三国志 魏(三国志)

曹丕は魏の初代皇帝

2022年12月13日

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宮下悠史

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名前曹丕(そうひ) 字:子桓 魏の文帝
生没年187年ー226年
時代後漢末期、三国志、三国時代
一族父親:曹操 母親:弁氏 兄弟:曹昂、曹鑠、曹彰、曹植、曹沖、曹據、曹宇、曹林、曹袞
曹玹、曹峻、曹矩、曹幹、曹上、曹彪、曹瑾、曹乗、曹整、曹京、曹均、曹棘、曹徽、曹茂
子:曹喈、曹協、曹蕤、曹霖、曹礼、曹邕、曹貢、曹儼
年表220年 魏の皇帝に即位
223年 三方面作戦
画像©コーエーテクモゲームス

曹丕は曹操の子であり後継者となった人物です。

曹丕は後漢の献帝から禅譲という形で皇帝となり、これにより後漢王朝は滅亡しました。

曹丕は魏の初代皇帝になりますが、皇帝としての活動期間は6年ほどしかありません。

曹丕と言えばサイコパスな性格ばかりがピックアップされがちですが、実際には多種多能な能力を兼ね備え文学にも精通した人物です。

曹丕の時代は、劉備陸遜に夷陵の戦いで大敗するなどもありましたが、曹丕は一貫して呉を攻撃しました。

しかし、呉の孫権は曹丕に臣従しても屈する事はなく、長江が凍るなどの不運も重なり、最後まで呉を倒す事が出来なかったわけです。

今回は魏の初代皇帝にして、文帝と呼ばれる事になる曹丕を解説します。

尚、曹丕に関しては正史三国志の文帝紀に詳しいです。

曹丕の誕生

曹丕の字は子桓であり、既に兄として曹昂、曹鑠がおり曹操の第三子として誕生しました。

正史三国志によれば、曹丕は中平4年(187年)に譙で生まれたとあります。

ただし、曹昂と曹鑠の母親が劉夫人なのに対し、曹丕の母親は卞氏(武宣皇后)であり異母兄弟という事になります。

正史三国志の注釈・魏書によれば、曹丕が生まれた時に雲気が立ち昇り、青い色で円く車のほろの様に曹丕の上にかぶさり1日中消えなかったとあります。

雲気を占うと最高の尊貴のしるしであり、人臣の気とは違うと出ました。

曹丕は8歳で文章を好み優れた才能を持ち、経書や諸子百家など様々な本を読んだとあります。

さらには、馬の上で弓矢を射るのが得意であり剣術を好んだとあります。

超温により茂才に推挙された事もありましたが、曹丕は応じませんでした。

これらの記述は曹丕が後に皇帝になった為に、良く書かれたと思うかも知れませんが、実際の曹丕は博学で武芸も優れており、万能とも言える才能を持った人物でもあります。

尚、曹丕は司馬懿、陳羣、呉質、朱鑠と仲が良く、この四人を指して四友とも呼びます。

四友は曹丕が特に信頼した四人の人物だと言えるでしょう。

甄姫を迎える

袁紹が202年に無くなると、袁譚と袁尚との間で後継者争いが勃発しました。

これに乗じて、204年に曹操は鄴を攻撃し審配を破っています。

鄴の戦いには、曹丕も従軍していた様です。

鄴が陥落すると、曹丕は急いで袁紹の家に向かった話があります。

袁紹の家には袁紹の後妻である劉氏と、袁煕の妻であった甄姫がいました。

この時に曹丕は甄姫を一目見ただけで惚れ込んでしまい、甄姫を貰い受けたい願い側室としました。

この甄姫が後に曹丕の後継者となる曹叡を生む事となります。

ただし、曹叡は204年に生まれたとする話もあり、袁煕の子だったのではないか?とする説も存在します。

尚、曹丕が袁紹の家に素早く向かったのは、甄姫の美貌を聞いていた為だとも考えられています。

因みに、劉夫人と甄姫が機転を利かせ、甄姫をよく見せる様に演出したのではないか?とする説もある様です。

後継者争い

曹丕の兄である曹昂は197年に張繡との戦いで典韋と共に亡くなっており、次男の曹鑠は病弱であった事から、曹丕が曹操の後継者候補の筆頭となります。

曹丕は建安16年には五官中郎将及び、副丞相となりました。

しかし、曹操は曹丕を中々後継者に指名しなかったわけです。

曹操は五男の曹植の文学的才能を高く評価し、曹植を後継者にしようとも考えていました。

ここにおいて曹植派が形成され、曹操が後継者を指名していなかった事から、後継者争いが勃発します。

曹丕を推すメンバーを見ると名士層の人間が多く、曹植派は邯鄲淳など文学に優れた者が多かったわけです。

曹丕と曹植の争いで曹丕を嫌う丁儀が策を講じ、曹丕派の崔琰が世を去り、毛玠が失脚するなどの事態となります。

曹操としては曹丕が後継者になると名士による政治が行われると考え、文学を新基準とする曹植を後継者にしたかったのではないか?とも考えられています。

曹丕は後継者に指名されない事から、高元呂の元に行き、人相を見て貰うと「言葉には表せないほどの高貴さがある」と言われました。

さらに、賈詡が曹操に劉表袁紹の後継者選びに関し暗に述べた事で、曹操は217年に魏の太子に指名されています。

これにより曹丕は曹操の後継者に決定したわけです。

因みに、卞蘭が曹丕を讃える賦を作り、おべっかと分かっていながらも曹丕が卞蘭を敬愛した話があり、曹丕の後継者に指名されるのかは最後まで分からず、心細い部分もあったのでしょう。

尚、曹植は文学者であり酒癖が悪いなど行儀がなっていなかった事で、後継者に指名されなかったとも言われています。

他にも「長幼の序」で曹丕に決まったというのもあるはずです。

因みに、曹丕も文学を好み、名士が儒教の教えに則り、政治を行う儒教的な思想は少なかったともされています。

しかし、皮肉な事に曹丕は、儒教を尊ぶ名士層の支持もあり、後継者に選ばれた事にもなるでしょう。

尚、曹操が本当に後継者にしたかったのは、夭折した曹沖だったとも伝わっています。

魏王

曹操が220年に亡くなると、曹丕は位を継ぎ魏王となります。

曹丕は賈詡を大尉とし、華歆を相国、王朗を御史大夫としました。

さらに、前将軍の夏侯惇を大将軍としています。

曹丕は官職についている宦官は、諸署の位異常にはなれない決まりを作ります。

後漢王朝では宦官が幅を利かせる事が多く、それらを危惧し、宦官の台頭を防ぐ為に作った法律なのでしょう。

曹丕が魏王となった事で、異民族である扶余や濊貊の単于や焉耆、于闐の王が朝貢の使者を送って来た話があります。

魏の力は強大であり、異民族も挨拶に来たのでしょう。

山賊をしていた鄭甘と王照は曹丕に降伏し、手下を連れてやってきました。

鄭甘らは列侯に取り立てられています。

因みに、鄭甘は後年に再び反旗を翻し、曹仁により討ち取られています。

しかし、良い事ばかりではなく黄華や張進が反旗を翻し、蘇則が討伐した話もあります。

尚、劉備は曹操が亡くなった事を知ると、韓冉を弔問の使者として派遣していますが、曹丕は不快に思い荊州刺史に命じて韓冉を殺害させた話があります。

孫権の降伏

曹丕が魏王となり南に向かうと、孫権は貢物を届けています。

孫権は220年に呂蒙の策に従い関羽を討っており、劉備との関係は極めて悪化していました。

劉備の方でも呉を討伐する準備を始めており、孫権は曹丕と誼を結びたいと考えたのでしょう。

曹丕は邢貞を呉への使者とし、孫権を呉王に封じました。

さらに、蜀軍の孟達劉封との仲違いがあり、魏に降伏してきました。

曹丕は孟達を気に入り厚遇する事となります。

曹丕は生まれ故郷の譙に行くと大宴会開き租税を二年間免除した話があります。

漢の高祖劉邦も故郷の租税を免除した話があり、皇帝の誕生した地というのは何かしらの恩恵があるものなのでしょう。

さらに、曹丕は遠征で亡くなった者たちの遺骸が回収できていない事を悲しみ、郡国に命じ遺体を家族に届ける様に命令しています。

曹丕は曹操死後の混乱を上手く収め、反乱は起きましたが幸先のよいスタートだったと言えるでしょう。

九品官人法

曹丕が魏王になった直後に、九品官人法を施行した話があります。

九品官人法を考案したのは陳羣であり、曹丕の時代に制度が運用されました。

九品官人法は地方から推挙された者が本当に有能なのかを判断し、家柄などによらない人材登用を目指した制度です。

中正官なる役職の者が有能だと判断すれば出世に繋がり、中正官が無能だと判断すれば出世が出来ない仕組みを作りました。

曹丕が施行した九品官人法は、ある程度は機能していた話があります。

しかし、後の時代になると中正官が、賄賂を貰うなどもあり、欠点を浮き彫りにされて行く事となります。

皇帝即位

後漢の献帝は禅譲により曹丕に皇帝の位を譲りたいと述べました。

ただし、そこに行き着くまでには献帝の皇后である曹節が、涙を流し猛反対するなどもあったわけです。

献帝は形式上ではありますが、多くの人々は後漢ではなく、魏に期待しているから魏王の曹丕に位を譲りたいと述べます。

さらに、臣下達も曹丕が皇帝になる様に要請しました。

下記の人物が曹丕を皇帝にする様に言上した代表的な人物です

辛毗劉曄傅巽衛臻桓階陳嬌
陳羣蘇林董巴司馬懿鄭渾羊秘
鮑勛武周劉廙劉若許芝李伏

献帝は何度も曹丕に禅譲すると言い、臣下達も受禅する様に進言しますが、曹丕は首を縦に振りません。

曹丕は皇帝即位を何度も断りますが、これは名士としての礼儀でもあり、実際の所は皇帝を受諾する流れになっていたのでしょう。

形の上では曹丕は渋々承諾し、皇帝に即位しました。

これにより漢王朝は滅亡し、魏王朝が成立する事となります。

曹丕は元皇帝である献帝を山陽公とし、献帝の4人の子も列侯に封じるなど好待遇を与えています。

曹丕が献帝を厚遇したのは、曹丕の皇帝即位に反対する人物が多数おり、彼らを懐柔する為の施策だとも考えられてます。

実際に華歆などは、曹丕が帝位に就くのに反対だった様です。

尚、正史三国志の曹丕の伝である文帝紀を見ると、曹丕が皇帝になる時の経緯に多くの文量を割いています。

やはり、新の王莽の時代が間に挟まっても、400年続いた漢王朝が滅びるわけですから、歴史的な行事だったと言えるでしょう。

因みに、曹操時代の功臣である程昱を三公に任命しようとしたら、亡くなってしまった話もあります。

曹丕の政治

正史三国志によると、昔から郡国での人口が、10万人に満たない場合は、1年に孝廉を一人しか推挙する事が出来ませんでした。

しかし、曹丕は特に優秀な人物がいた場合は、人口や戸数に限定される推挙出来るに仕組みに変更しています。

これらは曹丕が優れた人材を求めていた事の表れと言ってもよいでしょう。

尚、太古の時代から天変地異による被害が出るのは、為政者の責任と考えられてきました。

つまり、政治が良くないから天変地異が起きたとされたわけです。

日食が起きた時に、大尉を免職する様に曹丕の上奏されました。

しかし、曹丕は夏王朝の禹や殷の湯王を例に出し、天変地異が起きても三公の責任にしてはならないときつく言い渡します。

曹丕は天変地異は政治と関係ないと考えており、現代人に近い感覚を持っていたのかも知れません。

弟達を冷遇

曹丕は弟達を冷遇したともされています。

特に後継者争いの、ライバルであった曹植に対する締め付けは強かったわけです。

曹丕は曹植の側近を誅殺しました。

曹丕は221年に曹植を安郷侯にしましたが、同年に転封したかと思えば再び安郷侯に戻りました。

223年に曹植は雍丘王になりますが、何度も転封しており、曹植は土地に根付くような地盤を築く事が出来なかったわけです。

曹彰にしても、烏桓征伐で発揮された武勇を警戒されており、任城王には任命しましたが、厚遇はしなかったと伝わっています。

それでも、曹丕、曹彰、曹植は弁氏から生まれた子であり、弁氏の事を考えて冷遇と言っても、移封を続ける程度しか出来なかったとも考えられています。

尚、三国志演義では弟の曹熊が、曹操の葬式に参加しなかった事を問題視し、問責の使者を派遣した事で、曹熊が自刃するなどの事件が描かれています。

曹丕が曹熊に対し、問責の使者を送った記述は、史書には書かれてはいませんし、史実ではないと考えるべきでしょう。

夷陵の戦いで劉備の敗北を予言

呉の孫権は捕虜となっていた于禁を、魏に帰すなど友好を深めました。

蜀の劉備は呉を攻撃し、夷陵の戦いが勃発します。

夷陵の戦いで、曹丕は蜀軍が700里も連なる陣営を築いている事を知ると、次の様に述べています。

※正史三国志 文帝紀より

曹丕「劉備は戦いというものを知らない。

700里も陣営を連ねて勝てるわけがない。

高原、湿地、険阻の地を包み込み軍隊を構築すれば、敵に打ち破られる。

これらは戦争における禁忌だ。

今に孫権から劉備を破ったとする上奏が入るであろう」

劉備は長年に渡って戦場を駆け巡った武将ですが、曹丕は劉備の敗北を予言したわけです。

曹丕の劉備が敗れる予言から7日間が経過すると、孫権は劉備軍を打ち破ったとする報告を曹丕に入れました。

実際に、夷陵の戦いでは700里の陣営が仇となり、陸遜の火計により劉備軍は大敗北を喫する事となります。

曹丕は兵法にも通じて、見事な予見力を見せたと言えるでしょう。

三方面作戦

曹丕は孫権の太子である孫登を中央に送る様に要請しました。

しかし、孫権は理由を付けて断った事で、曹丕は呉への侵略を決めます。

これが三方面作戦と呼ばれ、三方面から呉を襲撃する事となります。

ここで孫権は曹丕に詫びましたが、曹丕は「孫登を中央に入れろ」の一点張りでした。

孫権と曹丕の亀裂は決定的なものとなり、この瞬間から呉は魏から独立したとも言えます。

曹丕による三方面作戦では、下記の表の様に三カ所で戦いが繰り広げられました。

魏の武将呉の武将
洞口の戦い曹休、張遼、臧覇、尹盧呂範、徐盛、全琮、賀斉、孫韶
江陵の戦い曹真、夏侯尚張郃徐晃諸葛瑾、潘璋、楊粲
第四次濡須口の戦い曹仁、曹泰、常彫朱桓、駱統、厳圭

魏では都督級の人物や名将と呼ばれる人物を多く出撃させており、曹丕は本格的に呉を滅ぼすつもりだったのでしょう。

それに対し、呉軍は夷陵の戦いが終わったばかりではあり、寡兵でしたが予想を超える奮戦をしました。

魏軍は局地戦では勝利を得ましたが、各地で疫病が発生するなど、撤退を余儀なくされ曹丕の三方面作戦は失敗に終わります。

孫権の背信行為に曹丕は余程、頭にきたのか曹丕の時代は呉を攻め続ける事となります。

ただし、この時の蜀漢は夷陵の戦いでの大敗で、国力を激減させており、劉備が崩御し劉禅が後継者となっていました。

政務は諸葛亮が取りますが、曹丕は呉ではなく蜀を攻めた方が良かったのではないか?とする意見もあります。

曹丕が蜀を放置した事で、諸葛亮に国を立て直す時間を与えてしまったと、指摘されているわけです。

曹丕の親征

曹丕は辛毗や賈詡の諫めも聞かず、224年に10万を超える軍を集結させ、自ら呉を攻撃しました。

呉の徐盛は建業から長く続く偽りの城壁を作り、壁の上には簡易的な櫓を設置し、河には多数の船を浮かべます。

曹丕は防壁を見て驚き、さらに長江が渡れないと判断すると、次の様に述べています。

曹丕「この地には人材がいる。まだ討伐出来る時ではない」

曹丕は捨て台詞の様な言葉を吐き撤退しました。

しかし、曹丕はやるべき事はちゃんとやっており、民の声を聞いたり貧しい者には援助し、政治を整える事もしています。

蔡方の乱

文帝紀によると、利成郡の兵士である蔡方が郡をあげて反旗を翻しました。

蔡方らにより徐質が命を落す事となります。

曹丕は任福、段昭を討伐に向かわせ、青州刺史の王淩と共に鎮圧させています。

蔡方は破れ乱は鎮圧されました。

この時に曹丕は寛大な処置を見せており、無理やり反乱軍に入った者は罪を問わなかった話があります。

この話は裏を返せば、三国志の世界の闇でもあり、後漢末期からの気候変動や戦争などで人口が激減しており、生産力の観点で考えても処刑したくは無かったのでしょう。

それでも、中華が統一していない以上は戦争を辞めるわけにも行かず、ジレンマがあったはずです。

長江が凍結

曹丕は225年にも呉に出兵しました。

魏軍は10万を超え「軍旗がはためていた」と記録されています。

この時に曹丕は馬上で詩を作り、その詩が正史三国志の注釈・魏書に掲載されています。

曹丕は大軍団で呉に攻めますが、この年は非常に寒く長江が凍ってしまい船を入れる事が出来ませんでした。

曹丕は戦う事も出来ず撤退しています。

2年連続で曹丕は呉に出兵しましたが、いずれも撤退しており戦争は発生しておりません。

尚、225年は呉では丞相の孫邵が亡くなり、後任に顧雍がなり、蜀では諸葛亮が孟獲を倒すなど南蛮征伐を完了させた年でもあります。

曹丕の最期

正史三国志によれば226年の春正月に、曹丕は許昌の城に入ろうとしました。

この時に理由もなく、自然と崩れ去ります。

曹丕は不吉に思い城に入るのをやめ洛陽に帰還しました。

その年の五月に曹丕は体調を崩し、危篤状態にまでなってしまいます。

曹丕は助からない事を悟ると、後継者として曹叡を指名しました。

曹叡は甄姫との間に出来た子です。

曹丕は曹叡を補佐させる人材として曹真、曹休、司馬懿、陳羣を呼び寄せています。

曹丕は曹真、曹休、司馬懿、陳羣に曹叡の補佐を任せました。

曹真と曹休は皇族であり、司馬懿と陳羣は名士層の人間です。

曹丕としては皇族と名士でバランスを取り、曹叡を補佐させたかったのでしょう。

この後に、曹丕は後宮の女性を家に帰らせたりしており、この時には死を完全に覚悟したはずです。

この時の曹丕の年齢は40歳だったと伝わっています。

曹丕は226年に崩御し、治世は僅か6年で終わりました。

尚、曹丕の後継者となった曹叡は国を良く治め纏めており、曹真や司馬懿らと諸葛亮の北伐を跳ね返していく事となります。

曹丕の性格はサイコパスだった!?

狩猟を諫めたら処刑

220年に曹丕は狩猟を行う数が多かったせいか、戴陵が狩猟について諫めた所、曹丕は激怒して死罪を言い渡されました。

この後に、刑が一等軽減された話がありますが、それでも戴陵は重い刑罰を受けたわけです。

孫権も虎狩りを張昭に諫められましたが、気分を害したと思いますが、死罪を言い渡す事はありませんでした。

それを考えると、曹丕を諫めるのは大変だと感じる部分もあります。

逆に曹丕は辛毗など気に入っている人物の諫めがあっても、特に処罰する様な事はありません。

好悪の感情が酷いとも言えます。

血が出る程の助命嘆願も敵わず

楊俊は後継者争いでは曹植を指示した事で、曹丕は楊俊を恨んでいたとされています。

黄初3年222年に宛の市場が繫盛していない事を問題視し、南陽太守の楊俊を捕えました。

曹丕が楊俊逮捕はこじつけであったのが明白だったのか、司馬懿や王象、荀緯らが助命嘆願しました。

この時の助命嘆願は、地に頭を打ち付け血を流し、許しを請いますが、曹丕は許さず楊俊を処刑しています。

重臣の助命嘆願があっても曹丕は、気持ちを変える事はなかったわけです。

清廉な人物であっても許さない

鮑勛は清廉な人物であり、曹丕の郭夫人の弟が犯した死刑に当たる罪の軽減を、鮑勛に依頼しました。

しかし、鮑勛は法律を曲げず郭夫人の弟を釈放しなかったわけです。

この事から、曹丕は鮑勛を恨むようになったと伝わっています。

黄初6年(225年)に太守の孫邕が設営途中の陣営堡塁を横切った事がありました。

ここで、軍営令史の劉曜が孫邕を軍令違反で罰しようとしますが、鮑勛は「堡塁はまだ完成していない」と述べ、孫邕を庇い劉曜を宥めて罪を問わなかったわけです。

後に劉曜が罪を犯すと、鮑勛は劉曜を免職にしようと上奏しますが、劉曜は密かに「鮑勛は過去に不正に孫邕の罪を見逃した」と上奏しました。

曹丕は鮑勛を捕え廷尉に引き渡し、刑罰は懲役か罰金のどちらかとなります。

しかし、曹丕は鮑勛を嫌っており「鮑勛には生かす価値はない」と述べ廷尉の三官を逮捕しました。

鮑勛は清廉な人物で多くの人が評価しており鍾繇、華歆、陳羣、辛毗、衛臻らが助命嘆願しますが、聞き入れられず曹丕は鮑勛の処刑を執行しています。

尚、鮑勛が亡くなった20日後に曹丕は崩御しました。

それを考えると、自分の体調も悪いながらも、意地で鮑勛をあの世に送ったとも言えそうです。

曹洪への借金

曹操時代の初期からの功臣で曹洪がいます。

曹洪は曹操を助け官渡の戦いでは、袁紹の軍の猛攻から本営を守り、大勝利の一因を作った人物でもあります。

曹丕は曹洪に借金を申す込んだ事がありましたが、曹洪は断りました。

この事を曹丕は覚えており、自分が権力を握ると曹洪を捕えています。

ただし、曹洪に多くの助命嘆願が集まった事で、曹洪は全財産の没収と罷免で許されています。

夏侯尚の妾

夏侯尚は愛妾がおり、正室(曹真の妹)は不満に思い曹丕に訴えました。

曹丕は「ならば」と思い、夏侯尚の愛妾を殺害してしまったわけです。

曹丕の頭の中では、愛妾がいなくなれば夫婦円満になると思ったのかも知れません。

しかし、夏侯尚は心を病み、愛妾の墓を暴くなどの行為に出て、病に掛かりました。

夏侯尚は重体となりますが、曹丕は夏侯尚に何度も見舞いに行き、涙を流した話があります。

この時ばかりは、曹丕もやり過ぎたと思ったのかも知れません。

于禁の墓参り

于禁関羽に敗れ捕虜となりますが、呉の呂蒙らが関羽を破った事で、呉に移りました。

曹丕の時代に于禁は魏に返還されますが、于禁を見た曹丕は「曹操の墓参り」に行くように伝えます。

于禁が曹操の墓に行くと、墓標には于禁が関羽に降伏する姿が描かれていました。

これを見た于禁は衝撃を受け、憤怒し病に掛かって亡くなってしまった話があります。

ただし、この話は出来過ぎており、どこまで本当なのか分からない部分があります。

王忠と髑髏

王忠は若い頃に、食料が不足し人肉を食べた事がありました。

王忠は後に曹操に仕えています。

曹丕は王忠が人肉を食べた話を耳にすると、墓場から髑髏を取って来させ王忠をからかった話があります。

この辺りは、曹丕の性格の悪さが出ている様にも感じました。

尚、当時の中国では飢饉に苦しんだり、軍隊であっても食料が尽きると、兵士同士の共食いは普通に行われていた事実もあります。

劉備も袁術と戦っている時に、呂布に裏切られると、軍隊の食料が枯渇し、兵士同士が食べ合った地獄の光景が繰り広げた話が残っています。

曹丕の評価

陳寿は正史三国志の文帝紀の評の部分で「曹丕は文学の才能があり筆を持てば文章が出来た」と述べています。

実際の曹丕は高い文学の才能を有し、自ら百篇の書物を作ったり、書物を収集して読んでいた話があります。

さらに、袁敏から剣術を学び、剣士の鄧展を圧倒するなど、文武両道の人物であった事は疑い様がないでしょう。

陳寿も広い知識と高い記憶力があると曹丕を評価し、多能な才能を持っていたと述べています。

曹操も多才な人ではありましたが、曹丕も負けず劣らずだったのでしょう。

陳寿は曹丕の才能の面を評価しつつも、道義や徳心に関しては、問題視しています。

曹丕の性格面を指摘したわけです。

陳寿は曹丕が才能に恵まれながらも、性格的な問題で古代の賢君に様にはなれなかったと述べました。

個人的にも、曹丕は根に持ちやすい部分があり、権力を握れば私怨を晴らすなど、器の大きさに欠ける部分があった様にも感じています。

それでも、曹操の死後の、魏を纏め上げた有能な君主だと言えるでしょう。

司馬懿台頭の布石

曹丕の時代に司馬懿は重用され、主に後方を任せられる事となります。

225年の呉への出兵に際しても、曹丕は司馬懿に、次の様に述べています。

曹丕「私は後方を非常に気にかけている。

だから後事は貴方(司馬懿)に任せたいと思う。

曹参も戦いで功績はあったが、漢にとって重要だったのは蕭何である。

私に西を心配させない様にさせるのも良い事だと思う」

曹丕の言葉から出て来る曹参は、全身に80カ所を超える傷を負いながらも戦った劉邦配下の武将であり、蕭何は関中にいて兵站を担当した政務の要と言ってよい人物です。

この時の司馬懿は前線にはおらず、後方におり蕭何の役目を期待しました。

曹丕が司馬懿を如何に信頼したのか分かる話となります。

曹丕の時代の都督になった人物を考えると曹真、曹仁、曹休、夏侯尚夏侯楙などが挙げられはずです。

例外的に臧覇や呉質もなっていますが、曹氏や夏侯氏など皇室に連なる人々が、軍権を掌握しています。

曹叡の時代になると司馬懿が都督になるわけですが、曹丕の時代は司馬懿台頭の布石ともいえる時代でもあったのでしょう。

曹操の時代に比べると、曹丕の時代に司馬懿は存在感を増しました。

曹丕は自分の子孫が、高平陵の変で信頼していた司馬懿に、魏の権力を奪われるとは思ってもみなかった事でしょう。

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