名前 | 韓玄(かんげん) |
生没年 | 不明 |
時代 | 三国志、後漢末期 |
勢力 | 曹操 |
年表 | 209年 劉備に降伏 |
コメント | 荊州四英傑の一人 |
画像 | 三国志(コーエーテクモゲームス) |
韓玄は長沙太守をしており荊州四英傑の中でも、筆頭に位置する様な人物だと言えます。
韓玄は正史三国志でも長沙太守をしていた記録がありますが、情報が少なく詳細は不明です。
三國志演義では韓玄の配下として黄忠と魏延がいた事になっていますが、正史三国志には魏延が配下だったとする記述は存在しません。
尚、三国志演義で韓玄が際立つ存在となっているのは、短気で猜疑心が強い性格であり、狭量にある様に思いました。
三國志演義には韓玄の性格として「短気で多くの人々を殺害した」との記述がありますが、これは史実ではないでしょう。
今回は正史三国志の韓玄だけではなく、三国志演義の韓玄も合わせて解説します。
因みに、三国志演義の設定で韓玄の弟が韓浩となっていますが、正史三国志に韓玄の弟が韓浩だったとする記録はありません。
正史三国志の韓玄
黄忠が配下となる
正史三国志の韓玄に対する記述は非常に少なく、実情が分かりにくいと言えます。
少ない記述ではありますが、韓玄の記録を見て行きたいと思います。
黄忠伝には、下記の記述が存在します。
「曹公(曹操)は荊州を打ち破ると、黄忠に元の任務を執り行わせ、長沙太守韓玄の統制下においた」
上記の記述から、史実でも韓玄の配下として黄忠がいた事が分かります。
黄忠は劉表の時代には、劉磐と共に長沙を守っていた記録があり、劉琮が曹操に降伏しても引き続き長沙に配属されたのでしょう。
ただし、、韓玄が黄忠をどの様に扱っていたのかは不明です。
尚、韓玄は長沙太守となっていますが、劉表が韓玄を長沙太守に任命し、曹操もそのまま長沙太守として任用を続けたのか、曹操が独自で韓玄を長沙太守にしたのかは分かっていません。
劉備に降伏する
蜀書先主伝によれば、赤壁の戦いの後に、劉表の長子である劉琦を劉備は荊州刺史に推薦し、劉備自身は荊州の四郡の征伐に赴きました。
その後に、正史三国志には、次の記述が存在します。
「武陵太守の金旋、長沙太守の韓玄、桂陽太守の趙範、零陵太守の劉度らを全て降伏させた」
蜀書先主伝の記述では、劉備が韓玄を降伏させた記述だけがあり、どの様な戦いがあったのかは不明です。
正史三国志には金旋、韓玄、趙範、劉度が降伏した記述だけがあり、三国志演義の様なドラマチックな展開は存在しません。
曹操配下の桓階が劉巴を推挙し、劉巴が荊州を劉備の手に渡さない様に動いていた様ではありますが、劉備の勢いが強く荊州の四郡は劉備の手に落ちたのでしょう。
尚、劉巴は曹操がいる北方にも帰れなくなってしまったのか、交州の士燮の元に身を寄せています。
韓玄の配下にいた黄忠ですが、黄忠伝に次の記述があります。
「先主(劉備)が南方を平定すると、黄忠は臣下の礼をとった。
黄忠は先主に従い蜀に入国した」
黄忠伝の記述と合わせて考えると、韓玄が劉備に降伏した事で、黄忠は劉備の配下となったのでしょう。
史実では韓玄が魏延に殺害された記録もありませんし、韓玄がどの様な最後を迎えたのかも不明です。
韓玄は降伏した後に、曹操がいる北方に帰ったのか、そのまま長沙にいて劉備の臣下になったのかは記録がなく分かりません。
尚、廖立伝に劉備が荊州の牧を兼務した時に、廖立を長沙太守に任命した記述があります。
それを考えると、劉備は韓玄の長沙太守の座を取り上げ、廖立を任命した様にも感じました。
韓玄墓記
韓玄名将説があり、合わせて解説します。
清の汪応銓が著したとされる「韓玄墓記」という書物があります。
韓玄墓記は秦の時代に書かれた書物なので、三国志演義よりも新しい部類となります。
韓玄墓記によれば、長沙の西に古い墓があり、それが韓玄の墓となるそうです。
夜になると韓玄の霊が出たとあります。
韓玄は長沙太守として、長沙の地を守り劉備が来ると戦わずに降伏した事で、民を傷つける事が無かったと言います。
韓玄は徳のある人物であり、羅貫中の書いた韓玄の描写は事実無根だとしました。
韓玄墓記は韓玄が亡くなってから1500年以上も後の資料であり、どこまで信じていいのかは不明として言いようがありません。
ただし、長沙には「漢太守韓玄之墓」とお墓があり、韓玄は評価されていた可能性もあります。
韓浩とは兄弟ではない
(上記はコーエーテクモゲームスの三国志14の画像)
三國志演義の設定で、韓浩が韓玄の弟という設定になっています。
しかし、正史三国志に韓玄と韓浩が兄弟だったとする話はなく、三国志演義のオリジナル設定と言えるでしょう。
尚、韓玄は三国志演義では猜疑心が強く酷い性格として扱われていますが、同様に韓浩に対する扱いもかなり酷いです。
史実の韓浩は夏侯惇の部下としても活躍していますし、有能な人だった事が分かっています。
韓玄、韓浩は三国志演義被害者の会のメンバーに選ばれてもおかしくありません。
三國志演義の韓玄
関羽を迎え撃つ
三國志演義だと赤壁の戦いは周瑜や黄蓋の活躍により、孫権・劉備連合軍が勝利しました。
この後に周瑜は江陵に籠る曹仁を攻撃し、劉備は荊州四郡の制圧に掛かります。
諸葛亮が中心となり武陵の劉度を降し、趙雲が趙範から桂陽を奪い、張飛は金旋を破る活躍を見せます。
関羽は留守番役でしたが、長沙太守の韓玄討伐を望み、関羽は五百の兵を引き連れて長沙に向かう事になります。
関羽は張飛と趙雲がそれぞれ三千の兵で金旋と趙範を破った事を知り、五百の兵で韓玄を破ると宣言し、出陣したわけです。
韓玄は関羽がやって来た事を知ると、黄忠らと相談し、楊齢を出陣させています。
しかし、楊齢は関羽に一撃で倒されてしまい、関羽は楊齢を破った勢いに、長沙の城に迫りました。
韓玄は楊齢が敗れ関羽が城に迫っている事を知ると、慌てて黄忠に出陣命令を出しています。
黄忠と関羽の戦い
韓玄は黄忠を出陣させますが、自らは櫓の上で黄忠の戦いぶりを見守る事となります。
韓玄は高みの見物をしたとも言えるでしょう。
関羽と黄忠の一騎打ちは互角であり、中々勝負が付きませんでした。
韓玄は黄忠に「もしもの事があれば」と身を案じ、退却の鐘を鳴らし引かせています。
ここまでの韓玄は、まともだとも言えるでしょう。
翌日に関羽が再び戦いを挑んで来た事で、韓玄は再び黄忠に出陣させています。
韓玄自身は前日と同じように、高い場所から関羽と黄忠を見ていました。
ここで関羽は一旦引いた上で、黄忠を引き付けて討ち取る作戦を考えていました。
関羽はある程度打ち合った所で、馬首を返し後退し、黄忠は追撃します。
この時に、運が悪く黄忠の馬は足を折ってしまい、ここで関羽が黄忠を攻撃すれば、絶対に勝てる状態だったわけです。
しかし、関羽は「相手の弱みにつけ込んで黄忠を討ったら武人として恥ずべき事」と考えたのか、黄忠に攻撃しませんでした。
関羽は自分の陣地に引き上げ、黄忠も城に戻る事となります。
韓玄の猜疑心
黄忠と関羽の行動を見て、韓玄の心の中に黄忠に対する猜疑心が芽生えます。
韓玄は黄忠に「どうしたのか?」と問うと、黄忠は「馬が足を折った」と正直に答えました。
韓玄は黄忠に「得意の弓矢で射殺せよ」と命じています。
韓玄は漢気などは関係なく現実主義的な考えて生きていたわけです。
黄忠の方は関羽の男気に惹かれており「関羽を弓矢で射殺してよいものか?」と考える事となります。
しかし、弓で関羽を射なければ、主君である韓玄の命令に背く事となり、黄忠は悩みました。
翌日も関羽は早朝から挑んで来ましたが、韓玄は黄忠に「関羽を弓矢で射殺せよ」と念入りに命じています。
黄忠は関羽を弓矢で射る事となりますが、関羽の兜の緒に命中させました。
黄忠の弓の腕は確かであり、韓玄の命令を実行しながらも、関羽を射殺しない選択を取ったわけです。
黄忠も関羽の義に対し、義で返したつもりだったはずですが、この行為に激怒したのが韓玄となります。
韓玄の最後
黄忠が城に戻って来ると、韓玄は側の者達に黄忠を捕える様に命じています。
韓玄は黄忠が戦う気がなく、関羽に寝返るつもりだと判断した為です。
韓玄は無理やり黄忠を処刑しようとしますが、この時に黄忠を救ったのが魏延となります。
魏延は韓玄に忠誠を誓っているわけではなく、劉備の配下になりたいと思っていました。
魏延は武勇に優れており、武力で韓玄を圧倒し、韓玄の命を奪おうとします。
韓玄に処刑されそうになった黄忠が、魏延を止めに入りますが、結局は魏延は韓玄を殺害しています。
三國志演義の韓玄は、猜疑心が強く黄忠を疑って処刑しようとしましたが、あべこべに魏延に討たれてしまいました。
三國志演義の韓玄は、気の毒な程に暗君として描かれているわけです。
韓玄が亡くなった後に、魏延が劉備の元に出頭すると、諸葛亮から「反骨の相」を指摘され、処刑されそうになった話があります。
尚、黄忠や関羽は義を大事にしていますが、実際の戦闘では多くの人が亡くなるわけであり、敵将を討ち取れるのに、討ち取らなかったら問題行動でもあります。
黄忠や関羽の行動は宋襄の仁になる可能性も高く、確率が高い弓での射殺を命じた韓玄の判断は正しいとする見方も出来るはずです。
韓玄の能力値
コーエーテクモゲームスさんの三国志14では、韓玄の魅力が1とする評価をされており、全武将の中で最低の数値を付けられました。
同様に劉禅の取り入り、蜀を内部から滅ぼしたとされる宦官黄皓も韓玄と同じように、魅力値1が付けられています。
三国志14 | 統率22 | 武力33 | 知力7 | 政治4 | 魅力1 |