王允は正史三国志や後漢書などに登場し、呂布を使って董卓を暗殺した人物です。
三国志演義などでは義理の娘である貂蝉を使い、呂布と董卓の仲を連環の計で破壊した策士でもあります。
史実の王允を見ると、董卓を暗殺しており、正義感は強い様に感じました。
王允は天下に名が通る事になる郭泰にも「王佐の才」があると、才能を認められた話もあります。
王允は正義感も強かったわけですが、董卓を討った後は頑固さが目立ち、それが原因で最後を迎えた様に感じています。
王允は董卓を討った後に、賈詡の策を受けた李傕と郭汜に攻められ三日天下(実際には二カ月ほど)で終わりました。
今回は三国志きっての頑固者でもある王允を解説します。
尚、三国志演義では王允の義理の娘として貂蝉が登場しますが、正史三国志を見ると貂蝉の名は一切登場しません。
因みに、王允は太原王氏の一族であり、先祖には春秋戦国時代末期に秦の将軍として活躍した王翦、王賁、秦末期に項羽に敗れ捕虜となった王離がいます。
王佐の才
王允は并州太原郡祁県の出身であり、先祖代々に渡って重役を務めていた家柄だと記録されています。
王允は太原王氏の一族であり、王允も名士だと言えます。
王允は若かりし頃から、才能を認められ郭泰からは「千里を走る名馬」と評され「王佐の才」があると高く評価されました。
郭泰は世間で名声を得ていた李膺に才能を認められた人物であり、そうした人物に高く評価された王允は自信に繋がった様に感じています。
尚、三国志の世界で「王佐の才」があると言われた人物では、曹操の軍師となる荀彧も有名です。
趙津を捕える
王允は19歳の時には郡吏となっていました。
持ち前の家柄の良さもあり、若くして仕官する事になったのでしょう。
この時に小黄門の晋陽県の趙津は無法を行っており、多くの者が苦しんでいました。
趙津は官吏が手に負えない程の、悪辣さを発揮していた話しもあります。
こうした状況の中で、太守の劉瓚は王允を派遣し、趙津を逮捕したわけです。
王允が趙津を捕えて来ると、劉瓆は趙津を処刑しました。
これに怒ったのが、趙津の兄弟であり宦官に賄賂を贈り、劉瓆や成瑨、王允らを讒言する事となります。
過去に桓帝は権力者の梁冀を、宦官たちの協力で排除した事もあり、宦官たちを信頼していたわけです。
桓帝は宦官たちの言葉を信じ激怒し、劉瓆を処刑しました。
趙津が宦官たちと繋がっており、劉瓆は趙津に手を出せば命を落す事は分かっていたはずです。
それにも関わらず、劉瓆は正義感から趙津を見過ごす事が出来なかったのでしょう。
王允は劉瓆が亡くなると、遺体を引き取り平原まで送り届け、3年間の喪に服す事となります。
劉瓆の生き様は青年時代の王允に強く影響を与えた様に感じました。
尚、劉瓆は桓帝の怒りを買っており、劉瓆の遺体を引き取れば王允も罰せられた可能性もあるはずです。
しかし、上司の為に危険を顧みなかった王允に対し、天下の人々から注目される様になる出来事であったとも言えるでしょう。
鄧盛に助けられる
王允は後に再び仕官する事となります。
太原太守の王球は、功績がない路佛を登用しようとしました。
これに反対したのが王允であり、王球の目の前で、この人事を批判したわけです。
王球は王允により面目を潰され、激怒し王允を逮捕し獄にいれ処刑しようとしました。
これにより王允の命は風前の灯火となってしまいますが、王允の窮地を救ったのが并州刺史の鄧盛です。
多分ですが、鄧盛は王允と劉瓆の話を知っており、王允がここで命を落す事になるのを惜しく感じたのでしょう。
鄧盛は刺史であり、太原太守の王球も鄧盛の命令には従うしかなく、王允の身柄を引き渡す事となります。
鄧盛は王允を別駕従事に任命しました。
鄧盛が王允に救いの手を出した事で、王允の名は、さらに天下に知れ渡っていきます。
尚、王球との話を見ていると、王允は正義の為なら命を落す事も厭わないと言う考えの持ち主だという事が分かります。
ただし、この王允の柔軟さに欠けた頑固さが、後に仇となります。
文武両道の精神
王允は若い時から正義を重んじる性格だった様で、功績を立てたいと志を持っていました。
王允は経典を読み知識を蓄え、朝夕は馬に乗り弓矢の練習をするなど、文武の道を追求する事となります。
王允と言えば、文官のイメージが強いですが、実際の王允は武を疎かにしていたわけではありません。
王允は鍛錬を怠らず、他人に対してだけではなく、自らも厳しく律したのでしょう。
別駕従事となった王允ですが、今度は三公の司徒府の招聘に応じ、侍御史となりました。
豫州刺史に抜擢
霊帝の時代になると、184年に張角による黄巾の乱が勃発します。
霊帝は黄巾の乱の時に、何進を大将軍に任命し洛陽を守らせ、皇甫嵩、朱儁、盧植らに黄巾賊の討伐を命じました。
こうした中で王允は豫州刺史に任命される事となります。
朝廷では三公のポジションに袁隗(司徒)、張済(司空)、楊賜(大尉)がおり、彼らの意向も働き王允が豫州刺史に選出されたのでしょう。
王允は荀爽や孔融などを配下として迎えました。
王允から見て荀爽や孔融などは気骨のある人物だと感じたのでしょう。
孔融あたりは王允と似ている部分もあると感じています。
内応の手紙
王允は黄巾の乱の討伐軍としても活躍します。
王允は皇甫嵩や朱儁らと協力し、数十万の黄巾賊を降伏させる手柄を挙げています。
こうした中で、王允は中常侍・張譲の賓客の手紙を発見しました。
手紙の中で張譲が黄巾賊に内通している事が明るみとなります。
王允は霊帝に張譲が内通している証拠を提出し、事細かく報告しました。
これにより霊帝は激怒し、張譲を責めますが、張譲は霊帝に「我が父」と呼ばれた程の人物であり、張譲が必死に謝罪した事で罪は許される事となります。
張譲が罰せられずに生き延びた事は、王允にとっては不幸であり、張譲は王允を憎み讒言を繰り返しました。
黄巾の乱は張角の病死もあり終結しますが、王允は185年に捕らわれの身となったわけです。
黄巾の乱で功績を立てた王允が捕らえられ、黄巾賊に内通した張譲が許されるという、ありえない展開になったとも言えます。
深計を為せ
王允は捕らえられましたが、たまたま恩赦があった事で許されました。
これにより王允は豫州刺史に復帰する事となります。
しかし、僅か10日ほどで別の罪により捕らえられる事が決定しました。
王允は任地に到着したと思ったら、すぐにまた逮捕されてしまったわけです。
楊賜は王允の事を高く評価しており、王允に使者を派遣し、次の様に述べています。
楊賜の使者「貴方(王允)は張譲に関わったばっかりに、一月の間に二度も罷免された。
張譲の凶悪ぶりは想像を絶するほどだ。深計を為して貰いたい」
楊賜の言う深計は自害する事だとされており、王允が都に到着すれば処刑される事は確実だったのでしょう。
ここで処刑されなくても、張譲は難癖をつけて来て、生き延びる事は難しいと楊賜は考えたはずです。
王允を慕っていた部下達でさえ涙を流し、毒薬を渡してきました。
しかし、王允は毒薬を拒み次の様に述べています。
王允「私は陛下の臣であり、その陛下から罪を下されたのである。
天下に謝罪すべき身であり、どうしてここで毒薬を飲み、死を求めてようか」
王允は毒薬を投げ捨て檻車に乗り込みました。
王允は都に到着しますが、廷尉にも自害を勧められますが、王允はここでも拒んでいます。
王允の心は折れる事を知らず、死ぬ時まで戦い続けるつもりだったのでしょう。
何進の助け
王允は頑なに自害を拒みますが、宮中では王允を助けたいと願う人々が集まる事となります。
大将軍の何進、司徒の楊賜、大尉の袁隗らは、王允の助命嘆願の為に動きました。
大将軍府、司徒府、大尉府からの上奏文が霊帝の元に届く事となります。
後漢王朝の高官たちが助命嘆願を一斉にしたわけであり、霊帝も聞かぬわけにはいかず、王允の罪を一等だけ減らしました。
これにより王允は死罪を免れる事となります。
尚、王允が許された理由ですが、何進の影響力が強く働いたとも考えられています。
霊帝の妃は何進の妹である何皇后であり、皇后の兄で大将軍の何進の言葉を無視できなかったのでしょう。
しかし、王允の苦難は続き、死罪が許されても、獄から出る事は出来なかったわけです。
その年に恩赦もありましたが、王允だけは獄から出る事は出来ませんでした。
王允は獄から出られませんでしたが、何進らが王允を許す様に再度上奏した事で、王允は漸く獄から出られる事になります。
逃亡生活
王允は洛陽を脱出すると、河内郡に移動しました。
この時に王允は名前を変えたとも伝わっています。
王允は宦官の怖さを身をもって知り、次に捕まった時は命はないと思ったのでしょう。
下手に宦官に捕まり命を落す事は匹夫の勇でしかなく、王允としては不本意だと考えた可能性もあります。
後漢王朝では宦官が牛耳っている限り、正しい事をしても、逆に捕まるなど正義がまかり通らない事も知ったはずです。
正義を主張するだけではなく、身を屈し忍ぶ事の大切さも学んだ様に感じています。
王允は河内郡や陳留郡を行き来していた様であり、匿ってくれる人々の間を転々としていたのでしょう。
一カ所に留まれば張譲により逮捕される事も考えられ、長くとどまらない様に河内郡と陳留郡を行き来していたのかも知れません。
王允は都から離れ各地に潜伏する生活を送ります。
董卓が権力を握る
王允は逃亡生活を続けていましたが、189年に霊帝が没する事となります。
霊帝の死で王允の流れが変わり出しました。
大将軍の何進は袁紹の進言もあり、宦官撲滅を考えており、王允を探し出し呼び寄せています。
何進は元々、王允を高く評価しており、王允を従事中郎とし、後には江南尹にまでしています。
張譲は健在ではありましたが、皇帝に即位した少帝は何進の妹である何皇后の子でした。
そうした事情もあり、張譲は外戚で何進の部下になった王允に対し、手出しする事が出来なくなったわけです。
しかし、何進は宦官の蹇碩は討ち取りましたが、宦官一掃計画は漏れてしまい、何進は宦官により暗殺されました。
この時に漁夫の利を得たのが董卓であり、何進や何苗、丁原などの兵を掌握し強大な勢力となります。
董卓が少帝と陳留王を保護した事もあり、後漢王朝で実権を握る事となります。
董卓は後に少帝を廃し陳留王を即位させ、李儒に命令し少帝と何皇后を毒殺しました。
董卓政権下で王允は太僕に任命され、後に尚書令となります。
しかし、王允は董卓を嫌い苦々しく見ていた事でしょう。
王允にとって董卓の少帝や何皇后にした事は許せるわけもなく、皇帝の廃位などは正義に反する行為だと思っていたはずです。
長安遷都
190年になると王允は、楊彪の後任として司徒に任命されました。
尚書令との兼務した形で王允は司徒になったわけです。
袁紹や袁術が都から脱出し曹操らと、反董卓連合が結成されます。
反董卓連合と董卓の間で陽人の戦いなどがあり、孫堅や曹操が董卓軍の胡軫や徐栄と戦う事となります。
そうこうしている内に、董卓は洛陽を捨て長安への遷都を実行しました。
この時に王允は洛陽にあった書物を持ち、長安に移動し献帝に上奏し送った話があります。
王允もかなり書物を読み勉強した話があり、帝王学は本から作られると考えたのかも知れません。
王允が政治を行う
資治通鑑によると董卓は長安に遷都する時に、王允らを先に長安に向かわせました。
董卓は反董卓連合の動きもあり、洛陽に留まり、直ぐに長安には移動しなかったわけです。
こうした事情もあり、王允が長安で政治を行う事となります。
王允は董卓に良い感情は抱いてはいませんでしたが、身を屈し董卓に仕えていたので、董卓は王允を信用していました。
王允は王室の為に動いた事で、多くの者が王允を頼りにしたとあります。
この時には、袁隗や楊賜なども亡くなっており、王允は董卓を除けば、後漢王朝の中心人物となっていたのでしょう。
董卓排除計画
王允は董卓の行いが暴虐であり「このままでは帝位の簒奪もあり得る」と考える様になります。
王允は司隷校尉の黄琬や、尚書の鄭泰らと共に董卓を討とうと考えました。
王允らは董卓に護羌校尉の楊瓚を左将軍に任命し、執金吾の士孫瑞を南陽太守とする様に進言しています。
南陽には洛陽から逃亡した袁術がおり軍閥の孫堅を擁していました。
王允らは楊瓚と士孫瑞に袁術討伐をさせると見せかけ、内心では董卓を討たせようと考えていたのでしょう。
しかし、董卓は張邈や韓馥、劉岱など、任命した者の多くに裏切られており、王允らの進言を疑ったのか許可を出さなかったわけです。
王允は仕方がなく尚書僕射を士孫瑞とし、楊瓚を尚書に任命し、自らの手元に置きました。
董卓は用心深い人物でもあり、弟の董旻を左将軍に任命し兵権を与え、兄の子である董璜を侍中に任命し献帝を監視させています。
董卓に重用される
191年に董卓は長安に帰還すると、長安遷都の功績を祝い王允を温侯に封じ、5千戸の食邑を与えようとしました。
董卓は名士達に背かれており、王允を自分に従順な名士と考え重用しようとしたのでしょう。
しかし、王允は長安遷都を、誇れるような功績ではないと考え辞退しました。
王允の態度を見ていた士孫瑞は「褒賞を拒否すれば董卓に怪しまれる」と諫言しています。
王允としても董卓を排除する前に、処刑されるのは本望ではなく、董卓から二千戸だけ受ける事にしました。
王允は自分の正義に反する行いを続けているわけであり、ストレスはかなりあった様に感じています。
尚、鄭泰、荀攸、何顒、种輯、伍瓊らも董卓の暗殺を企てますが、上手くは生きませんでした。
董卓を討つ
192年になると60日も雨が降り続け、王允は士孫瑞や楊瓚を集め会議をしました。
名目上は「雨が止むように祈る」との事でしたが、実際には董卓を暗殺する為に会議だったわけです。
この時に士孫瑞が「内から行動する者が勝つ」とする占いの結果を述べます。
王允も士孫瑞の意見に賛同し、呂布を味方に付ける事に成功しました。
呂布は董卓の侍中と密通しており、董卓にバレてしまえば処分される身だった事から、王允に協力したのでしょう。
董卓も粗暴な面があり、呂布との間に隙間風が吹いていたわけです。
三国志演義では王允の養女である貂蝉が、董卓と呂布の間を連環の計で裂きますが、史実を見る限り貂蝉の名は登場しません。
代わりに董卓の侍女と呂布が密通した話があります。
王允は呂布に命じ、董卓が祝賀の為に参内した所を見計らい、董卓の暗殺に成功しました。
王允は遂に後漢王朝の諸悪の根源とも言うべき、董卓の排除に成功したわけです。
尚、王允は呂布が董卓を討った時に、蔡邕と一緒にいた話があります。
董卓が亡くなった話を聞くと蔡邕は驚嘆し、それを見ていた王允は蔡邕を叱責しました。
王允は蔡邕を廷尉に引き渡し、蔡邕は後に獄死する事となります。
王允は蔡邕の人物を惜しみ、気が変わり助けようとしますが、間に合わずに蔡邕は獄で死亡した話が残っています。
呂布と不仲になる
王允は呂布の最初の計画では、董卓の部下達を許すつもりでした。
しかし、王允は気が変わり次の様に述べています。
王允「董卓の部下に罪はない事は知っている。
ただ単に主君に従っただけだ。
仮に董卓の部下達を特赦すれば、やつらは逆に我等を怪しむのではなかろうか」
王允は呂布との間の決め事を保護にしようと考えたのでしょう。
王允は元々は董卓排除の為に呂布に近づいただけであり、元々は呂布を軽んじていたとも考えられています。
呂布は董卓の持っていた財宝を、部下に与える様に進言しますが、これも王允は却下しました。
董卓の財宝は国家のものであり「与える必要はない」と考えたのかも知れません。
王允と呂布の関係は冷え込んで行き、王允が涼州人を皆殺しにする噂も流れる事となります。
王允は目上の瘤である董卓がいなくなった事で、己の正義を実践できると思ったのか、思考に硬直さを生み出す事となります。
董卓を討った事で、王允から柔軟性は消え去ったとも言えるでしょう。
旧董卓軍の解散
王允の硬直した正義を貫く姿勢は反発を呼び、人々も離れていく事となります。
こうした中で、王允は涼州人を主軸とした旧董卓軍を解散させようとしました。
この時に部下の一人が王允に、次の様に述べています。
部下「今の涼州人を見るに、袁氏や関東の軍を酷く恐れています。
仮に軍を解散させようとすれば、関東軍の攻撃に怯えるしかありません。
ここは一時的に、皇甫嵩殿に涼州軍を率いて貰い、その隙に関東の軍と連絡を密にとり、機会を伺って解散すべきです」
皇甫嵩は黄巾の乱で最も活躍し、名将と呼ばれた人物でもあり、韓遂、辺章討伐も行った事があり涼州でも名が通っていました。
皇甫嵩が兵を率いる事で、暴動を防ぐ事が出来ると王允の部下は考えたのでしょう。
しかし、王允は却下し、次の様に述べています。
王允「関東の軍は我々の味方である。
皇甫嵩に涼州軍を率いさせれば、涼州人は安定するかも知れないが、関東の諸将は我らに疑いを抱くはずだ」
王允のこうした態度は、涼州人の間で不安を増長させる事となります。
王允は関東の諸将と涼州人を天秤にかけて、関東の諸将を選択したとも言えます。
王允の最後
王允は董卓を排除した事で、実権を握りましたが、涼州人からは次の様に噂されます。
董卓から信任されたいたというだけで、蔡邕を処刑した。
王允は恩赦を出さず、それなのに軍の解散を執拗に迫ってくる。
軍を解散すれば、我等の命などあっという間に吹き飛ぶであろう。
涼州人の間で不穏が空気が流れました。
董卓の娘婿である牛輔は逃亡の末に命を落しましたが、配下の李傕と郭汜は健在であり、軍を解散し涼州に帰ろうとしていたわけです。
こうした中で、賈詡は「長安を攻撃し董卓の仇を討つべし」と、李傕と郭汜に進言しました。
賈詡の進言により、李傕と郭汜は長安を攻撃する事となります。
董卓配下の猛将として名が通っていた李傕と郭汜に対し、王允は徐栄と胡軫、楊定らに命じ迎撃を行わせています。
徐栄は曹操や孫堅を破った事もある名将ですが、胡軫や楊定が寝返り、徐栄も結局は戦死しました。
長安は李傕らに包囲されると、呂布は王允に「一緒に逃げよう」と誘いますが、王允は承知せず、次の様に述べています。
王允「国家を平和にするのが私の願いだ。
それが出来ないのであれば、命をもってその罪を償おうと思う。
陛下はまだ幼く私だけを頼りとしているし、私が陛下を捨てて逃げる事は出来ない。
君は関東の人々に私の考えを伝えて欲しい」
呂布は長安から去り関東の地に行きますが、王允は李傕や郭汜に捕らえられ処刑されています。
王允は、この時に56歳だったと伝わっています。
王允が天下を治めた期間は2カ月程しかなく、期間が余りにも短い事から三日天下と言われる事もあります。
尚、王允の遺体は市に晒され埋葬する者もいませんでしたが、趙戩は官を捨てて王允の死体を回収し埋葬した話があります。
王允の評価
王允ですが、正義感は強い人物だと思いました。
若い頃は正義を貫きましたが、張譲とのやりとりから正義を掲げるだけでは、ダメだと気が付いたのでしょう。
王允は正義感から董卓を討ちましたが、後に李傕と郭汜が長安を荒廃させてしまいます。
それを考えると、王允は董卓を打ち世の中を平和にしようと思ったのにも関わらず、逆に世の中を混乱させてしまったとも言えます。
王允は董卓を討った後にやる事は、正義に傾倒し硬直するのではなく、空気を読み涼州人を落ち着かせる事だったのでしょう。
尚、王允は李傕らにより命を落し最後を迎えましたが、その心には一点の曇りもなかったと感じています。
自分の正義を貫いた最後に満足感もあったのかも知れません。