名前 | 黄祖(こうそ) |
生没年 | 生年不明ー208年 |
時代 | 後漢末期、三国志 |
勢力 | 劉表 |
一族 | 子:黄射 |
年表 | 191年 襄陽の戦い |
199年 沙羨の戦い | |
208年 夏口の戦い | |
配下 | 陳就、蘇飛、呂公、張碩、鄧龍、甘寧、張虎、陳生 |
画像 | 三国志14 |
黄祖は劉表に仕えた人物であり、江夏太守に任命されています。
江夏太守に黄祖はなりましたが、出身地などは記述がなく分かっていません。
荊州の南陽出身者として、黄忠や黄柱などの黄姓の人物もいますが、関係性も不明です。
黄祖が江夏太守に任命された時期は不明ですが、208年に亡くなるまで、少なくとも10年以上は江夏太守を務めています。
黄祖は甘寧から酷評され、最後は戦いで敗れ、命を落としている事から、世間では過小評価されがちです。
しかし、実際の黄祖は孫堅を討ち取ったり、江夏を孫策や孫権から長い期間に渡って守り抜き、有能な将軍だったとする見方もあります。
尚、黄祖は208年に命を落としていますが、もう1年粘る事が出来ていたなら、劉表の後継者となった劉琮が曹操に降伏する事になります。
曹操は劉表配下の劉先、韓嵩、蒯越、傅巽、文聘、鄧義ら荊州の人材を重用しており、黄祖が208年の末まで生きていられたなら、黄祖も曹操に重用された様に感じました。
黄祖は最後の戦いで逃げ切る事が出来なかったのは大きい様に思います。
劉表配下の蔡瑁あたりは旧友の曹操に仕え、人生の逃げ切りに成功した様に感じますが、黄祖は最後の最後で逃げ切りに失敗した様にも感じました。
孫堅を討ち取る
董卓が実権を握ると、袁紹や曹操を中心に反董卓連合が結成されています。
しかし、董卓が洛陽を捨て長安に遷都すると、反董卓連合は瓦解し、関東の地は汝南袁氏の袁紹派と袁術派に分かれて争いを始めました。
袁紹には曹操や劉表が味方し、袁術には公孫瓚、陶謙、孫堅などが味方したわけです。
孫堅は袁術派として、劉表を攻撃しました。
劉表は黄祖を将軍とし樊城や鄧城の辺りまで、進出させますが黄祖の軍は孫堅に敗れています。
黄祖は襄陽に退却し、孫堅は漢水を渡り襄陽を包囲しました。
襄陽の戦いでは、孫堅が黄祖に勝利を収め有利に戦いを進めたわけです。
「典略」によれば劉表は黄祖に命じ、徴兵の為に城外に出しています。
黄祖は兵を集め終わり、城に戻ろうとしますが、孫堅は待ち構えており、黄祖は峴山に隠れました。
この時に、黄祖の部下が単騎でいる孫堅を発見し、矢を浴びせ孫堅を討ち取っています。
黄祖は戦いに敗れながらも、部下が見事に孫堅を討ち取ったとも言えるでしょう。
ただし、孫堅を討ち取ったのは呂公なる人物が、落石で孫堅を討ち取った話もあり、はっきりとしない部分もあります。
191年or192年の襄陽の戦いで、孫堅が戦死した事だけは間違いないのでしょう。
孫堅の軍は孫賁がまとめ撤退し、袁術に身を寄せる事となります。
禰衡を処刑
禰衡は弁が立ち溢れんばかりの才能を持った人物でした。
しかし、弁が極めて辛辣であり、時の権力者たちを困らせた人物だったわけです。
ただし、禰衡の様な人物を処刑してしまうと、世間が煩くなる事で、曹操は禰衡を処罰せず、劉表の元に送りました。
劉表も禰衡を最初は評価しますが、扱いにくい部分が多々あり、難儀な人物だと感じる様になります。
それにも関わらず、黄祖の子である黄射は禰衡の才能を認め、親睦を深めました。
禰衡の事を心の底から評価したのは、黄射と孔融だけでしょう。
劉表も禰衡を地方に送りたかった様で、黄射と仲が良かった事もあり、禰衡は黄祖の元に向かいました。
黄射が推薦した事もあり、黄祖は禰衡を重用しています。
黄祖も最初は禰衡を評価し、珍しい客が来ると話に加わらせたりしますが、最終的に禰衡の傲慢さが嫌になってしまいます。
黄祖は禰衡に罵倒されている気分になり、結局は禰衡を処刑してしまいました。
尚、黄射は禰衡が窮地に陥っている事を知ると、助けようとした話もありますが、間に合わず、父親の黄祖に対し「劉表や曹操でも手に掛けなかったのに・・」と述べています。
黄祖は怒りに任せて禰衡を斬ってしまいましたが、子の黄射は禰衡の死に涙を流し悼んだわけです。
沙羨の戦い
袁術配下の孫策は短い期間で江東を平定する事になります。
199年に袁術が病死すると、旧袁術の勢力は劉勲に吸収されました。
孫策は黄祖討伐に赴くと見せかけ、劉勲に計略を使い廬江郡を奪いに掛かり、劉勲は危機に陥ります。
劉勲は西塞山に籠り黄祖に援軍を求めています。
黄祖は太子の黄射を援軍として派遣しますが、黄射が到着する前に、劉勲は敗れました。
劉勲は西塞山の戦いで敗れると、従弟の劉偕と共に北方に移動し曹操を頼り、黄射は撤退しています。
孫策はそのまま黄祖の支配地域である夏口に攻め寄せ、沙羨の戦いが勃発しました。
黄祖は主君である劉表に援軍を求めると、劉表は一族の劉虎と南陽の韓晞を将軍に任命し、江夏に派遣しています。
黄祖は劉虎と韓晞の長矛部隊を先陣にし、孫策軍と戦いました。
沙羨の戦いでは呉軍の総大将は当主の孫策、さらに周瑜、呂範、程普、黄蓋、韓当、周泰、蒋欽などの将が参戦している事が分かっています。
呉を代表する人物が参戦しているのを見る限り、孫策は本気で黄祖を破り江夏を取りに来ていると言ってもよいでしょう。
沙羨の戦いは呉軍が勝利した様で、黄祖軍では劉表の援軍である劉虎と韓晞は戦死し、黄祖の一族も男女7人が捕虜となり、兵士2万を失う大敗北を喫した記録があります。
一般的には沙羨の戦いでは、黄祖が敗れたと伝わっています。
しかし、黄祖の軍は徐琨を討ち取るなどの戦果も挙げています。
徐琨の母親は孫堅の妹であり平虜将軍・広徳侯に任命され、呉では重要人物の一人だった事でしょう。
それを考えれば決して、黄祖はワンサイドゲームで孫策に敗れたわけでもない様です。
さらに言えば、黄祖は大きな被害を出しつつも、江夏を守り切った事実があります。
孫策は黄祖に大きな損害を与える事は出来たが、勝ち切る事が出来なかったのが実情でしょう。
孫策自身も黄祖との戦いの後で、方針を変更した様で、豫章などの方面に兵を配置し、黄祖討伐を後回しにして、方針転換をした形跡が見えます。
甘寧が呉に移る
益州出身の甘寧は、黄祖の元に身を寄せていました。
甘寧は粗暴な面がありましたが、黄祖の都督である蘇飛は高く評価し、黄祖に甘寧を重く用いる様に進言しています。
しかし、黄祖は甘寧を重く用いず、甘寧の食客を奪うなどの行為に出ます。
黄祖が甘寧を冷遇する中で、西暦203年になると、孫権の勢力と衝突する事になります。
203年の孫権との戦いでは、黄祖の軍が不利だった様ですが、甘寧が淩操を射殺するなどの手柄を挙げています。
蘇飛は黄祖に再三に渡り、甘寧を黄祖に重用する様に述べますが、黄祖は却下し礼遇を続けました。
蘇飛は甘寧の事を想いやり、甘寧を呉に移れる様に取り計らっています。
黄祖の評価が低い理由の一つは、甘寧を冷遇した事にある様に感じました。
蜀の劉巴が張飛を泊めた時に、口を聞かないなどの話もあり、劉巴と似た様な気質が黄祖にもあったのかも知れません。
ただし、甘寧も呉に移った後に呂蒙とトラブルを起こしたりしており、有能な人ではありますが性格的な問題もあった事も事実であり、黄祖は甘寧の粗暴な所を嫌悪したのかも知れません
因みに、呉の孫権の元に身を寄せた甘寧は、次の様に孫権に進言し黄祖を酷評した話があります。
甘寧「荊州を奪取する為の策としては、黄祖を手中に収めるのが第一です。
黄祖は年齢のせいか耄碌が酷く、資金も食料も不足しているのに、側近の甘い言葉に乗り金儲けに走り役人などから搾取しております。
役人や兵士らは黄祖に不満を持ち、船や武器が壊れても修理すらしない状態です。
農耕の励む者も僅かしかおらず、軍法は守られておらず、兵たちの心もバラバラと言うしかありません。
孫権様が西に兵を向ければ黄祖を破る事が出来るのは、必定でございます」
さらに、甘寧は黄祖を破った後に、兵を西に進める天下二分の計を披露したわけです。
甘寧の言葉に張昭は反対しますが、孫権は多いに喜びました。
魯粛が孫権に江夏討伐を勧めた話しもあり、当時の孫権陣営にとって、荊州を取る為には黄祖打倒は必須だったとも言えます。
尚、黄祖の方も孫家に隙あらばと黄射や鄧龍を柴桑に出陣させています。
黄祖の方も決して、孫家を相手に守っていたばかりではありません。
ただし、荊州の方でも長沙太守の張羨や張懌が乱を起こしており、記録にはありませんが、黄祖も孫権陣営だけを相手にすればいいという訳でもなかったのでしょう。
呉範の予言
正史三国志の呉範伝に、孫権が207年に黄祖討伐を目論んだ話があります。
この時に、呉範は次の様に述べました。
呉範「今年は利が少ないので、黄祖討伐は来年にした方がよいでしょう。
明年になれば、劉表も死に国が滅びる事になります」
呉範は劉表の死を予言し、黄祖討伐に反対しました。
しかし、孫権は呉範の言葉を振り切り、黄祖討伐を行いますが、結局は破れています。
207年の黄祖討伐には周瑜や孫瑜も参戦していますが、結果的に黄祖は江夏を守り抜く事に成功しました。
夏口の戦い
呉範の予言した通り208年に劉表は亡くなる事となります。
孫権は黄祖を討伐する為に周瑜、呂蒙、董襲、淩統などを出陣させました。
ここにおいて夏口の戦いが勃発し、これが最後の黄祖と孫家の戦いとなります。
この時に、黄祖は張碩を先陣とし、呉の淩統と戦わせていますが、張碩は淩統に敗れています。
黄祖は二隻の蒙衝(駆逐艦)を横に並べ、夏口を守ろうとしました。
蒙衝が流れない様に、黄祖は二本の太いロープで石を碇とし、船を固定したわけです。
この時に、孫権配下の董襲の部隊は鎧を二重にして、死をも恐れず黄祖の軍に突撃を仕掛けてきました。
黄祖の軍は董襲の軍に敗れロープを斬られてしまい、黄祖の駆逐艦は流れて行ってしまいます。
孫権は後に夏口の戦いでの董襲の手柄を絶賛しています。
さらに、黄祖の水軍都督である陳就が呂蒙に斬られると、黄祖は戦意を失くし逃走しました。
余談ですが、夏口の戦いでは、後に呉の重鎮となる胡綜なども参加しており、黄祖討伐の功績により鄂県の長に任命された話があります。
黄祖の最後
正史三国志を見ると黄祖の最後には2つのパターンがあります。
呉範伝によれば、孫権は黄祖を取り逃がしてしまうのではないか?と心配しました。
黄祖は孫堅時代から戦いには何度も敗れていますが、孫家では一向に黄祖を捕える事が出来なかったわけです。
劉備程ではないにしろ、黄祖は逃げ足で言えば、かなり早い方なのでしょう。
呉範は孫権に黄祖を捕える事が出来ると予言し、実際に黄祖が捕らえました。
孫権を中心に書かれる呉主伝では、馮則なる騎兵が黄祖を追撃し、黄祖の首を挙げ、さらし者とした話があります。
孫権は208年の夏口の戦いで破れ命を落とした事は間違いないのでしょう。
尚、黄祖を討ち取った呉ですが、この時に曹操は北方の制圧が終わり、荊州の劉琮を降伏させていました。
黄祖討伐の後に、時代は赤壁の戦いへと向かって行く事になります。
黄祖に関してですが、甘寧を用いなかった事など評価は低めになる事が多いですが、10年に渡って呉の攻撃を防いだ事はもっと評価されていい様に思います。
飛ぶ鳥を落とす勢いであった孫策に対し、あそこまで戦えたのは黄祖だけとする意見もある様です。
黄祖の能力値
三国志14 | 統率76 | 武力67 | 知力55 | 政治45 | 魅力32 |