廉頗は、趙でも屈指の武将として活躍した人物です。
廉頗は趙の恵文王と孝成王の時代に活躍しています。
ただし、趙の君主が悼襄王の代になると、更迭を拒否し交代の将である楽乗を攻撃し魏に亡命する事になります。
戦国七雄の激闘を題材にした漫画であるキングダムでは、根っからの武人として描かれています。
しかし、史記の廉頗を見ると、平原君が死亡した後に、趙の相国になった記述もありますし、政治にも大きく関与した事が分かっています。
史記には、廉頗藺相如列伝があり、廉頗と藺相如の刎頸の交わりがあり、さらに趙奢が胡傷を破った閼与の戦いや、李牧が匈奴に壊滅的な打撃を与える戦いも記述されていました。
尚、廉頗はかなりプライドが高い部分が見え隠れしていますし、王族か貴族の出身ではないか?と考える人もいます。
因みに、中国には起翦頗牧という戦国時代を代表する武将を表す言葉があり、廉頗は白起、王翦、李牧に比肩する武将として扱われています。
廉頗は活躍期間が長く老将と呼ばれる年齢になっても衰えず活躍した事から、三国志の黄忠や厳顔の様に老将軍としてのイメージもあります。
楽毅の合従軍に参加
廉頗が史実に初登場するのは、趙の恵文王の16年で紀元前283年です。
趙の将軍となり斉を大いに破り陽晋を取ると史記に記載があります。
この前年が、燕の昭王と楽毅が燕・趙・魏・秦・韓の合従軍を結成して、済西の戦いで斉を破っています。
済西の戦いの後は、燕軍以外は帰国したと記載があります。
楽毅率いる燕軍だけが斉に残り、斉の首都である臨淄を陥落させたり、各地を平定したと史記には記載がありました。
この時の合従軍に、趙軍の司令官として廉頗がいて、楽毅を助けて斉を討ったことも十分に考えられるでしょう。
合従軍で斉を破った後に、廉頗が単独で陽晋を攻め取った事も十分に考えられます。
主君である恵文王は、主父(武霊王)が後継者争いの失敗で餓死した後に、若くして位に就いています。
即位したと当時は、李兌や公子成などが実権を握っていたようです。
その後、李兌などが亡くなった事で、廉頗などの将軍を任用できるように、なったとする専門家もいます。
しかし、廉頗は恵文王の寵臣だった事は間違いないでしょう。
その後も廉頗は野戦・攻城戦と戦功を挙げていきます。
藺相如の活躍に嫉妬を覚える
ある時、秦が和氏の璧(国宝)と15城を交換しようと話を持ち掛けてきます。
趙の宮廷では、揉めるわけですが、宦官の頭である繆賢(びゅうけん)の家臣である藺相如が使者になる事に決定します。
藺相如が使者になり秦に行くと、最初に和氏の璧だけが返ってきました。
趙人の多くは藺相如は死んで帰ってくると考えていたわけですが、藺相如も無事に帰って来たわけです。
秦の昭王に対して、堂々とやり合った事が恵文王の耳に入ると、大いに気に入り上大夫となり大臣の末席を与えています。
この辺りから、廉頗は藺相如に対して、「いけ好かない奴!」と毛嫌いし始めたのでしょう。
廉頗でも他人の功績を妬む所もあるようです。
しかし、廉頗と藺相如は後に深く交わる事になります。
廉頗の嫉妬が爆発
秦の昭王が趙の恵文王に対して、黽池(地名)で会合を開こうと言ってきました。
秦は虎狼の国とも呼ばれていますし、楚の懐王は武関で秦の昭王と会合を開きますが、捕らえられて幽閉され死亡しています。
そういう経緯もあり、恵文王としては、気が重い会見だったのでしょう。
最初、恵文王は難色を示しますが、藺相如が「行かなければ趙の弱さを秦に見せる事になる」と説得します。
藺相如が恵文王の共となり、黽池の会に臨む事になりました。
この時に廉頗は、恵文王に対して、次のように述べています
「30日経っても邯鄲(趙の首都)に戻らぬ時は、太子を立てて秦の野望を砕こうと思います」
非情に言いにくい事なのですが、廉頗は言ってしまったわけです。
恵文王は、内政重視の王様なわけで、「許す」と言ったわけですが、廉頗に対して少し不信感を抱いたかも知れません。
黽池の会では、秦の昭王は、趙の恵文王をやりこめようとするわけですが、その度に藺相如に阻止されてしまいます。
さらに、秦の昭王の方が変な芸をやらされてしまい、大恥を掻いたわけですw
無事に会見を終えて邯鄲に戻った恵文王は、藺相如を知勇兼備の名臣として認め上卿の位を授けました。
さらには、廉頗よりも位を上としたわけです。
廉頗としては、趙の恵文王の寵愛を藺相如に奪われてしまったと感じたのでしょう。
この決定に対して、もちろん廉頗は嫉妬に狂い怒りを爆発してしまいます。
廉頗・藺相如で刎頸の交わりを結ぶ
廉頗は藺相如の事を周りの人に悪口を言いまくります。
それも、陰口ではなく、堂々と「あいつにあったら辱めてやる」「あいつは卑賎の出だ。」「俺はあいつが気に入らない!」と誰彼構わず言ったとされています。
廉頗は戦場で数多くの功績を建てたのに、外交という口先だけで趙の恵文王に親任された藺相如が気に入らなかったわけです。
廉頗は、会う人あう人に言いまくっているわけですから、藺相如の耳にも入るわけです。
しかし、藺相如は廉頗と争う事を避けて、顔を合わさない様にしていました。
藺相如が廉頗と顔を合わせなかった理由は「私情よりも国家を大事にしたいから」という思いがあったからです。
藺相如と廉頗が争ってしまえば、趙は滅びてしまうと感じたから、顔を合わせないように気を付けていました。
しかし、この情報を廉頗がキャッチしてしまいます。
すると、廉頗は「自分はなんて浅ましい愚かな男なんだ」と悟り、人を介して藺相如に面会を求めます。
藺相如の前に立った廉頗の姿は「肉袒負荊」だったとされています。
上半身は裸で、茨の鞭を背負い、藺相如の前に現れたと言う事です。
肉袒負荊は、相手に最大限の謝罪する時の古式だとされています。
廉頗は「ここにいる卑賎の者(廉頗)は、あなた(藺相如)の寛大なお心に反する事をしてしまいました。」と謝罪したわけです。
藺相如は、廉頗に上衣を着せて茨の鞭を取り払い手を取って自宅に招きます。
そして、二人は歓談して「刎頸の交わり」を結んだとされています。
刎頸の交わりとは、あなたの為なら首を刎ねられても悔いはないという考えかたです。
廉頗と藺相如が元気なうちは、秦も趙に手を出す事が出来なかったと、史記に記載があります。
尚、廉頗が藺相如にした態度は「廉頗負荊(れんぱふけい)」という四字熟語にもなり、「心の底から謝罪する」という意味にもなっています。
ここにおいて、キングダムでいう趙国・三大天の二人が誕生したわけです。
尚、秦末期に張耳と陳余も刎頸の交わりを結びましたが、鉅鹿の戦いで王離と章邯に攻撃された頃から仲違いがあった様で、廉頗と藺相如の様に生涯に渡って関係が続く事はありませんでした。
鉅鹿の戦いでは、項羽の活躍により張耳も陳余も救われましたが、戦いの後に大喧嘩しています。
因みに、楚漢戦争において、劉邦に味方した張耳は韓信と共に、井陘の戦いで陳余を攻撃し討ち取っています。
生涯に渡って刎頸の交わりが続くのは難しい事なのかも知れません。
趙奢と閼与の戦い
秦軍が太行山脈の西に位置する、閼与を攻めている情報が入ってきます。
これに対して、趙では救援軍を出そうか宮廷で話し合いが行われています。
ちなみに、閼与を攻めたのは胡傷という秦の将軍です。
この時に廉頗は「閼与への道は険しくて救援は困難を極める」と主張して、援軍を出しても助ける事が出来ないと主張します。
楽乗(楽毅の親戚)にも問いますが、答えは同じでした。
恵文王は何を思ったのか、税務長官である趙奢にも確認してみます。
すると、「閼与への道は険しいが将が勇猛な方が勝つ」と勝ち目があると進言しました。
百戦錬磨の廉頗が救援が難しいと言っているのに、税務長官が勝ち目があると言うのです。
恵文王は、趙奢を大抜擢して将軍に任命して救援に向かわせます。
すると、許歴の活躍などもあり、見事に秦軍を打ち破ったわけです。
この時に、廉頗は少し面目を潰されたかも知れません。
しかし、廉頗が趙奢に対して悪口を言った記録も残っていないので、藺相如と同じ失敗はしなかったようです。
趙奢が大功を立てた事で、廉頗、藺相如と同じ位になります。
ここにおいて、趙国・三大天が完成しました。
ちなみに、廉頗以外の二人は最初から凄く人間が出来ている気がするのは、気のせいでしょうかw
尚、秦の六将と三大天は激戦を繰り広げた事になっています。
廉頗が秦軍を破る
戦国策の記述に趙奢が閼与の戦いで、秦軍に勝利した後に、廉頗も秦軍と戦い秦を破った記録があります。
廉頗は、趙奢の戦いを見て刺激された可能性も十分にあるでしょう。
趙の恵文王の時代は、人材においては趙の全盛期と言えるのかも知れません。
廉頗と趙奢が戦場で縦横無尽に活躍し、藺相如が宮廷を治めるなどもあったように思います。
長平の戦いで解任される
趙の恵文王は、武霊王よりも領土は縮小してしまいましたが、様々な名将が活躍した事で大きな過失は起こしませんでした。
よく考えてみれば恵文王には、廉頗、藺相如、趙奢、楽毅(燕から亡命)、田単(斉から移って宰相となる)がいたわけです。
これだけの人材が集まるわけですから、趙の恵文王は地味なようで、人を惹きつける魅力があったのでしょう。
その後、恵文王が亡くなると、趙の孝成王が即位します。
孝成王の3年に長平の戦いが起きるわけです。
秦は韓の野王に攻撃を掛けます。野王住民は抗戦しますが、結局は陥落してしまいます。
韓はヒョウタンの形をした領土だったのですが、中部にある野王が陥落した事で、北部と南部の領土が切れてしまいました。
韓の首都は新鄭で南部にあります。
韓では、秦からの奪還は不可能だと考えて、秦に北部の上党郡を割譲すると言った訳です。
しかし、上党郡の太守である馮亭は、土地をタダで秦にやるのは惜しいと考えて、趙に内密に上党郡を譲渡すると約束します。
趙の宮廷では、貰い受けるかどうか決めかねたわけですが、結局は平原君(趙勝)の言葉が採用されて、受け取る事になりました。
しかし、怒った秦が上党郡に攻め込んできたわけです。
ここにおいて戦国時代最大の合戦である長平の戦いが始まったわけです。
戦わない廉頗
上党郡を守るために、趙は廉頗を大将として軍を出します。
秦と趙はぶつかるわけですが、趙は部隊長や佐将を失ったりして不利でした。
敵が手強いと見た廉頗は、城に籠り戦わなくなってしまったわけです。
廉頗がなぜ城に籠って、戦おうとしなかったのかは諸説があります。
有力なのは下記の2つです。
・敵の疲れを待った
・外交の転換を期待した
1つめは、秦の軍は遠征軍になるので、どうしても兵糧関係などの物資が不足しがちです。
秦軍が疲労するのを待ち、引いたところを攻撃するか、疲労がたまり兵士が動けなくなったところを攻撃する策です。
これは籠城戦ではよくやるパターンですし、三国志の劉備なども夷陵の戦いで疲れが出た所を陸遜に攻撃を仕掛けられて大敗しています。
同じような策を廉頗が考えても不思議ではないでしょう。
2つめですが、趙の外交の転換を期待したお話です。
秦と趙が睨みあっているうちに、魏や楚などの国が秦に侵攻をしてくれれば、秦は本国が心配になって兵を引くでしょう。
ここで巧な外交が出来れば上党郡は秦と趙で分け合う事になったはずです。
しかし、即位して喪が明けたばかりの孝成王と、老獪な秦の昭王と范雎との経験値の差が出てしまいます。
趙の虞卿は魏や楚に使者を入れて、合従の同盟を成立した所を見せてから、秦に和平を結ぶ提案をします。
しかし、孝成王は趙の貴族である鄭朱をいきなり秦に入れてしまいました。
秦では鄭朱を篤くもてなした為、魏と楚は和約が為されると思い介入しない事にしたわけです。
昭王と范雎は、鄭朱を篤くもてなしはしましたが和平は許しませんでした。
これにより外交の転換を待つことは期待出来なくなったわけです。
廉頗が解任される
城に籠ってばかりいる廉頗をみて孝成王は「なぜ戦わないんだ!」と顔色が悪くなっていきます。
さらに、秦からの間者で「廉頗は年老いた。秦が本当に恐れているのは趙括(趙奢の子)が将軍になる事だ」という情報が入ってきます。
戦わない廉頗に不信感を抱いていた、孝成王は廉頗を解任して趙括を将軍に任命します。
これに異を唱えたのが、藺相如と趙括の母親です。
藺相如は、この時に重病でしたが、廉頗が将軍を解任されてしまったら、趙軍は間違いなく大敗すると思ったのでしょう。
廉頗の更迭を阻止しようと、宮廷まで重病にも関わらず、押しかけて来たわけです。
元気な時の藺相如であれば、趙の孝成王を一喝したはずですが、重病だった事もあり引いてしまいます。
趙の孝成王の方も、廉頗と藺相如が仲が良いから庇っていると思ったのでしょう。
さらに、趙括の母親が、趙括は趙奢と比べて部下に対しる接し方などが全く出来てない事を、理由に将軍にしないように言いに来ます。
しかし、孝成王は聞かずに、廉頗を解任して趙括を将軍にしてしまいます。
秦も白起を将軍にして、長平で戦わせたわけですが、名将である白起に頭でっかちの趙括が勝てるわけもなく大敗北を喫しています。
この時に、趙は40万人を生き埋めにされるなど、壊滅的な打撃を食らってしまったわけです。
その後、首都である邯鄲を囲まれますが、平原君や信陵君、春申君などの活躍により滅亡は逃れています。
廉頗の威勢が衰える
長平の戦いで解任されてしまうと、廉頗の威勢が衰えてしまい食客などは、去ってしまったと言われています。
威勢も無くなった事で人間関係も冷え込んでしまったようです。
後に廉頗は大功を立てて復活するわけですが、そうなると客人も戻って来たそうです。
廉頗は去ってしまった客人達が戻って来た時に「客人達よ帰ってくれ!」と追い出そうとしました。
客人達は「あながた権勢があれば私たちは集り。権勢が無くなれば去るのが世の中の常です。何を恨む必要がありましょうか?」この様に言い放ったとされています。
この言葉で廉頗が納得したかは記載がないので分かりません。
ただし、普通に考えれば客人達の言葉は、廉頗を逆なでして怒らしてしまう様にも感じました。
しかし、廉頗にとって一番の痛手は藺相如の死のはずです。
死友ともいえる藺相如が長平の戦いの直後に亡くなってしまったのが、一番悲しかったのではないかと思いました。
藺相如が宮廷で吠えていれば、廉頗は安心して戦で戦う事も出来るからです。
しかし、長平の戦いの孝成王と廉頗は、孫子の言う君主と将軍の関係の難しさでもあると思いました。
燕の60万の大軍で趙に攻めて来る
しかし、燕に戻ると「趙の壮年たちは長平で死んでしまいました。孤児は、まだ青年になっていませんから。今、攻撃を掛けるのがよいでしょう」
このように趙を攻撃するように、燕王喜に説いたわけです。
祝いに来たはずの、栗腹がなぜ国に帰ったら攻撃を掛けるように進言したかは、いくつかの説があります。
そもそも祝いに来たわけではなく、偵察に来ただけだという説です。
これなら弱いと見れば攻撃を掛けるのが普通です。
もう一つの説が、趙が栗腹を冷遇したとする説があります。
または、冷遇とまで行かなくても、普通の待遇で迎えた説です。
これに怒った栗腹が趙に復讐しようとして、攻撃するように進言したとする説です。
どちらかは分かりませんが、栗腹が趙を攻撃するように進言した事は間違いないでしょう。
これに反対したのが、楽間(楽毅の子)です。
趙は四方に敵を抱える国であるから、兵が強く戦っても勝つのは難しいと進言したわけです。
しかし、燕王喜は楽間の意見に耳を傾けませんでした。
燕王喜も国威発揚になると考えて、攻撃の許可を出します。
これにより楽間は、趙に亡命します。
しかも、燕王喜は、「5の兵で1を倒す」と言い自らも戦場に行くと言い出したわけです。
これを止めたのが将渠です。
しかし、燕王喜は聞こうとはしません。
将渠は、力づくで止めようとしますが、燕王喜は将渠に蹴りを入れて獄に繋いでしまいました。
そして、60万の大軍で趙に攻めかかったわけです。
尚、中華の外れにある燕に60万の軍勢を集める力がある様には思えませんので、60万という数字はかなり盛っている様に思われます。
ただし、兵力で言えば、燕が趙を圧倒していたのは間違いないでしょう。
因みに、燕の宰相である栗腹は鄗を攻めた記述がありますが、「鄗」は趙の孝成王が邯鄲に救援に駆け付けた信陵君に食邑として与えた土地でもあります。
それを考えると、廉頗の軍に参謀として信陵君も同行した可能性がある様に感じています。
廉頗が燕の大軍を破る
燕は軍を二つに分けて、栗腹と慶秦に攻撃命令を出します。
燕王喜は、後方で状況を見守っていたのでしょう。
慶秦は代を攻めて、栗腹は鄗を攻めたわけです。
趙は廉頗を将軍に任命して、栗腹を鄗で向い打ちます。
慶秦は代を攻めたわけですが、迎え討った将は楽乗ともいわれています。
ただし、東周列国志によると、廉頗が北方の長官をしている李牧を推薦して、李牧が廉頗の副将として慶秦を迎え討ったことになっているのです。
キングダムファンや歴史好きな人にとってみれば、廉頗と李牧が戦場に行くと言うのは夢のコラボとなるでしょう。
燕の方が圧倒的に兵力は多かったにも関わらず、栗腹も慶秦も敗れ去っています
さらに、廉頗は燕を追撃して国都である薊を包囲します。
燕は和睦を申し入れるわけですが、条件として獄に繋がれている将渠を燕の宰相に任命する事としました。
燕王喜は、将渠を好いてはいなかったようですが、仕方なく宰相とし趙に城を5つ与える事で和睦が成立します。
この功績により廉頗の声明は回復したわけです。
さらに、廉頗には尉文の地を与えて信平君と号するようになります。
その翌年にも廉頗は燕の都を囲んでいます。
和議が成立したのに、なぜ廉頗が攻めたかですが、一説によると燕王喜は趙軍が去ると、さっさと将渠を解任してしまったからだともされています。
将渠を解任されて怒った趙の廉頗が攻めて来たとも考えられます。
この時に趙の孝成王の廉頗への信頼は完全に回復していたようです。
5年後には魏の繁陽を攻めて落としています。
しかし、この時に趙の孝成王が亡くなってしまい、趙の悼襄王が即位します。
趙の悼襄王は、太子だった頃より廉頗を嫌っていたのか、将軍の地位を取り上げて楽乗に与えています。
それに怒った廉頗は楽乗を攻撃して、そのまま魏に亡命しました。
郭開に讒言される
廉頗は、魏に亡命したわけですが、魏王は廉頗を信頼して使おうとはしませんでした。
宝の持ち腐れのような状態になってしまったわけです。
趙の方も秦に攻められて苦しんでいたので、廉頗を呼び戻したいと思っていました。
廉頗の方も趙に戻って軍隊を指揮したいと思っていたようで、かなり乗り気だったわけです。
趙の悼襄王は、廉頗が使い物になるかどうか使者を出して確認させます。
その時に廉頗は馬に乗って駆け巡り、大量のご飯を食べるなど健在振りをアピールします。
しかし、使者は廉頗と犬猿の仲であった、趙の佞臣である郭開に買収されていたわけです。
その事から悼襄王には「廉頗は食べる方は大丈夫でしたが。トイレに3度行った」と悪意の報告をしたとされています。
一説によると「おしっこを3回漏らした」と、悪意の報告をさせたとも言われています。
それにより悼襄王は、廉頗は年老いたと感じ再び採用する事は諦めたわけです。
後にですが、王翦、羌瘣(きょうかい)、楊端和(ようたんわ)と李牧、司馬尚で趙都・邯鄲で秦と趙の最終決戦を行っています。
この時に、郭開は秦に買収されていて、李牧が謀反すると趙の幽穆王に讒言したわけです。
これを信じた幽穆王は李牧を殺害して、司馬尚を庶民に落としています。
これにより趙は滅亡しました。
郭開は、廉頗と李牧の趙の三大天2人を葬った名将キラーとも言えるでしょう。
廉頗の最後
キングダムでは秦が魏を攻めた時に、廉頗が魏軍を率いて反撃した事になっています。
しかし、史記にも戦国策にも廉頗が魏軍を率いた内容はありません。
代わりに魏では信任されずに、楚に移った事になっています。
楚では一度は将軍になったが功は立てなかったと、史記に書かれています。
廉頗の場合は、使い慣れた趙兵でなければ上手く扱う事が出来なかったのでしょう。
晩年の廉頗は「儂は、趙人を用いたいな」と言い寂しく世を去ったそうです。
名将にしては、寂しい最後だったと言えるでしょう。
尚、史記には廉頗が楚の首都である寿春で亡くなったとする記述があります。
楚が寿春に遷都したのは、紀元前241年です。
そのため廉頗が死亡したのは紀元前241年以降となるでしょう。
もしかしてですが、キングダムでは項燕が蒙恬と李信を破る場面や、王翦が楚の項燕と昌平君を破り、楚王負芻を捕らえた時に、廉頗が出て来る可能性もあるでしょう。
キングダムの世界で、廉頗がどこの段階で楚の将軍になるのかは楽しみでもあります。
ただし、廉頗本人は畳の上よりも戦場で死にたかったのかも知れません。
廉頗はいい奴だと思う。
廉頗というのは、非常にプライドが高い人物だと思いました。
藺相如の事を侮ったりした辺りは、プライドが高いと言わざるを得ないでしょう。
しかし、自分の非を悟った時は、素直に藺相如に詫びを入れに行く姿勢は見事だと思いました。
廉頗は、老齢になっても戦場を駆け巡っています。
高齢になっても生き残る事が出来た事を考えれば、さっぱりした性格で部下の兵士に対しては人望があったのではないかと思われます。
それを考えれば、廉頗は人望が厚いから部下にも裏切られずに生き残れたのだと言えるのではないでしょうか?
しかし、悪いと思えばちゃんと謝ったりする辺りは「いい奴」なんじゃないかなと個人的には感じました。
春秋戦国時代の中でも、廉頗かなり熱血漢であり熱い人物だと言えるでしょう。
廉頗の最大の見せ場である燕との戦いでの記述が、史記では一言で終わってしまうのは残念に感じます。