春秋戦国時代

趙の史実『北方の軍事大国はなぜ滅亡したのか』

2024年1月26日

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宮下悠史

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名前趙(戦国)
時代春秋戦国時代
建国と滅亡紀元前403年ー紀元前228年
年表紀元前455年 晋陽の戦い
紀元前403年 諸侯として認められる
紀元前307年 胡服騎射の導入
紀元前260年 長平の戦い
紀元前234年 平陽の戦い
紀元前232年 番吾の戦い
コメント強力な騎馬隊を持った軍事大国

趙は北方に位置し、春秋時代に大国であったからと共に独立した国です。

趙は武霊王の時代に胡服騎射を行い中山国を滅ぼすなど、軍事大国となりました。

武霊王が亡くなった後も趙では廉頗藺相如趙奢などの名臣が現れ、秦に対抗しています。

趙の孝成王の時代に、長平の戦いで大敗北を喫しますが、の猛攻を持ちこたえ滅亡を免れています。

しかし、国力の差もあり徐々に苦しくなりますが、北の名将である李牧が秦を何度も破るなどの功績を挙げました。

趙の幽穆王の時代に、秦軍に首都の邯鄲を包囲され、郭開の讒言もあり李牧を殺害し、司馬尚を庶民に落しています。

こうした事もあり、邯鄲は王翦らにより落城し、趙は事実上の滅亡を迎えました。

ただし、趙嘉が代に亡命政権を打ち立てますが、王賁を滅ぼした後に、代を攻撃し代王嘉が捕虜となり趙は完全に滅亡したと言えるでしょう。

今回は名臣が数多く登場し、戦国時代でも秦と華々しく戦った趙を解説します。

尚、春秋戦国時代を題材にした漫画キングダムでは、趙の最高の軍事職が三大天となっていますが、史実の趙を見ても三大天なる役職は存在しません。

趙は戦国七雄の一角を担っていますが、下記がその他の戦国七雄の国々となります。

趙と秦は先祖が同じ

史記の趙世家によると、趙の祖先はと同じだとあります。

中衍が帝大戊の時に、御者になったとあります。

中衍は秦や趙の祖先となる人物で、帝大戊は殷の君主でもあります。

殷の紂王の時代に中衍の子孫に蜚廉がおり、蜚廉の子に悪来と季勝がおり、悪来の子孫が秦であり、季勝の子孫が趙となります。

この様に趙と秦は元を正せば、先祖は同じという事になるわけです。

戦国時代の末期に秦は趙を滅ぼしましたが、秦は趙の歴史書を燃やす様な事をしなかったと伝わっています。

秦にしてみれば、趙は先祖が同じであり、趙の歴史を抹殺してしまう様な事はしなかったのでしょう。

尚、秦が趙の歴史書を残した事で、司馬遷は秦だけではなく、趙の歴史書も見る事が出来た話しがあります。

趙城に封じれる

史記の趙世家によると、季勝の子に孟増がおり周の成王に寵幸されたと言います。

孟増の子が衡父であり、衡父の子が造父となります。

造父は周の穆王に気に入られ、駿馬を手に入れ穆王に献上した話があります。

後に周の穆王は西王母と楽しみ国に戻りませんでしたが、徐の偃王が反乱を起こすと、周の穆王が討伐に向かい造父も戦いに参加しました。

徐の偃王を破った功績により、周の穆王は造父に趙城を与え、これに因んで造父は趙氏を名乗る事になります。

造父の6代後の子孫が奄父であり、周の宣王の御者となり、千畝の戦いでは周の宣王の危機を救っています

奄父の子の叔帯は周の幽王に仕えますが、に移りました。

叔帯は晋の文侯に仕えたとあり、これより先は趙氏は晋に代々に渡って晋に仕える事になります。

尚、ここでいう晋の文侯周の東遷で活躍した周の文侯であり、春秋五覇の一人である重耳とは別人です。

晋に仕える

驪姫の乱

叔帯がに仕えて五代後に趙夙が誕生しました。

晋の献公の16年(紀元前661年)に、霍、魏、耿の三国を討ちました。

この時に晋の献公は下軍の将を太子の申生、御者に趙夙、車右に畢万とし霍、魏、耿を滅ぼしています。

晋の献公は趙夙に褒美として耿を賜わりました。

趙夙の子が共孟であり、共孟の子が趙衰となります。

当時の晋は他国を滅ぼすなど威勢を見せつけますが、晋の献公が驪姫を寵愛し、驪姫が生んだ奚斉を後継者にしようとした事で晋が乱れました。

当時の晋では太子の申生と弟の重耳、夷吾が評価が高かったわけですが、趙衰は重耳に仕える事になります。

後に驪姫が策を弄し奚斉を晋君にしようとすると、申生は自害し、重耳と夷吾は国外に亡命しました。

重耳の亡命生活に趙衰も付き従う事になります。

晋の大臣となる

重耳は狄に亡命しますが、後に狄は赤狄の一種を討伐した時に、二王女を得ると狄の君主は姉の方を趙衰に与え、妹の方を重耳に与えています。

趙衰と赤狄の娘の間に生まれたのが趙盾となります。

趙衰はにいた頃に既に夫人がおり、趙同、趙括、趙嬰斉がいましたが、趙氏の後継者になったのは趙盾です。

重耳が楚の成王や秦の穆公のバックアップで晋に戻ると、趙衰は原の地を与えられ国政に参与しました。

趙衰が仕えた晋の文公(重耳)は後には、の子玉を破る等の功績を挙げ覇者となります。

多くの方が知っている様に、趙衰が仕えた重耳は春秋五覇の一人に数えられます。

趙氏の没落

趙衰は晋の襄公の時代に亡くなり、趙盾が後継者となりました。

趙盾は中軍の将となり、晋の国政の中心を担う事になります。

晋の襄公が亡くなると、趙盾は趙の霊公を立てますが、後に趙の霊公に疎まれ出奔しています。

趙の霊公は趙穿が誅すると、趙穿は趙の成公を立て趙盾はに戻りました。

趙の景公の時代に趙盾は没し、子の趙朔が後継者となります。

晋の景公の3年(紀元前597年)に邲の戦いが勃発し、晋は荀林父が総大将となり、趙朔は下軍の将として出陣しました。

しかし、晋軍はまとまりが悪く、楚の荘王率いる楚軍に敗れています。

晋がに敗れると、趙朔への風当たりも強くなり屠岸賈の讒言もあり、苦しい立場となって行きました。

趙史援や韓厥などは趙朔の身を案じ出奔を勧めますが、趙朔は韓厥に「貴方が趙氏を復興させてくれるなら」と答え出奔はしませんでした。

屠岸賈は将軍達と共に結託し、趙朔、趙同、趙括、趙嬰斉らを誅した事で、趙氏は一時的に没落しています。

この時に、趙朔の夫人の腹には子がおり、後に出産し男児(趙武)を産みました。

趙朔の友人である公孫杵臼と程嬰が趙武を守ろうと考え策を弄し、別の子を用意し公孫杵臼が自らの命を犠牲にし趙武を守る事になります。

趙武は程嬰により、隠されて育てられる事になります。

趙氏の復興

晋の景公が病気になると「祭祀を絶った者の祟り」と出ました。

晋の景公は韓厥に相談すると、韓厥は趙武が程嬰に守られ生きていると伝えます。

韓厥が趙氏の復興を願うと、晋の景公も了承し、趙武を立てる為に動き出す事になります。

晋の景公は趙武を目通りし、趙武は程嬰やの将軍らと共に屠岸賈を攻撃し滅ぼしました。

これにより趙氏は復興しますが、程嬰は公孫杵臼に報告する為に自刃する事になります。

尚、趙武と公孫杵臼、程嬰らの話は「趙氏孤児」という話しでドラマにもなっており、中国では非常に人気があります。

趙氏を復興させた韓厥の子孫が戦国七雄のへと繋がっていきます。

晋の厲公の時代に郤氏が滅びるなど政局が荒れますが、厲公は欒書が誅しました。

晋の悼公が晋公となりますが、魏絳を重用しています。

魏絳の子孫が戦国のに繋がります。

晋の平公の時代に趙武は正卿となり、晋の国政を担いました。

呉の季札が晋にやってきて、叔向と話し合い「晋は趙・魏・韓の子孫に帰する」と述べた話があります。

叔向と季札は晋が趙氏、魏氏、韓氏の手に落ちると予言しました。

趙武が亡くなると、趙成が後継者となり、この時代に叔向と晏嬰が話し合い斉は田氏のものとなり、晋は六卿の手に落ちると述べた話しがあります。

晋の平公の時代位から、晋では六卿の力が強大となり、晋の皇室は力を無くしていく事になります。

六卿の戦い

趙成が亡くなると、趙鞅が趙氏の当主となりました。

趙鞅の時代になると、趙氏はの公室よりも自らの利益を優先させる様になりました。

趙鞅の子に趙襄子(趙無恤)がおり、身分が低い妾の子でしたが、姑布子卿の言葉もあり、長男の伯魯を廃し趙無恤を太子としています。

伯魯は太子の位を剥奪されますが、趙無恤を補佐し続けました。

趙鞅の時代には晋の皇室は微弱であり、六卿を抑え込む事が出来ず、六卿同士の争いへと発展していく事になります。

趙鞅の時代に晋と呉の間で黄池の会が主催され盟主の座を争いますが、越王勾践が呉を攻撃しました。

後に越の勾践は呉を滅ぼしています。

晋の六卿の争いも過熱し、六卿同士の武力衝突も起きています。

趙鞅が亡くなると、趙襄子が後継者となりました。

晋陽の戦い

趙襄子の時代に六卿の范氏と中行氏が滅び、智氏、趙氏、韓氏、魏氏で土地を分け合いました。

晋の出公は魯と斉と結託し、六卿の争いで残った四家を攻撃しようとしますが、逆に四家に攻められて出奔する事態となります。

晋の出公は斉に向かう最中に亡くなりました。

智伯は傲慢となり、に土地を要求すると、韓・魏は承諾し与えますが、趙だけは智伯に土地を割譲する事は無かったわけです。

智伯は韓・魏を引き連れて趙を攻撃しました。

趙襄子は名臣・董安于が治めた晋陽に籠城し、これにより晋陽の戦いが勃発する事になります。

晋陽の戦いでは落城寸前にまで陥りますが、韓虎や魏駒は最初から智伯を信用してはおらず、趙襄子が派遣した張孟談の「唇亡びば歯寒し」の言葉で寝返りを約束しました。

趙襄子は韓虎と魏駒が寝返った事で、一気に智伯を討ち取り滅ぼしています。

趙は韓と魏と共に、智伯の領地を分け合いました。

の公室は曲沃と絳を残すのみであり、残りの土地は全て趙、魏、韓の手に落ちました。

趙襄子は魏や韓よりも智伯の領土を多く取り、晋に正卿となります。

ただし、趙襄子は晋の正卿という立場を利用して事を起こさず、三晋は独立の方向に動く事になります。

尚、趙襄子は晋陽の戦いで智伯を討った後に、予譲に命を狙われた話が史記の刺客列伝に記録されています。

趙襄子は自分を可愛がってくれた兄の伯魯の子である代の成君を後継者にしようとしますが、既に亡くなっていた事もあり、伯魯の孫の趙浣を後継者に指名しています。

趙浣が趙の献侯となりますが、趙襄子の子の趙桓子は納得せず、趙浣を追い出してしまいますが、1年で亡くなると再び趙浣が趙の君主となりました。

趙桓子は代を本拠地としており、趙の中の異民族討伐派を纏め上げ趙の君主になったとも考えられています。

趙の献侯が君主となった事で、趙は中原への進出を優先させる事になります。

しかし、趙で内紛が起きている間に、魏の文侯が晋に正卿となってしまったのでしょう。

趙の献侯が亡くなると、趙の烈侯が跡を継ぎました。

諸侯となる

趙の烈侯の時代になると、では文侯が現れ有能な人材が多く集まり大発展する事になります。

魏の文侯は高い政治力を持っており、に君主と周を利用し国力を高めました。

魏の文侯は楽羊に命じて、中山国も滅ぼしています。

趙の烈侯の時代である紀元前403年には、周が趙、魏、を諸侯として認めました。

これにより趙氏、魏氏、韓氏は晋の大臣ではなくなり、名実ともに諸侯となったわけです。

尚、趙、魏、韓の三国は晋から分裂した国であり、三晋とも呼ばれる事になります。

趙の敬侯の時代である紀元前376年に韓や魏と共に、晋の公室を滅ぼしています。

趙の敬侯が亡くなると、趙の成公が即位しますが、趙の国力は伸び悩み魏の恵王が派遣した龐涓により、邯鄲が落城する事態となります。

しかし、桂陵の戦いで魏は田忌孫臏の前に敗れ去りました。

後に魏は趙に邯鄲を還す事になります。

趙は邯鄲を占領されたのに、懲りてしまったのか邯鄲の南に長城を建設しました。

戦国時代の初期は三晋の中で国力を伸ばした魏や韓に対し、趙は中原から外れていた事もあり、国力の伸長が少なかったわけです。

魏の恵王の前期は強大でしたが、趙の粛侯の時代に馬陵の戦いで龐涓が田忌と孫臏に再び敗れ、西では秦の商鞅に敗北し、魏は最強国の座から転落する事になります。

尚、趙の粛侯の時代に蘇秦がやって来て、合従の盟約を結んだ話があります。

趙の武霊王の改革

胡服騎射

趙の武霊王の時代になどの戦国七雄の国々が王を名乗りますが、趙だけは王を名乗る事はありませんでした。

趙の武霊王は「趙には実質が無い」と答え、自らを君と称したわけです。

ここでは趙の武霊王で話を進めますが、趙の武霊王というのは正確には諡号となります。

尚、趙の武霊王の11年(紀元前315年)に、燕の公子職を韓から招き、燕王として立てるために動いた話が史記の趙世家にあります。

一つの説として、燕の昭王は公子職だとするものがあります。

燕の昭王は名君として有名ですが、その正体は太子平なのか公子職なのか、記述に差異がありはっきりとしません。

因みに、秦の武王が亡くなった時も、秦の後継者候補で燕の人質になっていた秦の昭王を趙の武霊王が秦に入れた話あります。

それらを考えれば、趙の武霊王はキングメーカーとしても見る事が出来るはずです。

趙の武霊王の時代には魏に滅ぼされた中山国が復興しており、趙の武霊王は中山国の制圧を目指す事になります。

趙の武霊王は中山国を取る為に、胡服騎射を採用しようとし楼緩の賛成は得ることが出来ましたが、肥義や多くの重臣は反対しました。

公子成は参朝しなくなりますが、趙の武霊王は部下を派遣するなどして説得しています。

最後は趙の武霊王の熱意に軍配が上がったのか、趙は胡服騎射を採用し騎馬隊を組織する事になります。

胡服騎射とは北方の遊牧民と同じ格好をして、馬に乗ったまま弓を放つ事が出来る様に軍隊を組織する事です。

騎兵の導入は戦国七雄の各国でやっていましたが、北方の遊牧民の様な軍隊を組織し本格的な騎馬隊を組織したのが、趙の胡服騎射だったのでしょう。

尚、趙は北方の遊牧民と国境を接しており、遊牧民は穀物を作れない事から、農耕民から買う必要があります。

こうした事情もあり、趙は戦国七雄の中でも馬を手にしやすい環境にあり、戦国七雄の中で最初に騎馬隊を導入する事が出来たのでしょう。

趙の武霊王は中山国を滅ぼし領土に加える事に成功しました。

遊牧民と農耕民を合わせた帝国

武霊王は最初は公子章を太子としていましたが、公子何を太子に変更しました。

公子可が後の恵文王となります。

紀元前298年に武霊王は趙の恵文王に趙王の位を譲りますが、自らは主父と号しました。

趙の武霊王は北方の遊牧民から領土を奪い雲中、雁門、代の三郡を設置する事になります。

趙の武霊王の時代に趙は最大領域となります。

(画像:YouTube

一つの説として、趙の武霊王は自らが戎の地である北方を支配し、農耕民族が中心の南方は趙の恵文王に任せるつもりだったというものがあります。

趙の武霊王は胡服騎射の導入だけでは飽き足らず、遊牧民の文化などを取り入れ、趙の版図に加えようとした説です。

ただし、趙は雲中、雁門、代を守るための長城も建設しており、趙が北方に領土を拡げられる限界点が、雲中、雁門、代だったのではないかともされています。

尚、武霊王は規格外の人物であり、自ら偵察としてに赴き、秦の昭王と面会した話があり、スケールが図抜けた人物だったとも考えられています。

趙の武霊王が秦に偵察に行ったところをみると、中山国を滅ぼした趙の次のターゲットは秦だったのかも知れません。

ただし、趙の武霊王は公子章が引き起こした事件により、沙丘の乱で餓死しました。

武霊王の死で趙は秦に対し、劣勢となって行く事になります。

趙の経済力の源

趙の武霊王は北方に領土を拡大させ、本人の能力と軍事力で国を富ませたと思うかも知れません。

実際には、趙は商業の国だった事が史記や漢書に記録されています。

北方の遊牧民は乳製品、革製品、塩、馬は持っていますが、穀物や衣類、日用雑貨などは製造する事が出来ません。

それを考えると、遊牧民と趙の間で取引が行われてもおかしくはありません。

さらに、趙では遊牧民から購入した製品を他国に流すだけで利益を上げる事も可能です。

邯鄲は陸上交通の要衝でもあり、商業で栄え邯鄲に商売でやってきた呂不韋子楚(秦の荘襄王)の出会いもありました。

趙は中華でも有数の鉄の産地でもあり、これらの経済力が趙の軍事力を支えていたとも言えるでしょう。

趙の恵文王と名臣たち

趙の恵文王が正式に国のトップとなりますが、趙の恵文王は尚武の人ではなく趙の国は縮小に向かいました。

趙の恵文王は名君とも評価されていますが、どちらかと言えば守成の人だったわけです。

しかし、趙の恵文王の元には廉頗藺相如趙奢などの名臣が現れ活躍した時代でもあります。

漫画キングダムでは三大天なる将軍職があり廉頗、藺相如、趙奢が任命された事になっていますが、全て趙の恵文王の時代の臣下です。

廉頗は数多くの戦場で手柄を立て、藺相如は澠池之会で秦の昭王を脅し叱りつけ、趙奢は閼与の戦い胡傷を破りました。

さらには、楽毅田単などで活躍した将軍も趙にやってきた話しがあります。

趙の最大領域は武霊王の時代でしたが、最も人材が豊富だったのは恵文王の時代だったと言えるでしょう。

長平の戦い

趙の孝成王の時代にの上党郡の太守である馮亭が、趙に降伏したいと申し出ました。

趙では平陽君は反対しますが、平原君が賛成し、趙の孝成王は平原君に命じて上党郡を貰い受けました。

は上党郡を取ろうとしますが、廉頗が長平に駐屯し秦の王齕と対峙する事になります。

これが長平の戦いです。

廉頗と王齕は膠着状態となりますが、趙の孝成王は流言を信じ廉頗を更迭し趙括を将軍としました。

秦では白起を総大将に任命し、趙括を打ち破る事になります。

趙括は白起に兵站を絶たれ45万の兵を失うなど歴史的な大敗北を喫しました。

蘇代は秦の宰相である范雎を説得し趙と秦は和睦しますが、再び秦は王陵や王齕に趙を攻撃する様に命令し邯鄲を囲みました。

邯鄲籠城戦では趙の城内は苦しくなりますが、平原君が食客の毛遂の活躍により楚の考烈王から援軍を引き出す事になります。

は宰相の春申君を趙への援軍とし、では信陵君が晋鄙の軍を奪い邯鄲に駆け付けました。

春申君と信陵君の援軍により、秦軍は撤退する事になります。

趙が燕の大軍を破る

燕王喜は趙と誼を結ぶために、宰相の栗腹を派遣しますが、帰国した栗腹は「趙を攻撃するべき」と述べました。

燕の楽間将渠は「趙と戦うべきではない」と意見しますが、燕王喜は趙へ大軍を派遣する決定を下しています。

趙では廉頗を総大将として反撃させ、の栗腹を討ち取り卿秦を捕虜としました。

廉頗は燕の大軍を破ると、そのまま燕の都を包囲しますが、趙は燕と和睦し撤退しています。

その後も楽乗が燕を攻めるなどしていますが、趙は燕と戦っている隙に、蒙驁に命じて趙の楡次ら37城を抜きました。

趙は燕に対しては優勢に戦いを勧めましたが、秦に対しては不利な戦いを強いられています。

趙の孝成王が亡くなると、趙の悼襄王が即位しました。

この時に廉頗はを攻撃していましたが、突如として解任され楽乗が将軍になると、廉頗は怒り楽乗を攻撃した上で魏に亡命しています。

秦に苦戦する趙

趙の悼襄王の時代になると、李牧龐煖の活躍が見られる様になります。

李牧は匈奴の大軍を撃破した将軍であり、悼襄王の2年(紀元前243年)にを攻撃し武遂と方城を陥落させました。

悼襄王の3年(紀元前242年)には龐煖が燕の劇辛を討ち取っています。

翌年である紀元前241年には龐煖は趙、、燕の精鋭を率いて蕞を攻撃しています。

龐煖による蕞の攻撃ですが、楚の春申君が函谷関を攻めており、蕞の戦い函谷関の戦いは連動して行われたのでしょう。

しかし、龐煖は蕞を抜けず、春申君も函谷関から撤退しました。

これが春秋戦国時代において、と戦った最後の合従軍となります。

尚、龐煖は蕞を抜く事が出来ませんでしたが、兵をに向け饒安を落しました。

悼襄王の5年(紀元前240年)に傅抵慶舎らが平邑などを守った記録があり、秦の反撃に趙は守りを固めたのでしょう。

こうした中で魏が鄴を趙に割譲しました。

魏の重要都市である鄴が趙のものになりましたが、龐煖が燕の遠征中に王翦楊端和桓齮らが鄴及び9つの城を陥落させています。

秦の鄴攻めにより太行山脈の西側は孤立し、全て秦の領土となり趙は国として苦しくなります。

(紀元前233年の勢力図)

こうした中で、趙の悼襄王が亡くなり、趙の幽穆王が即位しました。

趙の名将・李牧

趙の幽穆王が即位しますが、桓齮と趙の扈輒が激突しています。

平陽の戦いが行われますが、桓齮は扈輒を破り10万の兵を斬首される大敗北を喫しました。

平陽の戦いで趙は10万の兵を失った事で、邯鄲の近郊で徴兵が出来なくなってしまったのか、趙の首脳部は代の李牧を大大将にして秦と戦わせています。

李牧は趙の最後の名将といってよい人物であり、肥下の戦い番吾の戦いで秦軍に連勝しています。

戦国時代の末期で秦軍とまともに戦う事が出来たのは、趙の李牧と、項燕くらいのものです。

趙の滅亡

李牧が秦軍に連勝すると、秦王政は李斯の進言もあり、をターゲットとしました。

趙はが攻めて来なくなり国力を回復させる好機が来たかに思えましたが、代で大地震があり、さらに大飢饉も起こり非常に苦しい状態が続く事になります。

超では、次の歌が流行ったとあります。

※史記趙世家より

趙は泣き 秦は笑う

信じられなければ 地の毛(草)をみよ。

大地震と大飢饉により、趙が信じられない位に酷い状態になってしまったのでしょう。

趙の仮の宰相であった司空馬幽穆王に幾つかの策を提示しますが、趙の幽穆王は司空馬の策を用いることが出来なかったわけです。

こうした中で韓が紀元前230年に秦により滅亡し、趙の幽穆王の7年(紀元前229年)には趙に攻め込んで来ました。

趙の幽穆王は李牧と司馬尚を将軍とし守らせ、秦の王翦楊端和羌瘣らと対峙する事になります。

趙と秦は膠着状態となりますが、秦が趙の郭開に賄賂を贈って買収し、悼倡后韓倉春平君らも趙の幽穆王に李牧と司馬尚を讒言しました。

郭開らの讒言は功を奏し、李牧は誅され司馬尚は庶民に落されています。

趙の幽穆王は趙葱顔聚を新たに将軍としますが、王翦らの攻撃を持ちこたえることが出来ず、幽穆王は降服しました。

これにより邯鄲は落城し秦の領土となり、趙は事実上の滅亡を迎えています。

その後の趙

趙の幽穆王は捕虜となりますが、元の太子で兄であった趙嘉が、北方の代で政権を打ち立てる事になります。

趙嘉は代王嘉とも呼ばれました。

は趙の邯鄲を抜くと、秦の王賁が紀元前225年にの大梁を取り、魏王仮を捕虜としています。

この後に、李信蒙恬が楚の項燕に敗れますが、王翦蒙武を滅ぼし、項燕が擁立した昌平君も命を落としました。

楚が滅亡すると秦はを攻め滅ぼし、返す力で代を滅ぼしました。

代王嘉が捕虜になった時点で、戦国時代の趙は完全に滅亡したと言えるでしょう。

秦はを滅ぼし天下統一しますが、始皇帝の死後に胡亥が即位すると、陳勝呉公の乱が勃発しました。

この時に、趙王家の趙歇が張耳や陳余らにより、趙王に擁立されています。

劉邦項羽が秦を滅ぼした後に、楚漢戦争に突入しますが、この時には既に張耳と陳余は仲違いしていたわけです。

項羽により趙歇は僻地の代に移されたりもしますが、陳余が張耳を破り趙歇を趙王として復位させています。

しかし、劉邦の命令を受けた韓信と趙歇・陳余の間で井陘の戦いが勃発しますが、韓信の背水の陣を使った奇策により趙は滅亡しました。

趙歇は陳余と共に斬られ、ここにおいて趙は完全に滅亡したと言えそうです。

趙の君主一覧

殷・周の時代

中衍ー季勝ー孟増ー衡父ー造父ー五代ー奄父叔帯

晋の配下時代

叔帯ー四代ー趙夙ー共孟ー趙衰ー趙盾ー趙朔ー趙武ー趙成ー趙鞅ー趙無恤ー趙浣

諸侯時代

趙籍(趙の烈侯)ー趙の武侯ー趙章(趙の敬侯)ー趙種(趙の成侯)ー趙語(趙の粛侯)

歴代趙王

趙雍(武霊王)ー趙何(恵文王)ー趙丹(孝成王)ー趙偃(悼襄王)趙遷(幽穆王)ー趙嘉(代王嘉)

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