秦の始皇帝(嬴政、秦王政)は、秦の統一戦争を完了させ、戦国七雄の国々を滅ぼして天下統一を成し遂げた人物です。
西周王朝が崩壊して以来、中華は春秋戦国時代に突入し、諸侯同士が争う時代に突入しました。
諸侯は合従連衡を繰り返しながらも淘汰されて行き、最後に天下統一したのが秦となります。
中華の地では、途中で春秋五覇と呼ばれる覇者が現れるなどもありましたが、500年以上続いた混乱を収束させたのが、秦の始皇帝だと言えるでしょう。
始皇帝の名前は「嬴政」であり、秦王政と呼ばれたりする場合もあります。
始皇帝の最後は、水銀を飲んで亡くなったとも考えられています。
ここでは秦王になる前を嬴政と呼び、秦王になってからは秦王政、皇帝に即位してからは始皇帝と呼ぶようにします。
始皇帝(嬴政)は原泰久さんが描く漫画キングダムで話題になった事で、知名度は急上昇しているはずです。
ここでは、史実と考えられる司馬遷が書いた史記をベースにして、様々な資料から話を進めていきます。
尚、応神天皇の時代に渡来人の弓月君が日本にやってきた話しがあり、弓月君の子孫が後に秦氏を名乗り、始皇帝の後裔を名乗りました。
しかし、秦氏が始皇帝の子孫を名乗るのは、伝承であり真実とは考えられてはいません。
嬴政が生まれる前の秦
嬴政が即位する前の秦ですが、既に戦国七雄の他国を圧倒していた状態です。
秦は戦国時代初期に、秦の孝公が商鞅の変法を行い国内改革をしました。
商鞅は秦の恵文王の時代に、処刑されますが、その後も張儀、樗里疾、甘茂など名宰相が続いたわけです。
秦は恵文王、武王、昭王と続きますが名宰相が輩出される事になります。
秦の昭王の時代になると、魏冄や范雎などが宰相となり、将軍の白起が他国の兵を圧倒し、秦は大きく領土を拡げる事になります。
特に白起が趙の趙括を破り、40万の兵士を生き埋めにした長平の戦いは、圧巻だったわけです。
長平の戦いの翌年に、秦の王齕、王陵、鄭安平などが、趙の首都邯鄲を囲む事になります。
趙は苦しい立場となりますが、この邯鄲の城内で生まれたのが嬴政であり、後の始皇帝です。
嬴政の誕生
嬴政の父親は異人(後の荘襄王)であり、趙に人質に行っていたわけです。
異人は人質でしたが、容赦なく秦が趙を攻撃するため、趙からは人質に役目を果たさない異人を冷遇していました。
異人の人質は名ばかりで、実際には捨て駒の様な存在でした。
秦の王族にも関わらず、貧しい生活を送る異人に呂不韋が目を付け、秦の昭王の太子である安国君(嬴政の祖父)が寵愛する華陽夫人に異人を売り込んだわけです。
華陽夫人は、子が出来ない悩みがあった事で、異人を養子として認め、安国君は異人を後継者に指名する事になります。
呂不韋は邯鄲に戻りますが、異人が呂不韋の妾である趙姫を気に入り、呂不韋に譲って欲しいと言います。
呂不韋は苛立ちますが、ここで怒っては、今までの計画が台無しになる為、異人に趙姫を譲る事にします。
呂不韋が異人に趙姫を譲り12カ月後に誕生したのが、嬴政です。
尚、史記の呂不韋伝によれば、呂不韋が異人に趙姫を譲った時に、既にお腹に子があった事が記述されており、これが本当であれば始皇帝は呂不韋の子となるでしょう。
ただし、これらの事は世間の噂に過ぎないとも言われています。
因みに、嬴政は当時の暦だと1月1日の正月に生まれた事で、正月に因んで「正」が本当の名前だとする説も最近では有力になっています。
史記の始皇本紀では、正月に生まれたから「政」とした記録もあるわけです。
秦は氏が嬴で、氏が趙である事から、始皇帝は趙正であり、趙正書なる書物も発見されています。
趙で虐められる
邯鄲が趙に囲まれた時に、呂不韋の手引きにより父親の異人は、秦軍に逃げ込み邯鄲城内から脱出しています。
しかし、趙姫と嬴政は趙の首都の邯鄲に残り、異人だけが秦の咸陽に向かう事になったわけです。
趙姫と嬴政は趙の人々に殺されそうになりますが、趙姫の実家が豪家だった事で、難を逃れる事が出来ました。
異人は咸陽に到着すると、正式に華陽夫人の養子となり、秦の太子の後継者として認められる事になります。
異人が秦の後継者になった事で、秦は趙に仕送りをした事で、趙姫や嬴政の生活が楽になった話があります。
嬴政は、趙では虐められていた話しもあり、後年に邯鄲を占領した時の行動を見る限りでは、恨みを抱いていたのでしょう。
嬴政を虐めた趙の人々は、秦王となった嬴政に復讐される事になります。
因みに、人質生活の時に燕の太子丹も趙にいた話があり、嬴政と太子丹は一緒に遊んだ仲だった話があります。
燕の太子丹は義侠心を感じる部分もあり、嬴政に対して虐めたりはしなかった様に思います。
秦に戻る
秦では56年間も秦王を務めた昭王が紀元前251年に亡くなる事になります。
秦では安国君が即位し孝文王となったわけです。
孝文王が即位すると、華陽夫人の養子である子楚(異人)が正式に太子となります。
子楚が太子になった事で、秦は趙姫と嬴政を丁重に扱い秦に送り返しています。
これにより趙姫と嬴政は秦の首都である咸陽で暮らす事が出来る様になりました。
嬴政が太子となる
孝文王は服喪期間が終わると、僅か3日で亡くなってしまい、子楚が秦王に即位し荘襄王になっています。
荘襄王は即位すると、養母の華陽夫人を華陽太后、生母の夏姫を夏太后とし、呂不韋を宰相に任命しています。
さらに、嬴政を太子に指名し自らの後継者にしたわけです。
荘襄王から太子に指名された事で、嬴政は秦王の座が約束された事になります。
尚、嬴政の弟に成蟜がいますが、腹違いの弟だと言われています。
因みに、李斯列伝では、秦の最後の王である子嬰も始皇帝の弟になっています。
ただし、子嬰に関しては史記の始皇本紀や六国年表では、胡亥の兄の子と記述があります。
呂不韋の宰相時代
嬴政は秦王となりますが、子供であった為に呂不韋が政治を行う事になります。
秦王に即位
嬴政の父親である荘襄王は、紀元前247年に死去する事になります。
荘襄王が秦王だった期間は、3年ほどしかありません。
太子であった嬴政が秦王に即位しますが、僅か13才の子供だったわけです。
13才の子供に政治が出来るはずもなく、荘襄王の時代に続き呂不韋が宰相として政治を行う事になります。
秦王政(嬴政)は呂不韋の事を仲父と呼んだ話があります。
尚、嬴政が秦王になった時には、既に周王朝を滅ぼし、戦国七雄の国々を圧倒する国力があり、大きなミスをしなければ天下統一出来る様な状態でもありました。
それを考えると、嬴政は非常に良い時期に秦王に即位する事が出来たと言えるでしょう。
諸侯に侵攻する
秦王政は即位すると蒙驁、麃公、王齮らを将軍に任命した記述があります。
正確に言えば呂不韋が先代からの功臣である蒙驁、麃公、王齮らを引き続き重用したと言う事なのでしょう。
秦王政が即位した時に、晋陽で反乱が起きますが、蒙驁が鎮圧しました。
さらに、秦王政の2年には麃公が巻(地名)を攻めて3万人を斬り、秦王政の3年には蒙驁が韓を攻めて12の城を奪った記述があります。
王齮の活躍は不明ですが、秦は順調に他国を侵略し、領土を拡げて行ったわけです。
さらに、蒙驁が魏を攻めて20城を奪い東郡を設置する事になります。
東郡を設置した事で、秦と斉は国境を接し、合従の同盟を南北に分断した話があります。
この様に秦王政の即位当初は、順調すぎる程に領土を拡大していった事になります。
合従軍の逆襲
秦に次々に領土を奪われた諸侯(楚、趙、魏、燕、韓)らが団結し、紀元前241年に合従軍で秦を攻める事になります。
この合従軍が秦の統一戦争において、最大のピンチとなります。
合従軍は軍隊を二つに分けて、春申君が函谷関を攻撃し、龐煖が合従軍の精鋭を率いて蕞を攻撃した話があります。
蕞の位置が秦の咸陽から近い場所にある事で、春申君の軍は函谷関に出陣し囮となり、その間に龐煖が秦の首都である咸陽を落とす作戦だった様に思います。
しかし、函谷関の戦いでは春申君が敗れ去り、蕞の戦いは秦の奥深くで孤立する事を恐れた龐煖が撤退する事で、秦軍は合従軍を撃退する事に成功しました。
尚、合従軍が寿陵を占拠した話があり、寿陵は王様が生前から立て始めた自分のお墓を指す言葉である事から、龐煖は現在の始皇帝陵や兵馬俑の辺りを占拠した様に思います。
上記の地図を見れば分かりますが、1日で咸陽に到着する位置まで、龐煖は兵を進めていた事となり、合従軍は秦王政に取ってみれば最大のピンチだったとも言えるでしょう。
戦国時代は、蘇秦、孟嘗君、信陵君、楽毅なども合従軍を組織していますが、紀元前241年の合従軍戦が最後の合従軍となり、戦いに勝利した秦は天下統一を決定づけた様にも感じます。
尚、始皇本紀には、合従軍戦の後に春申君が失脚し、衛君角が野王に移った記述があります。
秦が東郡を完全に占拠した事の表れでもあるのでしょう。
成蟜の乱
紀元前239年(秦王政8年)に、秦王政の弟である長安君成蟜が、趙を攻撃する事になります。
しかし、成蟜は趙の屯留の民を使い、秦に対して反旗を翻しました。
これが成蟜の乱です。
秦王政は反乱を起こした成蟜に軍を向けると、成蟜を討ち取る事に成功しています。
尚、成蟜との戦いで、将軍の璧が亡くなった話も残っています。
弟である成蟜を秦王政は、どの様な気持ちで討ったのかは謎です。
呂不韋の失脚
秦で政治を行っていた呂不韋ですが、嫪毐と連座して失脚する事になります。
これにより秦王政の親政が始まる事になります。
嫪毐の乱
秦王政の母親である趙姫は、元は呂不韋の妾だったわけです。
荘襄王の死後に、呂不韋と趙姫の関係は復活し、肉体関係を持ったとされています。
しかし、趙姫は秦王の母親であり、呂不韋は秦の宰相で二人の関係は問題行動だったわけです。
呂不韋は趙姫との関係を清算したいと思い、巨根の嫪毐を宦官として後宮に入れる事になります。
ただし、嫪毐は去勢をせずに、偽の宦官として後宮に入りました。
趙姫は嫪毐に夢中となり、嫪毐は長信侯に任命され、さらには嫪国まで建国しています。
嫪毐は趙姫に気に入られた事で、呂不韋にも匹敵するほどの権勢を得る事になったわけです。
しかし、嫪毐が偽の宦官だと告発する者がおり、追い詰められた嫪毐は謀反を起こす事になります。
秦王政は昌平君と昌文君に嫪毐を鎮圧する様に命令し、嫪毐の軍を大いに破りました。
この戦いで昌平君や昌文君の采配が冴えわたったのか、嫪毐の兵士を数百人斬った話もあります。
尚、嫪毐との戦いで秦王政に味方した者は、厚い恩賞が送られ、宦官であっても従軍した者には、爵1級を与えた話があります。
嫪毐の乱は、秦王政の信賞必罰を徹底させた戦いとも言えるでしょう。
呂不韋を追放
嫪毐は車裂きの刑により処刑し、宗族は皆殺しの上で晒し首にされました。
しかし、嫪毐を後宮に送り込んだのは、呂不韋であり問題となります。
呂不韋は宰相を辞任させられ、河南の領地に移されますが、最後は秦王政の命令により、紀元前235年に蜀に移され、途中で服毒自殺により命を落としています。
尚、呂不韋は秦王政の下記の言葉で自殺を決意したともされています。
「君は秦においてどの様な功績があり、河南に10万戸の領地を得たのか。
秦において、どの様な血縁があり、仲父と称するのか。其方は蜀に移る様にせよ。」
呂不韋がいなければ、秦王政の父親である荘襄王は、秦王になれませんでしたし、嬴政も秦王に即位する事は出来なかったでしょう。
呂不韋の功績は小さくはないのに、秦王政の冷酷さを物語っている話とも言えます。
ただし、呂不韋の権力の大きさと、呂不韋が編集した呂氏春秋の内容を考えると、思想の違いが出た可能性もあるでしょう。
呂不韋は失脚しても、多くの人物が蟄居先の河南に訪れた話しもあり、秦王政が呂不韋を恐れた可能性もあります。
余談ですが、呂不韋の子孫が漢の高祖劉邦の皇后となる呂后であり、秦末期に劉邦が秦の首都咸陽を陥落させています。
呂不韋の子孫の旦那が、秦を降伏させたのは因縁を感じた次第です。
趙姫を許す
嫪毐の乱では、自分の母親である趙姫の行動も問題になります。
秦王政は、母親を咸陽から雍に移しました。
秦王政は趙姫に苛立ち「太后(趙姫)の事で諫める者は、死刑にする」と述べた話があります。
実際に、秦王政を諫めた20人ほどが処刑された様です。
ただし、秦王政も自らの母親を処刑する事は出来なかったのでしょう。
斉人の茅焦(ぼうしょう)は、次の様に秦王政に述べます。
茅焦「秦王様は天下統一を目指しておられます。しかし、母親である太后を外に移しました。
これは不孝の名にあたり、諸侯がこれを聞いたら秦に反旗を翻すかも知れません。」
秦王政は、茅焦に言葉に納得し、趙姫を再び咸陽に迎え入れ、南宮に住まわせています。
秦王政は合理主義であり、情に訴えるよりも、利益で訴えた方が動く人なのかも知れません。
秦王政の合理主義は、政策などにも反映しています。
逐客令
秦で灌漑工事を行っていた鄭国なる人物がいたわけです。
鄭国は韓の回し者であり、秦の財源を治水工事に使わせる事が狙いでした。
鄭国が韓のスパイだと発覚し、問題になります。
鄭国は自分のやっている灌漑工事は、秦の為になると説いた事で、許されますが、秦の宮廷で「他国人は危険だ」とする空気が流れます。
秦王政は他国人を追放する「逐客令」に同意し、秦から他国人を追い出す事にしました。
この時に李斯が、秦を強国にした商鞅、張儀、范雎らは他国人であったと述べた事で、逐客令は撤廃となっています。
尚、李斯は逐客令の撤廃だけではなく、韓を攻め取る様に述べており、韓王を恐れさせています。
秦を恐れた韓王が韓非子に、秦を弱めるにはどうすればいいのかと謀議した話があります。
尉繚の進言
始皇本紀によれば、尉繚(うつりょう)が秦王政に他国の大臣を買収し、戦いを有利に進める様に進言します。
尉繚は、30万金があれば、全ての諸侯の佞臣たちを買収出来るとも説いたわけです。
秦王政は尉繚が賢人だと認め、対等の礼を行った話があります。
ただし、尉繚は秦王政を「長く付き合える人物ではない」と考え、逃亡しようとしますが、秦王政が引き留めた話があります。
尚、李斯列伝によれば、李斯も秦王政に他国の大臣の買収を積極的に行う様に述べています。
始皇本紀の記述を採用するなら、尉繚が考案した事を李斯が実行したとも言えるでしょう。
離間策により、趙の郭開や悼倡后が買収され、斉でも后勝が買収に応じ、秦の為に動く事になります。
ただし、秦の離間策は尉繚や李斯が進言する前から行っており、魏の安釐王と信陵君を離間させ、信陵君が上将軍を解任されています。
尚、離間策は楚漢戦争においても、劉邦の参謀の一人である陳平が使っており、項羽と范増を離間させる事に成功しています。
趙との戦い
秦と趙が激しく戦う事になります。
鄴攻め
紀元前236年に、秦は趙の鄴を攻略する事になります。
これが秦の鄴攻めと呼ばれています。
秦が鄴を攻めた時に、龐煖(ほうけん)は趙の主力を率いて燕を攻撃中でした。
趙の軍が北にある燕を攻めた隙に、秦王政は王翦、桓齮、楊端和の三将に命じ漳水沿岸地域の城を落とし、鄴を攻略する事になります。
趙の悼襄王は、龐煖に急いで鄴の救援に向かわせますが、結局は間に合わず、鄴は陥落してしまいます。
鄴の陥落により趙は太行山脈の西の地域も失い、趙の領土が一気に半分になったとも言われています。
さらに、趙の首都の邯鄲の南にある鄴に秦の兵がいる事になり、趙にとってみれば喉元に刃を突き付けられた状態にもなったわけです。
平陽の戦い
これが平陽の戦いであり、桓齮は扈輒を破り10万の兵を斬るという大戦果を挙げています。
桓齮は平陽や武城を平定した事で、絶頂期にいたわけです。
桓齮により、趙は一気に滅亡かと思われましたが、李牧が立ちはだかる事になります。
宜安の戦い
秦王政は桓齮に命じて、さらに趙を攻撃させる事になります。
趙は扈輒が大敗した事で、首都邯鄲の近辺で徴兵する事が出来なくなったのか、趙の北方にある代の司令官である李牧を大将軍に任命して反撃させる事にしました。
この時の李牧率いる趙軍は強く、桓齮は敗走する事になります。
桓齮が燕に逃亡した話もあり、桓齮と樊於期が同一人物とする説もあります。
李牧は、さらに肥下の戦いや番吾の戦いで秦軍を連続で破りました。
秦は李牧がいる限り、趙を攻略出来ないと悟ったのか、ターゲットを韓に移す事になります。
秦王政と韓非子
話しは戻りますが、紀元前234年の平陽の戦いで、桓齮が扈輒を破った頃に、韓非子が秦にやってきた話があります。
秦王政は韓非子が書いた書物を読むと、感嘆し「この著者に語り合えるなら死んでも悔いはない」と述べたわけです。
李斯が共に荀子の元で学んだ、韓非子の書物だと言うと、秦は韓を攻撃し、和平の使者として韓非子が秦にやってきました。
秦王は韓非子を非常に気に入りますが、李斯が韓非子を妬んだ為か、韓非子は秦で亡くなっています。
尚、戦国策では韓非子は姚賈の言葉で命を落とした事になっています。
韓非子は雲陽で亡くなったとする話も伝わっています。
これにより、韓王は秦に恐れを抱き、秦の臣下になりたいと願いました。
韓はこの時点で、秦に対し風前の灯だった事が分かるはずです。
統一戦争
秦王政は戦国七雄の国々を滅ぼし天下統一する事になります。
韓の滅亡
紀元前231年に韓は南陽を秦に割譲しています。
秦は内史騰を仮りの南陽の太守としました。
内史騰は、翌年である紀元前230年に韓を攻撃し、韓王安が捕虜となり韓は滅亡しています。
尚、紀元前226年に韓の元貴族たちが大規模な反乱を起こしますが、秦軍により鎮圧されています。
因みに、紀元前226年は、秦の相国である昌平君が郢に移った年でもあります。
趙の滅亡
韓を滅ぼした翌年である紀元前229年に、王翦が上郡の兵を率いて井陘を降し、楊端和が河内の兵を率いて邯鄲を囲み、羌瘣が代を攻めた記録があります。
趙の幽穆王は、李牧と司馬尚に命じて、秦軍を防がせる事になります。
秦は尉繚と李斯の離間策が成功したのか、趙の大臣である郭開、韓倉と幽穆王の母親である悼倡后の買収に成功し、名将李牧を幽穆王に処刑させ、司馬尚は庶民に落しています。
趙の幽穆王は、趙葱と顔聚に趙軍を指揮させますが、秦軍に敗れ紀元前228年には邯鄲が落城しています。
趙の幽穆王は平陽で秦軍の捕虜になったわけです。
この時に、悼襄王の元太子である趙嘉が代に逃れ、代王嘉となっています。
代はまだ滅んでいませんが、紀元前228年の邯鄲の落城を以って趙の滅亡と考える人もいます。
尚、秦王政は幼い頃に邯鄲で育ちますが、虐められていた事もあり、自ら趙の邯鄲に乗り込んだ話があります。
秦王政は過去に自分を虐めた連中は、全て穴埋めにしてしまいました。
このエピソードは、秦王政の残虐ぶりが分かる話でもあります。
ただし、秦王政はハードに虐められていた可能性もあり、因果応報と言えるのかも知れません。
燕の首都を落とす
燕の太子丹は、趙の人質になった時に、秦王政と遊んだ仲でした。
しかし、燕の太子丹が秦に燕からの人質で行くと、秦王政は太子丹を冷遇する事になります。
秦で冷遇された太子丹は怒り、燕に無断で帰国してしまったわけです。
この事から太子丹は、秦王政に恨み荊軻を刺客として秦に派遣する事になります。
秦王政は宮廷で荊軻に殺されかけますが、何とか危機を脱出します。
しかし、燕が秦王政に刺客を送り付けた事で、秦王政は王翦に命じ秦を攻撃させたわけです。
弱小国の燕では、王翦の軍に対抗出来ずに、紀元前226年には燕の首都である薊が陥落し、燕の太子丹も討ち取られています。
燕の太子丹を討ち取ったのは、秦の将軍である李信だとも言われています。
燕王喜は遼東に精鋭を率いて逃げますが、燕も秦の圧力の前に風前の灯となります。
魏の滅亡
紀元前225年に、秦王政は魏を滅ぼす為に、王賁を派遣しています。
魏は戦国時代を通して秦と戦ってきましたが、この時の魏は秦の前に抵抗力を失っていました。
王賁は魏の首都である大梁に向け、黄河から水を引き、水攻めを行ったわけです。
王賁の水攻めにより、大梁城は破壊され、魏王仮は降伏する事になります。
魏王仮が降伏した事で、魏は滅亡する事になります。
楚の滅亡
楚は南方の大国として歴史ある国です。
秦王政は最初は李信と蒙恬に命じて、楚を攻撃させる事にします。
項燕が秦に向かっている話を聞くと、秦王政は王翦に楚軍と戦う様に依頼します。
紀元前224年に、王翦と蒙武は秦軍60万の軍勢を率いて、楚に向かい項燕を破り楚の都に進撃し、楚王負芻を捕虜にします。
翌年である紀元前223年に項燕は、秦の相国を務めた事がある昌平君を楚王に擁立し、王翦に立ち向かったわけです。
しかし、昌平君と項燕は、王翦と蒙武に敗れ楚は滅亡する事になります。
楚を滅ぼした時点で残っている国は、中華の隅の方にいる燕、代、斉のみであり、秦王政は天下統一に王手を掛けたと言えるでしょう。
楚を滅ぼした時に、秦では酒を許した話があり、既に祝賀ムードだったのかも知れません。
燕と代の滅亡
紀元前222年になると、秦王政は王賁や李信に命じ、燕と代の攻略をさせています。
王賁や李信は燕を破り燕王喜を捕虜にすると、返す力で代王嘉(趙嘉)を捕虜とします。
燕王喜と代王嘉が捕らえられた時点で、燕と代は滅亡したと言ってもよいでしょう。
燕も代も王翦の攻撃により、僅かな領地しか持っておらず、簡単に滅んだはずです。
燕と代を滅ぼした事で、中華の国は秦と斉の二国となります。
斉の滅亡
秦王政は、紀元前221年に王賁、李信、蒙恬に斉の攻略を命じています。
斉では宰相の后勝が秦に買収されるなど、斉の大臣達は秦の賄賂漬けだったわけです。
斉王建は戦わずに降伏し、斉は滅亡しています。
斉が降伏した事で、秦王政は天下統一する事になります。
周の幽王の時代に、西周王朝が崩壊してから500年以上も戦乱の時代が続きましたが、秦王政が遂に天下統一したわけです。
王達に寛大な秦王政
秦王政は、韓、魏、趙、楚、燕、斉の国を滅ぼしましたが、王を処刑した記録がありません。
史記などで幽閉した様な記述はありますが、王を処刑した記述がないのです。
それを考えると、秦王政は諸侯王に対して寛大だった様にも感じます。
この点は、三国志を終焉に導いた司馬炎が蜀の劉禅や、呉の孫晧を殺害しなかったのにも似ていると思いました。
ただし、始皇帝死後に斉では田儋、田栄、田横らが挙兵し、魏では魏豹が王を名乗ったりもしています。
それを考えると、捕えた王達は処刑しなかったかも知れませんが、恨みなどは買っていた可能性はあるでしょう。
始皇帝の誕生
秦王政は天下統一しますが、大業に適った帝号を定める様に命じます。
丞相の王綰、御史大夫の馮去疾、廷尉の李斯らは、泰皇と名乗る様に進言します。
しかし、秦王政は次の様に答えています。
秦王政「泰皇の「泰」を去り、上古の帝位の号を採って『皇帝』と名乗る事とする。」
これにより中国で初めて皇帝が誕生した事になります。
さらに、秦王政は二世皇帝、三世皇帝とする様にし、諡を廃止しています。
尚、秦王政は始皇帝の命は「制」とし、令を「詔」、自分の事は『朕』と呼ぶようになります。
皇帝の一人称の『朕』は歴代王朝に受け継がれる事になります。
始皇帝の改革
始皇帝は天下統一後に様々な改革を行っています。
始皇帝は改革を行う事で、スムーズな内政を目指したのでしょう
郡県制
天下統一後に、丞相の王綰が各地を安定させる為に、王を置く事を進言します。
王綰は封建制を敷くのがよいと考えたのでしょう。
それに対し李斯は、周の文王や武王は、一族や功臣を各地に封じたが時代と共に疎遠となり、争った事を例に出し反対します。
始皇帝も李斯の案に賛成し、天下を36郡に分けて郡県制を行う事になります。
地方に力を持たせずに、中央集権化を図った事になるわけです。
尚、秦は郡県制でしたが、漢は郡国制を行っています。
前漢では地方分権と、中央集権化の中間を行う事になります。
度量衡、文字、貨幣の統一
戦国七雄の諸侯の間では、重さや長さの単位や文字、貨幣などが国によってバラバラだったわけです。
度量衡と呼ばれる単位や文字、貨幣が国ごとに違うと、内政がスムーズに行かない為に、始皇帝は統一の企画を作ろうとしたわけです。
度量衡により、重さ、量、重さが統一され、文字は小篆を採用し、貨幣は秦で使われていた半両銭を全国に普及しました。
国によってバラバラだったものを統一した事で、中華という枠組みが完成したと考える人もいます。
万里の長城の建設
始皇帝の統一後の事業として、一番有名なのが万里の長城の建設でしょう。
万里の長城は、匈奴など北方の異民族(遊牧民)などの、侵入を防ぐ為に建設しました。
始皇帝が蒙恬に命じて、万里の長城を作らせたと伝わっています。
ただし、始皇帝や蒙恬が一から全部作ったわけではなく、戦後時代に既にあった秦、趙、燕の長城を繋げています。
尚、現代に残っている万里の長城は明代のものだと考えた方がよいでしょう。
万里の長城には「孟姜女」という話しがあり、万里の長城の強制労働に連れていかれた、男性が人柱として壁に埋められてしまい、妻が壁の前で泣くという話です。
この話は始皇帝の圧政の一つとして伝わっています。
因みに、2012年の調査で各時代の万里の長城の長さを足すと、2万1千キロになったとも伝わっています。
蒙恬の匈奴征伐
始皇帝は蒙恬に30万の大軍を預け匈奴征伐を行わせています。
蒙恬の匈奴征伐は成功し、匈奴を震撼させた話があります。
統一戦争で活躍した王翦、王賁、李信などは統一後の記録がありませんが、蒙恬だけは統一後も実績を挙げた記録があります。
尚、蒙恬が北方の動物の毛を集めて毛筆を作り、始皇帝に献上した話もあります。
毛筆を考え出したのが、蒙恬だとする説もあるわけです。
阿房宮の建設
始皇帝は咸陽に阿房宮の建設も行っています。
阿房宮は巨大な宮殿であり、後に楚の項羽が阿房宮を焼きますが、火は三カ月に渡って消えなかった話があります。
阿房宮は途方もない様な広さだったのでしょう。
夜になって阿房宮の窓を全て閉めようとすると、広すぎて朝になってしまった話しもある程です。
余談ですが、阿房宮が「アホ」の語源となった説もあります。
尚、秦では諸侯を倒す度に、その国の王宮と似た王宮を秦の咸陽に作った話があります。
そのため、阿房宮が大きくなりすぎてしまったとも考えられています。
霊渠
秦では戦国時代の末期に鄭国が灌漑工事を行い、函谷関で凶作が無くなった話があります。
鄭国が作った渠は鄭国渠と呼ばれたわけです。
統一後に始皇帝は灌漑工事を行い、霊渠と呼ばれる渠を建造しています。
秦は商鞅の改革以降、重農主義が取られているわけであり、国の食料を豊かにする為の政策だったのでしょう。
尚、古代では夏王朝の始祖である禹が灌漑工事を行い英雄になっていますし、戦国時代の初期にも西門豹が治水により実績を挙げています。
それを考えると始皇帝も民の食糧事情を安定させる為に、霊渠を作ったはずです。
街道整備
始皇帝は街道整備も行っています。
馳道
始皇帝は天下統一すると5回に渡り各地を巡行しています。
巡行する際に使われたのが、馳道(ちどう)と呼ばれる道路です。
馳道は幅が70メートルもあり、中央には始皇帝専用の通路が作られていた話があります。
始皇帝の街道整備は1万2千キロに及んだとも言われていますが、その半分が馳道だった話があります。
直道
天下統一後の始皇帝の脅威は、北方の遊牧民族である匈奴でした。
始皇帝は首都の咸陽から、北方の九原まで、円滑に軍隊を送り込む為の直道を作った話があります。
直道の建設にも蒙恬がかかわったとする話があります。
直道は、「山を崩し、谷を埋めた」とする記述がある事から、かなりの大工事だったはずです。
尚、始皇帝自信が直道を使ったのは、自分の死後に棺に入れられて、送られた時のみだったとも伝わっています。
その他の通路
秦の時代には、首都の咸陽から驪山までは甬道と呼ばれる道がありました。
甬道は道の両サイドに壁があり、始皇帝が通るのが見えない様になっていた話があります。
他にも、秦には復道と呼ばれるものがあり、二階層の通路になっていたとされています。
始皇帝陵及び兵馬俑
始皇帝は死後の世界に備え、広大な陵墓を建設した話があります。
陵の周囲を銅で固め、その中に王宮を築く事になります。
さらに敵を迎え撃つ為の仕組みや、兵の形をした人形である兵馬俑も用意しました。
兵馬俑の人形は、一体一体が表情が違うなど、かなり手の込んだ作りとなっています。
さらには、水銀が流れる川も百本作った話が伝わっているわけです。
水銀の川の話は伝説とも考えられていましたが、近年の研究で始皇帝陵には通常の100倍の濃度の水銀が検出されています。
これにより、実際に始皇帝陵には水銀の川があったのではないか?とも考えられています。
尚、始皇帝の陵墓は非常に良質な形で保存されており、ユネスコの世界遺産にも登録されています。
後述しますが、始皇帝は水銀の川を作るだけではなく、水銀を飲んだ事で寿命が縮まり最後を迎えた話しもあります。
始皇帝の強制労働や改革が秦を滅ぼしたのか
始皇帝の強制労働や改革が、秦を滅ぼしたとする話があります。
始皇帝は万里の長城や阿房宮の建造や街道整備、灌漑工事など、かなりの土木工事を行ったわけです。
生涯を土木工事に捧げたと言っても良いでしょう。
長い目で見れば、役立つものも数多くあったようですが、民を疲弊させたとも言われています。
ただし、近年の考え方として、万里の長城や阿房宮の建設、街道整備などは公共事業だった説もあります。
戦国七雄が争った時代は、多くの兵士が必要でした。
しかし、天下統一されてしまうと国内の戦争はなくなり、兵士が余るわけです。
余った兵士を始皇帝が万里の長城など、公共事業の仕事を与えたとする説となります。
始皇帝の土木工事は、強制労働で過酷だと思われがちですが、戦争に行くよりは圧倒的に生存率が高かったのではないか?とも考えられています。
始皇帝が行う土木事業などに参加すれば、衣食住は保証されたとも考えられており、思っている程は過酷ではなかったとする説も出ています。
エジプトのピラミッドにも公共事業説があり、同じように始皇帝の土木事業も公共事業だとも考えられる様になってきているわけです。
ただし、到着の期日に間に合わなかったら、処刑されるなどの厳しい法律が災いし、秦は滅びたとも言われています。
始皇帝死後に4年で秦は滅んでいる事もあり、秦の滅亡と始皇帝の改革や土木工事が全く無関係とは言えないでしょう。
始皇帝の巡行
始皇帝は天下統一後に、5回に渡り各地を巡遊した話があります。
始皇帝の巡行の目的は「地方の視察」「自らの権威を示す」「全国の山川の祭祀を行う」「不老不死の薬を見つける」です。
始皇帝の巡行には秦の李斯や高官も引き連れていき、巡行先でも始皇帝は政治の支持をしていた話があります。
始皇帝は泰山で封禅の儀 を巡行中に行っています。
尚、始皇帝は巡行中に張良に命を狙われた話があるわけです。
それを考えれば、絶対に安全な旅というわけでもなかったのでしょう。
因みに、始皇帝の巡行が秦を滅ぼしたとする説もあります。
天下統一した始皇帝がどの様な人物なのか、民衆は興味があり始皇帝が通る所を見ていたわけです。
民衆は始皇帝が魁偉な容貌を持った人物を予想しますが、実際の始皇帝は見た目が冴えないおじさんでした。
それを見た民衆は、ガッカリし自分でも皇帝になれるのではないか?と考えた人も出てきた話があります。
巡行は良い面もあれば、悪い面もあったのでしょう。
尚、始皇帝死後に楚漢戦争で争う項羽と劉邦が巡行中の始皇帝を見かけ、劉邦は「偉丈夫」だと評価し、項羽は「奴の位を乗っ取ってやる。」と述べた話があります。
封禅の儀
始皇帝の業績として、封禅の儀を行った話があります。
春秋戦国時代に覇者になり、諸侯同盟の長となった斉の桓公も封禅の儀を行おうとして、管仲に諫止された話があります。
春秋五覇にも必ず入る斉の桓公ですら、封禅の儀を行えない事を考えれば、始皇帝の権力の大きさが分かる気がします。
ただし、封禅の儀は帝王が行ったともされていますが、やり方が伝わっておらず、儒者に探させても分からなかった話があります。
それでも、始皇帝は泰山の山頂に登り天を祀り封禅の儀を行ったわけです。
始皇帝は封禅の儀を行い自らの徳を称えるために、泰山刻石を残しています。
泰山刻石は秦の公式の文体である小篆で書かれている事でも有名です。
焚書坑儒
始皇帝が暴君だと言える理由として焚書坑儒が挙げられます。
しかし、見方を変えれば仕方がいない部分もある様に感じます。
焚書
焚書より諸子百家の多くの書物が失われたとも言われています。
この当時ですが儒家による「先王の教えに従うべきだ」とする教えがあったわけです。
儒家たちは先王の教えに従い、封建制に戻すを願いました。
しかし、ここで封建制を行えば始皇帝が8年に渡り行った郡県制を無に帰す事になります。
始皇帝は臣下に議論はさせますが、議論が終わると古い思想の書物を焼いてしまったわけです。
この時に、始皇帝は良質な書物だけを残し、現実に沿わない古い思想は焼却しようと考えた話があります。
現実主義の始皇帝には、邪魔な思想が数多くあり、思想の統一という意味でも焚書を行ったともされています。
これが焚書坑儒の「焚書」です。
ただし、孫子、呉子、韓非子など諸子百家の書物は現在でも多く伝わっており、焚書は徹底した思想弾圧ではなかったとする説もあります。
坑儒
焚書坑儒の「坑儒」を考えると、儒者を弾圧した様に思うかも知れません。
当時の中華には「方士」と呼ばれる、瞑想や気功により仙人や不老不死を目指す集団がいたわけです。
盧生は、始皇帝に「真人」という存在を教え「水に濡れず、火に焼かれず、神の如き存在」だと伝えます。
盧生は身を隠して謹んでいれば、真人が訪れ不老不死の薬を譲り渡してくれると述べます。
始皇帝は盧生の言葉に従い行動をしますが、真人は一向に現れず、盧生は始皇帝に暴言を吐き侯生と共に逃亡する事になります。
さらに、盧生と侯生は始皇帝への誹謗を天下にまき散らしました。
始皇帝は方士らに巨額の予算を出していたわけであり、方士らは嘘をつき巨額の利益だけを貪っていたともされています。
方士らを調べると法律違反をした者が460名もおり、法律に沿って始皇帝は穴埋めにしたわけです。
これが「坑儒」であり、決して儒家だけが処罰されたわけではありません。
そもそろ、方士たちが詐欺的な行為をした為に、始皇帝の怒りを買い埋められてしまったとも考えられます。
不老不死と徐福
始皇帝は不老不死を目指し、臣下を困惑させた事は事実でしょう。
方士以外にも学者らに不老不死の研究をさせていたわけです。
また、国内に関しても不老不死の霊薬を探し出す様に通達した話があります。
日本でも有名な徐福などは、始皇帝の不老不死の願いを叶え、蓬莱の神薬を得るために、大海に向かった話があります。
ただし、徐福も帰還する事がありませんでした。
尚、伝説では徐福が日本にやってきて王になった話もあります。
因みに、徐福も不老不死の薬を始皇帝に献上する事は出来ていない事から、始皇帝をペテンにかけた事になります。
扶蘇の諫言
始皇帝の長子である扶蘇は、始皇帝の改革を緩める様に意見します。
扶蘇としてみれば、法律が厳し過ぎるとか、早急な改革は天下に混乱を引き起こすと考えたのでしょう。
しかし、始皇帝は扶蘇の言葉に耳を貸さず、扶蘇を上郡にいる蒙恬の所に飛ばしています。
これにより始皇帝を諫言出来る人がいなくなってしまったとも考えられています。
始皇帝は元々が独裁者的な人物ですが、扶蘇が近くにいなくなった事で、独裁色をさらに強めたはずです。
秦を滅ぼす予言
始皇帝の36年にあたる紀元前211年に隕石が落下し、次の様な言葉が書かれていました。
「始皇帝が亡くなり、土地が分れる。」
始皇帝は、この言葉に激怒し、周辺の住民に取り調べを行わさせた話があります。
しかし、住民の中で自分が書いたと名乗る者はなく、始皇帝は皆殺しにしてしまいます。
さらに、石を溶かして文字を消す、入念さも見せる事になります。
この話は始皇帝の暴君ぶりを現わした話にもなっていますし、見方を変えれば秦の滅亡を恐れている様にも感じました。
尚、この予言は成就され、始皇帝死後に次々に反乱が起こり、秦は滅亡する事になります。
始皇帝の最後は水銀が原因!?
始皇帝は出遊中に亡くなっています。
尚、始皇帝の最後ですが、水銀を飲んだ為に崩御した話もあります。
最後の巡遊
始皇帝は紀元前210年に5回目の巡遊を行う事になります。
この時には、始皇帝は49歳になっていて、既に体調が悪かった話もあります。
体調を崩していた始皇帝でしたが、巡行に出れば「吉」と占いに出た為に、巡行を行った説があります。
ただし、始皇帝が巡行中に亡くなり、趙高が暗躍する事を考えれば、巡行に出るのは「吉」ではなく「凶」だった事でしょう。
始皇帝は丞相の李斯、大臣の蒙毅、お気に入りの宦官のである趙高、末子の胡亥を連れて巡遊に出たとされています。
しかし、これが始皇帝の最後の旅となり、紀元前210年に始皇帝は崩御する事になります。
海神と戦う夢
始皇帝は巡行中に海神と戦う夢を見た話があります。
始皇帝は夢の内容を夢占いの博士に問うと、次の答えが返ってきます。
「水神は目で見る事が出来ません。大魚である蛟竜が現れるのが、その兆候です。
主上(始皇帝)は祈祷祭祀を謹んでいるのに、悪い神が現れました。
これを除く事が出来れば、善い神が現れる事でしょう。」
始皇帝は、この言葉を信じ、海上を行く者に大魚を捕える道具を持たせ、大魚が出たら始皇帝が自ら強弓を射ようとしますが、中々現れませんでした。
別の場所に移動すると、大魚が現れ魚を射殺した話があります。
しかし、始皇帝の一行が平原津まで行くと、始皇帝は病に倒れる事になります。
始皇帝の最後
始皇帝は病の回復を願いますが、病は重くなるばかりであり、一向に回復しなかったわけです。
始皇帝は側近の蒙毅を咸陽に向かわせ、山川の祈祷を行う様に指示します。
それでも病の回復はせず、始皇帝は死を覚悟する事になります。
史記によれば、始皇帝は長子の扶蘇に、自分の葬儀を行う様に璽書を作ります。
これが使者に渡される前に、始皇帝は崩御し、扶蘇を後継者に指名する璽書は、宦官の趙高が握っていたわけです。
これにより、趙高の陰謀が発動し、胡亥と李斯を説得し、胡亥を二世皇帝として即位させる事になります。
始皇帝は水銀を飲んだから死んだのか
始皇帝が水銀を飲んだから、死去したとする説があります。
水銀は当時は神秘的なものであり、不老不死の薬として使われていた話があります。
しかし、調べてみても始皇帝が水銀を飲んでいた記録はなく、あくまで想像に過ぎないと思われます。
始皇帝は始皇帝陵に水銀の川があった事から、水銀を特別視していた事は確かだと思われますが、本当の飲んでいたのかは不明です。
飲もうとしてみたが、とても飲めるものではなく、飲むのを諦めた可能性もあるでしょう。
ただし、水銀には死体の防腐効果があり、エジプトや日本の墓でも見つかっています。
その為、死体に効果があるのであれば、生きている人間にも効果があるのではないか?と考え、始皇帝が水銀を飲んだのではないか?とする説もあります。
始皇帝死後に4年で秦は滅亡
始皇帝が亡くなると、先にも述べた様に胡亥と趙高の暴政が始り、蒙恬、蒙毅、李斯、馮去疾などが処刑されています。
始皇帝時代に活躍した多くの大臣や公子達が、胡亥と趙高により殺害されているわけです。
こうした中で、陳勝呉広の乱が勃発し、さらに会稽では項梁・項羽が挙兵し、斉では田儋、田栄、田横らが挙兵する事になります。
秦では章邯や王離を派遣し、反乱軍の鎮圧を目指しますが、秦の宮廷では趙高が牛耳っており、一致団結して反乱軍を迎え撃つ事が出来なかったわけです。
そうした中で、鉅鹿の戦いで秦将王離が項羽に敗れ、章邯も殷墟で項羽に降伏し、函谷関の外は完全に反乱軍の手に落ちます。
趙高は胡亥に責任を追及される事を恐れ、謀反を起こし二世皇帝の胡亥を自刃させ、子嬰を秦王とします。
子嬰は趙高を暗殺しますが、劉邦は目の前に迫っており、子嬰は劉邦に降伏する事になります。
項羽が咸陽に到着すると、子嬰は斬られ秦は滅亡する事になります。
始皇帝も自分の死後に、秦が僅か4年で滅亡するとは思ってもいなかった事でしょう。
始皇帝の評価
始皇帝の評価ですが、非常に分かれるところではないかと感じています。
始皇帝は趙での生き埋めや焚書坑儒など、時折、残虐性を見せる事があります。
これらが暴君と言われる所以であり、冷徹なイメージを植え付けて評価を下げている様に思いました。
ただし、秦の後に楚漢戦争があり、項羽に勝利した劉邦が漢王朝を樹立しますが、漢王朝では秦の制度を参考にしている部分が多々あります。
漢王朝では九章律なる法律を蕭何が制定した話があります。
九章律の制定にあたり、蕭何は秦の法令を参考にして作ったとも考えられています。
始皇帝の改革は、非常に現実的ではあったが、早急にやり過ぎた事で、社会が始皇帝に追いつけなかったとの指摘もあるわけです。
それを考えれば、始皇帝は優れた政治家であったとも言えると思います。
それでも、始皇帝の死後に、秦は4年で滅亡している事もあり、政治力に疑問を呈す声もあります。
個人的には、始皇帝の中華という枠組みを作った点では、評価してもよいのではないか?と考えています。
ただし、不老不死に拘った辺りは減点の対象となるでしょう。
尚、長い戦乱を終わらせた王朝は短命に終わりやすいという話しがあります。
秦だけではなく、三国志の世界を終わらせた西晋、南北朝時代を終わらせた隋などです。
それを考えると、秦も歴史の法則から逃れる事は出来なかったと言えるのかも知れません。