呂蒙は正史三国志に登場し、呉下の阿蒙の逸話でも有名な武将です。
一般的には呂蒙は努力の人であり、武勇一辺倒の人から智謀を身に着けたと言われています。
呉の荊州方面の司令官は周瑜、魯粛、呂蒙とバトンタッチされていき勢力を広めました。
関羽を破り荊州を手に入れたのは、呂蒙の手柄だと言えるでしょう。
呂蒙は関羽討伐で大いに活躍した事もあり物語では「悪玉」の代表格にされる事も多いです。
しかし、実際の呂蒙は人への配慮したり的確な策や、判断力を兼ね備えた知勇兼備の軍師とも言えるでしょう。
意外に思うかも知れませんが、毛沢東は呂蒙を慕っており、呂蒙伝に関してはかなり読み込んだ話があります。
呂蒙の話は毛沢東が読んでも学べる部分が大きかったのでしょう。
今回は正史三国志の呂蒙を解説します。
尚、呂蒙は唐代には武廟六十四将の一人として選出されています。
三国志の登場人物の中で武廟六十四将に名前が挙がる人物は下記の通りです。
呂蒙の生い立ち
呂蒙は豫州汝南郡富陂県の出身であり、意外に思うかも知れませんが呂蒙は揚州出身ではありません。
呂蒙の姉が孫策配下の鄧当に嫁いおり、呂蒙は鄧当を頼り江南に移住しました。
鄧当は山越討伐を行ったりしていますが、15,6歳の頃の呂蒙は鄧当に黙って戦場に来てしまいます。
鄧当はビックリして呂蒙をしかり、呂蒙の母親に顛末を語りました。
母親は呂蒙を叱りますが、呂蒙は「貧しさから抜け出す為に手柄を立てたかった」と伝えた事で、母親はそれ以上何も言おうともしませんでした。
この話から呂蒙の家は決して裕福とは言えず、呂蒙が立身出世を目指していた事は明らかでしょう。
尚、呂蒙青年を馬鹿にする者がおり、呂蒙はカッとして、その者を殺害して逃亡しますが、袁雄に取り次いで貰い事なきを得た話があります。
潔く自首せず袁雄に取り次いで貰った所を見るに、後年の智謀の士としての一面が見え隠れする様にも感じました。
呂蒙の話を聞いた孫策は興味を持ち呂蒙と引見し、非凡さを感じ側近とした話があります。
当時の孫家はまだまだ発展途上であり、武に優れた者が多く必要であり、孫策は呂蒙に目を掛けたのでしょう。
孫策の性格から呂蒙の様な人物は嫌いではなく、むしろ立身出世を夢見る呂蒙に好感を抱いたはずです。
鄧当が亡くなると、呂蒙は張昭の推薦もあり鄧当の兵を引き継ぐ事になります。
呂蒙が名士である張昭の推薦を受けた事を考えると、呂蒙は要領の良さもあったのではないか?と感じました。
ただし、この頃の呂蒙は武一辺倒の人であり、書物を読むなどはしなかった様です。
呂蒙が知将へと覚醒するのは孫権の時代になってからだと言えます。
派手な軍隊
孫権は武将たちの中で率いる兵が少なく活躍もない様な部隊を調査し、併合しようとしました。
この話を呂蒙が聞くとお金を支払い自分の軍団を赤で目立つようにし、孫権の前でお披露目する事になります。
孫権は呂蒙の部下が派手なだけではなく、訓練も行き届いている事を知ると喜び、呂蒙の兵士を増やしました。
呂蒙は「自分ならもっと多くの兵士を扱う事が出来る」と考え、部隊を赤く派手にしたのは自信の表れとだとも感じています。
呂蒙は孫権の丹楊討伐の軍にも加わり、戦功を多く挙げた事で平北都尉・広徳県の県長となりました。
呂蒙は孫策だけではなく、孫権にも気に入られていた事が分かるはずです。
夏口の戦い
208年に孫権は江夏の黄祖を攻撃し、夏口の戦いが勃発しています。
黄祖は劉表の配下であり、過去には孫堅を討った武将である事から、孫呉にとってみれば絶対に討たねばならぬ相手だったわけです。
孫権の黄祖討伐に対する意気込みは強く、周瑜、董襲、淩統、呂蒙、周泰らが参戦しました。
こうした中で呂蒙が先陣を任される事になります。
夏口の戦いでは淩統が張碩を撃破し、呂蒙が自ら陳就を討ち取る活躍を見せます。
正史三国志の呂蒙伝によると、呂蒙が陳就を討った事で優劣が決まり、呉軍は勝利しました。
黄祖は馮則に討ち取られ都督の蘇飛は捕らえられますが、甘寧の助命もあり許される事になります。
夏口の戦いは大勝利に終わり、孫権は呂蒙を高く評価し「戦いに勝利出来たのは素早く陳就を討てたからだ」と述べています。
孫権は呂蒙を横野中郎将に任命し、銭千万を賜わりました。
江陵の戦い
襲粛の兵
同年に曹操の南下があり魯粛が孫権と劉備の間で、孫劉同盟を成立させました。
赤壁の戦いが勃発すると、呂蒙は周瑜や程普の配下として参戦しています。
黄蓋の活躍もあり曹操は北に撤退しますが、周瑜は呂蒙らと江陵を守る曹仁を包囲する形となります。
この時に益州の襲粛が配下の部将を引き連れて呉に帰順してきました。
周瑜も呂蒙の事を高く評価しており、上表して襲粛の兵を割き呂蒙配下の兵を増やそうと考えました。
しかし、呂蒙は襲粛に関して、次の様に述べています。
※正史三国志 呂蒙伝より
呂蒙「襲粛には度胸があり役に立つ人物でもあります。
しかも、襲粛は我が国を慕って来たのであり、配下を増員してやるのが筋であり、奪い取るのはよろしくありません」
呂蒙は襲粛の部下を配下に加える事を善とはしなかったわけです。
孫権も呂蒙の意見が最もと考え、襲粛に兵を返す事になります。
これを見るに呂蒙はよく出来た人だとも感じました。
ただし、この後に襲粛の記録は途絶えており、どの様になったのかは不明です。
夷陵への救援
江陵の戦いの最中に甘寧が小数の兵で夷陵を奪取する事に成功しました。
しかし、曹仁は軍を分けて夷陵を包囲すると、甘寧は部下の前では平然を装いますが、守り切る見込みは少なく周瑜に援軍要請したわけです。
この時の呉軍の本営では兵が少ない事を理由に、甘寧の救援に反対する者が多かったわけですが、呂蒙は周瑜と程普に次の様に献策しました。
※正史三国志 呂蒙伝より
呂蒙「淩公績(淩統)を残し皆で救援に向かうべきです。
包囲を切り崩し夷陵を救うのに、それほどの時間は掛からないはずです。
公績殿が敵の攻撃を受けたとしても10日間は持ちこたえる事が出来ると、私が保証出します」
呂蒙は淩統だけを残して呉軍の本隊が、夷陵の甘寧を救出する様に進言したわけです。
甘寧は黄祖の配下だった頃に、淩統の父親である淩操を射殺しており、因縁の相手でもありました。
それと同時に淩統は優れた将軍でもあり、呂蒙は淩統を評価すると共に、甘寧と淩統の両方に配慮し淩統を残す決断をしたのでしょう。
実際に淩統は甘寧の事を恨んでおり、淩統を夷陵に連れて行ってしまえば、余計な感情が噴出し上手く行かないと考えた結果でもあったはずです。
呂蒙の献策は上手く行き、夷陵の甘寧を救出し淩統も無事に本陣を守り切りました。
馬を得る
呂蒙は夷陵の救援をするだけではなく、三百人で険阻な道に障害物を設置しておけば、敵が逃亡する時に馬を手に入れる事が出来ると進言しました。
周瑜は策謀を好む部分が多々あり、呂蒙の進言に従う事になります。
周瑜が率いる呉軍の本隊は甘寧救出の為に夷陵に赴くと、多いに敵を打ち破りました。
敵は逃げ去りますが、呂蒙が設置した障害物に阻まれると馬を棄てて逃走したわけです。
馬を棄てた敵を攻撃し、馬三百頭を手に入れ船に繋ぎ合わせて陣営に戻りました。
正史三国志の呂蒙伝によると、これにより呉軍に勢いが付き、曹仁は江陵を持ちこたえる事が出来ないと判断し北方に逃げ去りました。
これにより呉は江陵を手にしたわけです。
江陵を占拠し凱旋すると、呂蒙は偏将軍に任じられました。
呉下の阿蒙に非ず
魯粛は任地の陸口に向かいますが、途中で呂蒙の駐屯地に立ち寄る事にしました。
呂蒙に会うまでの魯粛は、自身の後継者に呂蒙がなるとは思いもしなかったのかも知れません。
魯粛は名士でもあり、寒家出身の呂蒙を見下していた部分もあったと記載されています。
呂蒙伝の記述によると、若い頃の呂蒙は正式な学問を受けた事が無く、内容を口で伝え部下に書かせていたとあります。
学が浅い部分も魯粛からしてみれば、軽蔑する要因だったと考えられるはずです。
しかし、呂蒙の能力の高さを知っている者がおり、魯粛に次の様に忠告しました。
※正史三国志 呂蒙伝より
呂将軍の名声は日々高まっており、以前と同じ気持ちで彼と会ってはなりません。
こちらから、ご訪問するべきです。
魯粛は不思議に思いながらも、呂蒙の挨拶に出向き酒宴を催しました。
酒の席で呂蒙は魯粛に、次の様に聞いてみた話があります。
呂蒙「貴方は重大な任務に就かれ関羽と国境を接しています。
どの様な計略を用いて、不測の事態に備えるお考えなのでしょうか」
魯粛は呂蒙が、この様な質問をしてくるとは思わず、深く考えずに受けごたえしたとあります。
魯粛は「臨機応変に対応する」と呂蒙に伝えました。
しかし、呂蒙は魯粛に対し、次の様に述べています。
呂蒙「現在の東の孫氏と西の劉氏は一つの家の様にはなっておりますが、関羽は虎狼の如き勇将です。
前もって関羽を対処する為の計略を持たずにいてもよいものでしょうか」
呂蒙は言い終わると、魯粛に5つの計略を授けました。
呂蒙の献策を聞いた魯粛は驚き、座を超えて呂蒙の近くに夜と肩を叩き「呂子明殿。貴方に才略がここまであるとは知らなんだ」と述べ、呂蒙の母親に目通りを依頼しました。
魯粛と呂蒙は、これにより深い関係となったわけです。
この話が呉下の阿蒙に非ずの諺にもなっています。
江表伝の記述によれば、孫権が呂蒙と蒋欽に学問を進め、呂蒙と蒋欽は孫権の言葉に感じ入る部分があり、結果として魯粛が驚くほどの智謀を手にしたわけです。
兵の増員を固辞
呂蒙の駐屯地の近くに、成当、宋定、徐顧らも駐屯していました。
成当、宋定、徐顧らが亡くなると、子や弟がまだ幼かった事で孫権は彼等の兵を呂蒙の下に置こうと考えたわけです。
呂蒙は孫権から話が来ますが固辞し「徐顧達は国家に尽くしたわけだから、子弟が幼いからといって軍を取り上げてはいけない」と孫権に説きました。
呂蒙からの手紙は孫権の元に三度に渡って奉られ孫権も漸く納得しました。
呂蒙は成当らの子弟の為に良いと思う師を選び教育係とした話があります。
正史三国志では「呂蒙の他人への心遣いは、この様な感じだった」と書かれています。
この頃の呂蒙は単なる暴れん坊ではなく気遣いも多く出来る人物に変貌していた事が分かります。
孫権は呂蒙と蒋欽に読書を進めたわけですが、呂蒙の読んだ本の中には兵法書だけではなく、儒学の本や春秋左氏伝などもあったのでしょう。
呂蒙のこうした行いは春秋左氏伝の君子が聞いたら「呂蒙の行いは礼に合致している」と書かれるのではないかと感じました。
敵を懐柔
魏では廬江郡の謝奇を蘄春郡の典農の官に任じ、皖の田園地帯の屯田をさせました。
屯田兵は呉の辺境地帯に侵入し、略奪を繰り返す事になります。
呂蒙は謝奇らを懐柔しようと考え使者を派遣し帰順を勧めますが、効果はありませんでした。
呂蒙は謝奇が聞き入れる事はないと悟ると、隙を狙って攻撃しています。
謝奇は呂蒙の襲撃でダメージを受けると、それ以降は動かなくなり、謝奇配下の孫子才や宋豪らは老弱を引き連れて降伏しました。
荊州平定戦でも呂蒙は多くの蜀軍を帰順させており、懐柔工作も得意だったのでしょう。
呂蒙も孫子才や宋豪らに対し、身の安全を保障したはずです。
濡須塢
孫権が濡須口に堡塁を造ろうとすると多くの者が次の様に述べたとあります。
※呉録より
船から岸に上がって敵を討ち戦いが終われば、水を渡って船に戻ればよいだけであり、堡塁を建造しても意味はない。
多くの部将が濡須に堡塁を造る事は無意味だと考え反対しました。
しかし、呂蒙は次の様に述べています。
呂蒙「同じ兵器であっても鋭利なものもあれば鈍いものもある。
戦いであっても百戦百勝するとは限りません。
万が一でも敵の歩兵と敵の騎兵が間近まで迫り、水辺まで退却する余裕も無かったとします。
この場合を考えると、船に戻るのは難しいのではないでしょうか」
孫権は「もっともだ」と答えると、堡塁を築いたとあります。
孫権も呂蒙の同じ考えを持っており、孫権の言いたかった事を呂蒙が述べたという事なのでしょう。
呂蒙が築いた堡塁が濡須塢とも呼ばれ、この場所で魏と呉は何度も戦っており、呂蒙の戦略眼が正しかった事は後に証明される事になります。
第一次濡須口の戦い
曹操は赤壁の戦いを超える軍勢を擁して、212年に呉に攻め込んで来ました。
これが第一次濡須口の戦いです。
211年に曹操は潼関の戦いで馬超、韓遂らを破っており、西が安定した事で東の呉に攻撃を仕掛けて来たわけです。
正史三国志の呂蒙伝によると、呂蒙も第二次濡須口の戦いに参戦しており、作戦に参加し何度も優れた計略を出したとあります。
具体的な策の内容は明らかにされてはいませんが、呂蒙は様々な献策を行ったのでしょう。
尚、この戦いで呂蒙の濡須塢が多いに役立ち、曹操軍の侵攻を寄せ付けなかった話があります。
呂蒙が献策した濡須塢は高い価値を持つ事になります。
呂蒙と甘寧
正史三国志の呂蒙伝に呂蒙と甘寧の逸話があります。
呂蒙伝の記述によると甘寧は荒々しい人物であり、殺生を行い呂蒙の気分を害する事も多かった様です。
さらに、甘寧は主君である孫権の命令に従わぬ事もあり、孫権も苦々しく見ていました。
孫権が甘寧の発言で気分を害したりすると、呂蒙は次の様に述べていたと言います。
※正史三国志 呂蒙伝より
呂蒙「天下はまだ平定されておらず、甘寧の様な勇猛な武将は得難いものです。
どうか大目に見える様にお願い申し上げます」
呂蒙は甘寧を庇ったわけです。
甘寧は黄祖の元にいた時には蘇飛に目を掛けられて救われましたが、呉では呂蒙に救われる事が多かったと言えそうです。
呉で甘寧が活躍出来たのは、呂蒙のお陰という部分も大きかったのでしょう。
ただし、甘寧の食事係が失敗を犯し呂蒙の元に逃亡し、呂蒙が危害を加えない事を約束したのに、甘寧が反故にした事件がありました。
この時だけは呂蒙も切れてしまい役人を出動させて甘寧を囲んでいます。
呂蒙は母親に説得され甘寧と仲直りした逸話があります。
それでも、呂蒙は甘寧に比べると、自分自身をコントロールする能力が極めて高いとも感じました。
皖城の戦い
214年に曹操は朱光を廬江郡の太守に任命し、水田開発や孫呉陣営の切り崩しを図りました。
朱光の動きに対し呂蒙は危険を察知し、孫権に朱光討伐を願い出る事になります。
呂蒙の進言を受けた孫権は自ら兵を率いて出陣し、呂蒙の軍に合流しました。
皖城の戦いでの軍議では多くの者が、土を盛り攻城兵器を用意した上で、城攻めを始める様に進言しています。
しかし、呂蒙は敵の防備が固まっていない事を理由に、即時決戦を主張し斬り込み隊長として甘寧を推挙しました。
孫権は呂蒙の策を聞き入れ、早朝から皖城に対し総攻撃を掛けています。
甘寧や後続部隊を率いた呂蒙の攻撃の前に、皖城は直ぐに陥落し朱光も捕虜としました。
この時に魏では張遼を皖城の援軍に派遣していましたが、張遼の到達前に呉軍は城を落してしまったわけです。
孫権は呂蒙の洞察力の高さも評価してか、直ぐに廬江太守に任命するなど功績に報いました。
皖城の戦いでは功績の首座が呂蒙で、次が甘寧となったわけです。
この頃には呂蒙は三国志でも屈指の名将に成長していた様に感じています。
盧陵の反乱鎮圧
呂蒙は尋陽に戻りますが、1年もしないうちに盧陵で反乱が勃発しました。
盧陵近辺の諸将が討伐しようとしますが、中々征伐が出来ずにいると、孫権は次の様に述べています。
※正史三国志 呂蒙伝より
孫権「鷹が百匹いても一匹の鶚(みさご)には敵わないものだ」
孫権は反乱軍が100匹の鷹で、呂蒙が鶚だと述べた事になるでしょう。
もしくは、盧陵討伐に失敗した武将たちが100匹の鷹で呂蒙を一匹の鶚だと例えたのかも知れません。
孫権は呂蒙に盧陵の討伐を行わせると、呂蒙は短期間で反乱の首謀者を誅殺し、それ以外の者は赦しました。
呂蒙は反乱の首謀者以外は普段と同じ生活をさせたとあります。
呂蒙の軍事能力の高さが分かる逸話であると共に、統治に関してもよく心得ていたのでしょう。
荊州三郡を奪う
孫権と劉備の対立
孫権が曹操と争っている中で、劉備は劉璋から益州を奪う事に成功しました。
劉備が益州を取った事で孫権は荊州の返還を求めますが、劉備は「涼州を取ったら返還する」とするふざけた様な回答をしたわけです。
さらに、劉備は関羽に荊州の守を固めさせ返還する様な素振りはありませんでした。
こうした中で孫権は呂蒙に命じて、長沙、桂陽、零陵の三郡を奪う様に命じる事になります。
呂蒙は孫規、徐忠、鮮于丹らと共に荊州に侵攻しました。
呂蒙が長沙を攻撃すると蜀の長沙太守の廖立は、さっさと益州の劉備の元に逃亡し桂陽も直ぐに陥落しました。
さらに、呂蒙は零陵に向かって進撃を始めます。
劉備も事の重大さを理解し自ら兵を率いて公安にまで出向き、関羽は呂蒙に奪われた城の奪還に動く事になります。
陸口にいた孫権は劉備と関羽の動きを知ると、魯粛に命じて1万の軍で益陽に駐屯させ関羽に備えさせました。
さらに、孫権は呂蒙に命じて零陵攻撃を中止し魯粛を助ける様に指示したわけです。
零陵を降す
呂蒙は零陵に向かっている最中でしたが、ここで南陽の鄧玄之を零陵に連れていく事にしました。
零陵太守の郝普と鄧玄之は旧友でもあり、呂蒙は鄧玄之に郝普に説得して貰おうと考えたわけです。
呂蒙は鄧玄之を同じ車に乗せるなど丁重に扱っています。
こうした中で孫権から零陵攻略は中止し、魯粛の援軍に行くようにとの手紙が届きました。
呂蒙は手紙の内容は見ましたが、他の者には知らせず武将たちに命じて作戦を告げています。
呂蒙は鄧玄之に郝普の説得を依頼しました。
この時に呂蒙は鄧玄之に劉備が漢中で夏侯淵に包囲を受けているなど、嘘の情報を伝えたわけです。
呂蒙は鄧玄之に偽の情報を伝え、零陵には援軍の見込みもなく情をもって郝普を説得する様に依頼しました。
鄧玄之は郝普の説得に応じて降伏し、城を出て呂蒙は郝普の手を取り船に乗せました。
ここで呂蒙は孫権からの手紙を見せ郝普は劉備が公安におり、関羽が益陽に布陣している事を知ります。
呂蒙は手を叩いて笑って手紙を見せ、郝普は手紙を見ると床にうなだれてしまったと言います。
これを見ると、ちょっと呂蒙に悪意がある様に感じるかも知れませんが、何も言わなくても情勢は郝普にバレる事もあり、暴露してしまったと言えるのかも知れません。
さらに言えば、呂蒙は鄧玄之にも偽情報を与えており、鄧玄之からも恨まれてしまった可能性もある様に感じています。
それでも、呂蒙は智謀に優れているだけではなく、演技力も兼ね備えていた事が分かるはずです。
呂蒙は零陵を孫皎に任せ、自らは益陽に向かいました。
劉備と孫権は代表者の関羽と魯粛が単刀赴会で会見を行い、長沙と桂陽は呉が領有し零陵は劉備に返還されました。
曹操が張魯を攻めて益州に迫る勢力を見せていた事や、劉備と孫権には強大な曹操と言う敵がいる以上は、協力しないわけにはいかない状態だったわけです。
和平が成立すると、呂蒙が降伏させた郝普は蜀に還されたとあります。
孫権は尋陽と陽新を呂蒙の封邑として与えました。
第二次合肥の戦い
孫権は劉備と和睦し荊州が安定した事で、北進し合肥への遠征を開始しました。
これが第二次合肥の戦いであり、呂蒙も孫権に従い従軍しています。
合肥は寡兵ではありましたが、魏を代表する名将である張遼、楽進、李典が守っており、結局は城を落す事が出来ず撤退に移りました。
呉軍が撤退するタイミングで張遼が急襲を仕掛けて来て、孫権は危機に陥ります。
正史三国志の呂蒙伝によると、ここで呂蒙と淩統の奮戦が光り命がけて孫権を守った事が記載されています。
合肥の戦いは負け戦でしたが、ここでも呂蒙と淩統の活躍は目覚ましいものがあったというべきでしょう。
第三次濡須口の戦い
216年になると、今度は曹操が呉を攻撃しました。
これが第三次濡須口の戦いです。
孫権は呂蒙を督に任じ蒋欽らと共に、先に築いた防塁である濡須塢を頼りとし防戦を行っています。
強力な弩1万を濡須塢に配置し曹操軍の侵攻を防いだわけです。
216年から217年に行われた濡須口の戦いでは、合肥の戦いが嘘だったかの様に呉軍は奮戦しました。
甘寧が100名の決死隊を率いて曹操の軍に斬り込みを掛けたのも、第三次合肥の戦いの時です。
第三次濡須口の戦いでは呂蒙だけではなく徐盛、周泰らの奮戦も光りました。
曹操は呂蒙らの攻撃を受けて撤退を決断しています。
孫権は呂蒙を左護軍・虎威将軍に任命しました。
第二次濡須口の戦いでは開戦前に魏では、疫病で軍師の荀攸や邴原が死去し、華歆が軍師になるなどもあり孫呉が合肥が鬼門の様に、魏は濡須が鬼門だとも言えます。
呉の四大都督
217年に魯粛が亡くなると厳畯が後任に選ばれますが、軍事に精通していない事を理由に固辞しました。
厳畯が辞退すると、孫権は呂蒙を魯粛の後任として起用する決断をします。
呂蒙は陸口に駐屯する事となり、呉の荊州方面でも責任者とも言える立場となったわけです。
ここにおいて呉の四大都督の三人目の大都督である呂蒙が誕生しました。
魯粛が率いていた兵馬1万余は全て呂蒙の指揮下に置かれ、呂蒙は漢昌太守に任命され劉陽、漢昌、州陵なとの土地を与えられました。
呂蒙は武昌に赴任すると、関羽と同じ地域を二分して境界を接する様になります。
呂蒙は関羽の性格や気質などを観察し、隙あらば呉の地も併呑してしまおうとする野心がある事を見抜きました。
しかも、関羽が上流にいる事から蜀と呉の関係も長くは続かないと考える様になります。
魯粛は北方に曹操の脅威があり、難敵がいたからこそ手を結ぶ事が出来たが、呂蒙は魯粛の方針を変える時だと見定めました。
呉の四大都督の三人目の呂蒙の仕事は、関羽討伐に集約される事になります。
呂蒙の戦略
呂蒙は密かに孫権に手紙を送り、曹操への対策として次の様に述べています。
※正史三国志 呂蒙伝より
征虜将軍の孫皎様が南郡を守備し、潘璋が白帝に駐屯し、蒋欽には1万の遊撃隊を率いて長江を上下に目を光らせて貰い、私が陛下(孫権)に代わり襄陽を攻撃します。
これが実行されれば、曹操への心配は無くなり関羽の力を借りる必要などありません。
関羽も自身の力を過信し、その臣下も武力と策謀を頼りとし、各地で裏切り行為に及んでいます。
関羽ら蜀の者たちを身内の者として扱ってはなりません。
現在、関羽が東方進出をためらっているのは、陛下の聡明さと、我等軍人が目を光らせているからでございます。
今の呉は力があり、この時期に関羽を何とかするべきです。
仮に我らが世を去れば力を出したいと思っても、不可能となってしまうのです」
呂蒙は関羽と親しんではならず、自分達が健在である今の時期に関羽を討伐してしまうのが良いと進言したわけです。
実際に関羽は孫権の娘との縁談も断っており、関羽の性格的な問題もあり孫権の事は嫌っていました。
孫権は呂蒙の関羽討伐の話を聞くと「心から賛同した」とあり、孫権にとっても関羽を苦々しくみていたはずです。
蜀では劉備が漢中王になった時が全盛期とも言われていますが、呉の方でも呂蒙の言葉を見るに蜀に劣らない様な人材が育っていたと考えていたのでしょう。
それでも、孫権は関羽ではなく北進し「徐州を取ったらどうか」と呂蒙に見解を聞くと、次の様に答えました。
呂蒙「曹操は黄河の北におり袁氏らを破ってから日が浅く幽州や冀州を治めるのに苦心している状態です。
東方に目を向ける余裕はないでしょう。
徐州の守備兵は少なく軍を進めれば勝利を得られるはずです。
しかし、徐州の地勢を考えるに四方が陸路で繋がっており騎馬兵が駆け巡るには都合のよい場所でございます。
それ故に、徐州を手にしたとしても、十日もすれば曹操が奪い返しにやってきて、その時に7,8万の兵で守ったとしても対抗できるかは不透明です。
それよりも荊州の関羽を討ち破り、長江全域を手中に収め有利な形勢を確実に築き上げる事こそが肝要となります」
呂蒙は徐州を取っても維持する事が出来ず、それならば関羽を討って長江の流域を支配した方がよいと述べた事になります。
孫権は呂蒙の意見を聞くと「全面的に賛同した」とあります。
呂蒙は関羽討伐を心の中で決めてはいましたが、関羽に対しては関羽を刺激しない様に下手に出て友好関係を築く事になります。
呂蒙は爪や牙を隠して関羽に接したと言えるでしょう。
ただし、関羽の方では郝普との一件を知っていたと思われ「呂蒙を信用してはならない」と思っていた可能性も高いはずです。
南郡奪取
関羽を破る戦略
劉備は定軍山の戦いで法正、黄権、黄忠らの活躍もあり、夏侯淵を討ち漢中を手に入れました。
漢中を手にした劉備は漢中王に即位します。
劉備が漢中王となるや関羽は北上を始め樊城に籠る曹仁、満寵らと対峙しています。
樊城の戦いが始まるわけですが、こうした中で呂蒙は次の様に孫権に上表しました。
※正史三国志 呂蒙伝より
呂蒙「関羽は樊城を抜きに行きましたが、後方には守備兵を多数配置しております。
守備兵が後方に多いのは私を警戒している証です。
私は病気がちですし、軍勢の一部を引き連れて建業に帰らせて頂き、名目として病気療養を行いたいと思います。
関羽は私が荊州から去ったと聞けば、必ずや守備兵を引き上げて襄陽に兵を集中させる事でしょう。
兵がいなくなった事を見定めたうえで、長江を船で昼夜兼行で移動し、空になった関羽の本拠地を襲撃すれば、南郡は容易く手に入れる事が出来ます。
この策を採用すれば、関羽を捕える事も不可能ではありません」
呂蒙は自分の後任には陸遜を推挙しました。
孫権は呂蒙の策を採用し、病気と称した呂蒙を建業に呼び戻し、関羽を討つための計略を練る事になります。
尚、呂蒙が孫権の手紙にある様に病気がちだったと記述されており、呂蒙は関羽討伐の前から体に異変が起きていた事が分かるはずです。
出撃
関羽は呂蒙が建業に帰ったと知り、陸遜が恭しい手紙を寄越した事で気分をよくし、後方の守備兵を減らし樊城に向かわせました。
曹操は于禁や龐徳を樊城への援軍として差し向けますが、関羽は天候を味方につけ大破しています。
関羽は于禁軍の降伏兵を手に入れますが、食料を支給した事で兵糧不足が深刻化し、湘関の兵糧を勝手に奪い取りました。
湘関は呉の管轄下であり、呂蒙伝によると、ここにおいて孫権と呂蒙が動き出したわけです。
尚、魏の方でも司馬懿と蔣済が呉を動かして関羽の背後を襲わせる様に献策しており、魏からの使者も孫権や呂蒙が動く要因にもなったと考えられます。
孫呉にとってみれば、関羽が湘関の兵糧を奪った行為は同盟破棄として見る事も出来、関羽を討つ理由にもなったはずです。
呂蒙が先鋒となり荊州に向かいました。
呂蒙は尋陽まで来ると、その地の精鋭部隊を輸送船の中に潜ませ、民衆たちを徴兵し船を焦がして昼夜兼行で前に進む事になります。
尋陽は呂蒙とも馴染が深い土地であり、この地の精鋭を呂蒙は頼りとしていたのでしょう。
関羽が配置した長江沿いの見張りの兵を捕虜としました。
長江沿いの蜀の兵は商船だと思って油断していたら、呂蒙配下の精鋭に捕らえられてしまったとも言えます。
これにより関羽は後方で異変が起きている事を知る事はありませんでした。
治安維持
呂蒙は南郡まで兵を進めると、士仁を虞翻に説得させ降伏させました。
この時に糜芳は城を守ろうとしていましたが、呂蒙が士仁を見せた事で降伏を決断する事になります。
士仁や糜芳は関羽との人間関係が上手く行ってはおらず、呉に降ったとも言えるでしょう。
呂蒙は南郡を制圧し関羽配下の将兵の家族を全て捕虜としましたが、慰撫を行い軍中には民家に押し入ったり、物資を要求してはならないと、きつく言い渡しました。
呂蒙の配下で同郷の汝南郡出身の者がおり、民家の傘を一つ奪い取り、鎧を覆った者がいました。
配下の者は決して私利私欲で強奪したとは言えない部分もありましたが、呂蒙は軍令違反とみなし涙を流し処刑した話があります。
同郷出身者であっても、容赦しない呂蒙の姿勢に全軍が震えあがり、道に落ちている物であっても拾わなくなったと言います。
人を斬って命令を徹底させるやり方は、司馬穰苴や彭越なども使っており、呂蒙も真似た様に感じました。
それでいて呂蒙は自分の親近者を派遣し、老人を見舞わせ「足りない物」を訪ねたり、病気の者には医者に見せ、飢えや寒さに凍える者には衣服や食料を与えています。
呂蒙は民衆に対しては、一転して慈愛の情を見せたわけです。
さらに、呂蒙は関羽が保持していた財宝には手を付けず、孫権が来るのを待ちました。
財宝に手を付けなかったり、民衆に危害を加えない姿勢は劉邦が秦の首都咸陽を陥落させた時に、張良の進言により態度を正した姿とも被るわけです。
荊州南部を平定
関羽は徐晃の軍に敗れ樊城の攻略を諦めますが、後方が呂蒙に奪われた事を知ります。
関羽は使者を派遣し、呂蒙と連絡を取りました。
関羽としては呂蒙に南郡から出て行って貰いたいと考え、手紙を出したり様子を探らせたのでしょう。
呂蒙は関羽の使者がやってくると丁重に扱い、使者たちには城内の様子を見て回らせ家族が無事で、手厚い待遇を受けている様子を見て回らせました。
呂蒙の懐柔策が効果を発揮し、関羽の軍内では呉に対する敵対心が消え失せていったわけです。
こうした中で孫権が荊州に入るという情報を関羽は手にし、自身が孤立無援の立場となっている事を知りました。
この時点で関羽は呂蒙が勝手に動いたのではなく、孫権も納得して荊州を取ろうとしている事を悟ったはずです。
関羽は麦城に籠りますが、関羽軍では兵士の脱走が相次ぎ、麦城も守り切れないと判断し漳郷に向かいました。
孫権は関羽の動きを読んでおり朱然と潘璋が伏兵となり、関羽及び関平を捕虜としています。
関羽が捕虜となった事で蜀漢の勢力は荊州から駆逐され、荊州の中南部は呉の領土となりました。
呂蒙の戦略通りの結果となりますが、ここから多少の領土の奪い合いはあれど、魏・呉・蜀の勢力図は固定される事になります。
それを考えると、呂蒙の戦略が三国志及び三国時代の情勢を作ったとも言えるでしょう。
論功行賞
関羽討伐が終わると論功行賞が行われました。
江表伝によると、孫権が荊州の公安で多くの臣下を集めて論功行賞を行った話もあります。
論功行賞は行われますが、呂蒙は病気を理由に出席できないと断っています。
孫権は呂蒙が病気だという話を聞くと、次の様に述べました。
※江表伝より
孫権「関羽を虜に出来たのは子明(呂蒙)の手柄である。
大きな勲功を立てながら、恩賞の沙汰が無く面白くないと感じているのではなかろうか」
孫権は呂蒙が論功行賞を行うのが遅いと不満に感じていると思ったわけです。
江表伝によると、孫権は歩兵及び騎兵、楽隊を増し与え虎威将軍づきの官属とし、さらには南郡及び廬江の二郡の太守とし、儀仗兵を孫権が自ら選び下賜したとあります。
儀仗兵とは、その人物の威厳を示す為の兵でもあり、孫権が如何に呂蒙を高く評価したのかが分かるはずです。
恩賞の事が終わると儀仗兵が先導し、楽隊がつくなど、道中の道を輝かせました。
孫権はド派手な演出で、呂蒙を持て成した部分もあるのでしょう。
正史三国志には孫権が呂蒙を南郡太守に任命し、孱陵侯の封じて銭一億、黄金五百金を賜わったとあります。
呂蒙は銭と黄金は固辞しましたが、孫権は許さず強制的に受け取らせた様です。
しかし、封爵が行われないうちに、呂蒙は病に伏す事となります。
呂蒙の最後
呂蒙は病気となりますが、関羽討伐で活躍した蒋欽や孫皎なども同じ頃に病に掛かっていた様です。
これらは関羽の祟りとみる事も出来ますが、実際には荊州の中南部で疫病が流行していたのでしょう。
関羽との戦いで神経をすり減らし、終わった途端に病を発してしまった様にも感じています。
孫権は呂蒙が病に掛かった事を知ると、迎えに行かせ内殿で寝かせたとあります。
孫権は呂蒙の回復を願い最高級の寝室を用意し、治療の為に最善を尽くしました。
孫権は呂蒙の病気が治せる者がいれば、千金を下賜すると布告まで出しています。
呂蒙が鍼を打つ時になると、孫権は心を痛め、呂蒙の見舞いをしたいと考えても、気を遣わせる事を恐れ壁に空けた穴から様子を見守ったとあります。
孫権は呂蒙の様子に一喜一憂し、夜も眠れない程でした。
呂蒙の病気が一旦回復すると、孫権は大赦を出し群臣達も祝賀の詞を言上しました。
再び呂蒙の容体が悪化した時は、孫権が自ら付添を行い道士に依頼し延命を祈願しています。
しかし、呂蒙は関羽討伐を成し遂げた年でもある西暦219年に、内殿で42歳の生涯を終えました。
孫権は呂蒙の死を聞くと音楽を鳴らさず食事も質素な物に変え、自分の身を修養した話があります。
尚、呂蒙は自分の死期を悟ると下賜された黄金や財物を全て府庫に収め、自分が亡くなったら全て国に還す様に命じていました。
さらに、呂蒙は葬儀は質素に行う様に述べており、この辺りは呂蒙の人間性がよく出ていると言えるでしょう。
三国志演義では関羽の祟りで呂蒙は亡くなった事になっていますが、実際には病死だったはずです。
呂蒙が亡くなると呂覇が後継者となり、呂琮が継ぎ呂琮が亡くなると、呂睦が後継者となりました。
孫権は功臣の子孫を大して用いてはおらず、呂覇、呂琮、呂睦がどの様な活躍をしたのかは不明です。
尚、呂蒙は亡くなってしまいましたが、蜀では劉備が敵討ちと言わんばかりに呉に攻撃を仕掛け夷陵の戦いが勃発する事になります。
呂蒙がここで亡くならなければ、夷陵の戦いで呉軍を率いたのは陸遜ではなく呂蒙だった事でしょう。
呂蒙のその後の戦略
呂蒙は死去してしまいましたが、呂蒙が関羽から荊州を奪った事で、呉と蜀は険悪な関係となります。
劉備が後に大軍で呉を攻めて夷陵の戦いが勃発している事からも明らかでしょう。
さらに、呉と魏も友好関係にあるとは言い難い状態だったはずです。
それを考えると呂蒙は荊州は取りましたが、呉は危うい状態だったと言えます。
しかし、蜀では漢王朝の再興が建国の理念でもあり、魏と同盟を結ばれる事はないと考えられるはずです。
呉、魏、蜀の関係を見ると呂蒙は、何処かのタイミングで再び蜀と結ぶ事も考えていたのかも知れません。
劉備の年齢は既に還暦に近くなってきており、呂蒙は劉備の寿命が尽きたタイミングで蜀と和睦を考えた可能性もあるでしょう。
それまでの間は魏の傘下という形をとり形式だけの連衡を考えていたのかも知れません。
この辺りは呂蒙本人が語っておらず、どの様に考えていたのかは不明です。
呂蒙の評価
これまでの話を見て来て呂蒙が知勇兼備の名将であり、特に失敗もしていない事が分かります。
三国志の形は呂蒙が荊州を取った時に確定されたとも言えるでしょう。
陳寿は呂蒙が勇敢なだけではなく、策略にも通じており軍略に優れた能力を持っていたと賞賛されています。
陳寿は郝普を降伏させ関羽を破った呂蒙の手腕を高く評価しているわけです。
呂蒙は最初は乱暴者でしたが、成長は凄まじく国を代表する武将にまでなっています。
尚、呂蒙は甘寧や孫権との経緯を見れば、組織が上手く行くような調整役としても高い能力を持っていたと感じました。
袁紹陣営は優れた能力を持った者が多くいても、何処か派閥対立ばかりしており、纏まりに欠ける様に思いました。
袁紹陣営と比べると、呉が上手くまとまったのは孫権や呂蒙の調整能力の高さによる部分も大きかったのでしょう。
蜀漢でも諸葛亮や費禕が調整役となり、組織を纏めていた様にも見受けられます。
呂蒙は武勇や智謀だけではなく、調整能力など様々な能力を秘めた武将だとも言えます。