名前 | 孟達(もうたつ) 字:子敬→子度 |
生没年 | 生年不明ー228年 |
時代 | 後漢末期、三国志 |
主君 | 劉璋→劉備→曹丕→曹叡 |
年表 | 196年 益州に移住 |
213年 劉備から宜都太守に任命される | |
220年 魏に寝返る | |
画像 | ©コーエーテクモゲームス |
孟達は劉璋、劉備、曹丕、曹叡に仕えた人物であり、正史三国志にも登場する人物です。
孟達の父親は孟他であり、策を使い霊帝の時代に絶大なる権力を持った張譲に近づき涼州刺史にまでなっています。
孟達の家は名士とは言えないのかも知れませんが、裕福な生まれだったと言った所でしょう。
孟達は容姿端麗であり弁舌も巧みでしたが、損得勘定で動く人でもあり、最後は身を滅ぼす事になりました。
孟達は裏切り者の末路に相応しく、最後は部下に裏切られ命を落としています。
三国志では魏延に反骨の相があると言われていますが、個人的には魏延よりも孟達の方が忠義からかけ離れた裏切りの部将だと感じました。
尚、三国志演義で上庸に攻めて来た徐晃を孟達が、弓矢で討ち取った話がありますが、これは史実ではありません。
孟達は三国志演義では字が子慶になっていますが、なぜこの様な名前が付けられたのかは不明です。
益州に移る
建安初年(196年)頃まで、孟達は右扶風郡で生活していました。
孟達は若くして勉学を修めて優秀だったとあります。
孟達は外見がすこぶる良かった話もあり、周りの期待度は大きかったのかも知れません。
しかし、扶風郡は董卓や李傕、郭汜らの略奪を受けており、さらに飢饉まで発生し暮らしは厳しいものでした。
孟達は扶風郡での生活を諦め友人の法正と共に、比較的安定していた益州に向かう事にします。
尚、扶風郡からは射堅、射援の兄弟なども、故郷を離れ益州に移動した話があります。
孟達は法正と共に劉璋に仕えますが、法正と同様に余り重用はされなかった様です。
劉備陣営に加わる
西暦211年になると曹操は北方の大半を平定してしまい劉璋は、次は漢中の張魯を征伐してしまうのではないか?と不安になります。
張松の進言もあり、劉璋は荊州の劉備を益州に呼び入れ、張魯を劉備に討伐させる様に進言しました。
王累、黄権、劉巴などは劉璋を止めますが、劉璋は孟達と法正に兵をつけて劉備への迎えとしています。
劉備の入蜀時には法正は劉備に同行しますが、孟達は関羽の指揮下に入り江陵に駐屯しました。
劉備は張松、法正、孟達の三名は内通してくれたとは考えていましたが、心の底から信じる事は出来ず、孟達を関羽に監視させたとする説もあります。
しかし、江陵は魏や呉との係争地になりえる地でもあり、劉備は重要拠点である江陵を孟達を信用し配置したのではないか?と考える人もいる状態です。
劉備は劉璋と対立すると軍師の龐統は戦死してしまいましたが、馬超が劉備軍に加わるなどもあり、最後は簡雍が使者となり劉璋を降伏させました。
これにより劉備は益州を手に入れる事に成功し、張飛が劉備の援軍として益州に入っていた事で、後任の宜都太守に孟達が任命されています。
因みに、孟達の字は子敬でしたが、劉備の叔父が劉子敬で同じであった事から、劉備の配下になった時に、孟達は字を子度に改名しました。
これは一種の孟達の劉備へのおべっかだとも考えられています。
尚、孟達の友人である法正は劉備から絶大なる信頼を得ており、法正が中央にいれば孟達にとっても安心と言った状態だったはずです。
房陵を取る
西暦219年に劉備は法正や黄忠の活躍もあり、定軍山の戦いで夏侯淵を破り漢中を手に入れました。
劉備は勢いに乗っており、さらに孟達に房陵を攻める様に命じます。
劉備の側には法正がいたはずであり、法正も友人の孟達に功績を立てさせたいと願い、房陵への攻撃を命じたのかも知れません。
孟達は房陵太守の蒯祺を斬る戦果を挙げています。
ただし、蒯祺の妻は諸葛亮の一番上の姉だったとする話が襄陽耆舊記にあり、劉備や諸葛亮は孟達に蒯祺を捕虜とし帰順させようとしたのではないか?とも考えられています。
しかし、孟達は蒯祺を殺害してしまったわけです。
因みに、蒯祺は劉表に仕えた名士である蒯良や蒯越とも同族だともされています。
上庸を取る
孟達は房陵を取ると、劉備は上庸への進行を命じました。
この時に劉備は孟達への援軍として、劉封を派遣しています。
劉備が劉封を孟達の援軍としたのは、水軍が不足していたなどの話もありますが、孟達が蒯祺の時の様な名士を殺さない為の配慮だったとも伝わっています。
劉封は孟達の監視役として、派遣された可能性もあるはずです。
上庸太守の申耽は戦わずして降伏しました。
劉備は申耽を上庸太守に任命し、厚遇する事になります。
ただし、呉側の記録によれば孟達は、この後に宜都太守の任を解かれた話があります。
孟達は房陵太守になった記録もなく、房陵、上庸討伐において、どの様な処遇を受けたのかは不明です。
劉封との対立
劉備は漢中王になった勢いで、荊州の関羽が北上し、曹仁が籠る樊城を包囲しました。
関羽は于禁、龐徳を破りますが、上庸や房陵にいた劉封と孟達に対し援軍要請も行っています。
しかし、劉封と孟達は「地域が安定していない」事を理由に断りを入れた話があります。
関羽は曹仁や満寵が籠る樊城を包囲しますが、援軍に来た徐晃の軍に敗れました。
さらに、孫権の裏切りがあり結局は、麦城の戦いで破れ関羽は、首を斬られる事態にまでなってしまったわけです。
一般的には劉封や孟達は、関羽を見殺しにしたとも考えられている場合が多いと言えます。
しかし、当時の房陵や上庸で最大限の兵を集めてもせいぜい1万ほどであり、実際に援軍に行くほどの戦力は無かったのではないか?とも考えられています。
それでも、劉封の方は無理をしてでも援軍を出そうとも考えていた様でもあり「関羽に援軍を出すべきではない」と言い続けた孟達と仲違いしました。
孟達の方でも劉備の側にいる友人の法正とは連絡を取り合っていたとも考えられ、成都の劉禅派が劉封を抹殺したいと考えている事を孟達が知り、劉封と距離を取りたがっていたのではないか?とも考えられています。
劉封は孟達の対立し、遂には孟達の軍楽隊を奪う事態にまで発展しました。
魏に投降
劉封と孟達は関羽の救援に行かなかった事で無事ではありましたが、劉備から援軍に行かなかった事への責任を問われる立場となります。
孟達としてみれば、劉封とは仲違いをしているし、この状態で魏や呉が攻めて来たら、太刀打ちできる状態ではなかったはずです。
さらにタイミングが悪い事に、劉備から絶大なる信頼を受けていた友人の法正が亡くなってしまいます。
孟達にとってみれば、友人の法正は自分を庇ってくれる存在であり、劉備に処罰される可能性が一気に高まったと感じた事でしょう。
法正の死は孟達にとって非常に大きく、魏に寝返る大きな理由になったとも考えられます。
孟達は劉備に別れの上表文を送り、魏に投降する決心を固めました。
尚、孟達は魏や呉との最前線である房陵の辺りにいた事もあり、引き留める事も出来なかったはずです。
孟達は四千の兵と共に魏に入りました。
曹丕に絶大なる評価を受ける
魏の皇帝である曹丕は、孟達が帰順を願い出た事を知ると多いに喜ぶ事になります。
曹丕自身も皇帝に即位したばかりであり、孟達の降伏は威光を示す事となり喜びは大きかったのでしょう。
曹丕は人をやり孟達を観察させると、孟達を高く評価した事で、曹丕は益々孟達に対し敬意を抱きました。
曹丕自身も会った事もない孟達に対し、手紙を送り絶賛し「早く会いたい」と述べています。
曹丕の孟達への期待の大きさが分かるはずです。
ただし、曹丕も孟達の全てを信頼したわけでもなかった様で、会見を行う時は軽騎で来るように伝えています。
この時の曹丕は呉を攻撃しようとしており、南下している最中でしたが、豫州沛国譙県で会見が行われました。
孟達は元々容姿端麗であり、優雅な弁舌も披露した事で、孟達を注目しない者はいなかったとする話があります。
さらに、曹丕自信が孟達の手をとり、自分の車に乗せ背を撫で「君は劉備の刺客ではないか」と冗談を言って、同乗しました。
曹丕は孟達に実際に会ってみて、期待通りかそれ以上の人材だと感じたのでしょう。
孟達が蜀にいた時は、法正が後ろ盾になっていたと思いますが、魏では皇帝の曹丕が孟達の後ろ盾となります。
曹丕は孟達を散騎常侍に任命し、建武将軍の位を与え列侯とし、房陵、上庸、西城の三郡の領地を合わせた新城郡の太守としました。
ただし、房陵、上庸、西城の三城は、この時点では蜀の領地であり、孟達が名実共に新城太守になるには、蜀から領土を奪う必要があったわけです。
曹操時代からの謀臣である劉曄などは孟達を危険視しており「国境に配置すべきではない」と曹丕を諫めました。
孟達は楽毅に匹敵する人材とも評されていましたが、劉曄は魏諷や孟達の様な輩は反旗を翻すと謀反を予言した話が残っています。
しかし、曹丕は「自分(曹丕)が孟達に二心がない事を保証する」と述べ劉曄の進言を却下しました。
上庸の劉封を攻撃
魏の将軍となった孟達は徐晃、夏侯尚と共に、劉封が守る上庸を攻撃しました。
孟達は魏に降伏した時点で、蜀の内部情報を魏に全てばらしてしまったはずであり、蜀内でも劉封が孤立している事を知っており、圧倒的に有利な立場だったわけです。
さらに、この時に上庸太・申耽の弟である申儀も魏に寝返りました。
孟達の勝利は確定的でしたが、ここで劉封に手紙を送っています。
孟達は長文の手紙を劉封に送り、魏に寝返る様に勧めました。
劉封は劉備の養子でもあり、劉封が魏に寝返ったとなれば衝撃は大きかったのですが、劉封は却下し戦いを続け、魏軍の攻撃に耐え切れず敗走しました。
劉封は劉備の元に帰りますが、関羽の件や孟達を魏に寝返らせた責任追及が行われ自害しています。
上庸太守の申耽は遅れて降伏し南陽郡に配置される事になります。
孟達と同様に魏に寝返った申儀は魏興郡の太守となり、孟達自身は新城郡の太守に任命され、上庸の近辺は魏の領土となったわけです。
晋紀によると孟達は白馬塞に登り「劉封と申耽は金城千里の広大な地を本拠地としたが、無為に失ってしまった」と述べています。
孟達から見れば劉封や申耽は、自分の立場が分かっていなかったと嘆いたのでしょう。
曹丕の死
孟達の最大の後ろ盾は、曹丕であり孟達にとっては逆風が強くなります。
新たに魏の皇帝となった曹叡は、曹丕が亡くなる直前で後継者に指名された人物でもあり、孟達とのコンタクトは殆どなかったはずです。
孟達が魏で誼を通じていたのは桓階と夏侯尚がいましたが、同じ時期に二人とも没してしまいました。
孟達にとってみれば、蜀の法正が亡くなってしまった時と同様に、居心地の悪い雰囲気になっていった事でしょう。
さらに、魏興郡の太守である申儀とは仲違い状態でした。
謀反の疑い
諸葛亮は建興三年(225年)に南征を終えて帰る時に、漢陽で李鴻と会った話があります。
この時に諸葛亮、蒋琬、費詩がいましたが、李鴻は王沖が孟達と面会し、孟達が諸葛亮を信頼していた話をしました。
この時に、費詩は孟達は「信義」がないと述べますが、諸葛亮や李厳は孟達に手紙を書く事になります。
孟達の方でもいざという時は、保険として蜀への亡命を考えていたのか、諸葛亮や李厳と手紙にやりとりを始めました。
しかし、蜀郡が孟達がいる新城郡に到達するには、魏の魏興郡を通過する必要があり、孟達は呉の孫権とも誼を通じる様になった話があります。
諸葛亮としては孟達を利用しようと考えており、蜀の郭模が魏に投降しました。
郭模は魏興郡の申儀に「孟達が蜀に内通している」と伝えたわけです。
元々孟達を嫌っていた申儀は「孟達の様子がおかしい」と上奏しました。
魏の皇帝・曹叡は申儀の上奏を直ぐに信じる事はせず、荊州の責任者である司馬懿に調査を命じています。
司馬懿は部下の梁幾を孟達の元に派遣し、孟達には洛陽に参内し釈明する様に勧めました。
しかし、孟達は入朝を勧められた事で、参内すれば処刑されるのではないか?と恐れを抱いたわけです。
孟達の最期
孟達はここにおいて切羽詰まったのか、228年に魏に対し反旗を翻す事を決めます。
孟達は蜀の諸葛亮の援軍を頼りとし、謀反を起こしました。
しかし、諸葛亮は第一次北伐で狙っていたのは、涼州方面であり、孟達は陽動くらいにしか考えてはいなかったわけです。
諸葛亮は趙雲や鄧芝を囮とし、曹真と戦わせてはいますが、孟達に兵を割く事はしてはいません。
孟達は諸葛亮の真意を知らず、挙兵し城に籠りますが、援軍は来ないわけであり最初から負けは決まっていた様な状態でした。
呉の孫権が孟達の為に援軍を派遣した話が、幾つかの書物に見られ木蘭塞まで兵を出した話がありますが、信憑性に疑問があるとも考えられています。
孟達は司馬懿が自らやってくる事はないと考えていましたが、司馬懿は電光石火の速さで自ら軍を率いて孟達がいる新城までやってきました。
晋書だと司馬懿は上庸にいる孟達を攻撃した事になっていますが、実際には正史三国志にある様に新城だったと見るべきでしょう。
強行軍の司馬懿に対し、準備が整っていない孟達が籠城し、司馬懿と申儀は攻城戦を始める事になります。
司馬懿は孟達配下の鄧賢と李輔に誘いを掛けると、鄧賢と李輔は城門を開き司馬懿の軍を城内に招き入れました。
これにより孟達は城を包囲されてから、僅か16日で敗北したわけです。
孟達の首は洛陽に送られ大通りで、さらし首にされた話があります。