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匈奴の歴史を建国から滅亡まで徹底解説!

2021年7月6日

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宮下悠史

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匈奴の歴史を解説します。

匈奴は古代中国の北方にいた遊牧民族であり、大帝国を築く事になります。

高度な文明を持っていた話しもありますが、文字が無く、匈奴の歴史は中国の歴史書に頼る事になります。

匈奴は冒頓単于などの英雄的な君主が現れ、漢の劉邦を追い詰めて大帝国を築いています。

しかし、その後は後継者争いや北匈奴と南匈奴の分裂などもあり、弱体化して行く事になります。

三国志の時代を超えて、五胡十六国の時代になると、匈奴は前趙、後趙、夏、北涼などの国を建国しました。

ただし、最後は北魏内での諸部族の解散などもあり、匈奴は最後(滅亡?)を迎えたと考えるべきでしょう。

今回は、匈奴の始りや歴史、どの様な民族なのかを解説します。

尚、匈奴の王は「単于(ぜんう)」と呼ばれるのが普通です。

匈奴が残酷で凶暴で強い理由

匈奴のイメージで「残酷」で「凶暴」で「強い」と思い浮かべる人は多い様に思います。

匈奴が残酷で強いなどは、当たっていると言えるでしょう。

匈奴はユーラシア大陸の北部の牧草地におり、草を巡って日常的に部族間で争っていました。

他の部族に牧草を譲っていたら、飢えてしまうわけであり、「力こそ正義」という考えも根強かったはずです。

戦いと隣り合わせで生活していましたし、匈奴は牧草を他民族に奪われてしまえば、一族は飢えてしまい「死」を意味しました。

その為、匈奴は戦闘に強く、凶暴であり、残酷であったと考えられています。

匈奴が残酷で凶暴で強いと言うのは、生きて行く為に、仕方がない部分も大きかったのでしょう。

漢民族の様に文化や芸術を楽しむわけでもなく、死と隣り合わせの生活をしていたとされています。

ただし、交易が行われていた話しもあり、全くの文化未開の地というわけでもありません。

それでも、匈奴は戦闘民族と言えるでしょう。

匈奴の始り

司馬遷が書いた史記によれば、匈奴の始りは夏后氏の後裔で名を淳維だとする話があります。

この話が真実だとすれば、匈奴は夏王朝の一族と血が繋がっている事になるでしょう。

匈奴の古名は葷粥(くんいく)であり、周の文王の祖父である古公亶父は、豳(ひん)にいた時に、葷粥に犬、馬、財貨を送った話があります。

葷粥が古公亶父を攻撃すると、古公亶父は豳をさり周原に本拠地を移す事になります。

これが真実ならば、匈奴が古公亶父を攻めた事で、古公亶父が国を移し周が勃興したとも考えられます。

ただし、匈奴は文字もありませんし、現代よりも3000年以上も前の話であり、真実は不明です。

尚、いつごろからかは不明ですが、葷粥は匈奴と呼ばれる事になります。

因みに、匈奴はユーラシアステップにいたスキタイから、遊牧民族としての技術が伝わったとも考えられています。

匈奴の始まりは諸説があり、分からない部分が多いです。

匈奴とは

匈奴とは中華の北方にいる民族だと言う事は既に述べました。

匈奴の特徴などを解説します。

匈奴の風習

史記に匈奴の風習に関する記述があります。

匈奴は父と子が同じテントの中で眠り、父親が死ねば、子は継母を自分の妻とした。

兄弟が死ねば、その嫁を娶って妻とし、衣冠束帯の礼装も朝廷の礼式もない。

男女関係の記述を関してみるに、商鞅の改革前にと似た様な風習があった事が分かります。

漢とは文化がかなり違っており、匈奴が蛮族とみられてしまう原因なのでしょう。

秦が戦国七雄の中でも、蛮族扱いされるのも、匈奴や周辺の異民族と似た風習があったからだと考える事も出来ます。

牧畜を行う

匈奴は牧畜をして生計を立てていた民族でもあります。

匈奴は中華の北方におり、気候も厳しい地域だった事から、貧しい生活をしていたとも考えられています。

匈奴は農耕民と違い農業ではなく、山羊、羊、馬などの放牧を行い、様々な土地を移動して暮らすのが基本となります。

匈奴には財産と言えるものが、大地に生える草くらいしかなく、匈奴は家畜の草を求めて移住する生活をしたわけです。

人間は草を食べる事は出来ませんが、動物は草を食べて成長する事が出来ます。

そして、人間は成長した動物を肉として食べたり、乳を搾って飲む事が出来ます。

これらの食物連鎖を利用したのが牧畜であり、匈奴の主食だったと考えられています。

尚、匈奴や遊牧民の家畜の数をコントロールする為の、去勢の技術が中国に伝わり、去勢された人間である宦官を作り出したとする説もあります。

騎馬の扱いが巧い

匈奴は小さい頃から馬や動物に触れあったり、土地を移動したりする為、馬に乗るのが巧みでした。

基本的に匈奴であれば、男女ともに馬に乗れて当たり前であり、馬を上手に操る事が出来たわけです。

騎馬の扱いが巧みさは、匈奴が戦いになった時の武器となっていました。

中国で本格的に騎馬隊が組織されたのは、趙の武霊王の胡服騎射の改革以降だとされており、紀元前300年頃からとなります。

しかし、それ以前から匈奴は騎馬隊を組織して、中華を荒らしていたわけです。

貿易を行っていた

匈奴は移動する民族であり、抜群の機動力を持っていた事から、広大な土地を支配する事が出来たとする話があります。

匈奴は機動力を生かして、様々な国とも交易をしていました。

匈奴は貿易のお陰で、青銅や鉄の武具を装備する事が出来たとも言われています。

匈奴は強大な武力や機動力、巧みな騎馬技術で中国王朝を苦しめる事になります。

尚、匈奴は衣類に関しては、自ら生産する能力は低く、多くは貿易により手にいれていたとも考えられています。

製鉄技術を持っていた

匈奴は紀元前の段階で、製鉄技術を持っていたとされています。

交易を行っていた事から、自らも製鉄を取り入れたのでしょう。

2013年にモンゴルにある、ホスティン・ボラグ遺跡から製鉄炉あとが5基見つかっており、放射性炭素年代測定で調べた結果、紀元前1世紀から紀元1世紀頃のものだと判明しました。

その事から匈奴は中国とは違った製鉄法を独自で持っていた事が明らかになったわけです。

尚、日本では砂鉄や木炭を使った「たたら製鉄」がありますが、匈奴が使った直接製鉄法に似てる事が注目されています。

日本の遺跡からは蕨手刀が発掘されていますが、匈奴の遺跡からも蕨手刀に似た物が発掘されています。

この事から匈奴と日本(倭国)は、何らかの繋がりがあったのではないか?とも考えられています。

ただし、騎馬民族が朝鮮半島を経由して日本に入ってきて、大和王権を作ったとされる騎馬民族征服説は現在では否定されている状態です。

食糧が不足すると中華に侵攻

匈奴は資産になるようなものが草しかなく、中国の国に比べると貧しかった話があります。

匈奴は食料が不足すると、中華の北方の国に侵攻し、食料を得ていたわけです。

中華王朝では時として、食料や財宝を匈奴に渡す事で、侵略して来ない様にお願いしていた次期もあります。

尚、匈奴は騎馬を自在に扱える事から、中華王朝も苦戦を強いられる事になります。

討伐が難しい民族

匈奴は討伐が非常に難しい民族でもあります。

中華王朝が匈奴に攻撃したとしても、土地を必要としない遊牧民の匈奴は、騎馬で延々とユーラシア大陸の奥地に逃げ込んでしまうわけです。

中華王朝が追撃しすぎてしまうと、兵站が伸びすぎてしまい、逆に匈奴に包囲され全滅する事になります。

匈奴が土地を持たず、遊牧で生活する事は、中華王朝が討伐する事が出来ない強みでもありました。

中華王朝では攻めてきた匈奴に対し、一網打尽にする事が最良の選択でもあったのでしょう。

戦国時代の匈奴

戦国時代に中華の北方に匈奴がいた事は確実です。

戦国時代の匈奴を解説します。

長城を築く

戦国七雄の中でも、北方にあるの三国は、匈奴に対する備えとして、長城を建設しています。

長城を築かなくても、黄河が天然の要塞になると思うかも知れません。

しかし、黄河は中国の北方を流れている大河であり、冬になると凍ってしまう事もあるわけです。

(凍結した黄河)

黄河は凍ってしまえば、大地となってしまい天然の要塞としての役割を果たす事が出来ません。

そうなると黄河以外で、国境を守る防御施設が必要であり、それが長城となります。

多くの方が知っていると思いますが、戦国時代の秦、趙、燕の長城を繋げて完成させたのが万里の長城です。

合従軍に加わる

史記の秦本紀の恵文王7年(紀元前318年)に、次の記述があります。

韓、趙、魏、燕、斉の諸国が匈奴を誘い、共に秦を攻めた。

秦は樗里疾の命じて、修魚(地名)で戦い、韓の申差を捕虜とし、趙の公子渇らを破り首を斬る事、八万二千に及んだ。

これを見ると匈奴がからなる合従軍に参加した事が分かります。

ただし、合従軍は秦の樗里疾に大敗北を喫したのでしょう。

この当時の秦は恵文王の時代ですが、先代である孝公の時代に商鞅を用いて大改革を行い、戦国七雄の中で最強国でした。

秦の強大さを憂いた諸侯が合従軍を結成し、秦の北方にいた匈奴を誘って攻めたが、大敗北した事が分かります。

匈奴は秦の北方にいた事から、秦の北方を荒らしまわる事が役目だったはずです。

尚、この記録が「匈奴」という名前が出て来る、最古の記録だとも言われています。

李牧に大敗

戦国時代に匈奴はに侵攻した話があります。

趙の中でも北方にある「代」に、匈奴が侵攻したわけです。

この時に、代の長官が李牧でした。

李牧は匈奴を油断させて、変幻自在の陣形を使い、匈奴を大いに破り10万余騎を討ち取る大戦果を挙げています。

李牧が匈奴に大勝した事で、匈奴は趙の北方に近づく事が出来なかったとあります。

李牧に大敗した事で、匈奴の勢力は弱まった事は確実でしょう。

ただし、李牧は東胡や林胡なども破った為、北方の異民族たちも匈奴を攻撃するだけの余裕がなく、匈奴も生き残る事が出来たのではないかと感じています。

趙に李牧がいた事は、匈奴にとってみれば、相手が悪すぎたというしかないでしょう。

秦の時代の匈奴

秦の始皇帝は天下統一を成し遂げると、蒙恬に30万の兵を与え、匈奴討伐に向かわせています。

この時に、匈奴の王である頭曼単于は、蒙恬に敗れ北方に駆逐される事になります。

蒙恬が匈奴を震撼させた話もあります。

匈奴は蒙恬に大敗を喫した事で、再び勢力が弱まり、秦の国境に近づく事も出来なくなった様です。

ただし、匈奴は北方に逃げており、匈奴が滅びる事は無かったわけです。

尚、蒙恬は万里の長城の建設にも関わっています。

その後、秦では始皇帝が崩御し胡亥が後継者になると、趙高の暴政もあり、始皇帝死後に僅か4年で滅亡しました。

英雄冒頓単于

秦が滅びると中国では、項羽と劉邦が争う楚漢戦争の時代に突入します。

中華は大混乱となり、北方に手を出す余裕が無くなります。

この時に匈奴では英雄的な君主である、冒頓単于が現れました。

蒙恬に奪われた地を奪還

冒頓は父親である頭曼を殺害し、匈奴の王となり冒頓単于が誕生しました。

冒頓単于は東胡や月氏などの異民族を制圧し、北方に一大勢力を築く事になります。

中華では楚漢戦争が行われており、冒頓単于はその隙に、匈奴が秦の蒙恬に奪われた地を奪還しています。

楚漢戦争は劉邦が項羽を垓下の戦いで破り勝利しますが、この時には北方では冒頓単于の勢いが止まらない状態でした。

劉邦は匈奴を駆逐しようと、配下の韓王信に匈奴征伐を命じています。

韓王信は匈奴の強さを知っており、和睦を提案しますが、劉邦に裏切り者扱いされた事で、身の危険を感じ匈奴に亡命しています。

韓王信が郡もろとも匈奴に降った事で、匈奴はさらに強大になります。

白登山の戦い

劉邦は32万の軍で北上し、冒頓単于と対峙する事になります。

冒頓単于は、この戦いでわざと敗走し、負けを繰り返し、劉邦は深追いしてしまいます。

劉邦は気が付いた時には、白登山で40万の匈奴の軍勢に包囲されていました。

劉邦は危機に陥りますが、配下の陳平の策で和睦が成り、危機を乗り越えています。

ここで劉邦は「漢王室の女性を差し出す」「毎年、匈奴に真綿、絹、酒を送る」「漢と匈奴は兄弟の国となる」事を約束し和平を結んでいます。

白頭山の戦いの頃は、韓信がまだ生きていましたが、劉邦は韓信を楚王から淮陰侯に降格させ疑っていた為、韓信を将軍にする事が出来なかったのでしょう。

尚、劉邦が崩御すると冒頓単于は呂后に「劉邦が亡くなったそうだな。俺が慰めてやろうか。」という無礼は手紙を送り、後に呂后に詫びる事になった話があります。

歴史を変えた白頭山の戦い

白頭山の戦いが歴史を変えたとする説があります。

項羽が劉邦に勝っていた場合は、項羽と冒頓単于が戦うわけであり、項羽が負けなかったと考える説です。

他にも、韓信や彭越、黥布などが活躍し、白登山の戦いで中国側が北方の匈奴に負けなかったと仮定します。

この場合は、匈奴は中国側から貢物を得る事が出来ずに、資金不足で中央アジアに進出出来なかったとも考えられます。

匈奴が中央アジアに進出しなければ、中央アジアは平和であり、クシャーナ朝のインド北部への進出も無くなる事になります。

クシャーナ朝が無ければ、大乗仏教の成立も無く、仏教はカイバル峠を超える事も出来ずに、インドだけの民族宗教になったとも考えられるのです。

そうなれば、日本の聖徳太子や蘇我馬子らが仏教を導入する事も出来ずに、日本は違った形になっていたのではないか?とも考えられます。

それを考えると、白登山の戦いは漢が匈奴に貢物を送る事になっただけではなく、周辺国の歴史を変えた戦いだったとも言えるでしょう。

右賢王の略奪

前漢の五代皇帝である文帝の時代になると、匈奴の右賢王が漢の領地で略奪を働きます。

この行為に文帝は、匈奴討伐の構えを見せます。

冒頓単于は、匈奴側の非を認めて詫びを入れています。

匈奴はこの時に、過去に破った月氏を西に追撃していました。

冒頓単于は月氏との対決に注力したかったので、漢と事を荒立てたくなかったのでしょう。

匈奴は周辺の26カ国を平定し、西側に大きく領土を拡げた話があります。

尚、匈奴に敗れた月氏は西に逃れ大月氏国を建国しています。

匈奴は月氏の王を捕えた時に、頭蓋骨を盃にするパフォーマンスを行った事で、大月氏の遺民は匈奴を恨んだ話があります。

冒頓単于は長い期間活躍し、匈奴は常に強大だったわけです。

冒頓単于の時代が匈奴の全盛期だったとも言えるでしょう。

中行説の禍

冒頓単于が亡くなると、匈奴では老上単于が即位します。

漢の文帝は約束通りに、漢の皇女を匈奴に嫁がせる事にしました。

この時に、お供として中行説が従者になる事が決定します。

中行説は出世の為に宦官になった人物であり、匈奴に行くのを嫌がります。

中行説としては「自分は匈奴に行く為に宦官になったのではない。」と言った感じだったのでしょう。

中行説は無理やり匈奴に行く事になってしまい、漢に対して深い恨みを抱きます。

中行説は匈奴に行くと、老上単于の家来となり、漢に侵攻する様に盛んにけしかける事になります。

老上単于が亡くなると、軍臣単于が後継者になりますが、ここでも中行説は、しきりに漢の領地を侵す様に進言しました。

漢側は平和を望みますが、匈奴側は度々違約し、漢の領地を荒らす事になります。

ただし、漢の文帝や景帝の時代は呉楚七国の乱などはありましたが、内政が安定し漢は全盛期を迎えました。

こうした中で、漢の武帝の時代がやってきます。

漢の武帝の匈奴征伐

漢の武帝の時代になると、漢と匈奴は全面対決に突入する事になります。

全面戦争に突入

漢の武帝は、漢は国力が十分にあるのに匈奴に貢物を贈るのが不満でした。

漢の武帝は月氏と同盟を結び匈奴を挟み撃ちにする計画を立てます。

ここで使者となったのが張騫(ちょうけん)です。

しかし、武帝は張騫の帰りを待たず、匈奴との決戦を選択しました。

漢の武帝は囮で匈奴を釣り、伏兵で殲滅する作戦を立てたわけです。

匈奴の軍臣単于が怪しんで撤退した為に、戦いにはなりませんでしたが、ここから先は匈奴と漢の全面戦争に突入する事になります。

漢では匈奴に敗北した将軍もいますが、衛青だけは大戦果を挙げる事になります。

張騫の冒険

大月氏への使者として張騫が選ばれますが、張騫は匈奴に捕まってしまいます。

張騫は10年ほどすると、隙をついて脱出しました。

張騫は匈奴を抜け出すと、大月氏に辿り着く事になります。

張騫は大月氏に匈奴討伐の話を持ち掛けますが、大月氏は既に「匈奴憎し」の心は冷めており、匈奴討伐は断られてしまいます。

張騫の大月氏への任務は失敗に終わりますが、張騫により匈奴や西側の情報を漢側が知る事が出きた事で、張騫は厚遇された話があります。

単于の逃亡

張騫が漢に戻ると、漢では軍臣単于が亡くなり、匈奴が後継者争いで揉めている話を耳にします。

匈奴では、軍臣単于の子である於単と叔父の伊稚斜が争う事になります。

後継者争いは、叔父の伊稚斜が勝利し単于となります。

伊稚斜単于の時代になると、漢に霍去病なる名将が登場しました。

霍去病は衛青と共に匈奴討伐に参加すると、18歳で匈奴3万を倒す大戦果を挙げています。

霍去病は24歳で病死してしまいますが、衛青と霍去病がいた時代は、漢では匈奴に対して多大なる戦果を挙げる事が出来たわけです。

尚、霍去病と衛青は三国志曹操の子である曹彰が「衛青や霍去病の様な将軍になりたい。」と言った事で有名です。

衛青や霍去病に情報を与えた、張騫の功績も大きかったと言えるでしょう。

匈奴は武帝の時代に重要拠点でもある、河西回廊を奪われた事で、支配地域が縮小しています。

さらに、伊稚斜単于は逃亡し行方不明となり匈奴は大混乱に陥ります。

衛青と霍去病が強すぎたのでしょう。

ただし、地政学的に匈奴を滅ぼすのは難しく、匈奴を滅亡まで追い込む事は出来ていません。

伊稚斜単于の後継者として、鳥維単于が即位しますが、漢との戦争を避ける様になります。

武帝の時代に漢は領土的には、匈奴は衛氏朝鮮を破り、歴代最大版図となったわけです。

漢の武帝の時代は、先に述べた様に衛青、霍去病、李広などの名将が出た事で有利に戦いを進めますが、匈奴との戦いは、文景の治により蓄えた資金を枯渇させる原因になったとも言われています。

汗血馬

漢は匈奴征伐で有利になった事で、匈奴に対して貢物を送る様に要求します。

しかし、匈奴は今までは漢から貢物を得ていたわけであり、拒絶すると再び漢と匈奴の仲は悪化しました。

匈奴と漢が対立する中で、漢の将軍である李広利は、大宛を攻撃し汗血馬を得ています。

尚、三国志呂布関羽の愛馬とされる赤兎馬は、汗血馬だったのではないか?とも考えられています。

漢では匈奴の騎馬軍団に対抗する為に、汗血馬は喉から手が出る程欲しかったのでしょう。

李陵と司馬遷

漢の李陵は李広利の援軍として匈奴に派遣されます。

しかし、李広利の本隊は匈奴と遭遇せず、李陵が遭遇してしまいました。

李陵は且鞮侯単于が率いる3万の大軍に、5千の兵で奮戦します。

李陵は勇猛な武将であり、匈奴に1万の被害を与えたと伝わっています。

しかし、李陵も数の暴力には勝てずに、匈奴に降伏しました。

且鞮侯単于は李陵の勇猛さを讃え、臣下にしたいと願います。

李陵は漢に対する忠義から、且鞮侯単于の要請を断っています。

しかし、漢の武帝は李陵を裏切りとみなし、李陵の一族を処刑しました。

この時に、司馬遷が李陵を弁護した為に、宮刑に処せられています。

司馬遷は、この時の屈辱をバネとし史記を完成させたと伝わっています。

李陵も漢に帰る事が出来なくなり、匈奴の軍門に降っています。

且鞮侯単于は李陵に対して、右校王の位を授け娘を嫁がせるなど厚遇しています。

李陵は匈奴で数多くの武勲を挙げたと伝わっています。

李陵は忠誠を誓った、武帝の仕打ちと匈奴の厚遇に、複雑な気分になった事でしょう。

尚、その後に、李広利は匈奴を攻めますが、武帝の後継者問題で揉めた事で、漢に帰れなくなり、李広利も匈奴に投降しました。

匈奴側では、且鞮侯単于が亡くなると、狐鹿姑が単于の位に就いています。

匈奴の弱体化

狐鹿姑単于や後継者の壺衍鞮単于の時代になると、単于の早死に問題や後継者問題で内部の争いが激しくなり、国力はさらに低下します。

そうした中で、東胡の生き残りともされる烏桓が匈奴に反旗を翻します。

烏桓は匈奴の歴代単于の墓を荒らしました。

漢が烏桓に対して、援軍を派遣した事で、匈奴は撤退を余儀なくされます。

烏桓が反旗を翻したのは、既に匈奴の国力が大きく低下していたからなのでしょう。

さらに、匈奴から烏孫が反旗を翻し、漢に寝返る事になります。

漢と烏孫の連合軍は匈奴を破り、さらに、烏桓や丁零も匈奴に攻撃を仕掛けます。

大雪などの被害もあり、匈奴は人民や家畜を大量に失うなど、危機に陥ります。

こうした中で、壺衍鞮単于が亡くなりますが、匈奴の後継者争いは、さらに激化し国力は益々低下しました。

単于の乱立

握衍朐鞮単于(あくえんくていぜんう)の時代になると、日逐王が漢に降伏する事になります。

日逐王の漢への投降により、匈奴は西域諸国を完全に失ったとも伝わっています。

さらに、東の烏桓が匈奴を攻撃し、打撃を与えています。

この時に匈奴の東部では、姑夕王が呼韓邪単于を立てる事になりました。

握衍朐鞮単于は、呼韓邪単于を征伐しようとしますが、味方が集まらず失意のうちに亡くなっています。

匈奴は呼韓邪単于の元で統一されるかに見えましたが、次々と単于を名乗る者が現れ屠耆単于、烏藉単于、呼掲単于、車犁単于ら5人の単于が乱立する事になります。

しかし、最終的には呼韓邪単于に統合されています。

落ち着いたかに見えましたが、呼韓邪単于の兄が独立し、郅支単于を名乗る事になります。

呼韓邪単于の漢への投降

呼韓邪単于と郅支単于は戦いますが、呼韓邪単于は破れ漢に投降する事になります。

匈奴の単于である呼韓邪単于の投降は、漢でも衝撃だった話があり、漢の宣帝は呼韓邪単于を厚遇しました。

呼韓邪単于は漢の支援を受けて再び匈奴の地に戻ると、匈奴の地を平定する事を目指します。

呼韓邪単于が漢のバックアップを得た事を知った、郅支単于は拠点を北西に移動し、丁零を降し堅昆を本拠地とします。

さらに、郅支単于は康居に移り、漢に味方する烏孫と戦いますが、最終的には漢に敗れ処刑されています。

王昭君

郅支単于が亡くなった事で、呼韓邪単于は後継者争いで勝利しますが、漢を恐れ縁戚関係になろうとします。

この時に、漢側から呼韓邪単于の妻となったのが、中国四大美女として有名な王昭君です。

誰が呼韓邪単于に嫁がせるかの話になった時に、王昭君だけが似顔絵師に賄賂を贈らなかった事で、王昭君が選ばれた話があります。

真実かは不明ですが、余りにも美人である王昭君が嫁に来た事で、匈奴では驚いた話があります。

王昭君はドラマや小説などでも有名であり、夫である呼韓邪単于よりも知名度は高いと言えるでしょう。

ここまで来ると、匈奴は弱体化した様に思うかも知れませんが、まだまだ中国への影響力を及ぼす事になります。

漢に朝貢

匈奴は漢の臣下になってしまいますが、朝貢を行った話があります。

冒頓単于の時代に、空前の大帝国と化していた匈奴も漢の属国となったわけです。

この頃の匈奴では、代替わりがあると即位の挨拶に漢に行き、単于の子は漢に仕える事になります。

漢の方では匈奴に対し、多数の宝物を与えています。

匈奴は漢に対して、朝貢貿易を行う事になります。

尚、中国王朝と周辺国の朝貢関係はよくある事で、日本でも邪馬台国卑弥呼が魏に朝貢貿易を行った事は有名です。

ただし、前漢が滅亡すると、関係が再び悪化する事になります。

王莽と降奴

王莽が新を建国し皇帝となるや、極端な中華思想を始めます。

匈奴は降奴と呼び見下し、高句麗であっても下句麗と呼ぶなど、周辺国への待遇がガラッと変わったわけです。

さらに、王莽は単于の子を処刑しています。

王莽の態度に烏累若鞮単于は激怒し、新の辺境を荒らす事になります。

王莽は周辺国に対して見下す外交を展開した事で、周辺国の離脱を招き、新の周辺国は匈奴に味方する事になります。

王莽の様々な失政は、匈奴を強大にしたとも言えるでしょう。

中国国内でも、王莽の政治に不満を抱くものが多く、赤眉の乱などが起こり、新は僅か15年で滅亡しました。

王莽も混乱の中で亡くなる事になります。

後漢の匈奴

後漢時代も匈奴は存続し続けています。

後漢時代の匈奴が、どの様なものだったのか解説します。

呼都而尸道皋若鞮単于と匈奴の復活

中華は群雄割拠状態になりますが、匈奴の呼都而尸道皋若鞮単于は、新の将軍だった盧芳を援助しています。

盧芳は光武帝(劉秀)が送り込んだ呉漢や杜茂を破る活躍をしますが、最終的に雲中を攻略出来なかった事もあり、匈奴の地に逃げ込んでいます。

後漢王朝の初期は、匈奴は力を盛り返し、周辺民族を傘下にいれ、中華にも影響力を持っていました。

呼都而尸道皋若鞮単于は名君であり、冒頓単于に匹敵すると評価される事もあります。

この時の匈奴は黄金期だったとも言えます。

ただし、光武帝が中華を完全に統一した事で、匈奴は再び中国への影響力を減らす事になります。

匈奴が南北に分裂

呼都而尸道皋若鞮単于が亡くなると、烏達鞮侯が単于になりますが、すぐに死去し蒲奴が単于となります。

蒲奴単于の時代に匈奴は旱魃と蝗に苦しめられ、人民の3分の2が亡くなったとも言われています。

ここで烏桓が再び反旗を翻す事になります。

さらに、後継者問題が起こりました。

日逐王の比は、自分が単于になれると思っていましたが、単于になれない事を知ると、匈奴の会議に出席しませんでした。

さらに、比は匈奴の地図を漢に渡してしまう暴挙に出ます。

蒲奴単于は比を討伐する事を決定しますが、比は祖父の名である呼韓邪単于と名乗り独立勢力となります。

比は南部の国境地帯を南匈奴としました。

南匈奴は後漢の臣下となり、これにより匈奴は南北に完全に分裂する事になったわけです。

後漢王朝では、南匈奴や烏桓を長城の内側に移動させ、北方の異民族対策としています。

南北の匈奴が争う時代になりますが、後漢王朝の援助を得た南匈奴が戦いを優位に進める事になります。

北匈奴の滅亡

西暦87年になると、東部から鮮卑が北匈奴に侵攻し、北匈奴の単于を討ち取る事件が起きています。

鮮卑は東胡の生き残りであり、匈奴の支配下にいましたが、匈奴の衰えに乗じて反旗を翻したわけです。

西暦91年には漢と南匈奴は北匈奴を攻めた事で、北匈奴は壊滅し、モンゴル高原を出て西へ移動したと伝わっています。

北匈奴が滅亡すると、鮮卑がモンゴル高原に進出し、北匈奴の領土を手に入れる事になります。

北匈奴は康居まで逃亡しますが、それ以降は中国史から名前が消えてしまい、行方が分からなくなります。

一説によると北匈奴は、東進しフン族と呼ばれ、ゲルマン民族の大移動を促し、西ローマ帝国の滅亡を促す事になったとされています。

尚、フン帝国の全盛期の王であるアッティラは有名であり、フン帝国が匈奴の生き残りの可能性もあると言う事です。

ただし、北匈奴とフン族は年代が繋がらないとする説もありますし、匈奴とフン族を同一民族にするのは、決定打が欠ける状態でもあります。

因みに、西域都護として活躍する班超も匈奴との戦いで活躍しています。

班超が西域で匈奴の使者と会い「虎穴に入らずんば虎子を得ず」と言った話は有名です。

使匈奴中郎将を設置

北匈奴は滅亡しましたが、南匈奴は依然として中国にいたわけです。

後漢王朝では、南匈奴を監視する為の役職である「使匈奴中郎将(しきょうどちゅうろうじょう)」を設置しました。

さらに、後漢王朝は匈奴に恨みを持っている烏桓を匈奴に組み込む事で、南匈奴を牽制したわけです。

北匈奴からの投降

匈奴が南北に分裂した頃の南匈奴の人口は、5万人程度だったと伝わっていますが、北匈奴が後漢との戦いに敗れると次々に南匈奴に投降した話があります。

北匈奴が滅亡した頃には、多数の亡命者により南匈奴の人口は32万にまで増えていた話があります。

最初から南匈奴にいた人々と、北匈奴からやってきた人々の間で不和が起こる様になります。

匈奴の派閥争いは沸騰し、次の単于を決める段階となると、激しく火花を散らす事になりました。

安国と師子の対立

西暦93年になると安国が単于に即位します。

安国は評判が悪い人物であり、匈奴の中で人望がある、師子が単于となる事を望む人も多かったわけです。

ただし、師子は南匈奴が北匈奴を征伐した時に、北匈奴を多く討った事で、北匈奴から投降してきた人々には恨まれていました。

安国は北匈奴派閥を陣営に加え、師子を攻撃する事になります。

しかし、後漢内部の匈奴を監視する機関である、使匈奴中郎将は安国の事を良くは思っておらず、師子に加勢し、安国を攻撃します。

師子は使匈奴中郎将を味方にした事で、安国の軍を破る事に成功しました。

師子は亭独尸逐侯鞮単于(ていとくしちくこうていぜんう)として、即位する事になります。

北匈奴派閥の大反乱

亭独尸逐侯鞮単于が即した事で、北匈奴から南匈奴に移ってきた人々に動揺が走り、20万の北匈奴出身者が反乱を起こす事になります。

北匈奴から来た人々は、逢侯単于を擁立し、南匈奴と対決する事になります。

北匈奴派閥の乱が治まらないうちに、亭独尸逐侯鞮単于も亡くなっています。

逢侯単于の反乱は17年も続く事になりますが、西暦111年に逢侯単于は後漢王朝に降伏しました。

尚、北匈奴出身者の反乱に対し、南匈奴は重要な役割を果たす事が出来ず、逢侯単于を鎮圧したのは後漢の軍や鮮卑、烏桓の軍だったとされています。

南匈奴は存続してはいますが、後漢王朝への従属化が進む結果となります。

萬氏尸逐侯鞮単于の乱

亭独尸逐侯鞮単于が亡くなると、萬氏尸逐侯鞮単于が即位する事になります。

109年に配下の韓琮が「関東で洪水が起こり、漢を乗っ取るのは今しかありません。」と述べます。

萬氏尸逐侯鞮単于は納得し、使匈奴中郎将の耿種を攻撃しますが、翌年である110年には「勝ち目なし」と判断し降伏しています。

後漢の朝廷では、萬氏尸逐侯鞮単于を赦し、待遇も元のままとしました。

この頃になると、中華を震撼させた冒頓単于の面影も一切なく、弱小勢力になっていたわけです。

匈奴と言っても、後漢の傀儡であり単于の求心力の低下が著しかったのでしょう。

車紐単于の乱

南匈奴左部の句龍大人の吾斯・車紐らが反乱を起こす事になります。

この時に車紐単于が誕生しました。

しかし、南匈奴の去特若尸逐就単于(きょとくじゃくしちくしゅうぜんう)は、車紐の反乱を知らされていなかったわけです。

後漢の順帝は、去特若尸逐就単于に詰問の使者に陳亀などを派遣しますが、詰問が厳しかった事もあり、去特若尸逐就単于と弟の左賢王は自刃しています。

車紐単于の乱も鎮圧されますが、これ以降の匈奴は部族内で勝手に反乱を起こしたり、鮮卑の要請により後漢王朝を攻撃したりしますが、結局は上手く行きませんでした。

三国志の時代の匈奴

三国志の時代の匈奴を紹介します。

名前は三国志ですが、後漢王朝末期の頃からだと思ってください。

黄巾の乱

184年に張角黄巾の乱を起こす事になります。

南匈奴の羌渠単于は後漢王朝を援助し、右賢王の於夫羅を派遣します。

黄巾の乱は皇甫嵩朱儁盧植などの活躍もあり、無事に終焉しました。

187年の張純の乱にも、羌渠単于が兵を派遣した話があります。

しかし、後漢に協力し、何度も派兵した事が問題となります。

大反乱が起きる

羌渠単于は後漢王朝の要請に従い、何度も徴兵し、兵を出した事で南匈奴の内部では不満が鬱積していました。

こうした中で、醢落は休屠各胡白馬銅ら10万余人と共に反旗を翻す事になります。

南匈奴で大規模な反乱がおき、羌渠単于も部下に殺害されています。

羌渠単于の後継者として息子である於夫羅が単于になりますが、反乱を起こした人々は納得しませんでした。

於夫羅は後漢王朝に助けを求めますが、霊帝が崩御した時期と重なった事もあり、後漢王朝に支援を受ける事が出来なかったわけです。

南匈奴では反乱軍が起きた事もあり、本国に帰る事も出来ずに、於夫羅は河東郡に駐屯する事になります。

袁紹に敗れる

霊帝亡き後に、袁紹が宦官を撲滅しようとし宮中に雪崩れ込みます。

この時に、後漢王朝は混乱しますが、混乱を収めたのが董卓でした。

董卓は後漢王朝の実権を握りますが、反董卓連合が結成されます。

於夫羅は袁紹に味方しますが、191年になると張楊を人質にして、袁紹に反旗を翻す事になります。

しかし、袁紹軍の麹義に敗れ於夫羅は敗走しますが、耿祉の軍を奪い勢力を盛り返しています。

曹操に敗れる

192年になると於夫羅は曹操と戦う事になります。

この時は、曹操の采配が冴えわたり於夫羅は大敗しました。

しかし、於夫羅は不屈の闘志を持ち、193年に袁術に加勢し曹操と戦っています。

ここでも於夫羅は曹操に敗れ、袁術は逃げますが、於夫羅は曹操に投降しました。

195年に於夫羅が亡くなると、呼廚泉が単于になります。

尚、304年に匈奴大単于を名乗る劉淵は、於夫羅の孫となります。

五部匈奴

曹操は袁術や呂布などの群雄を倒し、献帝も許昌に置き勢力を拡大して行きます。

この時に、北方の袁紹も強大な勢力を手に入れており、西暦200年に官渡の戦いが勃発しました。

曹操は官渡の戦いで袁紹の大軍を破ると、疲労と心労の為か袁紹は202年に亡くなっています。

袁紹が亡くなると袁譚、袁尚が後継者争いを始めると、誘いもあり呼廚泉は曹操を裏切る事になります。

呼廚泉は、郭援・高幹と共に鍾繇・馬超らと戦いますが、結局は敗れて曹操に降伏しています。

216年に曹操は魏王となりますが、呼廚泉は魏に入朝しました。

曹操は匈奴を五分割し、それぞれの長の上に魏の人間を監督させる仕組みを作っています。

これを五部匈奴と呼びます。

匈奴は弱小勢力となりながらも、細々と三国志の時代を生き抜く事になります。

尚、三国志の蜀は後に匈奴出身者の劉淵が、後漢王朝の後継として認め、劉備を劉邦や劉秀と共に祀った話があります。

劉淵は劉禅も懐帝として追贈しました。

西晋時代の匈奴と劉淵

三国志の時代は、西暦280年に呉が滅亡した事で完全に終焉します。

西晋の天下統一が成されたわけです。

しかし、西晋の皇帝である司馬炎が堕落し、死後に八王の乱が勃発します。

司馬一族の殺し合いが行われる中で、劉淵は五部匈奴を一つにまとめあげ、大単于と呼ばれる事になります。

304年になると、劉淵は「冒頓単于の頃から、匈奴と漢は兄弟の国であった。」と述べ、漢王朝を復活させる名目で独立勢力になりました。

尚、中国の南方では西晋の王族である司馬睿は、建業を建康と改名し江南で東晋を立てる事になります。

中国の北方にある中原と呼ばれる地域は、異民族が入ってきて大混乱となり、三国志の蜀と呉を合わせた位の地域を東晋が支配しました。

五胡十六国の時代

八王の乱で中国は大混乱となりますが、匈奴以外の周辺の異民族も中華の地に侵入しています。

時代は五胡十六国の時代になるわけです。

尚、五胡は異民族である「匈奴・鮮卑・羯・氐・羌」を指します。

五胡十六国は、5つの異民族による16の国々が乱立した時代だと思えばよいでしょう。

五胡十六国の中で、匈奴と関係がある国を解説します。

前趙(漢)

匈奴の大単于となった劉淵は10年ほどで西晋を滅ぼし、中原の地を制圧しました。

劉淵は国号を「漢」としましたが、弟で後継者の劉聡は国号を「前趙」に変えています。

前趙では冒頓単于を天神とし、劉淵を上帝としています。

前趙がその後に建てられる、五胡十六国の北方王朝の原形になったとも考えられています。

ただし、劉聡が亡くなると、前趙も後継者争いで揉める事になります。

後趙

劉聡が亡くなった後に、内乱がありますが、劉曜が長安で即位しました。

しかし、襄国で石勒が329年に劉曜を倒し前趙を滅ぼし、後趙を建国します。

石勒に関しては、先祖が匈奴の別部羌渠の胄(子孫)だった話があります。

それを考えると、後趙も匈奴と関係がある王朝となるでしょう。

ただし、後継者の石虎は暴虐だった事で、国が混乱し、石虎の死後に部下の冉閔(ぜんびん)に国を奪われています。

冉閔は漢人であり冉魏を建国します。

夏(五胡十六国)

夏を建国する赫連勃勃は、南匈奴の末裔だと伝わっています。

前趙の劉淵とは元は同じ部族だったとも言われています。

赫連勃勃の一族は曽祖父の時代に鉄弗部として挙兵しますが、并州刺史・劉琨(りゅうこん)や鮮卑拓跋部に破れ、朔方に逃亡しました。

その後に、王猛を宰相とした前秦の苻堅が北方を統一する事になります。

ただし、王猛の死後に前秦は淝水の戦いで東晋の謝玄に敗れ、後に苻堅も殺害されています。

後に、劉勃勃は容姿を気に入られ後秦の臣下となりますが、北魏と後秦の紫壁の戦いで、後秦が敗れた所で、劉勃勃は高平を襲撃し、407年に夏を建国しました。

夏は拠点を持たない遊牧民的な生活をし、オルドスを移動しながら戦い後秦を疲弊させていきます。

413年になると夏は統万城を建設し首都としています。

そして、姓を劉から赫連に改め赫連勃勃となったわけです。

後秦が東晋に滅ぼされると、長安を奪い赫連勃勃は皇帝に即位しました。

しかし、長安で内乱が起こり赫連勃勃が亡くなると、夏は弱体化し北魏により統万城も陥落しています

赫連昌、赫連定と続きますが、北魏に対しては不利な戦いを強いられますが、夏は西秦を滅ぼしたりもしています。

北涼遠征にも向かいますが、最後は吐谷渾で軍が壊滅し、赫連定が北魏に捕らえられ処刑された事で、431年に夏は滅亡しました。

北涼

北涼は後涼から独立して出来た国です。

後涼の君主である呂光は、西秦の金城を攻めますが敗退しました。

呂光は沮渠羅仇と沮渠麹粥の責任として、殺害します。

沮渠蒙遜は葬儀の席で自立を宣言し挙兵しますが、呂光に敗れています。

しかし、沮渠男成の協力や段業を担ぎ上げて、北涼の建国を宣言しました。

後に北涼の西部で漢人の李暠が独立し、西涼を建国するなどの困難もあったわけです。

しかし、沮渠蒙遜は、対立した沮渠男成や段業との権力闘争に勝利し、名実ともに北涼の最高責任者となります。

実質的に沮渠蒙遜が北涼の建国者と言われ、沮渠蒙遜は匈奴の沮渠氏の出身と言われています。

北涼は412年に沮渠蒙遜が河西王となりますが、南涼、西涼、後涼らと戦いますが、最終的に北涼の勝利となります。

その後に西秦の攻撃が厳しくなると、夏の属国になったり、北魏対策で東晋や宋の属国にもなっています。

北魏が夏や西晋を滅ぼすと、沮渠蒙遜は危機感を覚え北魏に人質を送るなどしています。

しかし、433年に沮渠蒙遜が亡くなり、沮渠牧犍が即位すると、最初は友好を結びますが、後に対立します。

最後は439年に北魏の太武帝の攻撃により、北涼は滅亡し、時代は南北朝時代に移行するわけです。

匈奴の滅亡

匈奴の滅亡ですが、北魏に同化吸収されたとも、北魏による諸部族解散により、消えて行った話があります。

匈奴は漢の様に禅譲で滅んだとか、他国に攻められて滅んだわけではなく、北魏の中で匈奴というアイデンティティが無くなり、消滅していったと考えるべきでしょう。

匈奴の最後は、抵抗があったわけでもなく、穏やかなものだったのではないかと感じています。

尚、匈奴の人々は北魏で重用され高官に任命される事が多かったとか、隋や唐で名門貴族の劉氏、独孤氏になった話もあります。

南北朝時代に匈奴は完全に姿を消したと言えます。

因みに、隋や唐の時代になると、中国王朝の北方には突厥なる民族がおり、匈奴の名前は確認が取れていません。

突厥はトルコ系の民族とも言われています。

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宮下悠史

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