その他 三国志 後漢

沮授は高い戦略眼の持ち主

2023年2月13日

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宮下悠史

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名前沮授(そじゅ)
生没年生年不明ー200年
時代三国志、後漢末期
勢力韓馥袁紹
一族子:沮鵠 弟:沮宗
年表193年 監軍・奮威将軍に任命される
200年 官渡の戦い
画像©コーエーテクモゲームス

沮授は冀州鉅鹿郡広平県の出身であり、正史三国志に名前が登場する人物です。

沮授は袁紹に仕え天下統一する為に戦略を述べた事で、軍監となり重用されました。

しかし、袁紹が公孫瓚を破り天下第一の勢力となった頃から、袁紹は沮授の権力を削いだりし進言も聞き入れられなくなります。

沮授は官渡の戦い後に捕虜となり、曹操の前に引き立てられ配下となる様に要請しますが、断り死を選びました。

今回は田豊と並び袁紹軍の軍師とも言える沮授を解説します。

尚、孫盛は沮授や田豊の智謀は、劉邦に仕えた張良陳平に匹敵すると高く評価しています。

韓馥に仕える

正史三国志の注釈・献帝紀によれば沮授は広平の出身で、若い頃から大志を抱いていたとあります。

献帝紀には沮授は策略家として評価されており、州の別駕となり茂才に推挙されたとあります。

これした経歴を見ると沮授は冀州の名士であり、出仕したと考えるのが妥当でしょう。

沮授は二県の県令を歴任した後に、冀州牧に任命された韓馥の別駕となり、騎都尉となります。

袁紹が董卓から渤海太守に任命され、後に反董卓連合の盟主となりますが、後に連合は瓦解しました。

袁紹は逢紀の策略などもあり、公孫瓚を動かし韓馥から冀州牧の位を譲り受けようとします。

こうした動きに対し、耿武、閔純、李歴、沮授らが韓馥を諫めた話があります。

沮授にしてみれば、韓馥が袁紹に冀州牧の位を譲ったとしても、得るものがない事は明らかであり、主君である韓馥の利益の為に諫めた様に感じています。

しかし、韓馥は沮授らの諫めを聞かず、冀州牧の位を袁紹に譲渡しました。

これにより沮授の上司は韓馥から袁紹に変わったわけです。

尚、韓馥配下には田豊審配張郃らもおり、同じく袁紹に仕える事となります。

天下統一の戦略

袁紹は冀州牧になると沮授を招き、斉の桓公における管仲や越王勾践の范蠡などを例に出した上で、沮授に意見を求めました。

沮授は袁紹が20歳で出仕し董卓と対立し、出奔を行い渤海太守になった事や、名声があると述べています。

さらに、沮授は東方の黄巾賊を征伐し青州を平定した上で、黒山賊の張燕を討ち北方の公孫瓚を滅ぼすべきだと説きました。

沮授は匈奴を下し北方の四州を支配した上で、長安にいる献帝を洛陽に招くべきと述べています。

沮授は袁紹に天下統一までの戦略を語り、袁紹は「これこそが私が思っていた事だ」と高く評価しました。

袁紹は沮授の話を聞くと、直ぐに沮授を監軍、奮威将軍に任命しています。

沮授は袁紹軍の諸将を監督する役割を与えられ、軍事の最高責任者となったわけです。

沮授の戦略眼を袁紹が大いに評価した事や、袁紹が冀州の名士を優遇しようとした結果として、沮授は大権を得たと言えるでしょう。

袁紹は沮授の戦略に従い行動する事となります。

献帝を迎え入れる様に進言

西暦195年になると李傕郭汜が市街戦を繰り広げ、長安は荒廃し献帝が洛陽を目指す事になります。

献帝は董承、楊奉、韓暹らに守られて洛陽を目指しました。

正史三国志の注釈献帝伝には、次の記述が存在します。

※献帝伝より

沮授「将軍(袁紹)は歴代に渡り天子を補佐し、忠義を尽くしております。

現在の朝廷は都を離れ流浪している状態であり、宗廟は破壊されています。

世の中の様子を観察してみると、表向きは義兵を挙げるとしていますが、内実では諸侯が互いを滅ぼそうと画策しているわけです。

天子を安んじる者はおらず、民衆を慈しむ者もいません。

現在、我が方の州郡は安定しており、天子を迎え鄴に宮殿を置き、天子を擁し諸侯に号令をかけるべきです。

さらに、戦士や戦馬を養い入朝しない者を討伐したのであれば、防ぐ事が出来る者は存在しません」

沮授は袁紹に献帝を本拠地の鄴に迎え入れる様に進言したわけです。

沮授は元々袁紹に説いた戦略では洛陽に献帝を迎え入れる事になっていましたが、状況に応じて宙に浮いた形になっている献帝を、鄴に呼び寄せるのが得策と考えたのでしょう。

献帝伝では袁紹は喜び沮授の意見を採用しようとしますが、郭図淳于瓊が「献帝を迎え入れてしまえば、何をするにも上聞しなければならない」とするデメリットを説きました。

これにより袁紹は再び気が変わりますが、沮授は次の様に述べています。

沮授「現在の状況を見るに、朝廷を迎えること以上の正義はございません。

また時宜にかなった事であり、速やかに行動しなければ別の誰かに先手を打たれてしまう事でしょう。

機会を逃さぬ事が大事であり、功業の成功は敏捷さにあるのです。

将軍は早々と手を打つ事が肝要となります」

沮授は再び袁紹に献帝を迎え入れる様に決断を促しますが、袁紹は献帝を迎える決断を下す事が出来ませんでした。

袁紹は過去に少帝の廃位に反対し、董卓が擁立した献帝に代わり、劉虞を擁立しようとした過去があります。

こうした事を考えると、袁紹は献帝に対し否定的な立場を取っており、沮授の言葉が聞けなかった様にも感じています。

尚、袁紹が献帝を迎え入れる決断が出来ない間に、曹操は素早く献帝を保護し許昌に置きました。

後日談になるのですが、袁紹は献帝を保護できなかった事に対し、後悔した話が残っています。

袁家分裂の予感

袁紹は後に公孫瓚を滅ぼしますが、青州の統治を長子の袁譚に任せようとしました。

この時に、沮授は次の様に述べています。

※献帝春秋より

沮授「世間では一匹の兎が街を走れば万人が追いかけますが、一人が兎を捕獲すれば万人が追うのをやめます。

これは持ち主が決定したからです。

後継者を決める場合は、年齢が同じ場合は賢明な者を選び、徳が同じである場合は占いによって決めるのが古からの制度となっています。

前代の成功と失敗の戒めを考慮し、下の者には兎の持ち主を示すべきです。

この道理をよくお考えください」

沮授は長子の袁譚を外に出せば、後継者争いが起こると危惧したのでしょう。

春秋時代に晋の献公は申生重耳、夷吾の三兄弟を外に出し、晋は後継者争いで乱れており、同じ事が袁家でも起こると考えたように思います。

しかし、袁紹は息子たちに、一州をそれぞれ支配したいと述べて、沮授の進言を却下しました。

袁紹は長子の袁譚に青州を治めさせるだけではなく、次男の袁煕に幽州を治めさせ、甥の高幹には并州を治めさせています。

袁紹が沮授の進言を却下した理由としてよく言われるのは、後妻の劉氏が生んだ袁尚を後継者にする為とするものです。

しかし、最近では公孫瓚を滅ぼす原動力となった冀州名士の力が強くなりすぎており、袁紹は自分の一族に強い権限を与えたかった表れではないか?とも考えられています。

公孫瓚を倒し天下第一の勢力になった袁紹は、内部の組織改革を始めたとも考えられているわけです。

官渡の戦い

持久戦を進言

献帝伝によると、袁紹は曹操を討伐する為に南征を開始しようとしました。

ここで沮授と田豊は食料不足などを原因に持久戦をすべきだと袁紹に説いた話があります。

しかし、審配と郭図が曹操と短期決戦で勝負をつけるべきだと進言しました。

ここで沮授は、次の様に意見した話があります。

※世語より

沮授「混乱を鎮め暴虐を討つのを義兵と呼び、数の多さを頼みとし武力に依存するやり方を驕兵と呼びます。

義兵は無敵であり驕兵は真っ先に滅ぶと聞いております。

曹操は天子を迎えており、許都に安じています。

今の状況で兵を南下させるのは、道理から考えても間違いです。

さらに、中央で巡らす勝利の策は武力の強弱で左右される訳でもございませぬ。

曹氏の法令は行き渡っており、兵士は精鋭揃いで、よく訓練なされております。

公孫瓚とは訳が違うと考えた方が宜しいかと存じます。

確実に勝てる安全策を捨て、名分なき戦争を起こす事を内心危惧しております」

沮授は袁紹に長期戦に入る様に進言しました。

しかし、郭図らは殷の紂王と周の武王、越王勾践と呉王夫差を例に出し、即時決戦を促しています。

袁紹は郭図らの進言を採用しました。

沮授の進言は、またもや却下されたわけです。

軍権を三分割させられる

これを機に郭図らは沮授を讒言し、沮授が持っている軍権を三分割させる事に成功しています。

沮授の軍権は郭図、淳于瓊に分割された事で、三分の一にまで減少してしまいました。

袁紹としても冀州派の代表格である沮授の権力の多さを危惧していたはずであり、豫州出身者の郭図や淳于瓊に権力を持たせ拮抗させたかったのでしょう。

公孫瓚を倒した後の袁紹を見ると、冀州人士の冷遇と豫州派閥の重用を見て取る事が出来ます。

ただし、これらの組織改革は、天下統一後に行うべきだったとする指摘も強くあります。

顔良の敗北を予言

袁紹と曹操は対峙する事になりますが、袁紹は顔良に白馬にいる劉延を攻撃させようと考えました。

ここで沮授は、次の様に袁紹に釘を刺しています。

※正史三国志袁紹伝より

沮授「顔良は武勇に優れてはいますが、偏狭な性格をしております。

顔良一人に任せてはなりません」

沮授は袁紹に顔良の勇猛さは認めながらも、性格を問題視したわけです。

曹操が官渡の戦いの前に軍議を開いた時に、孔融が顔良と文醜の武勇を警戒する発言をしますが、荀彧は「顔良と文醜は一戦で討ち取れる」と述べた話があります。

荀彧は顔良の性格を見抜いていましたが、沮授もまた荀彧と同様に顔良の性格を見抜いていたと言えるでしょう。

しかし、袁紹は沮授の進言を却下し、顔良を白馬に向かわせました。

沮授はこの時点で袁紹は曹操に敗れると考え、弟の沮宗や一族の者を集め財産分与した話があります。

白馬の戦いでは荀攸の策が効果を発揮し、張遼関羽が顔良を急襲し討ち取る戦果を挙げています。

結果を見れば、沮授の言った通りの展開となったわけです。

軍を没収される

袁紹が黄河を渡ろうとすると、沮授は次の様に諫めました。

※献帝伝より

沮授「勝敗はどの様に転ぶのかは分からないものであり、熟慮する必要があります。

現在の状況を見るに延津に軍営を置きつつ、兵を分けて官渡に派遣するのが妥当です。

勝ち戦となった時点で、延津にいる大軍を移動させても何の問題もありません。

しかし、万が一負け戦となった時に、官渡にいたら帰還する事は困難でしょう」

沮授は負けた時の事を考え、あくまでも延津に本陣を置く事を主張しました。

ここでも袁紹は沮授の意見を却下し、渡河を始める事になります。

沮授は悉く進言を却下された事で、希望を失ったのか、次の様に述べています。

沮授「上の者は野心を満たす事ばかりを考え、下の者は手柄を立てる事しか考えていない。

悠々と流れる黄河よ。儂は再び戻る事は出来なのか」

沮授は進言を悉く袁紹に却下され思う所があったのか、病気を理由に軍から離脱しようとします。

しかし、袁紹は沮授を恨み軍を取り上げ、沮授の軍を郭図に与えています。

沮授は官渡の戦いで大きく権力を削がれる事になったわけです。

北方と南方

後に袁紹の軍と曹操の軍が戦うと、今度は文醜が討ち取られてしまいました。

袁紹伝によれば二度の戦闘で大将が討たれ、袁紹軍は恐慌に陥ったとあります。

ここで沮授は、袁紹に次の様に進言しました。

※正史三国志袁紹伝より

沮授「北方の軍(袁紹軍)は数は多いですが、勇猛さでは南方の軍(曹操軍)に劣っています。

しかし、南方は食料に窮しており、北方は経済面では圧倒しております。

南方としては短期決戦が有利であり、北方としては長期戦が有利です。

ゆっくりと持ちこたえ、持久戦を挑めば勝利を得る事が出来ます」

沮授は袁紹に持久戦が有利だと説いたわけです。

しかし、ここでも袁紹は沮授の意見を却下したとあります。

ここまで沮授の意見を却下するとなれば、袁紹は何の為に沮授を連れて来たのかも分からない状態だと言えるでしょう。

勝敗を分けた進言

沮授は袁紹が敗れると予見したわけですが、袁紹軍は曹操を相手に有利に戦いを進めました。

正史三国志の袁紹伝によれば、曹操の軍は疲弊し謀反を起こし袁紹に寝返る者も増加したとあります。。

さらには、曹操は食料が欠乏するなど、困窮しました。

この時に袁紹は淳于瓊に1万の兵を与え、輸送車を警護させる為に北方に送ろうとします。

ここで沮授は兵站を切られる事を恐れ、蔣奇に別動隊を率いて淳于瓊を助ける様に進言しました。

沮授は淳于瓊が曹操に急襲され敗れる事になれば、大軍を維持する事が出来ないと考えての策だったのでしょう。

しかし、袁紹は沮授の意見を却下しました。

これが勝敗の分かれ目となります。

袁紹配下の許攸が曹操に寝返り、情報をリークしました。

これにより曹操は本陣を曹洪に任せ、淳于瓊を楽進と共に急襲しています。

烏巣の戦いで淳于瓊は戦死し、曹操が袁紹軍の兵糧庫を焼いた事で勝敗は決しました。

袁紹は大軍を維持する事が出来なくなり、北方に撤退したわけです。

この時に沮授は曹操軍に捕らえられ捕虜となってしまいます。

沮授の最後

沮授は曹操の前に引き立てられる事となります。

沮授と曹操は旧知の間柄であり、曹操は沮授を高く評価しており用いたいと考えていました。

しかし、沮授は曹操の前に立つと大声で「沮授は降参したのではない。捕虜となっただけだ」と叫んだ話があります。

沮授が大声で叫んだ理由ですが、袁紹の元には子の沮鵠を始め一族がおり、一族の安全を考えての言葉だったと考えられています。

沮授が曹操に降ったとする情報が袁紹の耳に入れば、家族が処刑される事を懸念したのでしょう。

曹操は沮授に対し「君を捕虜にする事になるとは思いもよらなかった」と述べました。

沮授は曹操に対し、次の様に返答しています。

※献帝伝より

沮授「冀州(袁紹)は策を間違え北方に逃走する羽目になった。

私は知恵も武略も尽きており、捕虜にされたのは当然の事です」

沮授は潔く曹操に現状を述べた事になるでしょう。

曹操は沮授を登用したいと考えており、袁紹が敗れたのは沮授の策を採用しなかったからだと述べます。

さらに、曹操は沮授と共に事業を成し遂げたいと語りました。

しかし、沮授は家族が袁紹の元にいる事を理由に、死を賜わる事となります。

曹操は沮授が死を選ぶと知ると、次の様に感嘆しました。

曹操「私がもっと早くに君(沮授)を味方にする事が出来ていたならば、天下の平定は考慮のない程に簡単であったであろう」

曹操の言葉から、沮授を高く評価していた事が分かるはずです。

沮授は家族が袁紹の元にいる以上は、曹操に仕えるわけにも行かなかったのでしょう。

後に沮授の子である沮鵠が袁尚の配下として邯鄲を守った記録があり、沮授が曹操に処刑された事で、沮鵠をはじめ一族は助かったとも言えます。

沮授の最後に関しては、袁紹の元に逃亡しようとしますが、捕らえられ曹操に処刑された話もあります。

それを考えると策を却下されても、沮授の主君は袁紹だったと言えそうです。

沮授の評価

沮授は高い戦略眼を持っていた事は明らかだと感じました。

官渡の戦いの時には、沮授の進言を袁紹は悉く却下しています。

袁紹が沮授の計略を全て却下したのであれば、なぜ戦場に沮授を連れて来たのか意味不明な状態です。

そこまで沮授の進言を聞かないのであれば、田豊の様に獄に繋ぐなどした方がよかったのではないか?とも感じました。

尚、結果論で言えば沮授の進言は正しく、袁紹の採用した策は間違っていたと言えるでしょう。

しかし、官渡の戦いで袁紹は、曹操軍を壊滅寸前まで追い込んでおり、許攸曹操に情報をリークしなければ、袁紹が勝っていた可能性が高いと言えます。

それを考えると、必ずしも沮授の策が全て正解だったとは言えない部分もあると感じました。

尚、沮授を見ていると人柄の良さが伝わってくる様な気がします。

袁紹配下の田豊や審配逢紀、郭図などは人間性を問題視される事もありましたが、沮授に至っては人間性もかなりまともだった様にも感じています。

それと同時に、沮授は三国志の中でも屈指の戦略家でもあり、袁紹軍の軍師だとも感じました。

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