劉璋は正史三国志に登場する人物であり、劉焉の四男となります。
一般的には劉備に益州を奪われてしまった事で、暗愚な君主だと言われる事が多いです。
劉璋が治めた益州は比較的平和だった事もあり、劉璋は安楽に暮らしていたと思うかも知れません。
しかし、劉璋であっても臣下に裏切られたりしているわけで、決して安楽な日々を過ごしていたわけではないでしょう。
劉璋は張松、法正、孟達などには裏切られていますが、王累、黄権の様に劉璋の為に懸命に動いてくれた臣下がいた事実があります。
それらを考えると、劉璋は幸せな君主だった一面もある様に感じています。
劉璋に関しては能力は低かったと言われますが、善行はあるなど人間性に関しては評価される事が多いです。
今回は劉備に益州を奪われてしまった劉璋を解説します。
尚、劉璋は劉備に益州を譲った後に、呉の益州牧に就任した話もあります。
劉焉の後継者となる
劉焉は益州牧となりますが、自分の子の中で益州に連れて行ったのは三男の劉瑁しかいません。
劉璋は兄の劉範や劉誕と共に、都である長安にいました。
後漢の朝廷にとっては益州で劉焉がよからぬ事を考えない様に、劉範、劉誕、劉璋の三兄弟は人質の意味もあったのでしょう。
劉璋は献帝に仕え奉車都尉となります。
劉焉は益州で独立の動きを見せた事で、献帝は劉璋を劉焉の元に派遣し、窘めようとしました。
しかし、劉焉は益州に劉璋がやって来ると引き留め、長安に帰そうとはしなかったわけです。
このお陰で劉璋は命拾いをする事になります。
後に劉焉は馬騰と手を組み反旗を翻しますが、漏洩した事で馬騰は破れ劉範、劉誕は命を落しました。
劉璋は劉焉の四男でしたが、本来なら家督を継ぐべき劉範や劉誕が世を去った事になります。
さらに、劉焉も事が失敗に終わり気落ちしたのか、病死してしまいます。
ここで本来であれば三男の劉瑁が後継者になるはずですが、趙韙らは温厚な劉璋が益州に主になってくれた方が、自分達の利益が大きいと考えました。
劉璋は趙韙らの要請により、四男でありながら益州牧となり劉焉の後継者となります。
これが西暦194年の事です。
張魯の独立
漢中の張魯は元は劉焉が漢中に派遣した人物です。
劉璋が後継者になってから、張魯は段々と問題行動が目立つ様になり、言う事を聞かなくなってきました。
ここで劉璋は益州にいた張魯の母親や弟を、見せしめとして殺害するに至ります。
勿論、劉璋の行動に張魯は激怒し、劉璋と張魯は仇敵の間柄となってしまいました。
劉璋は龐羲を将軍に任命し、何度も張魯を攻撃させますが、張魯は戦上手でもあり失敗に終わる事になります。
漢中の張魯は龐羲の軍を破った事で、漢中で完全なる独立勢力になったとも言えるでしょう。
尚、劉璋は龐羲を巴西太守とし張魯に備えさせました。
因みに、龐羲は劉焉の孫たちを救った功臣ではありましたが、巴西太守になった事で驕りが出たとも書かれています。
趙韙の乱
趙韙は劉璋が益州の主に推薦した中心人物だったとも考えられ、言わば劉璋の後見人の様な人物だったはずです。
しかし、正史三国志によれば趙韙は、劉璋に対し反旗を翻したとあります。
劉璋は直轄の兵士として東州兵を持っていました。
しかし、劉璋は優柔不断であり東州兵が悪さをしても、大して取り締まらず民は不満に思っていたわけです。
劉璋は趙韙に人望がある事から、東州兵の対応を任せていましたが、趙韙は豪族たちと手を組み反逆する事になります。
趙韙の乱は大規模だった様ですが、劉璋は成都に籠城し東州兵が必死に防戦した事で、趙韙の軍を寄せ付けませんでした。
そうこうしている内に、趙韙は部下の龐楽や李異に討たれ乱は終結に向かいます。
劉璋と言えばお気楽君主に見えるかも知れませんが、実際には自分に近しく信頼していた様な人物に裏切られるなどもあったわけです。
因みに、漢献帝春秋によれば、後漢の朝廷では益州が乱れていると聞くや、劉璋を中央に呼び寄せ卿とし、牛亶を益州刺史に任命しようとした話があります。
しかし、劉璋は要請に応じる事はありませんでした。
尚、趙韙の反乱は鎮圧出来ましたが、劉璋の政権運営能力には疑問に感じた人も多かったのではないか?とも考えられています。
曹操への使者
曹操は官渡の戦いで袁紹を破り、後に袁譚、袁煕、袁尚の兄弟を討ち取り北方を制圧しました。
劉璋は強大な勢力となった曹操に対し、河内の陰溥を派遣しています。
曹操は陰溥を礼遇し、劉璋には神威将軍、兄の劉瑁には平冠将軍の名を与えています。
さらに、劉璋は張粛を曹操の元に遣わし、三百の兵と物品を献じると、曹操は張粛を広漢太守に任命するなど厚遇しました。
劉璋は曹操に対し不安があり、早めに誼を結びたいと考え、使者を送り連絡を密にしたいと考えたのでしょう。
ここで劉璋は張粛の弟である張松も曹操の元に向かわせます。
張松が曹操の元に到着した頃には、曹操は劉表の後継者となった劉琮を降伏させ、劉備に対しては長坂の戦いで壊滅的な打撃を与えていたわけです。
曹操は呉に使者を派遣し、呉が降伏すれば天下統一出来ると思ったのか、張松を軽く扱いました。
この態度に、張松は曹操を恨む事になります。
曹操は赤壁の戦いで周瑜に敗れ、劉備が荊州四英傑を破り、荊州南部を制圧する事になります。
張松は劉璋に曹操を悪く言い、劉備を益州に迎え入れ張魯を打つ様に勧めました。
劉璋は法正と孟達を使者に任命し、劉備を迎え入れさせています。
ただし、張松、法正、孟達の三人は既に劉璋を見限っており、劉備を益州の主にしようと考えていたわけです。
尚、劉璋配下の王累は劉備を益州に招き入れるのは危険だと述べ、命を賭して劉璋を諫め黄権や劉巴なども劉備が入蜀するのに反対しています。
しかし、劉璋は王累、劉巴、黄権の意見を聞かず、劉備を益州に迎え入れてしまいました。
益州を奪われる
劉備と劉璋は涪城で会見しました。
この時に劉璋は劉備を100日間も歓待した話もあります。
劉備の軍師とも言える龐統は、劉璋を暗殺する様に劉備に勧めますが、劉備が却下した話もあります。
劉璋は劉備に兵と大量の物資を与え、劉備は張魯討伐をすると宣言し北方を目指しました。
ここで荊州では関羽と楽進が対峙し、孫権からも援軍要請があった事で、劉備は東に帰ると述べ、劉璋にはさらなる援助を求めています。
しかし、この時には劉璋も「何処かおかしい」と感じたのか、劉備の要求に対し半分の兵と物資しか与えなかった事で、劉備と劉璋は不和となります。
ここで張粛は張松が内通しており、劉備は益州を奪うつもりだと、劉璋に伝えました。
劉璋は張松を処刑し、劉備と劉璋は全面対決となります。
劉璋配下の鄭度は焦土作戦を進言しますが、劉璋は民の事を考え却下しています。
劉備は白水関を守る楊懐と高沛を斬首し、葭萌城を霍峻に守らせ、自身は黄忠、魏延、卓膺らと南下し、劉璋が籠る成都を目指しました。
さらに、劉備は荊州の張飛、趙雲、諸葛亮などを呼び寄せ、必勝の態勢で劉璋に決戦を挑む事になります。
劉璋側では雒城で劉循と張任が龐統を討ち取るなどもありましたが、厳顔が張飛に敗れ、李厳が劉備陣営に寝返るなど各地で敗走が続く事になります。
劉璋は成都に籠城しますが、西涼の馬超までも劉備陣営に加わる衝撃もあったわけです。
劉備は簡雍を使者として派遣し、劉璋は降伏を決め簡雍と共に城を出ました。
劉璋は降伏する時に、次の様に述べた話があります。
※正史三国志 劉璋伝より
劉璋「益州を親子二代で20年以上も統治してきたが、人々に恩恵を施す事は出来なかった。
人々は3年間も戦い続け、肌をさらし死んでいったのは、私(劉璋)の責任である。
平気でいられるはずがない」
劉璋は自分が降伏すれば、民を苦しめる事はないと考え降伏したとも言えるでしょう。
劉璋の言葉に涙を流さない臣下は一人もいなかったとされています。
劉璋は反乱を起こされたりし仕方なく処刑する事はありますが、基本的には殺生を嫌う人物だった様にも感じています。
それだからこそ、王累や黄権は劉璋を必死で諫めてくれたのでしょう。
それでも、劉璋は降伏した事で益州の主では無くなってしまいました。
その後の劉璋
劉備は降伏した劉璋を、荊州南郡公安に移しました
さらに、劉備は劉璋が持っていた財物や神威将軍の印綬を返した話があります。
劉璋の言葉で涙を流した人が多かった様に慕う人もおり、劉備は劉璋を邪険に扱う事は出来なかったのでしょう。
さらに言えば、劉璋の益州を明渡す時の潔い態度には、劉備にも感じるものがあったのかも知れません。
劉璋は荊州に移りましたが、後に呉の魯粛が亡くなり呂蒙が後任となるや、孫権の方針も変化しました。
関羽は北上し樊城の戦いで曹仁と戦いますが徐晃に敗れ、最終的には麦城の戦いで呉軍に破れ命を落しています。
これにより劉備陣営は荊州の全てを失い、劉璋も呉に移りました。
孫権は劉璋を益州牧としています。
孫権としては益州は劉備が劉璋から奪ったものであり、劉璋に益州を返還するという大義名分も欲しかったのでしょう。
孫権は劉璋を秭帰に駐屯させたとあります。
それから間もなくして、劉璋は没した様です。
劉璋が亡くなった年や最後がどの様なものだったのかは記録がありません。
尚、劉璋の子である劉循は蜀に仕え、劉闡は呉に仕え一家は蜀と呉に分裂しました。。
劉璋の評価
劉璋の評価ですが、陳寿は劉璋に対し、次の様に酷評しています。
※正史三国志 劉二牧伝第一評より
劉璋は英雄としての器もないのに、領地を手に入れ世の中を乱した。
相応しくない身分につき、領地を奪われたのは自然の摂理である。
劉璋が官位や領地を奪われたのは必然である。
陳寿は劉璋を能力もないのに土地を手に入れたのであるから、劉備に国を奪われるのも当然と述べたわけです。
陳寿は劉璋をかなり低く評価したとも言えます。
それに対し、張燔は次の様に述べています。
張燔「劉璋は愚か者で脆弱な人物ではあったが、善言は守った。
劉璋は春秋戦国時代の宋の襄公や徐の偃王と似た様な人物である。
劉璋は無道の君主と言われる程ではない」
張燔は劉璋の能力に関しては低く見積もっていますが、人間性に対しては一定の評価を与えたと言えます。
張燔の口から出た宋の襄公は楚の成王と戦った時に、正々堂々と正面から戦う為に、圧倒的不利にも関わらず、敵の陣形が整うのを待ち攻撃を仕掛けた人物です。
勿論、宋の襄公は大敗し、宋襄の仁という諺にもなっています。
徐の偃王は周の穆王の時代の人であり、西周王朝に対し反旗を翻した人物です。
徐の偃王に関しては分かっている事は殆どありません。
張燔は劉璋に対しては、暴虐な君主ではなく人間的にはまともな人物だった評価したと見るべきです。
尚、個人的には劉璋は劉禅と同様に邪険のない人間だったのではないか?と考えています。
劉璋の配下一覧
正史三国志
三国志演義
呉蘭 | 譙周 | 卓膺 | 張翼 |
馬漢 | 雷銅 | 劉晙 | 呂義 |