の湯王に滅ぼされた事が簡単に書かれていて、夏本紀は終わります。

夏本紀ですが、内容が非常に少ないですし、物語性も少ないと言えるでしょう。

尚、夏の傑王は殷の紂王と並び、伝説的な暴君として二人をまとめ傑紂と呼ばれる事もあります。

殷本紀のあらすじ

史記の殷本紀のあらすじですが、湯王が徳が高い人物として描かれています。

そして、配下に伊尹がいた事も書かれていて、夏の傑王により夏台に幽閉されるが、許されて国に帰ると善政を行った事が書かれているわけです。

殷ですが、何度も都を移した話と、衰えたり盛んになったりを繰り返した事が書かれています。

遷都すると、景気がよくなるのか殷が再興する事が多いようです。

簡略な記事ですが、殷の高宗武丁の時代に、夢の中に出て来た聖人傅説を見つけ出して宰相にすると国が興隆した話もあります。

殷の武丁の時代から甲骨文字が多く見つかるようになり、この頃から伝説の時代を徐々に抜け出してきます。

文字がなかった先史時代から文字により歴史を残す様になった有史時代に突入したと言ってもよいでしょう。

ただし、甲骨文字が見つかったと言っても、大半は占いの記述のようで、歴史が分かる資料は少ないとも言われているわけです。

それでも、甲骨文字の発見と解読により、史記に書かれている殷王の即位した順番などは、ほぼ正確だという事も分かってきました。

この辺りは、司馬遷の収集能力の高さがよくわかるわけです。

殷王朝の最後の王である紂王は、夏の傑王同様に暴虐な人物として描かれています。

炮烙の刑などの残酷な刑罰を行ったり、豪勢な酒池肉林などを好んだ話もあるわけです。

他にも、諫言した比干を殺したりしたり、妲己を寵愛した事などが書かれています。

ただし、夏の傑王同様に、猛獣を素手で倒せる事や頭が良い事も書かれています。

史記では、紂王は完全な暴君ですが、当時の資料なども見つかっていて、それによると紂王は国威を高揚させた話も残っています。

実際に私の見解ですが、紂王は史記に出て来くる人物とは、全く違う精力的な君主だったのではないかと考えています。

ただし、殷が牧野の戦いで周の武王に敗れて滅亡したのは事実でしょう。

尚、殷から周に時代が移る時代を殷周革命と呼ぶ場合もありますし、封神演義などの舞台にもなっています。

周本紀のあらすじ

周本紀のあらすじですが、文王が即位した話などから始まります。

周と言う国は、武王から幽王までの周王が諸侯よりも力を持っていた時代を西周と呼び、周の平王からの洛陽に遷都した時代を東周と呼びます。

東周は春秋戦国時代とも呼ばれている事で有名です。

西周王朝

周の文王は、徳が高く国をよく治めた事が書かれています。

さらに、豊邑を建設した事や崇侯虎を討った話なども出て来るわけです。

他にも諸侯同士の争いを調停するなど、既に大きな人望を得ている事も記載されています。

しかし、文王は殷の紂王により幽閉されてしまいますが、文王の家臣である散宜生らが、紂王に贈り物を送った事で許されて周に戻った話もあります。

この暴君に幽閉される話は、殷の湯王が夏の傑王に夏台に幽閉された話も載っている為、作り話では?と考える人もいます。

尚、別の資料では文王の時代に天下の三分の二は周のものだった話もあるわけです。

周の文王の時代に、既に周は強大なる勢力になっていた事は間違いなさそうです。

周の文王の時代に、軍師である太公望呂尚、召公奭らの力もあり国力は大幅に増強されたのでしょう。

しかし、文王は天下統一する事は無く、息子である武王が殷の紂王を牧野で破り周が天下の主となります。

武王は紂王を倒しますが、2年後に亡くなってしまい、子である周の成王が即位します。

成王は子供だったようで、武王の弟である周公旦が摂生として、政治を行ったようです。

しかし、文王の子である管叔鮮、蔡叔度、霍叔処らが、紂王の子である武庚と共に反乱を起こした記述もあります。

世に言う三監の乱です。

それでも、周公旦が鎮圧していますし、周王朝は成王、康王の時代に全盛期に突入した事が書かれています。

しかし、康王の後継者である、周の昭王の代から王道が衰えていく記述があり、穆王などは遠征もしていますが、成功したような失敗したような記述すらあります。

厲王(れいおう)の時代になると、暴政を敷いた為に国人が反乱を起こして、厲王は鄭に追放されてしまいます。

周は王位が不在となりますが、周公と召公の二人が共に政治を行った事から、周の共和という時代となります。

周の共和以降は、年代がはっきりとしてきて、ほぼ正確な記述となってきます。

共和が終り周の宣王が即位すると、一時は国が復活したような記述もありますが、治世の後半は失政が目立つわけです。

そして、西周王朝最後の周の幽王の時代となると、幽王は妃である褒姒を喜ばせるために、オオカミ少年的な行為を連発しました。

周は申公と犬戎に攻められてしまうわけですが、周の幽王が助けを呼んでも、鄭の桓公しか救援に来なかった事で、周は首都である鎬京を陥落されてしまい幽王も戦死して西周時代が終わります。

東周王朝と春秋戦国時代

西周王朝は幽王の代で終わりますが、子である平王は洛陽を都として王朝を開きます。

史記には無いのですが、実際には周には携王を指示するグループもいたようで、二王朝並立時代となっていたようです。

しかし、平王が即位した20年後には、平王派の晋の文侯が携王を殺害しています。

これにより周王朝は統一されましたが、周王よりも諸侯の方が力がある事を内外に露見されてしまう結果となり、乱世の時代に突入します。

日本で言えば室町幕府の権力が低下した事で起きた戦国時代の様な時代になってしまったわけです。

平王の時代からは東周時代とか春秋戦国時代と呼ばれています。

春秋五覇の活躍

春秋時代ですが、諸侯同盟の時代とも言えます。

春秋五覇と言われる権力を持った諸侯が現れ、周王に代わって覇者となり小国を守ったりもしました。

ただし、小国は莫大な額を覇者に捧げなければならなかったわけです。

春秋五覇は、斉の桓公、晋の文侯、楚の荘王、秦の穆公、宋の襄公、越王句践、呉王夫差、呉王闔閭などが有名と言えます。

尚、春秋五覇と言っても、書物によりメンバーが違い、一概にこの人が春秋五覇だとは言えない部分もあります。

それでも、斉の桓公や晋の文侯だけは、春秋五覇に必ず入るわけです。

この点が五帝に比べると、曖昧さがないと言えるでしょう。

春秋五覇は、周王朝の内紛なども治めるなど、周王朝に対しても多大なる貢献をしています。

東周時代の前半は、覇者の時代とも呼べるでしょう。

しかし、周王は春秋時代では権威が残っていましたが、戦国時代に入ると力を完全に失ってしまい、諸侯も王を名乗るようになるわけです。

春秋時代と戦国時代の分かれ目は、春秋時代の超大国である晋がの3家に分裂した時を指す場合が多いと言えます。

戦国時代は周王朝の存在感がない

戦国時代に入ると、勤王の精神はほぼ無くなり、諸侯が勝手に王を名乗ったりしています。

秦、の7つの大国(戦国七雄)が争う時代に突入する事になります。

周本紀の記述も王の名前ばかりが出てくるようになるわけです。

東周は微々たる力しかなかったわけですが、その東周もさらに西周と東周の二つに割れてしまうわけです。

西周に周王は養われていたわけですが、赧王の時代に韓と魏と手を組み、秦に攻撃を加えようとしました。

しかし、秦の摎(きょう)に攻められて事実上の滅亡を迎えます。

東周も残っていましたが、7年後に秦に滅ぼされて周王朝は滅亡しました。

秦本紀のあらすじ

秦本紀のあらすじを解説します。

秦本起は、秦国が誕生して滅亡するまでが書かれています。

秦が正式に諸侯となるのは、周の平王の東遷を助けた時です。

ここで秦の襄公は奮戦した事で、周王に認められて正式に諸侯となった事が記載されています。

春秋時代に秦の穆公は、晋の君主を恵公にしたり、文公(重耳)としたり、戎を討って国威を高揚させた事が書かれています。

秦の穆公は名君とされていますが、亡くなった時に、殉死者が大量に出てしまった事で、秦は頭脳集団を一気に失ってしまったようです。

その後も、秦は続きますし、強国として続いてはいますが、時代の中心にいる事は出来ませんでした。

春秋時代は、晋との南北の戦いが多く、晋と楚が時代の主役となっています。

それを東の斉と西の秦が固めるような感じなのが、春秋時代の特徴です。

戦国時代に入ると、秦の孝公は商鞅に政治を任せて、法治国家に変貌させる事に成功します。

これにより国力を高めて徐々に他国の領土を奪っていくわけです。

戦国時代の中期には、秦と斉の二大強国時代となり、短期間ではありますが、帝も名乗っています。

秦は昭王の時代に白起が大活躍し、他国の領土を次々に奪い、秦を圧倒的な強国としました。

秦は商鞅が死亡した後も、法律は残っていますし、張儀、范雎魏冄呂不韋などの名宰相が現れて国を強くしています。

そして、嬴政(始皇帝)の代となると、李斯を宰相として天下統一を成し遂げているわけです。

ただし、始皇帝死後にわずか4年で、楚の項羽に滅ぼされています。

始皇本紀のあらすじ

始皇帝の時代から、本紀が個人の話に変わっていきます。

始皇本紀ですが、幼少時の話や始皇帝の性格なども書かれています。

さらに、焚書坑儒や度量衡の統一、阿房宮の建設の話などもあります。

統一後に、各地を巡幸した話もありますし、王翦王賁李信、李斯などの名臣がいた話もあるわけです。

さらに、統一後には蒙恬に命じて万里の長城を作ったり、匈奴を遠征した話などもあります。

尚、始皇帝はガチガチの法治国家を作ろうとしますが、長男の扶蘇は諫言したわけです。

ここで始皇帝は、扶蘇に対して北方にいて匈奴に睨みを利かせている、上郡にいる蒙恬の元に行くように命じています。

始皇帝は不老不死を目指したりするなどの行為もあり、結局は体調を崩してしまいます。

占いにより巡幸を行うわけですが、結局は巡幸の最中に亡くなってしまいました。

始皇帝は、蒙恬の元にいる長男の扶蘇を後継者に指名しますが、宦官趙高が握りつぶし、丞相の李斯を説得して末子である胡亥を2世皇帝として即位させます。

趙高は蒙恬、蒙毅などを理由を付けて処刑していますし、二世皇帝も秦のその他の公子を虐殺したわけです。

胡亥、趙高は自分の存在を脅かす存在は許しませんでした。

趙高は、さらに李斯も罪に陥れて殺してしまいます。

趙高は朝廷を牛耳り「馬鹿問答」なるものまで行っていますし、秦の朝廷は完全に腐敗して行きます。

こうした状況の中で、陳勝呉広の乱が勃発し、それに応じて全国に反乱が広がったわけです。

秦の囚人兵を率いた章邯が、首謀者である陳勝を討ち取る事に成功しますが、中国全土で秦に対しての反乱は収まりません。

その後、章邯は楚(反乱軍)の実質的な指導者である項梁も討ち取り、後は秦の正規軍を率いる王離が趙を滅ぼせば、反乱が収まる一歩手前までいくわけです。

しかし、王離が鉅鹿の戦いで援軍に来た楚の項羽に大敗し、章邯も降伏しました。

趙高は、二世皇帝を殺害しますが、後を継いだ子嬰に暗殺されています。

子嬰は、秦王となりますが、楚の将軍である劉邦に敗れて降伏しました。

さらに、項羽が函谷関を破り、秦の都である咸陽に到着すると、子嬰を処刑し秦は滅亡したわけです。

因みに、秦は始皇帝が6国(・楚・)を滅ぼしてから15年、始皇帝が崩御してからは、わずか4年で滅亡しました。

500年の乱世に終止符を打った秦ですが、政治が余りにも苛酷であった為に、始皇帝の死と共に全国に反乱が広がり滅亡したと考えられています。

尚、原泰久先生が描くキングダムと言う春秋戦国時代を描いた漫画がありますが、そこに登場する秦王である政が後の始皇帝です。

項羽本紀のあらすじ

項羽本紀ですが、実際に項羽が天下を握っていた時期は、非常に短く秦を滅ぼしてから4年ほどで滅んでいるわけです。

項羽と言うのは、力が強く戦闘力で言えば、秦の名将である白起にも匹敵しますし、中国で名将の中でもトップ10に入る位の戦闘力があったように思います。

その武力で、秦の正規軍30万を撃破して、趙を救っています。

さらには、秦を滅ぼしていますし、楚漢戦争の時代に入ると、彭城の戦いで劉邦軍56万を3万の兵士で破るなど、圧倒的な強さを見せているわけです。

劉邦とも度々、戦争を起こしましたが、その大半が項羽の勝利に終わっています。

ただし、軍師の范増が去った後は、全体的な戦略に欠けてしまい、劉邦と戦えば勝利をするわけですが、兵站を絶たれてしまったり諸侯が劉封に味方するなどもあります。

項羽が率いる軍隊は必ずと言ってよい程、勝利を得たのですが、最後の垓下の戦いで劉邦に敗れて天下を完全に失ってしまいました。

尚、史記の項羽本紀では、司馬遷は同情的な描き方をしていますが、項羽を評価する段階になると、酷評しているわけです。

司馬遷の二面性が上手く見る事が出来るのが項羽本紀であると言えるでしょう。

高祖本紀のあらすじ

高祖本紀のあらすじですが、劉邦が農民だった時代から描かれています。

劉邦は仕事もせずに、遊んでばかりいるような人だったわけですが、不思議と人気があったわけです。

始皇帝が崩御して社会不安になると、頭角を現していき、咸陽に一番乗りしますが、結局は天下は項羽に譲らなければなりませんでした。

項羽により漢王に任じられますが、項羽が斉の田栄を討伐に行くと、反旗を翻しています。

そして、元の秦の地を奪い項羽と戦いますが、形勢は不利な状態が続きます。

しかし、国士無双の名将と言われた韓信が北方の趙、燕、斉などを制圧すると、形勢は変わっていきます。

最後は、疲れが溜まっている楚軍と和睦を結ぶわけですが、裏切って攻撃を掛けて項羽を敗北させる事に成功します。

その後、天下統一して皇帝になったわけです。

劉邦が天下を統一出来た理由ですが、本人の言うには、韓信、張良蕭何の3人を上手く使う事が出来たからだそうです。

それに対して、項羽は本人は強かったが、部下の能力を上手く使う事が出来なかった為に、敗れたと言われています。

この辺りは、現代にも通じる所があるのでしょう。

しかし、統一後の劉邦は猜疑心が旺盛となり、韓信、彭越などの功臣を殺害していますし、劉氏以外の王位に就いていた者の大半は処罰しています。

黥布あたりは、劉邦に討伐される事を恐れて自分から反乱を起こしますが、敗れて死亡しました。

ただし、劉邦は黥布と戦っている最中に弓矢を受けてしまい、矢傷が原因で後に崩御しています。

意外に思うかも知れませんが、史記には劉邦という名前は登場しません。

「お上」とか「沛公」などの呼び方で出て来ます。

劉邦という名前が登場するのは、漢書からであり、本当に「劉邦」という名前だったのかも、疑問視されているほどです。

名前が分からない位、身分が低い人物だったという事なのでしょう。

尚、項羽と劉邦の話は数多くの小説にもなりましたし、横山光輝先生の漫画にもなった事で知っている人も多いはずです。

呂后本紀のあらすじ

劉邦が崩御すると、恵帝が即位しますが、実権は恵帝の母親である呂后が握っていました。

そのため、恵帝本紀ではなく、呂后本紀としたのでしょう。

呂后が凄まじい程の粛清を始めて、劉氏の一族なども次々に、処刑されていきます。

劉邦時代の功臣たちも陰を潜めて、陳平あたりは、酒と女に明け暮れて呂后の注意を逸らせたほどです。

恵帝は、呂后よりも先に亡くなってしまうわけですが、その後も呂后は権力を握り続けています。

さらに、呂后は呂氏の一族を王位に就けたりと呂氏を繁栄させていきます。

しかし、呂后が亡くなると、劉邦時代の重臣である陳平や周勃が立ち上がり、呂氏を滅ぼしました。

呂后本紀を見ると、呂后は大臣達にかなり嫌われていた存在だと言う事が分かります。

しかし、司馬遷の評価の段階になると、呂后の政治は宮廷の中で揉めているだけであり、庶民は平和であったような事が書かれているわけです。

呂后は大臣には嫌われていましたが、庶民に対しては人気があったのかも知れません。

余談ですが、呂后は戦国時代の秦の宰相であった、呂不韋の子孫とも言われています。

孝文本紀のあらすじ

孝文本紀のあらすじを紹介します。

孝文帝とも呼ばれていますが、文帝と呼ばれている事の方が多いです。

ここでは、それに合わせて文帝と呼ぶ事にします。

文帝は劉邦の息子であり、腹違いではありますが、恵帝の弟になります。

呂后は、劉邦の息子や親戚などを次々に滅ぼしたわけですが、文帝(劉恒)の場合は、劉邦に可愛がられていたわけでもありませんし、母親の薄姫も劉邦の寵愛を受けたわけではありません。

さらに、僻地である代王に任命されてはいましたが、呂后からして見れば眼中にない存在だったのでしょう。

そのため呂后の粛清があった時代でも、漢の文帝は生き残る事が出来ました。

呂氏が倒れた時に、大臣達の間では、誰を次の皇帝になってもらおうかと議論が行われたわけです。

その時に、恵帝の兄の子である斉の哀王は、呂氏討伐において気概を見せた為に、候補に選ばれていますが、親戚が腹黒いなどの評価もあり、結局は劉邦の子である劉恒が文帝となります。

文帝ですが、陳平、周勃、袁盎などの助けもあり、小さな失敗は何度もしていますが、大過なく政治を行っています。

それにより漢の財政は好転して行きます。

文帝は、最後の聖王と考える人もいる位の皇帝です。

景帝本紀のあらすじ

文帝が崩御すると、景帝が跡を継ぎます。

景帝は、晁錯を使い中央集権化を進めていきます。

諸侯王の勢力を削って、漢の皇帝の力をさらに強めようとする政策です。

これに反対したのが、呉王劉濞であり諸侯王と共に反乱を起こします。

これを「呉楚七国の乱」と呼ぶわけです。

諸侯王が領土を削減される事に対して反対して、反乱を起こしています。

しかし、周亜父が漢軍を率いて乱の鎮圧に成功しました。

諸侯王が不満を持って反乱を起こしただけで、民衆の支持を得ていなかった為に、短期間で呉楚七国の乱は鎮圧されています。

周亜父は、その後に丞相となりますが、景帝と何度も意見衝突があり、結局は失脚して餓死してしまいました。

漢の景帝の時代は、呉楚七国の乱はありましたが、諸侯王の力を削ぐ事にも成功して、漢の財政はさらに良くなり国庫は充実したわけです。

文帝と景帝の時代の事を「文景の治」とも呼ばれていて、後世の歴史家からも評価された時代でもあります。

尚、三国志劉備は、中山靖王劉勝の子孫を名乗っていますが、劉勝は景帝の息子のうちの一人です。

武帝本紀のあらすじ

本紀の最後ですが、武帝の時代で終わりとなります。

司馬遷が武帝の時代の人物でもあり、ここで史記が終ってしまうのは、当然の事と言えるでしょう。

武帝ですが、非常に評価が別れる人物でもあります。

武帝の時代の前半は、衛青や霍去病などの名将がいて、匈奴討伐に成功して漢の領土を大きく広げています。

これを考えれば名君と言えるかも知れません。

しかし、漢の武帝は、民政には興味が無かったとも言われていて、災害にあった何十万人もの民を救済しなかった話もあります。

因みに、司馬遷は匈奴討伐に向かった李陵を庇った事で、武帝の恨みを買い宮刑にされています。

この事が史記を作りあげる理由の一つになったとも考えられています。

尚、史記の所々に、司馬遷と武帝の関係を重ね合わせたかのような事例が載っているのは、司馬遷の想いが込められているのでしょう。

史記の本紀を読んでみての感想

史記の本紀を読めば、史記のあらすじも分かるのではないでしょうか?

最初に言ったように、諸侯の話は世家に書いてあり、個人の部分は列伝の部分に書かれています。

それを考えれば、史記は本紀を読めば、古代中国の歴史のあらすじが分かるとも言えます。

史記の本紀を読んでみての感想ですが、古代の方がどちらかと言えば面白いと思いました。

始皇帝以後は、一人一人の人物にスポットを充てていますが、どこか面白味が無いような気もするわけです。

特に項羽と劉邦の争いが終り文帝の時代に入ると、司馬遷もダレて来たのか?読み応えが無くなってくるような気もしました。

五帝本紀や夏本紀辺りは、実在したのかも分かりませんが、そこが魅力なのかも知れません。

日本で言う邪馬台国と同様に、ある程度の不明な点があった方が、面白味を感じるのでしょう。

因みに、中国の歴史は西周王朝とか、東周の初期の辺りまでが自分的には好きな感じです。

実際に書いていても、楽しいのは、その辺りの時代であったりもするわけですが、残念ながら需要が全くなく、書いても読んでくれる人がほとんどいない事態となっています・・・。

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