戦国七雄の解説です。
戦国七雄とは秦、楚、斉、燕、趙、魏、韓の諸侯の事を指します。
これらの諸侯が覇を競った時代を戦国時代と呼びます。
春秋時代と戦国時代の境目に関しては、様々な説があります。
紀元前453年に晋陽の戦いが終わり、智伯を趙、魏、韓で破った時が戦国時代の始りだとする説もあれば、紀元前403年に韓、魏、趙が諸侯として周王朝から認められた年が戦国時代の始りだと言う人もいます。
戦国時代は紀元前221年に最後に残った斉が滅亡するまで続き、200年以上も中華で争い続けた事になります。
今回は簡単に戦国七雄の各国の特色などを紹介します。
尚、戦国七雄とは言いますが、秦、楚、斉、燕、趙、魏、韓の他にも、中山、宋、衛、西周、東周、魯などの小国も存在しています。
戦国時代の呼び方の由来は、劉向が著した戦国策にあるとされています。
戦国時代は諸子百家や多くの遊説家の時代でもありました。
秦
秦は最も西方に位置する国で歴史も古い国です。
キングダムの主人公である信(李信)や秦王政(後の始皇帝)がいた国です。
西周が犬戎などの侵入により鎬京を捨てて、洛陽に移った時に秦の襄公の活躍が認められ諸侯になっています。
戦国時代の初めの頃は、魏に西河を奪われるなど圧迫されていました。
秦の孝公の時代に商鞅が登場し秦を法治国家に変えます。
これにより、秦は国力を増し他国を圧倒しだします。
商鞅は信任してくれていた秦の孝公が亡くなると、秦の恵文王に殺されますが、商鞅の法律は継続されたわけです。
秦の昭王の時代になると、魏冄(ぎぜん)が白起を採用し、韓、魏、趙、楚など他国の領土を次々に奪っていきます。
白起は中国歴代名将トップ10にも必ず入る位の突出した名将です。
秦の恵文王の時代には張儀、秦の武王の時代には樗里疾、甘茂。秦の昭王の時代には、范雎、蔡沢など代が変わっても優れた宰相を輩出した国でもあります。
秦の孝文王は正式に即位した後に、3日で亡くなっていますが、後継者の荘襄王や秦王政の時代には呂不韋が宰相を務め、他国の領土侵攻はやめずに秦王政(始皇帝)の代でついに天下統一しました。
この時に文官では李斯、武官では王翦、王賁、蒙恬、桓騎、李信などが活躍しています。
万里の長城や兵馬俑、安房宮などは秦の始皇帝の時代に造られた建造物です。
始皇帝は統一後は国内整備を行い小篆における文字の統一や、度量衡の単位の統一するなど、旧六国のバラバラだった文化を統一する事も行っています。
思想の統一が焚書坑儒になるのですが、多くの反発を生む事になったとされています。
秦は始皇帝死後に始皇帝の長子である扶蘇が殺され、胡亥が二世皇帝に即位し趙高の暴政が始まると陳勝呉広の乱が勃発します。
陳勝呉広の乱は、章邯が鎮圧しますが、反乱は治まらず、宮廷では趙高や胡亥の恐怖政治で政治は機能しなくなります。
さらに、函谷関の外では鉅鹿の戦いで王離が項羽に敗れ、章邯は殷墟で降伏します。
胡亥に叱責される事を恐れた趙高は胡亥を殺し、新たに秦王となった子嬰は趙高を殺害しますが、時すでに遅く漢の高祖である劉邦ば武関を破り子嬰は降伏しました。
項羽が咸陽に到着すると、子嬰を殺害し、ここにおいて秦は滅びたわけです。
秦は始皇帝死後に僅か4年で滅びる事になります。
楚
楚は南方の大国です。戦国七雄の中でも国土の広さでは1,2を争う国です。
春秋戦国時代より以前の、周の時代から王を名乗っていた事が分かっています。
尚、西周王朝の時代に周の昭王が南方を征伐した事になっていますが、楚を征伐したのではないか?とも考えられています。
楚は長江流域の国でもあり、周王朝とは違った流れを汲んでいるとも伝わっています。
祖は長江文明の国ではないか?とする説も根強いです。
春秋時代では、成王の時代に晋の重耳(晋・文公)が亡命しています。
楚の荘王の代には、邲の戦いで晋を破り覇者となりました。
荘王は春秋五覇の一人にも数えられる事があります。
戦国時代になると、伍子胥が呉に亡命したりして、一時は呉に楚の都である郢を落とされてしまいます。
しかし、その後は復興して魏から亡命してきた、呉起が楚の悼王の宰相になると王権を強化するなど国力を増します。
呉起は商鞅と同様に法治国家を目指したわけですが、呉起が楚の貴族の恨みを買い殺されると、元の体質に戻ってしまいました。
楚は戦国時代を通して国土は広いのに、国が浮上しない状態が続きます。
楚の懐王の時代には張儀に騙されたり、頃襄王の時代に首都である郢を秦の白起に落とさるなど秦に対して後手に回ります。
紀元前241年に、楚の考烈王の時代の宰相である春申君が、楚・趙・韓・魏・燕の合従軍で秦を攻めましたが、函谷関の戦いで敗れています。
尚、春申君が主導した合従軍は、趙の龐煖の合従軍と連動した動きがあったようです。
楚将項燕が李信・蒙恬を破るなどの活躍もありましたが、王翦に敗れ楚王が捕虜になってしまいます。
尚、項燕は昌平君を楚王に擁立し楚を復興しますが、王翦・蒙武に敗れ結局は滅亡しています。
始皇帝が崩御すると、各地で反乱がおき秦は項羽が滅ぼします。項羽は項燕の孫です。
楚は戦国七雄の中でも、圧倒的に広い国土を有しながらも、国としてのまとまりがなく、残念な国にも見えます。
斉
斉は春秋戦国時代を通してあった国です。
春秋時代には斉の桓公の時代に名宰相管仲がいて覇者になった国でもあります。
春秋時代の後期は公室の力が衰えますが、斉の景公の時代には司馬穰苴や晏嬰などの名臣がいました。
春秋時代は姜姓の国でしたが、戦国時代は田姓の国です。
家臣に国を乗っ取られる形で、主君が入れ替わりました。
斉の湣王の時代に、一時は宋を滅ぼすなど中華でも秦・斉の2強時代になっています。
斉は戦国七雄の中では、中期に最も輝いた国とも言えそうです。
しかし、燕の昭王の恨みを買い燕将楽毅率いる五カ国連合軍に大敗しました。
許と即墨の2城を残し楽毅に占領されてしまうという歴史的大敗を喫しています。
楽毅が趙に亡命すると斉将田単が旧領土を取り戻しますが、国力は大幅に落ち昔の勢いはありませんでした。
斉王建の時代には、秦の他国への侵攻を傍観して手出しをしていません。秦と斉が同盟関係にあったからです。
その結果、韓・趙・魏・燕・楚は滅び、最後に残った斉も秦の李信、王賁、蒙恬に攻められ斉王建が降伏する事で滅びました。
斉王建が秦の侵略を傍観した為に、斉は最後まで残りましたが、結局は秦に滅ぼされました。
始皇帝が崩御すると子孫である田儋、田市、田栄、田横などが斉で秦に対して反旗を翻しています。
燕
燕は中原の地域から遠く歴史の分かりにくい国でもあります。
しかし、伝説によれば燕の始祖は周王朝の功臣である召公奭(しょうこうせき)です。
春秋時代に山戎に攻め込まれて斉の桓公に援軍を求めて山戎を撃退した記録があります。
戦国時代になると、朝鮮半島の方に勢力を伸ばしていたようです。
戦国時代に斉に壊滅的な打撃を食らいますが、名君である燕の昭王が現れ、楽毅を上将軍に任じ合従軍を率いて斉を壊滅的な状態にしました。
しかし、燕の昭王が亡くなり、燕の恵王の時代になると、斉の田単に領土を取り返されてしまい大幅に国力を落としています。
その後は、燕王喜の時代に、60万の軍勢で趙を攻めるなどもしましたが、廉頗に撃退されています。
秦王政に恨みを抱いた燕太子丹が荊軻を刺客に送り込みますが失敗に終わりました。
秦王政は激怒して李信や王翦に、燕を攻めさせ滅亡しました。
燕の昭王と楽毅の時代だけが輝いている国でもあります。
魏
魏は晋の文公の亡命生活を共にした魏武子の子孫が晋を分割して作った国です。
魏は戦国時代初期は、名君である魏の文侯がいて、李克・呉起・楽羊・西門豹などの賢臣がいて強国でした。
戦国時代初期は、戦国七雄の中で最強国として君臨しています。
魏の君主は天子気取りだった話も伝わっています。
武侯の代も領土を拡大したり中華で最も権勢を誇った国です。
しかし、魏の恵王の時代に馬陵の戦いで斉の孫臏の奇策に敗れ、さらに商鞅率いる秦軍にも敗北して国力を落としました。
魏が国力を落とした事で、東西の秦と斉の2強時代が到来したわけです。
魏は秦の白起が活躍していた時代には、国土を多く失っています。
戦国時代の後期に、信陵君が秦を二度に渡って破るなど活躍しました。
しかし、信陵君が失脚してアル中で亡くなると秦は再び魏に侵攻を始めます。
魏の蒙驁に攻められて魏の東部を奪われると、魏は秦に対する抵抗力を完全に失いました。
最後は王賁に攻められ、首都の大梁が水攻めで落とされ滅亡しています。
始皇帝が死ぬと魏の子孫である魏咎、魏豹らが秦に対して反旗を翻しています。
尚、魏は梁と呼ばれる事も多いです。
因みに、楚漢戦争で漢の名宰相となる陳平を推薦した魏無知は信陵君の子孫だと言われています。
韓
韓は戦国七雄の中でも最弱だと言われています。
実際に、戦国七雄の中では最も早く滅びていますし、西方に秦がいる事で侵攻に悩まされていました。
国土としては中原のど真ん中に位置していますし、首都である新鄭は交通の要所として栄えています。
新鄭は春秋時代は鄭の首都であり、大国楚や晋の侵攻を幾度も防いでいる難攻不落の城です。
晋の領土を分割する時に、趙・魏とどこを領地とするか決めますが、その時に韓は段規の進言で成皋を取っています。
成皋は石ころだらけの土地ですが、ここを拠点にして鄭を滅ぼし首都を移しました。
さらに、韓の昭侯の時代には申不害を宰相にして国力を高めました。申不害が宰相の間は他国は韓に手出しが出来なかった記録があります。
しかし、その後の韓は王を名乗ったりしますが、史記などを見る限りでは連戦連敗で戦いに滅法弱いです。
ただし、魏が韓に奪われた土地を奪還する事を目指したような記述もあるので、記録に残っていない勝利もあるのでしょう。
もしくは外交の機転により割譲した手に入れた可能性もあります。
戦国時代末期の秦が次々に領土拡大していく中で、韓は次々に領土を奪われています。
鄭国を秦に向かわせて土木工事を行い秦の財政を悪化させるなどの策を弄したりもしましたが、結局、灌漑工事は大成功し秦はさらに強大になりました。
秦には荀子の元で学んだ韓非子という公子がいて、韓王に富国強兵の道を進言しますが用いられる事はありませんでした。
韓非子は吃音が酷くて相手にされなかった話も伝わっています。しかし、韓非子の書いた書物が秦に伝わります。
すると秦王政はいたく気に入り「この者と会って語ることが出来るなら死んでも悔いはない」と興奮して話したとされています。
秦王政は韓非子に会うために韓を攻め立てました。講和の使者に韓非子が来たのですが、秦王政との会談は筆談だったのかも知れません。
韓非子は吃音が酷くて話すのが苦手だったからです。逆を言えば吃音が酷く喋るのが苦手な韓非子をよく使者に選んだと思いました。
しかし、結局、韓非子は讒言にあい、秦で亡くなっています。
韓非子が死に秦は韓を攻めて戦国七雄の中では最初に韓が滅びました。
韓は紀元前231年に秦に南陽を割譲し、秦は南陽の太守に内史騰を任命し、紀元前230年に内史騰の攻撃により韓は滅亡を迎える事になります。
秦末期や楚漢戦争で活躍した劉邦の軍師である張良は韓の宰相の家柄だと記録に残っています。
秦末期に一時期復興していますが、韓王成は項羽に斬られました。一族の韓王信は劉邦に韓王に任じられますが、冒頓単于が率いる匈奴に投降しています。
余談ですが、楚漢戦争の韓王信は、漢の名将であり陳余や龍且を破った韓信と同名であり、韓王家の韓信は韓王信と呼ばれるのが普通です。
趙
趙はキングダム読者であれば知っている人も多い事でしょう。
李牧がいる趙です。
趙は晋を韓・魏と共に分割して国となりました。
しかし、当時、韓・魏・趙よりも強大な勢力が晋にはいたわけです。
それが智伯です。智伯は韓と魏を誘って趙を攻め陥落寸前まで追い詰めます。
しかし、趙の当主である趙襄子は韓・魏を誘い智伯を裏切らせる事に成功します。
その結果、趙・魏・韓に攻められた智伯は死に滅びました。
智伯の死後に智伯の可愛がっていた予譲が刺客となり、趙襄子が襲われる事件も起きています。
この話は史記の刺客列伝に詳しいです。
智伯を破り趙は韓・魏と共に晋を三分割しました。
この頃の韓・魏・趙は立場上は晋の家臣ですが、領地は主君である晋公よりも広大な領地を有していました。
晋の主君の領地は曲沃と絳しかありません。韓・魏・趙の当主の方が10倍以上も広い領地を持っていた事になります。
家来と主君が完全に逆転した状態です。尚、先にも述べましたが、春秋時代と戦国時代の分かれ目は様々な説がありますが、智伯が死に晋を三分割した時を戦国時代の始まりと考える人が多いです。
戦国時代に入ると初期の頃は地味な存在でした。しかし、武霊王の代になると胡服騎射を採用する事で大幅に領地を広げています。
中山を攻め滅ぼしたのも武霊王です。しかし、後継者問題で失敗し武霊王が亡くなると秦に攻勢を許す様になります。
しかし、趙の恵文王の時代には、廉頗、藺相如、趙奢などが活躍し、さらに他国からは楽毅、田単がやってくるなど人材の宝庫でした。
趙の恵文王が内政を重視して戦争を好みませんでした。趙の孝成王の代になると長平の戦いで白起に敗れ大敗しています。
結果、40万人の兵士が生き埋めにされてしまいました。その後、首都邯鄲も秦に包囲されるわけですが、平原君が楚に援軍を取り付け、魏の信陵君が国の指揮権を奪い趙を助けています。
その結果、邯鄲で秦は破れました。しかし、その後は再び秦に領土を削り取られていきますが、李牧の活躍で秦を何度か撃退しました。
しかし、趙の幽穆王が郭開の言葉を信じ李牧を殺した事で邯鄲が陥落して趙は滅亡しました。公子嘉が代(地名)に逃げて代王となりますが、結局は秦王政に滅ぼされています。
戦国七雄の流れ
戦国七雄の流れを簡単に説明しますと、初期の頃は魏が圧倒的に強国でした。
国土は狭く感じるかも知れませんが、中原の人口密集地帯を領土としていた為です。
秦の孝公の時代に、商鞅が秦の宰相になると秦は法治国家に変貌し国力を高める事に成功します。
西で秦が勢力を強める半面、東では斉が国力を増していきます。
魏の衰えが目立ち東西の秦と斉の二強時代に突入するわけです。
戦国時代の中期は秦と斉の二強時代と覚えておけばよいでしょう。
燕の昭王の時代に楽毅が燕、秦、趙、魏、韓で斉を攻撃すると、斉は滅亡寸前に陥る事になります。
斉は田単の活躍により、燕から奪われた土地を奪還しますが、過去の栄光を取り戻す事は出来ませんでした。
戦国時代の後期になると、秦の一強時代に突入し、諸侯が圧倒的秦の前に絶望的な戦いを強いられる状態となります。
紀元前230年に韓が滅亡すると、魏、趙、楚、燕、斉が滅び紀元前221年に秦が天下統一する事となります。
戦国七雄の勝者は秦だったわけです。
しかし、始皇帝の政治に問題があったのか、始皇帝死後の社会混乱により、秦は短期間で滅んでいます。
始皇帝が天下統一した後に、僅か4年で秦は項羽に滅ぼされ、時代は項羽と劉邦の楚漢戦争の突入します。
尚、秦末期や楚漢戦争の時代に、戦国七雄の子孫たちが各地で建国したりもしています。
最終的には、劉邦が項羽を破り前漢、後漢、合わせて400年の歴史を誇る漢王朝が樹立される事となります。