三国志 魏(三国志)

徐璆(じょきゅう)は玉璽を朝廷に返還

2022年7月22日

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宮下悠史

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名前徐璆(じょきゅう) 字:孟玉(孟平とする場合もあるが間違いだとされている)
生没年不明
勢力曹操
一族父:徐淑
画像三国志(コーエーテクモゲームス

徐璆の字は孟玉であり、清廉な人物として名が通っていたとあります。

正史三国志に伝はありませんが、呉の謝承の後漢書に伝があります。

正史三国志では武帝紀の注釈である「献帝起居注」「先賢行状」や和洽伝の注釈「汝南先賢伝」に名前が見られます。

徐璆は自分の考えを曲げない人であり、清廉な人物である事から、汚職官僚や権力者からも恐れられた人物です。

徐璆は三国志演義にも登場しますが、袁術の死後に袁胤が持っていた玉璽を奪い、曹操に届けています。

尚、この動画を作るにあたり上記の動画が非常に役立ちました。

徐璆の事が知りたければ、この動画を見ておけば問題ないでしょう。

この記事に関しては、この動画の書下ろしに近い感じにもなっております。

国家を優先

徐璆は名士であり、徐州広陵郡海西県の出身です。

父親は孝廉になれなかった話もありますが、辺境の地において度遼将軍として活躍した徐淑だと記録されています。

徐璆は潔白な人物というだけでなく、学問にも通じており、役人となるや段々と出世し、三公の役所から招かれ荊州刺史に任命された話があります。

徐璆は荊州刺史となるや、任地に赴く事となります。

荊州の南陽郡の太守は、張忠であり、董太后の姉の子に当たる人物です。

董太后は霊帝の母親でもあり、絶大な権力を持っており、張忠は董太后の権力を笠に着て、数億銭もの賄賂を取った話があります。

董太后は徐璆が荊州刺史になると聞くや、宦官を徐璆の元に派遣し、張忠を取り締まらない様に依頼したわけです。

しかし、徐璆は「私は国に仕えているのであり、太后様の命令であっても聞く事は出来ません」と答えました。

徐璆は権力者の董太后の命令を撥ねつけたわけです。

徐璆の態度に激怒したのが、董太后であり、董太后は逆に張忠を司隷校尉に任命し、徐璆をいつでも取り締まれる身分としました。

董太后は、こうしておけば徐璆は何も出来ないと考えたのでしょう。

徐璆は何かあれば、司隷校尉の張忠に取り締まられてしまう立場でした。

しかし、徐璆は張忠の事を容赦なく調べ上げ、5つの郡の太守と役人を汚職を摘発し帳簿の確認を行うなど、張忠のみならず州の浄化に励む事になります。

この頃の荊州は7郡あった話があり、大半の郡では汚職があった事になり、政治の腐敗が伺われます。

こうした徐璆の行動に、荊州の役人たちは震えあがる事になります。

徐璆は帳簿を確認し大司農に提出するなど、正式な手続きを取った事で、張忠も徐璆を摘発する事が出来なかったのでしょう。

袁山松の後漢書によれば「徐璆は若くして高潔であり、朝廷に昇ると色を正した」とあります。

さらに、徐璆は部下達を称揚する事が多く、理想的な人物であったとも言えます。

この時代にあって清廉な役人だったとも言えるでしょう。

黄巾の乱と罷免

徐璆は184年に張角が引き起こした黄巾の乱の、討伐軍に参加した記録があります。

徐璆は朱儁と行動を共にし、張超、秦頡らと共に宛城に籠城した趙弘韓忠の軍と対峙しました。

南陽は黄巾賊の指導者の一人の張曼成が「神上使」を名乗り挙兵した場所でもあり、激戦区の一つだったわけです。

黄巾の乱では徐璆は朱儁と協力し、宛で黄巾賊を打ち破った記録があります。

官軍は、最終的に孫夏を斬り、南陽黄巾賊は壊滅しました。

朱儁の軍には孫堅もいたはずであり、孫堅と徐璆が出会った可能性もあるはずです。

黄巾の乱の時に徐璆を恨んでいた張忠が動き、徐璆に罪があるとして、無理やり摘発してしまいました。

徐璆は本来であれば処罰される立場となりますが、黄巾の乱で功績があった事で、官職の剥奪だけで済んでいます。

尚、黄巾の乱で活躍したにも関わらず罷免されたのは、徐璆だけではなく盧植なども、宦官の左豊に賄賂を贈らず解任されています。

汝南太守に復帰

徐璆は免職されてしまいますが、汝南太守として復帰しました。

ここでも徐璆は清廉な行いをし、その土地を教化しています。

西暦192年頃になると、董卓王允呂布により亡くなり、李傕郭汜らが献帝を手中に収め、政権を握りました。

この時に袁紹とは別に反董卓連合が結成されており「朱儁を太師に推戴する」という文書の中に、汝南太守・徐璆の名前が見えます。

第二の反董卓連合に陶謙や孔融、袁忠、応劭らと共に、徐璆も参加していたわけです。

ただし、徐璆らの願いも空しく数年で陶謙や朱儁が亡くなってしまい、徐璆の狙いも水泡に帰す事になります。

尚、汝南郡の功曹従事に許劭がなっており、徐璆の部下に許劭がいた事になります。

許劭は曹操に「治世の能臣、乱世の奸雄」と評価した事で有名です。

当時は許劭の評価が絶大な権威を持っており、袁紹なども許劭に悪く言われない様な行動を心掛けた話があります。

劉繇配下の太史慈に至っては、酷評されてしまい、孫策が攻めて来た時に将軍に任命されなかった話があります。

徐璆は許劭を非常に敬いました。

徐璆の場合は許劭に人物評価を恐れて敬ったと言うよりは、許劭の様な人物に好感を持っていたのでしょう。

袁術に引き留められる

後に徐璆は東海国相になりました。

献帝が李傕郭汜の元を脱出し、196年に曹操がいる許都に入ると、徐璆は廷尉に任命され都に向かう事となります。

徐璆は都に向かいますが、揚州で勢力を持っていた袁術に引き留められる事となります。

袁術は名士層の陳珪張範金尚馬日磾などを自勢力に取り込もうとした話があり、袁術は徐璆に高位を与え配下に加えようとします。

袁術は仲王朝の皇帝となり、徐璆を「上公」に任命しようとしますが、徐璆は次の様に述べました。

徐璆「古の龔勝や鮑宣は自分の考えを貫いた結果として、命を落としました。

私もここで死のうが、龔勝や鮑宣に倣いたいと思います」

上公は三公よりも上の役職であり丞相、大司馬、太傅にあたるのですが、徐璆は袁術の要請を断ったわけです。

袁術は徐璆に対し、自分の臣下にならぬからと命を奪う様な事はしませんでした。

尚、ここで徐璆の口から出た龔勝は王莽が上卿の位を約束して招くも、辞退し絶食して亡くなった人物です。

鮑宣は三国志で曹操を助けた鮑信の先祖であり、鮑宣もまた王莽に仕えようとせず獄で自害しました。

徐璆も袁術に仕えるなら、自害すると述べた事になります。

ただし、徐璆は袁術の元には残っており、軟禁されてしまったのでしょう。

金尚などは故郷に帰ろうとし、袁術に見つかり処刑されている事から、徐璆は動かなかった事で、袁術から処刑されずに済んだとも言えます。

玉璽を朝廷に返還

袁術は帝位に就きますが、短期間で滅んでいます。

袁術が亡くなった時に、徐璆は玉璽を手に入れた話があります。

玉璽は袁術が亡くなった後に、徐璆の手に渡ったわけです。

この時に、どの様な経緯で徐璆が玉璽を手に入れたのかは分かっていません。

徐璆は玉璽を持ち、許都に向かい玉璽を朝廷に返還しました。

さらに、自分の官職であった汝南太守と東海国相の印綬を返還しています。

この時に司徒の趙温は「徐璆殿は多くの危険を通り抜け、印綬を保持しておられた」と驚いた話があります。

徐璆は次の様に答えました。

徐璆「古の時代に蘇武は匈奴に、20年も捕らえられても、七尺の節を失う事も屈する事もありませんでした。

私が持って来た物は、一寸四方の大きさの判子でしかありません。これは功績ではありませぬ」

この当時は群雄割拠であり、流民と化す民衆が多いなど、朝廷の印綬が帰って来ない事も多かったわけです。

群雄も自分にとって都合の良い人物を独自に、地方官などに任命していました。

こうした中で、徐璆が印綬を持ち帰って来たのは異例だったのでしょう。

それにも関わらず、徐璆が印綬を全うした事で、趙温は驚いたのではないか?と考えられています。

後漢王朝に仕える

徐璆は後漢王朝に仕え太常に任命される事になります。

曹操は河北を平定すると、208年に丞相に就任しました。

この時に朝廷から叙任の使者になったのが徐璆であり、曹操は丞相の官位を徐璆に譲ろうとした話があります。

徐璆は当然ながら、曹操の申し出を断り、曹操が丞相に就任したわけです。

尚、三国志集解によれば、曹操が徐璆に言ったのは丞相の位ではなく、御史大夫の位だったと言います。

それでも、徐璆が受けなかった事には変わりがなく、御史大夫には郗慮が就任しました。

曹操が就任した丞相は、三公の権限を全て持つなど、強い権限を持っており、朝廷で絶大な権力を持つ事となります。

後漢王朝の三公も曹操が丞相となった事で廃止となりました。

徐璆の最後

徐璆の最後ですが、徐璆は太常の在官中に亡くなったとあります。

徐璆が在官のまま亡くなっている事から、急死だったのかも知れません。

尚、徐璆が就いていた太常の位には、張音が後に就任した話があります。

張音は献帝曹丕に玉璽を譲る時に、玉璽を曹丕に渡す役割をしました。

それを考えると、徐璆の死は後漢王朝の滅亡の前である事は明らかでしょう。

徐璆は漢王朝にとっての忠臣であり、後漢王朝の最後を見る事無く亡くなったのは幸せだったのではないか?とする見方もあります。

三國志演義の徐璆

三國志演義の徐璆は第21回「曹操 酒を煮て英雄を論ず 関公 城を賺きとって車胄を斬る」の回で登場します。

袁術がはちみつを所望し、血を吐いて亡くなった後に、袁胤が袁術の棺や妻子を伴い廬江郡まで来ました。

ここで徐璆が袁胤を襲撃し殺してしまい、玉璽を奪う事になります。

玉璽を手に入れた徐璆は許都に向かい、曹操に玉璽を献上しました。

曹操は玉璽を手に入れた事を喜び、徐璆を高陵太守に任命しています。

三國志演義だと徐璆のお陰で曹操は玉璽を手に入れた事になっています。

三國志演義での徐璆の登場は、この部分だけです。

しかし、個人的には、この話は創作だと感じています。

徐璆の性格から考えるに、袁胤を襲撃し玉璽を手に入れると言うのは考えにくいからです。

徐璆の能力値

三国志14統率68武力48知力62政治76魅力56

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