三国志 後漢 魏(三国志)

曹仁は攻守に優れた名将

2023年5月26日

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宮下悠史

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名前曹仁(そうじん) 字:子孝
生没年168年ー223年
時代三国志、後漢末期
勢力独立勢力?→曹操曹丕
年表209年 江陵の戦い
219年 樊城の戦い
画像©コーエーテクモゲームス

曹仁は正史三国志に登場する人物であり、攻守に優れた名将と言える人物です。

曹仁の出身は曹操と同じく豫州沛国譙県であり、弟に虎豹騎を率いた曹純がいます。

三国志演義の曹仁は劉備の軍師となった徐庶に、陣比べで八門金鎖の陣が敗られたりと、パッとしないイメージが強いです。

しかし、正史三国志の曹仁を見るに、曹操からの信頼は絶大であり、攻守にわたり活躍した名将と言えるでしょう。

実際の所、曹操は戦いに滅法強く自ら兵を率いる事が多いのですが、夏侯淵と曹仁だけは一つの軍を任せており、信頼の厚さが伺えます。

夏侯淵は機動力に優れた攻撃型の武将に見えますが、曹仁は騎兵を率いる事もありますが、城を守るのにも優れた能力を発揮した人物でもあります。

今回は曹操の覇業を支えた名将曹仁を解説します。

尚、正史三国志の曹仁は諸夏侯曹伝に曹仁伝として下記の人物と共に収録されています。

夏侯惇夏侯淵曹仁曹洪
曹休曹真夏侯尚

曹仁の生い立ち

正史三国志によると曹仁の字は子孝であり、曹操の従弟だとあります。

曹操との関係は曹仁の祖父が曹褒であり、曹操の祖父(義理)である曹騰の兄となります。

曹騰は宦官で子が無かった事から、夏侯氏から曹嵩を養子に貰った経緯があり、曹操と曹仁は遠戚ではありますが、血縁関係はなかったと考えられています。

正史三国志によると、曹仁は若い頃から、弓術、馬術などの武勇に優れ狩猟を好んだとあります。

天下が乱れて来ると、曹仁は若者たちを集め千人ほどを部下として、淮水や泗水の辺りで暴れ回ったと言います。

夏侯惇夏侯淵、曹洪などが旗揚げの時から、曹操に付き従っていたのに対し、曹仁だけは最初から曹操に従っていたわけではないとも考えられています。

どの様な経緯で曹仁が、曹操の配下になったのかは記録がなく不明です。

曹仁伝によると、曹仁は曹操の配下となり別部司馬・行厲鋒校尉になったと記録されています。

三国志演義では董卓との戦いの前に、曹洪と共に曹操の軍に加わる設定となっていますが、史実にはない設定です。

騎兵隊を率いる

曹操は193年に袁術と戦いますが、曹仁が斬り殺しり捕虜とした敵の数は、かなり多かった様です。

同年に曹操が陶謙を攻撃した徐州征伐では、曹仁は騎兵を率いて軍の先鋒となり、別動隊としては呂由を殺害するなどの戦果を挙げました。

彭城で曹操軍の本隊と合流し、ここでも陶謙軍を打ち破ります。

さらに、曹仁は曹操と共に費、華、即墨、開陽を攻撃しました。

曹仁は騎兵を率いて活躍し、陶謙の救援軍を打ち破るのに貢献しています。

陳宮張超張邈らが呂布を招き入れた兗州の乱が起こり、飢饉により中断しますが、再び戦いとなるや曹操は呂布を破りました。

呂布との戦いでは曹仁も活躍し、大将の一人である劉何を捕虜にしています。

曹仁は黄巾賊との戦いや、献帝を許昌に迎えるにあたっての功績もあり、広陽太守に任命しました。

ただし、曹操は曹仁の軍事能力を高く評価しており、広陽郡に赴任させず、議郎に任命し騎兵隊を指揮させたとあります。

曹操は騎馬隊の用い方が巧みで定評がありましたが、その騎兵隊を率いていたのが曹仁だったのでしょう。

正史三国志には曹操が曹仁の勇気と知略を評価していたとする話もあります。

負け戦でも部下を激励

曹操は張繍との戦いでは、曹仁に別動隊を率いらせ近県の攻略をさせています。

ここでも曹仁は活躍し、男女合わせて三千の捕虜を得ました。

しかし、曹操が張済の妻であった鄒氏に夢中になり、賈詡の計略により敗れました。

曹操は帰還しますが、負け戦となり軍は消沈する事になります。

ここで曹仁は兵士を叱咤激励し獅子奮迅の活躍を見せる事になります。

曹仁は曹仁を見て感心しました。

曹操は張繍との戦いでは、曹昂、曹安民、典韋などを失っていますが、こうした中でも曹仁は奮闘したという事なのでしょう。

眭固を破る

198年に11月に楊醜が主君の張楊を殺害し、眭固が楊醜を討ち取る事件が発生しました。

眭固は張楊の部下を纏め上げ薛洪、繆尚らと共に袁紹の勢力に入ろうと考えたわけです。

河内が袁紹の勢力圏になる事を嫌った曹操は曹仁、史渙、楽進于禁徐晃を派遣しました。

曹仁らは眭固を破り曹操も到着し、射犬聚を包囲して薛洪、繆尚らを降しています。

射犬聚の戦いでも曹仁の活躍はあったと考えられます。

劉備を破る

袁紹は西暦199年に公孫瓚を易京の戦いで滅ぼし北方四州を統一し、天下第一の勢力となります。

袁紹と曹操の間で緊張感が高まり、官渡の戦いが勃発しました。

この時に劉備が袁紹に兵を借り、曹操の背後にあたる㶏強の諸県を荒しまわる事態となります。

劉備は戦巧者であり、多くの諸県が袁紹に呼応した事で、曹操は憂慮しました。

曹仁は悩む曹操に向かって、次の様に述べています。

※正史三国志 曹仁伝より

南方では我々が袁紹の大軍を相手にするのに手いっぱいであると考え、救援する事は出来ないと考えていました。

そこを劉備が襲ったのですから、離反するのは当然の事です。

しかし、劉備の兵は袁紹からの借り物であり、思う様に動かす事は出来ません。

劉備を攻撃すれば、打ち破る事が出来るはずです。

曹仁は兵の多さではなく、兵を如何に手足の如く動かせるかが大事だと考えた事になるはずです。

曹操は曹仁の意見を最もだと考え、曹仁に騎兵を率いて劉備を攻撃しました。

曹仁は劉備を破り諸県を全て取り戻し、曹操の元に帰還しています。

曹操が喜んだ事は言うまでもないでしょう。

袁紹は韓荀(韓猛)にも別動隊を率いさせて西方を遮断しようとしますが、ここでも曹仁が雞洛山の戦いで韓荀を破りました。

袁紹は曹仁に二度も敗れた事で、これ以降は別動隊を派遣しなくなったとあります。

曹仁は史渙や徐晃と共に荀攸の計略もあり、袁紹軍の輸送車を奪い、その食料を焼き払う事になります。

この辺りから曹仁は、曹操から絶大なる信頼を得て別動隊を任せられる様になっていきます。

曹操にしてみれば「困った時の曹仁」というのもあったのでしょう。

尚、ここから先は曹仁が騎兵を率いた記述が無くなり、守備の巧みさと粘り強さが目立つ様になります。

壺関の戦い

曹操袁紹が没すると河北平定に動き出し、袁譚を破り袁尚、袁煕は北方に逃亡しました。

こうした中で205年に并州の高幹が曹操と戦う事となり、昌豨、徐和らも曹操と敵対し包囲網が形成されました。

曹操は高幹に対し楽進を先発部隊とし、曹操が自ら兵を率いて壺関に向かう事になります。

後の展開を考えると曹仁も曹操と共に、後詰の部隊にいたのでしょう。

曹操は高幹との壺関の戦いでは「城を陥落したら、全員を生き埋めにせよ」と命令していました。

しかし、曹操の言葉を聞いた壺関の守備隊が奮起したのか、城は何カ月経っても落ちなかったわけです。

ここで曹仁が曹操に次の様に述べています。

※正史三国志 曹仁伝より

曹仁「城を包囲した場合は、必ず生きる為の出口を残しておくものです。

城の守備兵には生きる道を見せるのです。

しかし、公(曹操)は彼等の生きる道を布告により塞いでおります。

それ故に、敵の将兵は進んで守りを固めるのです。

敵の城の守は固く食料は豊富なのですから、包囲を続ければ長期戦となります。

現在、堅固な城壁の下で軍を置き必死で防戦する敵軍を攻めるのは良策とはいえないでしょう」

曹仁は曹操の用兵の拙さを指摘したわけです。

曹仁は曹操に敵が逃亡する為の出口が必要だと説き、曹操が従うと城は降伏しました。

曹操は壺関の戦いでの曹仁の功績を認め都亭侯に封じています。

壺関の戦いの曹仁の発言を見ると、決して兵を率いるだけの将ではない事が分かるはずです。

江陵の戦い

江陵の守備を任せられる

曹操は河北平定を成し遂げると、軍を南に向けました。

この時に荊州の劉表が亡くなり、劉琮が後継者となりますが、曹操に降伏しています。

呉の魯粛孫権劉備の同盟を締結して挑んだ赤壁の戦いは、周瑜黄蓋の計略もあり、曹操軍に大勝しました。

曹操は北方に逃れますが、荊州南部を捨てたわけではなく、曹仁を行征南将軍として江陵を守らせています。

呉の周瑜は城攻めを行い、ここにおいて江陵の戦いが勃発しました。

今までの曹仁は騎兵を操るのを得意とした攻撃型の武将に見えたかも知れませんが、江陵の戦いで守備が巧みだという事も証明されます。

牛金を救う

周瑜呂蒙甘寧、淩統など呉を代表する名将たちを引き連れて江陵に向かいました。

周瑜の軍の先鋒隊数千が江陵の城に到着する様子を曹仁は城壁の上から眺めており、出鼻を挫くべきと判断したのか三百人の兵士を募る事になります。

部隊長の牛金が三百の兵を率いて城の外に打って出ました。

牛金らは奮戦しますが、所詮は少数の部隊であり、敵に包囲され困難な状況に陥りました。

長史の陳矯などは、今にも牛金が呉軍に殺されると真っ青になってしまいます。

牛金の苦戦と配下の者達の姿を見て曹仁は憤怒し、自ら馬を引けと命じました。

曹仁は自ら兵を率いて出陣し、牛金を救おうとしたわけです。

この様子を見た陳矯らは曹仁を「敵の数は多く、ここで三百の兵を失っても大した損害ではない」と諫めています。

陳矯ら側近は曹仁が自ら牛金を救出に向かうのは言語道断であり、猛反対したわけです。

しかし、曹仁は陳矯に言葉も返さず、自ら直属の数十機を率いて城を出ました。

曹仁が敵の数百歩前にある堀の前まで到着すると、陳矯らは牛金を助ける牛素振りだけ見せると考えますが、曹仁は堀を超えて敵陣に突入しています。

曹仁が外から包囲網を攻撃した事で、牛金は救われる結果となりました。

牛金は救われましたが、まだ取り残された兵士がいる事を知ると、曹仁は再び救出に動きます。

曹仁は数人の兵士を失いはしましたが、牛金の救出には成功し城に戻りました。

曹仁が無事に帰還した様子を見ると、将兵らは「将軍(曹仁)は天上界のお方だ」とため息をついて述べた話があります。

勿論、全軍が曹仁に感服し城の士気が多いに上がる事になります。

後に合肥の戦いで張遼が孫権を相手に、獅子奮迅の活躍を見せますが、曹仁の江陵の戦いを元にしたのではないか?とも考えられています。

江陵から撤退

曹仁は江陵城で奮戦し、敵の総大将の周瑜を負傷までさせています。

周瑜は曹仁の堅守を崩せず、兵士を鼓舞する為に自ら前線に出た所で負傷してしまったのでしょう。

江陵を守る曹仁に対し孫権は総大将の周瑜を始め呂蒙、甘寧、淩統など呉を代表する名将を参戦させており、さらには劉備配下の関羽張飛もいました。

関羽は北から江陵に来る援軍を遮断する役目を担っています。

曹仁は夷陵を落した甘寧を攻撃しますが、破る事が出来ず救援に来た周瑜らに敗れ馬三百頭を失うなどもありました。

しかし、曹仁は赤壁の戦いに敗れた軍を率いて、三国志を代表する名将を相手に、よく江陵城を守ったとみるのが妥当だと感じています。

曹仁は江陵城を1年以上に渡って耐え抜きますが、この間に劉備が金旋劉度韓玄趙範荊州四英傑を降しました。

ここで曹仁は江陵から撤退しますが、周瑜の猛攻に耐えきれなくなり撤退したとする考えと、劉備が荊州南部を制圧した事で江陵の重要度が下がり撤退したとする見方に別れます。

撤退理由は定かではありませんが、曹仁が堅守を見せた事だけは間違いないでしょう。

曹仁の撤退する道には関羽がいたはずですが、李通が関羽を破った事で無事に北に帰る事が出来た様です。

尚、江陵の城は呉に明け渡しましたが、曹操は曹仁が牛金を救った話などを聞くと、心意気に感ずるものもあり安平亭侯に国がえさせたとあります。

211年に馬超や韓遂ら涼州軍閥が乱を起こすと、曹操は曹仁を行安西将軍に任じ曹操が到着するまで潼関を守らせています。

曹仁は潼関の戦いでも功績を挙げた話があり、曹操からの信頼が揺らいでいない事が分かります。

蘇伯・田銀討伐

曹操は潼関の戦いの戦いで馬超、韓遂を破りますが、留守を曹丕程昱国淵、常林らに任せていました。

こうした中で蘇伯と田銀が謀反を起こす事になります。

曹操は曹仁を行驍騎将軍として、七軍を指揮して討伐に向かわせました。

曹仁は蘇伯や田銀の乱を鎮圧する事に成功しています。

蘇伯・田銀の乱は鎮圧されますが、残党が残っており、彼らを許す様に国淵や程昱が進言した話があります。

樊城の戦い

関羽に備える

曹操は215年に漢中の張魯を降しますが、この間に劉備劉璋から益州を奪取していました。

219年に定軍山の戦いでは、劉備配下の法正黄権黄忠らの活躍があり、夏侯淵が敗れ漢中を奪われました。

この頃になると、曹仁は行征南将軍・仮節に任命され樊に駐屯する事になります。

荊州北部の備えには楽進がいたはずですが、楽進には張遼や李典と共に合肥を守らせており、配置換えで曹仁が荊州北部に移ったのでしょう。

この時に、劉備は関羽に荊州を任せており、曹仁は関羽への備えとして配置されたと見る事が出来ます。

結果的に考えれば曹仁を樊城に駐屯させたのは正解だったと言えます。

218年の末頃に侯音と衛開が反乱を起こしますが、曹仁は龐徳と共に乱を鎮圧しました。

侯音や衛開は関羽と内通しており乱を起こしたとも考えられていますが、曹仁や龐徳が素早く平定してしまったのでしょう。

この話を聞くと曹操は直ぐに曹仁を征南将軍に任命しています。

関羽は北上を始めますが、この時に劉備は曹操を破り漢中王となっており、非常に勢いがありました。

赤壁の戦いで呉軍が勝利し勢いのある敵と曹仁は戦ったわけですが、樊城の戦いでも曹仁は勢い盛んな関羽の軍と戦う事になります。

曹仁は江陵の戦いでは、何だかんだで城を明渡しており、汚名挽回と考えて戦いに挑んだのかも知れません。

援軍が壊滅

曹仁は樊城において関羽の大軍に包囲され、ここにおいて樊城の戦いが開戦となりました。

曹仁は満寵らと共に樊城を守る事になります。

ただし、この時の曹仁が率いていた兵士の数は数千だったと伝わっています。

既に漢中は劉備の手に落ちており、ここで曹仁が敗れれば諸葛亮が劉備に説いた天下三分の計からの統一が成った可能性もあるはずです。

曹操も樊城の重要性を理解しており、于禁や龐徳を救援に差し向けますが、天変地異により船を持っていなかった事で于禁や龐徳の軍は壊滅しました。

樊城の付近で援軍が壊滅したのであり、樊城守備隊にとっては衝撃的な事件で士気が大きく低下したはずです。

この時点で普通の将軍であれば城を関羽に明け渡したかも知れませんが、曹仁は援軍が壊滅しても樊城を明渡す様な事はしませんでした。

樊城の戦いは曹仁でなければ、于禁が敗れた時点で降伏していたのではないか?とも考えられています。

堅守

曹仁は樊城を守りますが、関羽の水攻めにより城壁のうちで水没しなかったのは、数板だったとあります。

関羽は船で樊城を幾重にも包囲しました。

樊城は外部との情報も遮断され食料も底を尽きそうになりますが、援軍は一向にやって来なかったわけです。

曹仁は一度は撤退も考えますが、満寵に諫められて徹底抗戦を決め込みました。

絶望的な状況の中で曹仁は部下を励まし、必死の覚悟を見せた事で将兵は、曹仁の心意気に感動し二心を抱く者はいなかったとあります。

曹仁は部下を纏めるのに優れており、普段から恩徳を与えて手懐けていたのでしょう。

曹仁は驚異的な粘りを見せ、兵士はボロボロになりながらも樊城を守り抜きます。

樊城において曹仁が粘る中で曹操孫権の間で密約が交わされ、曹操は徐晃を樊城への援軍とし、孫権は劉備との同盟を破棄し呂蒙陸遜に荊州南部を襲わせました。

曹操が派遣した徐晃の軍が関羽を破ると、曹仁も機が熟したと判断し関羽の軍を攻撃し破る事に成功します。

これにより、曹仁は見事に樊城を守り抜いたわけです。

さらに、呂蒙が虞翻を使うなどし荊州南部を任されていた傅士仁や糜芳を降伏させています。

関羽は麦城の戦いの後に捕虜となり最後を迎えました。

見方を変えれば曹仁の驚異的な粘りが関羽や蜀の軍を疲弊させ、戦いを勝利に導いたと言えるでしょう。

樊城の戦いを見るだけでも、曹仁が名将だという事が分かります。

曹操は樊城の戦いの2カ月後に亡くなっており、曹仁の勝利を聞き安らかに眠ったと言えるのかも知れません。

曹操が亡くなると曹丕が後継者となります。

曹仁将軍の様であれ

曹仁の若い頃は乱暴者だった様で、身を慎みませんでしたが、曹操配下の武将になった頃には厳格に法律を遵奉したとあります。

曹仁は法律の条文を見の周りに置き、これを照らし合わせながら、事を取り行いました。

曹仁がなぜ身を慎む様になったのかは不明ですが、何かしらの感じる部分があったのでしょう。

曹仁のこうした態度を高く評価したのが曹丕です。

曹丕の弟で鄢陵侯の曹彰が烏丸征伐を行う際に、次の様な事を述べました。

※正史三国志 曹仁伝より

曹丕「大将となり法律を遵奉すること、征南将軍(曹仁)のようでなければならない」

曹丕は曹彰に「曹仁の様であれ」と戒めた事になり、曹丕が如何に曹仁を高く評価していたのかが分かる逸話です。

曹丕の代になっても曹仁は重用され車騎将軍、都督荊揚益三州諸軍事、陳侯とし二千戸を加増し、合計で三千五百戸としました。

さらに、曹仁の父親である曹熾にも陳穆侯の諡が追贈され、十軒の墓守が置かれる事になります。

襄陽を奪い返す

曹丕は曹仁の武勇を高く評価し、宛に駐屯させています。

樊城や襄陽よりも北にある宛城に曹仁を駐屯させたのは、樊城の戦いにより損耗が激しく孫権が攻めて来たら守り切る事が出来ないと判断した為だと考えられています。

曹仁が宛に後退すると、呉の陳邵が襄陽を占拠してしまいました。

曹丕は陳邵に襄陽が取られた事を知ると、曹仁に襄陽を奪い返す様に命じています。

曹仁は徐晃と共に襄陽の陳邵を攻撃し打ち破りました。

曹仁は襄陽城に入ると将軍の高遷に命じて漢水南部の住民を漢水北部に移住させています。

大将軍・大司馬

曹丕は曹仁に使者を派遣し大将軍へと昇進させました。

さらに、詔勅を発行し曹仁の屯営を臨潁に移し大司馬に任命しました。

この時には曹丕は献帝からの禅譲により皇帝となっており、曹仁は魏国の最上位の将軍になったという事です。

曹仁は諸軍を指揮し烏江を占有し、合肥に駐屯しました。

合肥は孫権との係争地であり、何度も魏と呉で戦った重要な地域です。

曹仁の最後

劉備は蜀漢の皇帝となりますが、夷陵の戦いでは陸遜に大敗北を喫しました。

孫権は劉備が攻めてきた時に、曹丕に臣従していましたが、曹丕は本心ではないと見抜いていたわけです。

曹丕は陸遜が劉備を破った事を知ると、漁夫の利を得るべく呉を攻撃しました。

曹仁は濡須に進軍し、曹休が張遼、臧覇らと洞口を攻撃し、曹真・夏侯尚張郃・徐晃らには南郡を攻めさせています。

呉では曹仁に対して朱桓を当たらせ、曹休には呂範、曹真には朱然を対峙させました。

曹仁は戦いの前に濡須口とは違う地点を攻撃するという流言を行い、朱桓は曹仁の計略に引っ掛かった事で兵の半分を割いてしまいます。

曹仁は子の曹泰に進軍を命じ、5千の兵士しかいない朱桓と戦わせています。

朱桓は少数の兵で曹泰を打ち破りました。

これを見ると歴戦の猛者である曹仁が戦いに敗れた様に見えるかも知れません。

しかし、実戦指揮を執ったのは曹泰であり、曹仁は後方にいたのでしょう。

さらに言えば、濡須口の戦いの最中もしくは、終わった直後に曹仁は亡くなっており、既に体調が悪かったのではないか?とも考えられています。

曹仁に関して分かっている事は、黄初4年3月19日(223年5月6日)に56歳で亡くなったという事です。

曹仁の最後の言葉などは残っていません、

曹仁が亡くなると今までの功績を考慮し忠侯と諡されています。

曹仁の子孫

曹仁が亡くなると、曹泰が後継者となります。

曹泰は鎮東将軍・仮節にまで昇進し、甯陵侯に移封されました。

曹泰が没すると曹初が後継者となります。

曹仁の子で曹泰の弟にあたる曹楷と曹範も封邑を分与され列侯になったと記録されています。

尚、曹仁の弟で虎豹騎を率いた曹純は既に亡くなっていました。

魏では曹芳の時代に司馬懿が曹爽を排除する為に動き、高平陵の変が勃発しています。

高平陵の変により司馬氏の台頭が始り曹氏は没落しますが、曹仁の子孫がどの様になったのかは記録がなく分かりません。

夏侯覇が蜀に亡命し姜維に救われている事から、曹仁の子孫も何処かに逃げた可能性もあるはずです。

曹仁の評価

三国志演義では徐庶に敗れるなど口程にもない印象の曹仁ですが、史実を見る限りでは名将だという事が分かります。

さらに言えば、部下を纏めるのも上手く騎兵を率いては天下一品で、それでいて城を守るのにも長けています。

曹操も「困った時の曹仁」とばかりに、重要な局面で軍を任せています。

曹操は戦いが得意な人物であり、自ら戦場に赴きますが、夏侯淵と曹仁だけは軍を率いさせた事から、曹操が認めた程の軍事能力を持っていた事は明らかでしょう。

曹仁は曹操の覇業を多いに躍進させ、樊城の戦いなど重要な局面で判断を誤らず見事な活躍をしました。

史実の曹仁を考えると、三国志演義被害者の会の一因だとも言えます。

史実の曹仁を見る限りは、間違いなく名将です。

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