張勲は袁術配下の武将であり、橋蕤と並ぶ袁術軍の武の柱だったはずです。
張勲がどのタイミングで袁術に仕えたのかは分かりませんが、袁術が寿春に落ち着くと大将軍に任命された話があります。
しかし、張勲は戦いの方ではパッとせず、呂布を攻撃した時は、楊奉と韓暹に裏切られて大敗北を喫しました。
張勲は孫策を心から尊敬していた話があり、袁術の死後は楊弘と共に孫策を頼ろうとします。
ただし、張勲は孫策の元に向かう途中で、劉勲に襲撃され財宝を奪われ捕虜になった記録が残っています。
大将軍に任命される
袁術は袁紹に組みする曹操、劉表らを陶謙、公孫瓚、孫堅らと共に攻撃しました。
この時に、戦略的には袁術が有利でしたが、曹操が驚異的な強さを発揮した事で、袁術は破れ揚州に拠点を移す事になります。
袁術は揚州刺史の陳温を殺害し、陳瑀を追放する事で地盤を築く事に成功しました。
袁術は落ち着きを取り戻すと、橋蕤と張勲を大将軍に任命した記録が袁術伝にあります。
張勲がどの様な経緯で袁術に仕えたのかは分かりませんが、袁術の勢力の中でも武官の筆頭の人物となったのでしょう。
尚、張勲は大将軍になった記録はありますが、ここでいう大将軍は袁術軍の武官のトップという意味合いが強い様に思います。
後漢の何進、袁紹、曹操や呉の陸遜や諸葛瑾が任命された様な武官のトップとしての大将軍ではなかったはずです。
因みに、袁術は寿春の近辺を本拠地とすると、後漢の朝廷を牛耳る李傕から左将軍に任命された話があります。
袁術の位が左将軍なのに、張勲に左将軍の役職より上の大将軍の位を与えられるはずがありません。
ただし、後年に袁術は皇帝と為り仲王朝の開祖となりますが、この時であれば張勲と橋蕤が大将軍になってもおかしくはないでしょう。
呂布に大敗を喫する
呂布は劉備から徐州を奪うと、袁術は呂布と婚姻関係を結ぼうとしました。
しかし、陳珪、陳登の意向が働き、呂布と袁術の縁談は成立しなかったわけです。
袁術は呂布に対し激怒し、楊奉・韓暹らと連合軍を組み、大将の張勲を派遣し、呂布を攻撃させる事にしました。
この時に陳珪、陳登親子が暗躍した事で、楊奉と韓暹が呂布に内通したわけです。
正史三国志の注釈・九州春秋の記述によれば、呂布が張勲の軍に近づき、100歩の位置に入った所で、楊奉と韓暹が突如として寝返り、張勲の軍を襲ったわけです。
張勲は不意打ちを食らったわけであり、十人の将の首を斬り落とされたとあります。
張勲は軍を立て直す事も出来ず、大敗しました。
この時の張勲の負け方は酷かったらしく、殺害された者や負傷した者、溺死した者が数えきれないほどいたと記録されています。
呂布は張勲を破ると、勢いのままに鍾離まで進撃し、袁術を馬鹿にする様な手紙まで送った話が残されています。
ただし、張勲はここで戦死する事はなく、上手く逃げ通す事が出来たのか、呂布との戦いでは死ななかったわけです。
袁術の方も敗戦の理由が楊奉と韓暹にあると感じたのか、張勲を処罰しなかった可能性もあります。
尚、正史三国志には楽進や于禁が活躍し、袁術軍と戦った苦の戦いがあります。
苦の戦いの時に、袁術軍を率いたのは橋蕤であり、副将には楽就、李豊、梁綱がいた記録があります。
ここで張勲の名前が出ないのは、袁術が呂布との戦いで敗れた張勲を不安視した可能性もあるはずです。
劉勲の捕虜となる
袁術は飢饉や曹操に敗北したのが大きく、勢力を著しく後退させ199年に亡くなりました。
仲王朝を開いてから、僅か2年で袁術は亡くなったわけです。
張勲は袁術が亡くなると、楊弘と共に江東の孫策を頼る事にしました。
袁術配下の張勲と橋蕤は、心から孫策を尊敬していた話があり、孫策の義を慕い孫策の元に向かったのでしょう。
しかし、張勲の行動は劉勲の知る所となり、劉勲が待ち伏せをしていたわけです。
袁術配下の袁胤や黄猗は劉勲を頼った話があり、袁胤らが張勲をリークした可能性もあります。
劉勲は張勲を急襲すると、持っていた宝物を奪い、張勲と楊弘を捕虜としました。
劉勲は捕虜にした張勲や楊弘をどの様に扱ったのかの記録がなく、張勲がどの様な最後を迎えたのかも不明です。
しかし、これ以降に張勲が歴史から姿を消す事を考えると、劉勲により処刑された可能性も高い様に感じました。
張勲の能力値
三国志14 | 統率72 | 武力67 | 知力41 | 政治40 | 魅力62 |