陸遜(りくそん)は字が伯言であり、夷陵の戦いで、劉備を破った事で有名な武将です。
三国志のゲームなどでも高い能力値を持ち、知っている人も多い事でしょう。
正史三国志では、孫権、曹操、劉備、劉禅などの君主は、個別で伝が立てられていますが、配下の武将の多くは一つの伝にまとめられて掲載されている事が多いです。
その中で、呉の陸遜と蜀の諸葛亮だけは個別に伝があります。
これを見ても、正史三国志の編集者である陳寿が、如何に陸遜を特別扱いしているかが分かるはずです。
尚、三国志演義では描かれませんでしたが、陸遜の最後は孫権の後継者問題に巻き込まれての憤死となります。
今回は史実の陸遜が、どの様な人物で実績があるのかを徹底解説します。
因みに、陸遜には弟の陸瑁と子に陸抗がいます。
名門の出身
呉で名門と言えば、周瑜を思い浮かべる人も多いかも知れません。
しかし、陸遜も名門出身であり、若かりし頃の陸遜と合わせて解説します。
呉の四姓
陸遜は揚州呉郡の出身であり、呉の四姓と呼ばれる名門の出身です。
呉の四姓と言うのは、呉の中でも極めて有力な四家を指します。
陸家以外の呉の四姓は、下記の通りです
・顧家(呉の丞相顧雍が出た家)
・朱家(朱桓、朱拠、朱異を輩出)
・張家(張温を輩出)
陸遜は呉でも指折りの名門氏族出身となります。
ただし、陸遜の父親である陸議は若くして亡くなったとあります。
廬江に移住
陸家では、陸遜の従祖父である、本家の陸康が家督を継いでいました。
意外に思うかも知れませんが、陸遜は陸家の中でも分家の家柄となります。
廬江で大規模な反乱が起きた時に、後漢王朝の霊帝が陸康を廬江太守に任命し、討伐に向かわせたわけです。
陸康が廬江太守になった事で、若き日の陸遜も、陸康に従い廬江に住む事になります。
陸康は乱を鎮圧しますが、霊帝の死後に何進が暗殺され、董卓が実権を握るなど、中国は群雄割拠の時代に突入しました。
廬江を去る
群雄割拠の中で、汝南袁氏の袁紹派と袁術派に分裂し、陸康は自らの子である陸績を寿春にいる袁術の元に送った話があります。
後に袁術と陶謙が対立しますが、この時に袁術が陸康に兵糧を求めてきます。
陸康は袁術の要請を断りますが、袁術は廬江討伐を孫策に命じました。
孫策は江東の虎と呼ばれた孫堅の子であり、勇猛で高い指揮能力を持っていたわけです。
陸康は孫策の指揮能力を見て敵わないと判断したのか、陸遜や一族を呉に返す事にしました。
陸康の子は陸績ですが、陸遜の方が数歳年上だった事もあり、陸績に代わり陸遜が一族を纏めた話があります。
陸康は廬江に残り、孫策の攻撃に粘り強く戦いますが、結局は城は落城し、陸康も直後に病死しています。
孫策の攻撃により陸家の一族の、半分の命が失われた話があります。
陸氏の勢力は弱まりますが、陸遜は呉で暮らす様になり、様々な名士と交流を持つ事になりました。
孫権に仕官する
陸遜にとって因縁の相手である孫策が、袁術から兵を借りて江東の支配に乗り出します。
孫策は程普、周瑜、黄蓋、周泰、蒋欽、張昭、張紘などを従え、次々に敵を打ち破る事になります。
孫策は劉繇、厳白虎、王朗などを破り、江東に一大勢力を築きました。
陸康の因縁の相手である、孫策が江東を支配した事は、陸遜にとっては複雑だったのかも知れません。
尚、陸遜は孫策時代は、仕官する事はありませんでした。
陸遜も名士であり、孫策の仕官以来は来たのかも知れませんが、孫策の時代は、陸遜は仕官をしてはいません。
ただし、孫策の時代は陸遜の年齢が20歳にも満たぬ事から、仕官しなかった可能性もあります。
西暦200年に孫策は許貢の食客により命を落とすと、孫権が呉の当主となります。
孫権が呉の君主となり203年頃に、陸遜は孫権に仕える事になったわけです。
この時の陸遜の年齢は21歳だったと伝わっています。
孫策時代は孫策が反抗的な勢力を潰すなど強圧的な態度でしたが、孫権は豪族や名士たちとの協調路線に変更したとも考えられています。
孫権が懐柔路線に走った事で、陸遜だけではなく、諸葛瑾、歩隲らも孫権陣営に仕官する事になります。
陸遜が善政を布く
陸遜は孫権配下となり、東曹と西曹の令史を歴任したとあります。
陸遜のキャリアの始まりは文官であり、事務仕事なども行っていたと考えられています。
陸遜は地方に行き屯田都尉となり、海昌県の統治を行った話があります。
この時に、海昌県は酷い旱魃があり、食料が不足していました。
陸遜は倉を解放し、貧しい民衆に穀物を分け与えています。
さらに、陸遜は農耕と養蚕を奨励した事で、人々は何とか生き残る事が出来たと伝わっています。
陸遜は民の為に政治を行ったと言えるでしょう。
陸遜の軍人デビュー
当時の呉は山越族や、異民族の反乱に頭を抱えていました。
呉の内部には不服民を多く抱えている状態だったわけです。
陸遜は呉、会稽、丹陽の反乱勢力を討伐したり懐柔させたりする事で、兵士を募りたいと願い出る事になります。
山越族の頭目の一人である潘臨は各地で暴虐を働き、孫権にとっては頭痛の種でした。
陸遜は配下の志願兵で討伐に向かうと、山越の奥地まで兵を動かし、鎮圧に成功しています。
この時に陸遜は2千の兵を、自軍に組み込み目標を達成しています。
さらに、陸遜は賀斉と共に尤突を討伐した功績により、定威校尉に任命されています。
陸遜の軍は利浦に駐屯したと伝わっています。
陸遜にとってみれば、後の大器を現わす鮮やかな軍人デビューとも言えるでしょう。
孫策の娘を娶る
正史三国志に陸遜が孫策の娘を娶った話があります。
孫権は事実上の当主ではありますが、氏族で考えた場合は弱小であり、有力豪族の一員である陸遜と血縁関係を結び、関係を強固にしたかったのでしょう。
陸遜が娶った孫策の娘の母親が誰なのか?は、記録がなく分かっていません。
孫策の劉勲討伐で手に入れた大喬と孫策の娘であれば、かなりの美貌を持った娘を陸遜は娶ったの可能性もあります。
尚、陸家は孫策の廬江攻撃で一族の半分が失われた話があります。
陸家の中では、孫家を敵視する事もあったと考えられ、陸家の中でも親孫家派だった、陸遜を孫権は重用したかったのかも知れません
尚、陸遜が孫策の娘を娶った事で、孫家は多くの有力者に受け入れられる結果となった話があります。
ただし、これらの孫権の態度は、呉が豪族たちの力が強い連合国家として形作られて行きます。
因みに、呉の豪族問題は滅亡するまで、解決されなかったとする話もあります。
山越討伐で名を挙げる
呉の山越討伐では、呂範、程普が総責任者の立場にありましたが、陸遜も山越討伐で活躍した話があります。
山越討伐で陸遜は兵を指揮する方法や采配力を磨いていったのだと思われます。
軍事強化を進言
孫権は陸遜を信用する様になり、政治的な事に関しても陸遜に意見を求める事になります。
陸遜は呉の状況を見て、孫権に次の様に進言しています。
陸遜「現在の中国は群雄割拠であり、様々な者どもが隙を伺っている状態です。
敵を打ち破り混乱を鎮めるのであれば、軍勢を多く集める事は必須の条件となります。
現在、山越の賊徒達は暴虐を行い、険阻な奥地に立て籠もっております。
内部の憂いである山越を討伐せねば、北方を制すのは不可能でございます。
山越を討ち、彼らの中から精鋭の兵を選りすぐり、兵士として使うべきです。」
孫権は陸遜を帳下右部督とし、山越討伐を積極的に行います。
費桟討伐
魏の曹操が山越に印綬を授け、費桟が反乱を起こしています。
孫権は陸遜に費桟討伐を命じました。
この時に、費桟の軍は数が多かったのに対し、陸遜の軍は寡兵だった話があります。
陸遜は将軍旗を大量に押し立て、太鼓と角笛を各地に配置しました。
陸遜は山や谷に身を潜め、太鼓を打ち鳴らし鬨の声をあげ、費桟に軍の夜襲を仕掛けます。
陸遜の攻撃に驚いた費桟は、散々に打ち破られる事になったわけです。
陸遜と言えば、夷陵の戦いでの勝利ばかりに目がいきがちですが、山越討伐などで確実に実績を出し、経験を積んだのでしょう。
山越討伐の土台があったからこそ、陸遜は夷陵の戦いに勝利出来たとも考えられます。
告げ口した相手を褒める
陸遜は東方の会稽、新都、丹陽で部隊編成を行い、精鋭数万を手に入れた話があります。
正史三国志には陸遜の行動は「悪者は根こそぎ淘汰され、陸遜が行く所はどこも清められた。」と記載があります。
しかし、会稽太守の淳于式は、陸遜のやり方を批判し、孫権に次の様に述べています。
「陸遜は不法に民衆を徴兵し、自軍に編入しようとしております。
民は陸遜のやり方を嫌がり、各地で騒いでおります。」
淳于式は、陸遜を批判したわけです。
陸遜が呉の都に訪れると、孫権が淳于式の事を陸遜に伝える事になります。
陸遜は、それを聞くと淳于式を絶賛しました。
孫権が告げ口を行った淳于式を褒める事を不思議がり、陸遜に聞くと次に様な答えが返ってきます。
陸遜「淳于式は民衆の事を考えしっかりと育てようとしたからこそ、私を批判する言葉が出たのでございます。
私が淳于式の悪口を言ったとしたら、陛下の耳を汚すだけではなく、私と淳于式の泥仕合が始まるだけです。
そういうものは、どこかで断ち切る必要があるのでございます。」
陸遜の返答に、孫権は満足し、次の様に述べました。
孫権「其方の言葉は立派な人格者でなくては出来ぬ言葉であり、誰もが真似出来る事ではない。」
その後の陸遜の実績を見ても、誠実さは図抜けており、素晴らしい人格を兼ね備えていた事が分かります。
関羽討伐
陸遜は関羽討伐で、大きな功績を立てる事になります。
呂蒙が陸遜を高く評価した事で、国外にも名前が響き渡る事になります。
荊州を守る関羽
孫権と劉備は協力し、赤壁の戦いで曹操軍を撃破する事に成功します。
曹操が北に去ると、孫権は劉備に荊州の地を借用しました。
孫権配下の周瑜が益州を攻めようとしますが、準備中に病死してしまいます。
周瑜が亡くなった事で、劉備は益州に侵攻し馬超が陣営に加わった事で、劉璋は戦意を失くし降伏しました。
劉備は蜀の主となりますが、孫権は劉備に貸していた荊州の地を還して欲しいと述べます。
荊州の領土問題は、魯粛と関羽の間で単刀赴会などの話し合いもありましたが、依然として揉めていました。
西暦217年に魯粛が亡くなると、呂蒙が荊州方面の責任者となります。
呂蒙が陸遜の能力を、高く評価する事になります。
陸遜の進言
益州の劉備は北上し、漢中を攻撃し法正と黄忠の活躍もあり、定軍山の戦いで魏の夏侯淵を斬り、大勝利を収めます。
関羽は劉備が漢中で勝利した事を聞くと、荊州の本拠地には兵を残しながらも、自ら北上し曹仁が守る樊城を包囲しました。
この時に、荊州方面の責任者である呂蒙は建業に戻ってきました。
陸遜は呂蒙に面会を求め「関羽と隣り合う場所にいたのに、長江を下って建業に戻ってきてしまい大丈夫なのか。」と尋ねます。
呂蒙は病気で戻ってきたと話しますが、陸遜は次の様に答えています。
陸遜「関羽は気が強い性格であり、人を人とも思わぬ傲慢な性格をしております。
現在の関羽は大手柄を立てており、驕る心があるはずです。
関羽は我々に対して警戒を緩めており、あなた(呂蒙)が都に帰ったとあれば、兵を全て北方に差し出し無防備になるに違いありません。」
陸遜の言葉に対し、呂蒙は「関羽は勇猛で荊州では恩徳が施されており、正面から太刀打ち出来る相手ではない。」と述べています。
呂蒙の言葉は陸遜に関羽の攻略は難しいと言っている様にも聞こえますが、呂蒙は孫権に面会すると次の様に述べます。
呂蒙「私の代理は陸遜が適任です。陸遜は思慮が深く計画はしっかりとしており、大事を任せられる人物です。
さらに、陸遜は国外では全くの無名であり、関羽にも警戒されません。
陸遜以上の適任者はおりません。
陸遜を用いる事が出来れば、関羽を打ち破る事も出来るのです。」
孫権は呂蒙の言葉に納得し、陸遜を荊州に向かわせたわけです。
呂蒙とのやり取りでも分かる様に、陸遜は情報集めに積極的であり、情報を上手く活用・分析し、戦略を立てるのが得意な人物とも言えるでしょう。
陸遜の手紙
陸遜は陸口に着任すると、関羽に次の様な手紙を送っています。
「此度は小さな力で大きな敵を打ち破った事は、立派な手腕でございます。
敵国を打ち破ってくれた事は、同盟者である我が国にとっても喜ばしい事です。
私は非才の身ではありますが、あなた(関羽)様の輝かしさを仰ぎ慕って行きたいと思います。
立派な計略で我々に対しても、助言いただけますように願っております。」
陸遜は関羽に対し恭しい挨拶分を載せた上で、関羽が于禁と龐徳を破った戦いを絶賛します。
関羽の此度の大勝利は、晋の文公が城濮の戦いで勝利し、春秋五覇の一人になった戦いや、韓信が井陘の戦いで趙を破ったのに匹敵すると述べたわけです。
そうした上で、魏の徐晃が樊城の戦いの救援に向かっている事や、曹操は悪だくみを平気でする人物だと述べ、曹操への警戒が必要だと伝えます。
陸遜が関羽を絶賛し恭順の姿勢を見せた事で、関羽は呉への警戒を棄ててしまいます。
陸遜は関羽の性格をよく理解し、関羽の心をくすぐる様な見事な書簡を出したと言えるでしょう。
陸遜は孫権に状況を詳しく述べ、関羽を破る為には何をすればいいのかを要点とした上表を行っています。
ここで孫権と呂蒙が動く事になります。
関羽の退路を断つ
呂蒙を総大将とし、陸遜、蒋欽、孫皎らの軍は、関羽が治める荊州南部に雪崩れ込む事になります。
荊州南部を守る糜芳や傅士仁は、日頃から関羽と折り合いが悪かった事で、虞翻の説得などもあり、簡単に呉に降伏しました。
関羽の本拠地である公安も占拠すると、陸遜はさらに進み宜都を落とし、孫権から宜都太守の職務を任せられ、陸遜は撫辺将軍・華亭侯となります。
劉備陣営の宜都太守である、樊友は郡を棄てて逃亡しました。
廖立なども蜀まで逃亡した話があり、呂蒙が攻めてきた時の郡守らは逃げてしまった者が多かったのでしょう。
陸遜は宜都の役人や異民族の酋長も降伏させています。
陸遜は孫権から金、銀、銅の官印を呉の朝廷から貰い受けると、新しく帰順してきた者たちに仮に授けた話があります。
この時の呂蒙の軍は略奪を一切禁止した話があり、陸遜の軍でも徹底されていた様に思います。
尚、宜都は荊州と益州の境目でもあり、陸遜が宜都を攻略した事は、関羽が益州に逃げる退路までをも断った事になるでしょう。
詹晏と陳鳳を破る
関羽討伐戦で、陸遜は李異と謝旌に命じて、三千人を指揮し蜀軍の詹晏と陳鳳に攻撃を仕掛けた話があります。
この時に李異が水軍を指揮し、謝旌が歩兵を指揮したとあります。
陸遜や李夷、謝旌らは要害の地を抑えると、すぐに攻撃を仕掛けました。
陸遜の攻撃に詹晏は陣を破られ、陳鳳は生け捕られる事になります。
ここでも陸遜は大勝しています。
荊州南部を制圧
陸遜の軍は快進撃を続け、房陵太守の鄧輔と南郷太守の郭睦も撃破した話があります。
この戦いでは「大いに敵を破った。」と記述がある事から、陸遜の軍が大勝したのは確実でしょう。
秭帰の豪族であり蜀と繋がっていた文布と鄧凱も、陸遜は謝旌に命じて攻撃を仕掛けています。
文布と鄧凱は謝旌の攻撃に耐え切れず土地を棄て逃亡しました。
蜀では文布と鄧凱を部将とした話がありますが、陸遜が呉への帰順を進めると、文布らは呉に投降した話があります。
陸遜は人心掌握にも巧みだったのでしょう。
陸遜は一連の戦いで斬ったり帰順したり、降伏した者の数が数万を数えたと伝わっています。
数字的に見ても陸遜の功績は大きいと言えます。
陸遜や呂蒙の活躍もあり、荊州の南部から蜀の勢力を駆逐し、呉が荊州南部を支配する事になったわけです。
陸遜は異民族討伐では実績がありましたが、国同士の戦いでも功績を挙げた事で、大きな自信を手に入れた事でしょう。
尚、関羽の方は江陵を呉軍に落とされた事で行き場を失い、関平らと麦城に籠りますが、最後は朱然や潘璋が関羽を追い詰め斬首しました。
劉備の勢力を荊州から駆逐した時の、孫権の喜びは大きかった話があります。
総責任者の呂蒙には大量の褒美と領地を与え、陸遜も恩賞を授かる事になります。
陸遜が高官となる
孫権は関羽征伐での陸遜の功績を認め右護軍・鎮西将軍に任じ、婁侯の爵位を与えています。
この時点で陸遜は、かなりの高官になったと言えるでしょう。
呉書によれば、孫権はそれだけに飽き足らず、陸遜に特別な栄誉を与えたかった話があります。
孫権は陸遜を上将軍の列侯に任命し、揚州牧の呂範に命令し、陸遜を揚州の役所に招き別駕従事とし、茂才に推挙しました。
後に夷陵の戦いがあり、陸遜はポッと出の将軍に思うかも知れませんが、夷陵の戦いの前から既に、孫権から絶大な支持を受けていたわけです。
優れた人材を登用する様に進言
荊州は再び呉の領土となりますが、荊州の士人の中には、能力に相応しい役職に就けていない人も多かったわけです。
陸遜はこの現状を打破しようと考え、孫権に漢の高祖である、劉邦が非凡な人材を招く事に務めた話をしました。
さらに陸遜は、後漢王朝の光武帝も中華全土から優秀な人材を求めた例を出し、教化に務めたと伝えます。
陸遜は孫権に現在の荊州では、有能な人材が適材適所に配置されておらず、能力を発揮できていない者が多いと述べたわけです。
孫権は陸遜の話を聞くと、意見を受け入れ、心を込めて実行したとあります。
この話は陸遜の誠実な人柄が出ている逸話とも言えるでしょう。
夷陵の戦い
陸遜の最大の見せ場は夷陵の戦いと言っても過言ではありません。
夷陵の戦いでは、陸遜がどの様にして戦い勝利を得たのか解説します。
劉備の東征
劉備は荊州を奪われた事で、奪還の為に軍を動かしています。
劉備軍は張飛が部下の張達・范彊により、命を落とすなどの不幸はありましたが、次々に呉の地を制圧していったわけです。
劉備は巫城、秭帰城を落とし、呉の李異と劉阿は大した抵抗もせずに撤退しています。
孫権は諸葛瑾を劉備に派遣し、和議を結ぼうとしますが、劉備は聞く耳は持ちませんでした。
関羽征伐直後に呂蒙が病死した事もあり、呉では荊州攻略から一転して危機に見舞われる事になります。
因みに、三国志演義にある様な関羽と張飛の子である関興と張苞が、関羽を討った呉の将軍を次々に討ち取ったり、深入りした黄忠が負傷し亡くなるのは史実ではありません。
尚、孫権は劉備との戦いに備えて、魏に臣従し呉王に任命されています。
陸遜が大都督になった理由
三国志演義では孫権は夷陵の戦いで、呉軍を指揮する将軍の人選で大いに悩み、闞沢が陸遜を推挙し、孫権が大抜擢する流れとなっています。
この時の陸遜は若造だった話もありますが、これらは三国志演義の虚構だと考えるべきでしょう。
実際のこの時の陸遜は既に年齢が40歳近くであった話もありますし、先にお話した様に既に呉の高官にもなっています。
陸遜以外で呉の大都督になる可能性があった人物で言えば呂範、孫皎、蒋欽、朱然が挙げられるとする説があります。
下記の点を考慮すると、消去法で陸遜が大都督に選ばれたのは必然とも考えられています。
ただし、名将の朱然が大都督になる可能性もあったわけであり、朱然がいる事を考えれば大抜擢と見る事が出来ます。
呂範
呂範は、孫策の代から周瑜、程普、呂範と共に軍事のトップ3の立場でした。
呂範は軍事に精通していたと思われますが、この時に立場が揚州牧だったわけです。
呂範は呉の首都である建業防衛の総責任者であり、荊州の戦いには参戦出来なかったのでしょう。
孫皎
孫皎は孫権の従弟であり、周瑜と蜀遠征を行おうとした孫瑜の弟です。
既にお分かりかと思いますが、孫皎は孫権の一族となります。
孫権は荊州の関羽征伐の時に呂蒙と孫皎を左右の都督にしようとした話があります。
赤壁の戦いで周瑜と程普を左右の都督に任命した様に、関羽征伐でも呂蒙と孫皎を左右の都督にしようとした話があります。
しかし、呂蒙が命令系統の一本化を重視した事で、呂蒙が都督となり、孫皎は後詰の大将となったわけです。
孫皎が夷陵の戦いでの都督になってもおかしくない様に感じますが、孫皎も呂蒙と同様に関羽征伐の直後に亡くなっています。
蒋欽
蒋欽は孫策時代から活躍した将軍であり、関羽征伐が行われた時は右護軍の地位にあったわけです。
蒋欽は魏との濡須口の戦いでも、呂蒙と共に全軍統括の立場にありました。
呂蒙と蒋欽は馴染が深い人物であり、呂蒙のエピソードで呉下の阿蒙という話しがあります。
呉下の阿蒙の逸話は、孫権が呂蒙に読書を勧め、武骨者だった呂蒙が知将に覚醒し、魯粛が驚いた話です。
江表伝の話によれば、孫権が読書を勧めたのは呂蒙と蒋欽であり、蒋欽も数多くの知識を吸収し、知将となっていた可能性もあります。
それを考えれば、蒋欽と言う手もあったのかも知れません。
しかし、残念ながら蔣欽も関羽討伐の直後に亡くなっています。
ここまで、関羽討伐直後に人が亡くなるのであれば、関羽の呪いとも言えるのかも知れません。
朱然
呂蒙が亡くなる時に、後継者に選んだのは朱然です。
朱然の義父は、孫堅時代から活躍した朱治であり、父親の威光や内部の評価も高かった話があります。
実際の孫権は呂蒙が亡くなると、朱然に仮節を与え江陵の守備に就かせています。
それを考えれば、朱然と言うのもアリだったのかも知れません。
しかし、孫権は朱然ではなく陸遜を選んでいます。
朱然ではなく、陸遜を選んだのは孫権の勘だったのかも知れません。
しかし、後の事を考えると、陸遜を大都督に任命したのは大正解だったと言えるでしょう。
諸将の反発
陸遜は大都督となり朱然、孫桓、韓当、潘璋、宋謙、徐盛、鮮于丹ら、5万の軍勢で劉備軍を迎え撃つ事になりました。
呉の諸将は直ぐに、蜀軍を攻撃するべきだと述べています。
それに対して、陸遜は「劉備軍は勢いが絶頂であり高地に布陣しているから、攻めるのは困難だ。」と述べたわけです。
陸遜は状況を見て動けばよく、劉備軍の疲れを待つ事が大事だと考えました。
しかし、呉の諸将は陸遜の考えが理解出来ずに、不満を募らせた話があります。
陸遜も諸将に自分の意見を聞かせる為に、手に剣を持った話もあり、陸遜が統率に苦労したのは間違いないでしょう。
陸遜に諸将が反発したのは、呉が豪族国家であり武官が人事異動に文句を言うのは、日常茶飯事だったとも考えられています。
後に周泰の指揮下に徐盛や朱然が入った時も、周泰に対し徐盛、朱然が反発し、孫権が周泰を担ぎ上げるシーンもあったわけです。
呉のお国柄で、諸将を統率するのが大変だった話もあるわけです。
夷道を包囲
劉備は猇亭に陣を置き、諸将に軍を進めさせ、夷道を包囲する事になります。
劉備軍の記録で馮習が諸軍を指揮した話があり、張南や呉班、陳式辺りが夷道を包囲したのかも知れません。
劉備の軍師的な立場で黄権がいましたが、何故か劉備は黄権を北方に配置し、魏に備えさせています。
黄権は劉備に後方にいる様に進言した話もあり、劉備と意見が合わずに、北方に配置させられた説もあります。
黄権は劉備に最適な軍事的助言が出来る数少ない人物であり、黄権を側に置かなかった事で劉備は破れたと主張する人もいます。
他にも、劉備は馬良に命じて、武陵蛮の沙摩柯を味方としています。
劉備の軍は80万の大軍だったとも言われていますが、実際には4万程度の軍だった話があります。
呉軍5万、蜀軍4万で戦ったと、現在では考えられています。
ただし、劉備軍は兵力は呉に劣っていますが、初戦を勝った事で勢いがあったはずです。
孫桓の救援要請を無視
夷道を守っていたのは、王族の孫桓であり、孫桓は陸遜に救援要請を出しますが、陸遜は動きませんでした。
諸将は孫桓が王族だと言う事を理由とし、陸遜に救援の兵を出す様に求めますが、陸遜は次の様に述べています。
陸遜「孫桓殿は人望もあるし、兵士の心をよく掴んでいる。
城の防御も固く食料も豊富にあり、不安な点は全くない。
儂の計略が成功すれば、孫桓殿の包囲はおのずと解けよう。」
しかし、実際の孫桓は苦しい戦いを強いられていた様です。
孫桓は厳しい状況の中で、城を守り抜いた事が呉に勝利をもたらす要因となります。
ただし、孫桓は援軍を寄越さない陸遜を酷く恨んだ話があります。
それでも、孫桓は皇族の顔回(孔子の一番弟子)と呼ばれていた人物であり器が広く、陸遜とは夷陵の戦い後に和解しています。
劉備の布陣
劉備は樊城の戦いで、関羽の兵站が問題になった事を気にしたのか、劉備軍本隊の後方に50カ所の基地を作る事になります。
50カ所の基地は補給用の倉庫の役目もしており、兵站を切らさない為の工夫でもありました。
ただし、魏の曹丕は劉備の布陣を知った途端に、劉備の敗北を予想した話があります。
同じ様に陸遜も劉備の布陣を知った結果として、勝利を確信した可能性もあるでしょう。
猇亭を攻撃
夷陵の戦いは膠着状態に入ります。
ここで陸遜は劉備軍が最初の頃の勢いを失くしたと判断し、猇亭の劉備の本隊に攻撃を仕掛けています。
劉備の守りは固く陸遜は破れています。
しかし、陸遜の攻撃の目的は劉備軍を撃破する事ではなく、劉備軍の情報を自分の目で見る事でした。
陸遜は劉備軍の兵舎や倉庫が全て、藁か木で出来ていた事に気付きます。
さらに、劉備軍の軍規が緩み飼葉も、乱雑に積みっぱなしになっていたわけです。
陸遜は劉備軍を見て火計が有効だと判断します。
劉備軍を大破
陸遜は夜間に川を使って上流に船で移動し、劉備軍の50カ所の基地に火を点ける事になります。
東南の風も加わり、火は勢いよく燃え盛りました。
劉備軍は後方の陣地が一斉に火だるまになった事で、大混乱となったのでしょう。
劉備軍の馮習や張南、傅彤は戦死し、馬良や武陵蛮の沙摩柯も討死しました。
呉に退路を断たれた黄権や、龐統の弟である龐林などは魏に投降しています。
劉備は何とか、白帝城まで逃げ延びる事に成功しています。
三国志の大戦と言えば、官渡の戦い、赤壁の戦い、五丈原の戦いなどがありましたが、夷陵の戦いほど鮮やかに勝利した戦いはないでしょう。
劉備はこの戦いで、蜀軍戦力の半分を失ったとも言われています。
因みに、夷陵の戦いの大勝利で、陸遜は呉の諸将から絶大なる信頼を得た話があります。
三方面作戦
夷陵の戦いでは、呉は蜀を破りますが、今度は三方面から魏が攻撃を仕掛けてきます。
魏への備え
劉備が白帝城まで逃げ延びると、呉軍の潘璋、徐盛、宋謙らは「劉備を間違いなく捕虜に出来る。」と述べ攻撃の許可を求めています。
それに対して、朱然や駱統は撤退を進言します。
孫権は陸遜に意見を求めると、次の様に述べています。
陸遜「曹丕が軍勢を大動員しております。
表面上は我が国への援軍ですが、内心は我が国の隙を狙っております。
作戦が一段落した時点で、速やかに引き上げようと考えております。」
孫権は陸遜の進言を受け、撤退を始めました。
三国志演義では陸遜が諸葛亮の石兵八陣により撤退した事になっていますが、史実の陸遜は魏に備える為に、劉備軍への追撃を打ち切っています。
陸遜が予想した通り、魏は三方面から呉に侵攻してきました。
劉備と和睦
魏軍が呉に攻撃を仕掛けようとすると、劉備は陸遜に次の手紙を送っています。
「魏軍は既に江陵に迫っている。私ももう一度出陣しようと思う。」
これに対して、陸遜は次の文面を劉備に返しました。
「再び東征を行うと言っておりますが、貴国の軍は敗亡を喫したばかりであり、傷がまだ癒えぬ状態です。
現在は我が国と貴国の関係修復の交渉が始まっております。
貴国の為を思って言うのであれば、現在は国力を戻す事を最優先にすべきであり、兵士を使い切ってしまうのは、あってはならぬ事です。
夷陵の大敗で生き残った者達で再び東征を行うのであれば、貴国は絶体絶命の危機に陥ってしまいます。」
陸遜は劉備の手紙に対して丁寧に返信した様です。
劉備としては、陸遜に天下統一の野望を完全に砕かれてしまった事になり、悔しい思いもあったはずですが、再び東征を行う事はありませんでした。
劉備は東征を行うどころか、陸遜に敗れたショックが大きかったのか、体調を崩して西暦223年に死去しています。
三方面攻撃
三方面作戦は洞口の戦い、濡須口の戦い、荊州南部の江陵を攻めた3つの戦いの総称です。
三方面作戦の内訳は下記の通りです。
・魏の曹休、張遼、臧覇らを洞口に向かわせ、呉は呂範、全琮、徐盛、孫韶で対応
・魏の曹仁が濡須を攻撃し、朱桓が対応
・魏の曹真、夏侯尚、徐晃、張郃が荊州の南郡に侵攻し、呉は諸葛瑾、楊粲、潘璋らを救援に向かわせた
呂範が突風により呉軍の半数を失うなどの悲惨な状況もありましたが、全琮、徐盛、朱桓らが奮戦し、曹真も江陵城が落とせないと判断し撤退しました。
魏の三方面から同時に呉を攻める作戦は全ての戦場で呉が魏を破ったわけです。
蜀よりも魏の方が国力が圧倒的に上であり、夷陵の戦いよりも三方面攻撃の方が呉にとっては、しんどかったのではないか?とする話もあります。
不思議なのが、この戦いに陸遜が参加した形跡がない事です。
現在、有力視されているのは、陸遜は劉備との外交交渉を行っていた事から、三方面作戦に参加しなかったのではないか?とする説となります。
ただし、正史三国志に記述がなく、本当の事はよく分かっていません。
尚、三方面攻撃の直後に、魏の代表的な名将である張遼が病死しています。
臣下として最大限の権限を得る
劉備が崩御し、劉禅が後継者となりますが、蜀では実質的な最高責任者は諸葛亮となります。
劉禅は祭祀を担当し、諸葛亮は政務を担当した話もあります。
呉では孫権が陸遜に対して、絶大なる信頼を寄せた時期でもあります。
孫権は蜀の諸葛亮や劉禅との外交を行う際は、陸遜を通して説明させた話があります。
さらに、孫権は印璽を掘って陸遜に渡し、自分の文章が正しいのか陸遜にチェックさせた上で、蜀に手紙を送った話すらある程です。
孫権は陸遜に自分の手紙でおかしい箇所があれば、独自の判断で訂正する事も許した話があり、孫権は陸遜を絶大なる信頼を寄せた事になります。
陸遜は軍人としてのイメージが強い人もいるかも知れませんが、蜀との外交も担当する様になっています。
三方面作戦終了後の陸遜は、孫権から軍事、外交、内政と最大レベルの権限を与えられたとも考えられます。。
呉では内政では丞相の顧雍がいた事で、諸葛亮ほどの権限はありませんでしたが、陸遜も臣下としてほぼ最高級の権限を手に入れたとも言えるでしょう。
石亭の戦い
西暦228年に孫権は鄱陽太守の周魴に偽って、魏に投降する様に指示しました。
この時に孫権と周魴は魏を騙す為に、周魴を役所の前で断髪させ恥を掻かせた話もあります。
魏の大司馬曹休は、魏の皇帝である曹叡の許可を取り大軍で皖の攻略に向かいます。
曹休は周魴の寝返りを確信しており、意気揚々と皖に進撃していたはずです。
しかし、周魴の寝返りは偽りであり、陸遜は曹休の軍を待ち構えていました。
孫権も皖の付近に後方部隊としているなど、呉は念の入れようです。
前方には陸遜がおり、さらに伏兵として朱桓と全琮が現れます。
魏の曹休の大軍は、呉の陸遜、朱桓、全琮に全面と左右の三方面を包囲されたわけです。
ここで曹休は大軍を頼りとし、不利な状況の中で戦いを挑みます。
魏軍が敗走する中で、王陵が奮戦するなどもありましたが、結局は大敗北を喫します。
しかし、魏軍の賈逵が曹休の後詰めに入った事で、呉軍の攻勢を食い止めています。
呉軍の中では朱桓が寿春や淮南まで制圧しようとする声もありましたが、現実的に難しいと判断したのか、陸遜は撤退しました。
余談ですが、曹休は助けてくれた賈逵を恨み敗戦の直後に憤死し、曹休が死んだ直後に賈逵も病死しています。
陸遜は石亭の戦いで、1万人以上を降し、多くの物資を手に入れる事になったわけです。
上大将軍
229年に陸遜は上大将軍・右都護に任命された話があります。
上大将軍の官位は、呉が創設した特別な官位であり、三公(司徒、司空、太尉)よりも上位であったと考えられています。
別説としては三公を合わせたのが丞相であり、丞相の顧雍、大将軍の諸葛瑾に次ぐ3位の序列だったとする話もあります。
この辺りは不明な部分が多いです。
官位のおいても陸遜は呉では、指折りの人物になった事だけは間違いないでしょう。
さらに、孫権は陸遜を太子(孫登)の後見人に指名するなど、絶大な信頼を寄せる事になります。
陸遜の思想
正史三国志には陸遜の思想が分かる部分があり、徳治主義を理想としていた様です。
ただし、王莽の様な理想主義ではなく、現実を見た上での儒学名士による徳治政治だったのでしょう。
陸遜の思想が分かる逸話を紹介します。
経典を読むべき
孫権の次男である孫慮が、闘鴨(アヒルを戦わせる)の為の木柵を作り、様々な仕掛けを施した事がありました。
これを見た陸遜は、険しい顔で孫慮に向かい次の言葉を述べています。
陸遜「君侯たる者は経典を読み、徳を磨く事が重要です。
何の為に、この様な物を作ったのでしょうか。」
孫慮は陸遜の話を聞くと、作ったものを全て壊してしまった話があります。
陸遜は皇族であっても、容赦なく意見し、経典を読むように言っている辺りは、儒学的な思想が強い事が分かります。
部下を坊主頭にする
孫権は宗族の中でも、孫松を特に可愛がっていました。
それを良い事に、孫松は射声校尉だったのにも関わらず、真面目に兵士達の訓練をしなかったわけです。
陸遜は孫松の行動が問題だとした話があります。
しかし、陸遜でも孫松を処罰する事は出来なかったのか、掛かり役人を坊主頭にする刑罰を行った話があります。
それでも、坊主頭にする事で許しているのが、陸遜らしいとも言えるでしょう。
法律よりも礼を重視
南陽の謝景が「刑罰を先にし、礼を用いるのは後にした方が良い。」とする劉廙の意見を称賛した事がありました。
陸遜は謝景を強く叱りつけ、次の様に述べています。
陸遜「刑罰よりも礼を優先させるのは、古代からの教えである。
劉廙は小賢しい理論で、聖帝の教えを曲げようとするが、劉廙の言葉は間違いである。
あなた(謝景)は、現在、東宮の皇太子にお仕えしているのだから、仁と義に基づいた言葉を発するべきである。
劉廙の議論を皇太子に聞かせてはならない。」
陸遜の言葉を考えてみると、やはり儒教の思想が強く「孔子」や「孟子」などを好んだ様に思います。
逆に法家の商鞅や韓非子などは、嫌悪していたのかも知れません。
蜀では諸葛亮の法律は厳格だった話もありますし、魏でも法令を重視したとされており、その中で陸遜は儒家を重んじたと言えるでしょう。
陸遜の心
正史三国志によれば陸遜は、中央から離れても心は国家にあったと伝わっています。
さらに、陸遜は厳し過ぎる法令に関しては、異議を申し寛容な政治を行う様に述べています。
悪事が身についてしまった者や、重大な過ちを起こした者ではない限りは、1度目は許す様に進言した話もあります。
陸遜は劉邦が陳平の過失を許し、漢王朝を樹立した事にも言及しました。
陸遜は刑罰ばかりで恩赦がない事も問題視し、それでは遠方の者を服従させる事が出来ないと述べたわけです。
これを見ても、陸遜が儒家の影響力が強く寛容な徳治政治を求めた事は確実だと言えます。
孫権の海外遠征を諫める
孫権は西暦230年頃に、海外の夷州、亶州を手に入れようとした話があります。
孫権は陸遜の意見を求める事になります。
陸遜は夷州・亶州が、どこにあるのかも分からない事を指摘し、手に入れたとしても統治する事が出来ないと述べます。
さらに、自分の兵士が年々減っている事も伝え、夷州や亶州の遠征よりも、自国の民を養い税を軽くし、正義を説き勇敢な兵士にする様にと願った話があります。
しかし、孫権は陸遜の言葉を却下し、衛温と諸葛直を海外に派遣しました。
衛温と諸葛直の兵士の9割が疫病で亡くなり、数千の住民を拉致しただけに終わっています。
因みに、衛温と諸葛直は責任を取らされて処刑されています。
この頃になると、孫権もおかしくなりはじめたとも伝わっています。
尚、この時の孫権は日本侵略を企んだのではないか?とする説もある様です。
公孫淵討伐を諫める
中国の最北端にいた勢力である遼東の公孫淵は、孫権に対し背信外交を行ったわけです。
さらに、孫権からも贈り物を奪い、呉の使者を斬るなどの行為も行っています。
公孫淵の態度に孫権は激怒し、自ら軍勢を率いて遼東討伐を行おうとします。
陸遜は孫権の公孫淵討伐に対し、難色を示し諫めた話があります。
陸遜「公孫淵が約束を違え名馬などを送って来ないのは、真に遺憾でございます。
公孫淵らは教化されていない辺境に住み、ここで主君自ら大海を渡り出兵したとしても、何が起こるのか分かりませぬ。
陛下が天下統一なされば、公孫淵などは自分から頭を下げてくるのです。
現在の陛下は遼東の民衆と馬に執着しておられますが、既に安定した基盤である江南を捨てる事にはなりませぬか。
現在は六軍を休息させ力を養い、強大な敵である魏を威圧し、中華の地を平定し輝かしい偉業を立てる事を願っております。」
孫権は陸遜の進言を受け入れ、公孫淵討伐を取りやめた話があります。
陸遜以外でも陸遜の弟である陸瑁や顧雍、張昭、薛綜、なども孫権を諫めています。
因みに、この話は西暦233年の事であり、238年には公孫淵は魏の司馬懿の攻撃により斬首されますが、孫権は公孫淵に援軍を派遣した記録があります。
諸葛瑾と襄陽を攻撃
陸遜と諸葛瑾は襄陽を攻撃しましたが、撤退する事になります。
その時の様子を解説します。
襄陽城から撤退
236年に孫権は自ら兵を率いて合肥の攻撃に向かい、陸遜と諸葛瑾には襄陽の攻撃を命じました。
陸遜は信任していた韓扁に戦況報告の書簡を持たせ、孫権の元に向かわせましたが、途中で韓扁は捕らえられてしまいます。
諸葛瑾は陸遜に次の手紙を出した話があります。
「韓扁が捕まってしまったからには、我が軍の内情を敵は知ってしまった事になります。
漢水の水を乾上がりつつあるから、撤退すべきです。」
諸葛瑾の手紙を受け取った陸遜ですが、すぐに返信をしようとせず、豆を植えたり兵士達と囲棋をしたりし、普段と変わった様子がなかったわけです。
諸葛瑾は陸遜の態度を聞くに及び「陸遜殿は深い知略を持っておられる。何か考えがあっての事だろう。」と述べ、陸遜の陣に向かう事になります。
諸葛瑾がやってくると、陸遜は次の様に述べています。
陸遜「陛下(孫権)が帰途に就いた事を魏の将軍達が知れば、我が方に戦力を集中させてくるであろう。
既に敵は要害の地を固めており、兵士達は動揺するはずである。
まずは自らが落ち着き、兵士達の不安を取り除き、巧妙な策略を用意した上で撤退するべきです。
現在の状況で急いで退却すれば、我が方は弱みを見せた事になり、敵は一斉攻撃してくるに違いありません。」
陸遜は諸葛瑾と計略を練り、諸葛瑾が水軍を率い、陸遜は陸から襄陽の攻撃に向かう事になります。
魏軍の兵士は兼ねてから陸遜を恐れていた事で、急いで襄陽城に退却して籠城を選択しました。
諸葛瑾は敵が城に籠った所を見ると、直ぐに船を出向させ、陸遜も敵に威を見せてから撤退しています。
陸遜も諸葛瑾の船に乗り込み撤退しますが、魏軍は陸遜の軍を追撃しようとはしなかった話があります。
この辺りは陸遜の上手さだと言えるでしょう。
ただし、陸遜は外征に反対であり、韓扁が捕らえられた事を理由に撤退したとする説もあります。
孫権は好戦的な部分も見え隠れしていますが、陸遜は外征には極力反対だったとする話もあります。
江夏を急襲
陸遜と諸葛瑾の軍が白囲まで来ると、軍を駐屯させ狩りをすると公表しました。
陸遜らは裏では、周峻と張梁に命じ江夏の新市や安陸、石陽を急襲したわけです。
石陽の市場は盛っており、突如として周峻らが現れると、市場は大混乱となり、人々は一目散に城に逃げ出します。
この時に城門は人々で溢れてしまい閉じる事が出来ませんでした。
城門を閉じる為に、民衆を斬り捨てて漸く城門が閉まったわけです。
この時の呉軍が生け捕りにしたり、斬首した者は数千に及んだと伝わっています。
陸遜は捕虜にした者は、保護し乱暴は許さなかった話があります。
妻子を失った者がいれば、衣服などを提供するなど、手厚くいたわり帰らせた話があります。
陸遜の行為により、民衆は呉を好んだとあります。
ただし、裴松之は陸遜の行いを悪行とし、避難しています。
裴松之の非難
陸遜の態度に正史三国志に注釈を入れた裴松之は非難しています。
陸遜は自分から石陽などを攻撃し、多くの人を苦しめたのに、捕虜にした人を厚遇するのはおかしいと述べています。
小さな県を攻撃して、数千の首を取った所で、魏にとっては大した打撃ではないと述べ、民衆を苦しめただけに終わったとも述べています。
裴松之は陸遜はさっさと撤退すべきで、余計な事をするべきではなかったと言ったわけです。
裴松之は陸遜の行為を「林を切り倒し鳥の巣を壊しておきながら、生き残った雛を手厚く育てる行為」と同じであるとも言っています。
裴松之は陸遜の行いを悪行だと断じ、陸遜の孫の代で子孫が亡びたのは、こうした悪行が原因とも述べ酷評している状態です。
逯式を失脚させる
魏が任命した江夏太守の逯式は、呉の辺境地帯を荒らしており、呉では頭を悩ませていました。
陸遜は逯式が魏の文聘の子である文休と逯式が仲違いした話を耳にします。
陸遜は偽の手紙で、逯式を失脚させようと画策し、次の文章を書く事になります。
「逯式殿が文休と仲違いしており、上手く行っていない事は理解しております。
逯式殿が呉へ帰順したいとする話も承知いたしました。
陛下に急いで上表すると共に、選りすぐりの兵を率いて逯式殿をお迎えいたします。
隠密に行動し、日時に関しては連絡してくれるとありがたく思います。」
陸遜は逯式が呉に寝返りたいとする偽の手紙を、国境付近に落としておいたわけです。
逯式の部下が手紙を見つけ、逯式に見せると、逯式は疑いを解くために、慌てて妻子を人質として洛陽に送ります。
しかし、軍吏らは、逯式を疑い心服しなくなり、結局は逯式は江夏太守の任務を解かれて失脚した話があります。
普通に考えれば陸遜の手柄ですが、裴松之は次の様に述べています。
裴松之「魏が呉の辺境を侵す行為は恒常的になっており、逯式を失脚させても、後任が同じ事をするので意味はない。」
さらに、裴松之は陸遜に無駄に狡猾な事をしただけとも述べています。
陳寿に対しても、陸遜のこの態度を美徳とするのは、おかしいと批判した程です。
裴松之は魏の賈詡に対してもかなり批判しており、陸遜に対する批判も裴松之らしいとも言えます。
呉遽の乱
鄱陽の呉遽が反乱を起こし陸遜が鎮圧した話があります。
周祗の失態
237年に中郎将の周祗が鄱陽で徴兵をしたいと願い出たわけです。
孫権は周祗の意見を許すかどうか陸遜に問います。
陸遜は周祗の徴兵には反対であり、鄱陽郡が動揺し安定させるのが困難だと述べます。
陸遜は鄱陽で徴兵を行ったら、民衆はゲリラとなり反乱を起こすと言ったわけです。
しかし、周祗は徴兵を強く望み、孫権は鄱陽で徴兵を行う事を許しました。
陸遜の予想した通り鄱陽郡では反乱が勃発し、反乱軍の大将呉遽は周祗を殺害し、近県を襲い攻め落としています。
呉遽の動きに豫章郡や盧陵郡の不服住民らも呼応し、略奪を始めた事で反乱の規模が拡大しました。
陸遜が乱を鎮圧
こうした中で陸遜が自ら反乱鎮圧を願い出る事になります。
陸遜が出向くと次々に賊を打ち破り、呆気なく平定した話があります。
呉遽らは陸遜に敵わないと、判断して降伏しました。
因みに、陸遜は投降した者の中から選別を行い、八千の精鋭を得た話があります。
徴兵を願い出た周祗は亡くなってしまいましたが、結果を見れば不服住民(山越)の兵士を得た事になるでしょう。
陸遜がここまで見越していたのかは不明です。
呂壱事件
酷吏の呂壱が信任を得ますが、事件へと発展していきます。
孫権が呂壱を重用
呂壱事件は、孫権の大きな失敗と指摘される事が多いです。
呂壱は酷吏であり、法律を過度に使い厳罰な処罰を与える事で、名を馳せた人物です。
因みに、前漢の武帝時代では、多くの酷吏が重用された話があります。
孫権も酷吏である呂壱を重用します。
呂壱は高官だろうが容赦なく弾劾し、呉の丞相である顧雍ですら刑罰を受けた話があります。
この時に孫権は豪族の台頭が目に余り、豪族だろうと名士だろうと、容赦なく弾劾出来る呂壱を重用したとする説もあります。
呉の豪族問題が、呂壱事件を引き起こした説もあると言う事です。
孫権は呂壱に豪族を排除してくれる事を願ったのかも知れません。
陸遜は寛容な政治を理想としており、呂壱の様な酷吏は用いるべきではないと考えていました。
陸遜の涙
孫権の太子である孫登も、呂壱に対しては懸念を示しており、潘濬や陸遜も上奏する事になります。
陸遜と潘濬は、呂壱が専横を行い、多くの者を処罰した事で、心を痛め涙を流した話もあります。
涙を流す辺りが陸遜なのでしょう。
尚、孫権は多くの重臣から諫めらた事もあり、呂壱を処刑しています。
民の暮らしが第一
謝淵と謝宏が国家が中心となり、経済活動を盛んにする様に、制度改革を孫権に求めた話があります。
孫権は陸遜に意見を求める事になります。
陸遜は国家の根本は民衆であり、「民衆が貧しいのに国家が栄えた試しはない。」と述べます。
さらに、民衆の心が得られれば国は富み、民衆の心が離れれば国は乱れると発言しました。
陸遜は詩経を例に出し、「新しい計画をやるのであれば、民衆を豊かにしてから行った方が良い。」と進言しています。
陸遜を見ると一貫して、民衆の為の政治を行おうとした事が分かるはずです。
ただし、正史三国志には陸遜の進言を受け入れて、孫権が制度改革を中止したのかの記録がなく、この後にどの様になったのかは不明です。
丞相となる
244年に陸遜は上大将軍となるなど、軍人としてのイメージが強いですが、呉の丞相になった話があります。
孫権は陸遜を丞相に指名する詔の中で、陸遜の才能を絶賛し、殷の伊尹の様な行政手腕と、周の太公望の様な軍事力を持ち合わせていると絶賛しています。
さらに、陸遜には三公の全ての職務を合わせた丞相に任命すると結んでいます。
呉の丞相の顧雍が亡くなった事で、陸遜が呉の政治の最高権力者にもなったわけです。
しかし、陸遜は後継者争いに巻き込まれる事になります。
二宮の変
孫権の太子であった孫登が亡くなった事で、呉では後継者問題が勃発します。
孫権の三男の孫和と四男の孫覇で、皇位継承者問題が勃発する事になります。
これが二宮の変です。
最初は多くの重臣たちが、三男である孫和を支持しました。
孫権の娘である孫魯班が暗躍した事から、全琮や歩隲など多くの者達が、孫覇に味方する様になったわけです。
これにより孫覇の勢力は、孫和を上回る様になったとも伝わっています。
ここで陸遜は豪族たちが、孫権の後継者でどちらかに肩入れしない様に釘を打つ事になります。
しかし、陸遜の願いに反し、豪族たちの派閥の形勢は加速されて行きます。
陸遜は孫権に対し「嫡子」と「庶子」はちゃんと区別する様に、進言しようとしますが、孫権は謁見を許さなかった話もあります。
陸遜が憤死
孫権は陸遜を拒否し、陸遜の甥である姚信、顧譚、顧承は流罪となっています。
太傅の吾粲は何度も陸遜に手紙を送った事が問題となり、獄に繋がれ亡くなっています。
陸遜の周辺では、次々に獄に繋がれてしまう様な状態だったのでしょう。
遂に、陸遜の元にも弾劾状が届く事になります。
この時の孫権は陸遜の言葉を聞く気も無かったのでしょう。
陸遜は儒教的な考えが強かった事から、正しき道を追求していた部分もあり、呉が派閥形成をし大臣達が自己利益に走るのが許せなかったはずです。
正史三国志によると、陸遜の最後は憤死だったと伝わっています。
陸遜の憤り感は、半端ではなかったのでしょう。
尚、陸遜は245年に亡くなり63歳だったと伝わっています。
因みに、翌年である246年には蜀で諸葛亮から後事を託された蔣琬が亡くなり、軍事を好まない費禕の時代となっており、魏でも249年には司馬懿が曹爽から実権を奪っています。
さらに、孫権も諸葛恪に孫亮を任せ252年に崩御しました。
陸遜が亡くなった245年から252年頃までは、時代の節目となった様にも感じます。
陸遜の子孫
陸遜が亡くなると、次男の陸抗が後継者となります。
陸抗は陸遜と孫策の娘の間に出来た子です。
陸遜の長男である、陸延は若くして亡くなったとあります。
陸抗も名将であり魏や晋の軍と戦い、魏の羊祜とは善政を競った話まであります。
陸抗は「呉・最後の名将」と呼ばれる事になる程の人物です。
陸抗の四男である陸機は、280年に晋の司馬炎が呉を滅ぼすべく、総攻撃を仕掛けてきた時に奮戦しますが、敗北し呉は滅亡しています。
陸機は故郷に戻りますが、晋の朝廷に何度も招聘された事で、洛陽に行く事になります。
陸機の弟に陸雲がおり、文才に優れていました。
晋の張華は「呉を滅ぼした一番の成果は、陸機と陸雲を得た事だ。」とまで述べています。
しかし、303年に司馬氏の王族の戦いである八王の乱が起きると、陸雲、陸耽、陸蔚、陸夏などが命を落とし、陸遜の子孫は絶えた話があります。
陸遜の弟である陸瑁には陸喜と陸英と言う子がいた事が分かっています。
陸喜らは呉の滅亡の時に、在野の士となりますが、西晋の司馬炎に何度も招聘された事で仕官しました。
陸喜が亡くなると陸育が跡を継いだ話がありますが、その後はどうなったのかは分かりません。
陸遜の子孫の名前が比較的分かっているのは、陸遜の子孫は有能な人物が多かった為ではないか?とする説もあります。
陸遜と孫権の対立
陸遜と孫権の考え方の違いが、陸遜の悲劇を生んだとする説があります。
陸遜はここまで読んでくれた方なら分る様に、儒教的な面が強いです。
陸遜は名士(豪族)たちによる儒教的な思想を持ち、国を治める事を望んでいました。
それに対して、孫権は豪族たちの力を排除し、中央集権化を成し遂げたかった話があります。
二宮事件ですが、一説によると孫権の狙いは、陸遜の排除だったとする説もあります。
名士層の中の最大勢力が陸遜であり、陸遜を排除すれば中央集権化を進める事が出来ると、孫権が考えた説です。
孫権は自分の代でなるべく、中央集権化を進め、盤石な体制で後継者にバトンタッチしたかったとも考えられています。
陸遜の評価
陳寿は陸遜伝の評の部分で、陸遜が夷陵の戦いで劉備を破った戦いぶりを絶賛しています。
さらに、孫権も陸遜が働きやすい環境を整えたと褒めているわけです。
夷陵の戦いの頃は、陸遜も孫権も輝いていたと言えるでしょう。
陳寿は陸遜の人間性も褒めていますが、国を想う余り寿命を縮めてしまったとも述べています。
陳寿は陸遜を社稷を守る臣下だとも述べました。
個人的にも陸遜は人間性もよく、軍事も出来ますし、完璧な人材の様にも思っています。
ただし、最後の二宮の変は残念に感じました。
呉の四大都督として、周瑜、魯粛、呂蒙、陸遜が挙げられますが、長生きしたのは陸遜だけだとも言えます。
呉の大都督は重労働なのか、直ぐに亡くなってしまう傾向がありますが、陸遜は職務を全うし長生きしたのも立派だと感じました。
陸遜は呉の繁栄だけを願い行動した人物の様にも思えてきます。
尚、陸遜の活躍や人柄を見ると、諸葛亮と並び正史三国志で、単独で伝が立てられている理由が分かる気がします。