文聘は正史三国志によれば、南陽郡宛県の出身だと記録があります。
文聘は劉表に仕え、劉表が亡くなると劉琮に仕えました。
しかし、劉琮は直ぐに曹操に降伏してしまい、文聘も曹操に降伏しています。
この時の文聘の態度が立派だった事もあり、曹操は呉との最前線である江夏太守に任命しました。
文聘は曹操の期待に応え、孫権が自ら江夏を攻撃した時は、撃退する事に成功しています。
文聘は曹操が亡くなった後も曹丕、曹叡を助け江夏を守り抜いています。
尚、三国志で無敗の武将と言えば徐晃を思い起こす人が多いかも知れませんが、文聘も残っている記録だけを見れば無敗の名将と言えます。
ただし、三国志演義では魏延と一騎打ちをするなどはありますが、基本的に脇役であり見せ場が少ないと言えます。
因みに、正史三国志で文聘は、二李臧文呂許典二龐閻伝に収録されており、李典、李通、臧霸、文聘、呂虔、許褚、典韋、龐徳、龐淯、閻温らと共に文聘伝が存在します。
劉表に仕える
文聘は先に述べた様に、南陽郡宛県の出身でしたが、劉表に仕えています。
南陽郡と言えば、袁術が本拠地とした場所ですが、文聘は袁術には将来性がないと考えたのか劉表に仕えたのでしょう。
ただし、劉表に仕えたのが何年かの記述がなく、袁術が亡くなった後に、劉表に仕えたのかも知れません。
劉表は文聘を大将に任命し、北方への備えとした話があります。
文聘の生年は不明ですが、これが若かりし頃の文聘の姿だった様に感じています。
曹操に仕える
劉表は207年に亡くなりますが、劉表の後妻である蔡氏や蔡瑁、張允などの働きかけもあり、次子の劉琮が後継者となります。
劉表の長子である劉琦は、後継者にはなれませんでした。
劉琮は傅巽、王粲、蒯越などの勧めもあり、曹操への降伏を決断しています。
この時に劉琮は文聘を呼び寄せて、共に曹操に降伏しようとしますが、文聘は次の様に述べました。
文聘「私は預けられた州を保つ事が出来なかったのです。
処罰を待つ身でしかありません。」
文聘は劉琮の元には行かず、現地に残りました。
曹操が漢江を超えた所で、漸く文聘は曹操に頭を下げる為に、姿を現します。
曹操は文聘を見るや「なぜ来るのが遅かったのか?」と問いますが、文聘は次の様に答えています。
文聘「私は劉表様を補佐し、国家に仕える事が出来ませんでした。
荊州の国は滅びてしまいましたが、漢川を拠り所にし守りを固め領土を保持し、みなしご(劉琮)を裏切らず、死しても地下にいる劉表様に恥ずかしくない様にと思っていた次第です。
しかし、計画は頓挫し、どうにもならなくなり、ここまで来ました。
私は慚愧と悲痛の想いで合わせる顔が無かったのでございます」
この時の文聘は涙を流して述べた話があります。
曹操は文聘の言葉に感じる部分が多くあったのか、しんみりと話しかけ、文聘には次の様に述べました。
曹操「仲業(文聘の字)よ。其方は真の忠臣である」
曹操の言葉から分かる様に、曹操は文聘を忠義の臣と高く評価し厚遇したわけです。
文聘は曹操の配下の中では、新参者になるはずですが、曹操は文聘に直ぐに兵を授け、江陵に向かっている劉備への追撃命令を出しています。
長坂の戦いにおいては、曹操軍最強の精鋭である虎豹騎を率いた曹純と共に、文聘は逃げる劉備を追撃しました。
ただし、劉備は劉表の客将として北方の新野に駐屯していたわけであり、同じく北方を守備した文聘とは、顔馴染位ではあった様に感じています。
文聘伝に長坂の戦いの詳しい記述はなく、文聘は同僚の様な存在である劉備に対し、執拗な追撃は行わなかった可能性もあると感じました。
江夏太守となる
曹操は荊州を一度は制圧しましたが、呉の魯粛が劉備を引き込み、周瑜の活躍もあり赤壁の戦いで破れています。
曹操は江陵に曹仁を残し北方に引き上げてしまいますが、江陵も陥落し曹操の勢力は荊州北部の襄陽まで後退しました。
当時の江夏郡は、長江の北岸が曹操の領土となり、南が孫権の領土となります。
呉との最前線でもある長江北岸の江夏に、曹操は文聘を配置した事になるでしょう。
江夏は呉と境を接する事から民心は不安定であり、治めるの難しい地域でもあります。
曹操は文聘に江夏太守とし北方の兵を指揮させ、関内侯の爵位を与えたとあり、曹操の文聘に対する期待の大きさが分かります。
因みに、呉側では江夏の対岸の責任者として、孫堅時代からの宿将である程普を任命しており、文聘は決して油断が出来る様な相手ではなかった事でしょう。
関羽との戦い
尋口の戦い
周瑜亡き後に、劉備は益州を平定するべく、龐統らと張魯を討ち劉璋を助ける名目で西進しました。
劉備は荊州を関羽に任せますが、関羽は尋口に兵を進めています。
文聘伝によれば、この時に文聘と楽進が関羽を討ったとあります。
楽進は魏では張遼と同等クラスの名将であり、襄陽方面に駐屯していたのでしょう。
それを考えると、江陵や公安の辺りから進出した関羽を、楽進と文聘が南北から挟撃し打ち破った様に感じます。
関羽の軍勢を文聘と楽進は撃退した功績があり、文聘は延寿亭侯に昇進しました。
さらに、討逆将軍の官位も文聘に追加される事になったわけです。
これらの褒賞の大きさから、尋口の戦いでの文聘の功績が大きかった事が分かるはずです。
関羽の糧道を断つ
劉備は益州を奪取した後に北上し、定軍山の戦いでは法正や黄忠の活躍もあり漢中を曹操から奪いました。
劉備は漢中王に即位しますが、荊州の関羽も北上を始め曹仁や満寵が籠る樊城を囲みます。
樊城の戦いでは関羽は幸運もあり、于禁や龐徳に勝利を収めています。
この後に、関羽は徐晃に敗れ、孫権が呂蒙の策を取り入れ蜀を裏切りました。
関羽は背後を断たれる事になりますが、魏と呉の間で和議が成立しています。
文聘伝を見ると、下記の記述が存在します
「関羽の輜重を漢津で攻撃し、荊城において船を焼き払った」
魏と呉の和議が成立した樊城の戦いでの最終局面で、文聘は動き出し関羽の糧道を断ったと言う事なのでしょう。
樊城の戦いでは曹仁の粘りと徐晃の救援、呂蒙の策が目立ちますが、実際には文聘も活躍していたわけです。
文聘は玄人好みの活躍をしたとも言えるでしょう。
後将軍・新野侯となる
曹操が亡くなると、曹丕が後継者となり、禅譲により後漢は滅亡し曹丕は皇帝となりました。
曹丕が魏の文帝です。
曹丕は曹操と同様に文聘を重用し、長安郷侯に爵位を昇進させ、符節を与えています。
曹操の時代と変わらず、曹丕の代になっても文聘は江夏を守る事となります。
魏の方では「江夏は文聘に守らせておけば問題ない」という認識があったのでしょう。
三方面作戦
西暦222年になると、曹丕は三方面から呉を攻める作戦を立案しました。
この時に、曹丕は曹真・夏侯尚・張郃・徐晃らに、荊州の南郡に向け進軍させています。
文聘も夏侯尚らと共に江陵を包囲しますが、命令により夏口(沔口)に駐屯する為に向かう事になりました。
文聘は夏口に向かう途中で、石梵で敵の一隊と遭遇戦となりますが、敵軍を打ち破っています。
三方面作戦自体は、全ての地域で魏が呉に敗れますが、文聘には功績があり後将軍・新野侯に昇進しています。
この時点で文聘は、魏では高官となっており、かなり出世したと言えるでしょう。
石陽の戦い
西暦226年に曹丕が崩御し、曹叡が皇帝に即位しました。
この時に呉の孫権は、荊州の襄陽を諸葛瑾に攻撃させ、自ら5万の兵を率いて文聘を石陽で包囲しています。
石陽の戦いで、孫権は大軍にものを言わせ、激しく攻撃しますが、文聘は城を堅守し鉄壁の守りを見せます。
孫権は20日ほど、石陽を包囲しましたが、城を陥落出来ないと判断したのか撤退しました。
孫権が撤退したと知るや、文聘は追撃を行い、孫権の軍に損害を与えています。
石陽の戦いは文聘の最大の見せ場だとも言えるでしょう。
ただし、魏略には別説があり、孫権が大軍で攻めて来た時に、石陽の城では防備がまだ完成していませんでした。
そこで、文聘は一か八かの策に出て、あえて官舎を出ず寝てばかりいたわけです。
文聘が戦おうとしないのを見た孫権は「敵に罠があるに違いない」と判断し、撤退した話があります。
これが本当であれば、文聘は諸葛亮の空城の計の様な策を行った事になるのでしょう。
文聘は孫権を退けた功績により、五百戸を加増され1900戸になった話があります。
文聘は魏の臣下の中では、最上位の人物ともなったわけです。
文聘の最後と子孫
文聘の最後ですが、西暦何年に亡くなったのかがよく分かりません。
しかし、江夏太守を数十年こなした話があり、226年の石陽の戦いまでは生存確認が出来ます。
それを考えると、曹叡の時代に亡くなったとみるべきでしょう。
文聘は壮侯と諡されました。
文聘の一族では、文聘の子である文岱が列侯となり、甥の文厚が関内侯になった話があります。
ただし、文岱は文聘よりも先に亡くなっており、文聘の養子である文武が後継者となります。
曹芳の時代である嘉平年間(249年~254年)に、魏では桓禺という優れた人物が江夏太守となりますが、文聘の次という評価だった様です。
三国志の時代において江夏太守と言えば黄祖のイメージが強いかも知れませんが、実際には文聘の方が活躍したとも言えるでしょう。
尚、文聘は西暦243年の曹芳の時代に、曹操の霊廟の堂前の広場で祀られた記述があります。
祀られた文聘と共に祀られた人物は、下記のメンバーとなっています。
上記のメンバーを見ると分かる様に、曹操の覇業を助けた人物だと言う事が分かるはずです。
余談ですが、文聘らが曹操の霊廟に祀られた後の記述が、倭国の女王卑弥呼が使者を魏に派遣し貢物を献上した話となっています。
三國志演義の文聘はパッとしない??
これまでの記述を見ると史実における文聘は、失敗した記録も戦いに敗れた記録もなく、着実に実績を積み上げ江夏を数十年に渡り、守り切った優れた人物だと言う事が分かるはずです。
しかし、明代の小説である三国志演義では、文聘がパッとしないと思える役柄となってしまいました。
最初の登場ですが、劉表の配下時代に、蔡瑁の命令で劉備の護衛をしている趙雲を、王威と共に引き離すのが役目です。
後に劉表が亡くなり、劉琮が立つと劉備は襄陽に入ろうとしますが、城内では劉備の入城を拒否しました。
この時に魏延が劉備を襄陽城の中に入れようとし、文聘と一騎打ちをしています。
劉備は長坂の戦いで文聘を見かけると、文聘を「裏切り者」と呼び、文聘は退散しました。
長坂の戦いでの劉備と文聘のやり取りは、もちろん史実ではありません。
三國志演義だと文聘は赤壁の戦いにも登場し、前哨戦では周泰や韓当と戦いますが敗れ去り、赤壁の本戦では黄蓋に肩を弓で射られて負傷しています。
曹操軍は黄蓋の火計により敗走しますが、文聘も毛玠に救助され命からがら敗走しています。
後に文聘は曹操と共に関羽に見逃されるなど、史実にはない部分が多く混ざっているのが現状です。
曹操と劉備の漢中争奪戦にも文聘は登場しますが、特に見せ場もなく定軍山の戦いは破れ去りました。
曹丕が徐盛と戦った時は、文聘が曹丕を背負って逃げるなどの話もありますが、基本的に文聘は三国志演義ではパッとしな役柄だと言えるでしょう。
史実で文聘が魏の外様の中で、トップに君臨する様な実績を挙げた事を考慮すると「気の毒」な気がしてなりません。
正史三国志では無敗の将軍にも関わらず、三国志演義では情けない姿にも見えるわけです。
尚、三国志演義では蜀贔屓で描かれている事で周瑜、魯粛、司馬懿、曹真などと共に文聘もパッとしない役柄を与えられたと言えるでしょう。
文聘の能力値
三国志14 | 統率83 | 武力82 | 知力66 | 政治68 | 魅力70 |