名前 | 夏侯惇(かこうとん、かこうじゅん) 字:元譲 |
生没年 | 生年不明ー220年6月13日 |
時代 | 後漢末期、三国志 |
主君 | 曹操→曹丕 |
一族 | 弟:夏侯廉 子:夏侯充、夏侯楙、夏侯子臧、夏侯子江 |
年表 | 199年 河南尹となる |
206年:衛固を破る | |
220年 魏の大将軍となる | |
画像 | ©コーエーテクモゲームス |
夏侯惇は正史三国志にも伝があり、曹操に最も信頼された人物でもあります。
曹操の覇業において、最も貢献したのでは夏侯惇だったと考える人もいる位です。
夏侯惇は三国志演義では関羽と一騎打ちをするなど、隻眼の猛将としてのイメージが強い様に思います。
しかし、実際の夏侯惇は軍隊を指揮しても、高順や劉備に敗れるなど、戦績は悪く「むしろ戦下手だったのではないか?」とも考えられています。
それでも、夏侯惇は曹操が遠征している間に、後方を守り切り優れた人物だった事は間違いないと感じました。
日本で隻眼と言えば伊達政宗ですが、中国で隻眼を考えると「夏侯惇」と思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。
夏侯惇が片目になってしまったのは、呂布を討伐した時となります。
因みに、曹操の祖父である曹騰は宦官でしたが、後継者を残す事を許されました。
曹騰の養子の曹嵩は夏侯氏の出身であり、夏侯惇と曹操の関係は従弟となります。
さらに言えば、夏侯淵は夏侯惇の族弟になると伝わっています。
今回は曹操の覇業において多大なる貢献をし、最後は曹丕により魏の大将軍にまでなった夏侯惇の、史実と三国志演義の両方を解説します。
尚、正史三国志では夏侯惇の伝は諸夏侯曹伝に収録されており、下記の人物と共に夏侯惇伝が存在します。
諸夏侯曹伝は曹操の宗族の中でも、軍事において実績を挙げた人物を収録した巻だと言えるでしょう。
尚、上記は私が作成したゆっくり解説動画でありユーチューブで視覚的に夏侯惇が分かる様になっています。
先生を馬鹿にした男の命を奪う
夏侯惇は14歳で人を殺してしまった話があります。
夏侯惇は学問を習っていましたが、師匠の事を悪くいう男がいました。
頭に血が昇りカッとなったのか、夏侯惇は悪口を言った男を斬り伏せています。
これを見る限り、若き日の夏侯惇の気性は荒かったと言えるでしょう。
夏侯惇は気性が荒い男として有名になります。
夏侯惇と曹操は従弟であり、夏侯惇は初期の頃から曹操に付き従っていました。
董卓が少帝を廃し献帝を擁立した事に対し、曹操や袁紹は反董卓連合を結成する事となります。
夏侯惇も反董卓連合に参加しました。
反董卓連合
三国志演義だと夏侯惇が徐栄を倒す
三国志演義では董卓が長安に遷都した時に、曹操は単独で追撃を行いますが、李儒の策を受けた呂布により大敗を喫する事となります。
曹洪が曹操を救いますが、今度は徐栄に追い詰められ、曹操は死を覚悟しました。
この時に曹操を助けに来たのが夏侯惇であり、徐栄を一刺しで倒す事となります。
これを見ると夏侯惇は曹操を救い大きな功績を挙げた事となりますが、残念ながら史書には夏侯惇が徐栄を倒した記述はありません。
徐栄は董卓死後も生きている事が確認されている状態です。
正史三国志の反董卓連合
正史三国志では曹操は董卓軍の徐栄と戦いはしましたが、徐栄の采配が巧みであり、曹操は歯が立ちませんでした。
曹操は諸侯の力が必要と考えましたが、反董卓連合は10万の大軍が擁したと言われますが、名ばかりで酒ばかり飲み戦おうとはしなかったわけです。
業を煮やした曹操は、反董卓連合軍の本陣で演説を行いますが、支持を得られません。
史実だと反董卓連合で戦意があったのは曹操、孫堅、鮑信くらいのものです。
武帝紀によると曹操は夏侯惇と共に、揚州で兵を募集し趙温と周昕から援助を受ける事に成功しました。
正史三国志では夏侯惇が董卓と戦った描写は無く、曹操と共に揚州に支援を受けにいった話しのみが残っています。
尚、曹操と夏侯惇は張温と周昕から4千の兵を手に入れましたが、大半が反乱を起こし500程の兵士しか残らなかった話があります。
曹操と夏侯惇は河内に行き1000の兵士を手に入れる事に成功しましたが、曹操だけではなく夏侯惇も旗揚げ時から苦労があったわけです。
この当時は曹操も夏侯惇も求心力がなく苦労を伺い知る事が出来ます。
因みに、史実だと董卓が長安に遷都すると、反董卓連合も瓦解しました。
長安に遷都した董卓も王允と呂布により殺害され、後に王允も李傕や郭汜に殺害され、呂布は関東に落ち延びていく事となります。
兗州の混乱(正史三国志)
鄄城に向かう
董卓が長安に移り関東の地が、群雄割拠状態になると曹操は兗州を中心に勢力を拡げていく事となります。
曹操は朝廷が朝廷から行奮武将軍に任命される、夏侯惇も司馬、折衝校尉、東郡太守となりました。
194年に曹操は陶謙を攻めますが、この時に夏侯惇には濮陽、荀彧には鄄城を守備させています。
ここで、陳宮と張邈らが曹操を裏切り呂布を盟主に立てようとしますが、面と向かって裏切った形にはせずに、策を以て荀彧に使者を派遣しています。
呂布の使者は荀彧に「呂布が曹操の陶謙征伐」に加勢すると述べ、兵糧を呂布に送る様に告げます。
陳宮らは呂布が曹操を助ける事とし、荀彧から兵糧を奪おうとしたわけです。
荀彧は「何処かおかしい」と気が付き、張邈らが曹操を裏切った事を悟りました。
この時の曹操はほぼ全兵力で陶謙を攻めており、鄄城には僅かな兵士しかいないのに、曹操の家族もいる状態だったわけです。
荀彧は曹操にも連絡を入れ、残っている兵で守備を固め、濮陽にいる夏侯惇に援軍を求めました。
夏侯惇は鄄城に曹操の家族もいた事もあり、軽装備で素早く鄄城に移動する決断をします。
濮陽の物資を奪われる
夏侯惇は軽装備で鄄城に向かいますが、途中で呂布の軍と交戦する事となります。
ここで呂布は夏侯惇が、鄄城に急いで行きたがっている事を知り、わざと道を開けました。
呂布の狙いは濮陽であり、夏侯惇が鄄城に向かっている隙に濮陽を取られ物資も奪われてしまいます。
さらに、この後に夏侯惇の身に不幸な出来事が起こる事になります。
夏侯惇が捕虜となる
こうした危機的な状況の中で、夏侯惇に降伏したいという部隊が面会を求めて来ました。
この時の曹操軍は戦力が不足しており、夏侯惇は降伏を許し戦力にしようと考えています。
夏侯惇は面会しますが、騙されて捕虜となってしまいました。
夏侯惇を捕えた賊は調子に乗り、部下達には財宝を要求する様になります。
夏侯惇の部下の韓浩は配下の者達を落ち着かせ、賊に対しては攻撃命令を出しました。
この時の韓浩は、捕虜となった夏侯惇には涙ながらに「これは国法なので仕方がない」と述べています。
賊は韓浩が部下に総攻撃を掛けた事に驚き、夏侯惇を釈放し「金品が欲しかっただけ」と述べ地に頭をつけて詫びました。
しかし、韓浩は許さず賊を皆殺しにしています。
夏侯惇は命拾いしましたが、一歩間違えれば命を落していたと言えるでしょう。
尚、曹操は韓浩のこの時の態度を称賛し「万世の法律にしてもよい」と述べた話があります。
数十人を斬る
夏侯惇は鄄城に到着し、荀彧と面会しました。
この時には、兗州の大部分が呂布や張邈に靡き、危機的状況に陥っていました。
さらには、鄄城の中にも荀彧らに、反旗を翻そうと考えていた人物もいたわけです。
正史三国志によれば、夏侯惇は反乱に企てた者、数十人を斬ったとあります。
夏侯惇が内通者を斬った事で、人々は落ち着きを取り戻しました。
この後に豫州刺史の郭貢が数万の兵を率いて、鄄城に駆け付けました。
郭貢は荀彧に面会を求めますが、夏侯惇は「危うい」と述べ反対します。
しかし、荀彧は弱みを見せれば、郭貢は敵になってしまうと述べ、面会しました。
荀彧は夏侯惇の反対を押しのけて郭貢と面会しましたが、荀彧の態度に余裕があった事で、郭貢は引き返しています。
郭貢は豫州刺史だとありますが、ここでしか記録がなく、どの様な人物なのかは不明です。
一つの説として、この時期には孫堅が既に亡くなっており、孫堅の後釜として袁術が豫州刺史に任命したのが郭貢だったとも考えられています。
この後に、荀彧や夏侯惇は程昱と協力し、東阿県と范県を説得し曹操の味方にしています。
曹操陣営は夏侯惇や荀彧、程昱の頑張りにより、勢力の巻き返しを図りました。
片目を失う
正史三国志だと流れ矢で左目を負傷
曹操は自分の足元である兗州が揺らいだ事を知ると、陶謙討伐を中止し引き返す事となります。
曹操は呂布と戦う事となります。
呂布との戦には夏侯惇も従軍しており、正史三国志には下記の記述があります。
※正史三国志より
夏侯惇は流れ矢で左目を負傷した。
正史三国志ではシンプルな記述でしかなく、左目がどの程度の負傷だったのかは不明です。
しかし、当時の医療技術では細菌が入るなどもあり、夏侯惇は失明してしまったのでしょう。
尚、現代の医療技術であれば程度によっては、夏侯惇は失明しない可能性があるのではないか?とも考えられています。
正史三国志によれば夏侯惇は夏侯淵と区別する為に、盲夏侯と呼ばれていた話しもあります。
夏侯惇が片目になってしまった事から「盲夏侯」と呼ばれたのでしょう。
夏侯惇自身は盲夏侯と呼ばれるのを嫌がり、鏡で自分の顔を見ると、鏡を地面に叩きつけて割った話しも残っています。
曹性の矢
三国志演義だと夏侯惇が隻眼になるシーンは、ドラマチックに描かれています。
三國志演義では夏侯惇と呂布配下の高順が一騎打ちを行っています。
高順とは40合ほど打ち合いますが、武芸の腕では夏侯惇に軍配が上がり、高順は退却しました。
高順を追撃した夏侯惇は、馬でぐるぐると高順の陣を周り始めたわけです。
高順の陣にいた曹性は、弓矢を使い夏侯惇を狙うと左目に命中しました。
この時の夏侯惇は左目に矢が突き刺さっており、三国志演義の描写ですと、現代の医学をもってしても失明は確実だった事でしょう。
ここで、夏侯惇は次の様に述べました。
※三国志演義より
夏侯惇「父母の血で出来たこの目を捨てるわけには行かぬ。この目を食べてくれようぞ」
夏侯惇は自分の左目を食べてしまったわけです。
夏侯惇は曹性を見つけると突撃を仕掛け、一撃で曹性を倒しました。
三國志演義の夏侯惇は、自分の目を食べてしまうと言った人間離れした姿を見せたと言えるでしょう。
治水工事と稲作
夏侯惇が治める地で民が旱魃と蝗の被害により困っていた事がありました。
夏侯惇は現場を見ると、大寿の河を堰き止め堤防を作る事が出来れば、民の生活が安定すると考えます。
夏侯惇は自ら堤防の為の土を運び、部下達にも手伝いを行わせ堤防は完成しました。
夏侯惇は堤防が出来上がると、今度は稲作を民に教え部下達に農業指導もさせています。
夏侯惇が堤防を作り稲の植え方を教えた事で、民の生活は向上しました。
魏の鄭渾なども堤防を作り民に稲作を教えた事で評価されており、中国においては治水工事は為政者の重要な役割だったとも言えるはずです。
因みに、夏王朝の祖である禹も治水工事で成果をあげた事で帝位に就いています。
衛臻を赦免
夏侯惇が陳留太守をやっていた時代に衛臻を計吏としました。
この時に夏侯惇は衛臻に妻も宴の席に同席する様にと告げています。
しかし、衛臻は妻を宴席に呼ぶのは「正しい儀礼ではない」と断りを入れました。
夏侯惇は衛臻の態度に怒りを見せ、衛臻を捕縛しています。
ただし、夏侯惇は後に過ちに気が付いたのか衛臻を釈放しました。
夏侯惇は青年時代に比べると丸くなった様にも感じますが、大人になってもまだまだ気性の荒さは残っていたのでしょう。
尚、夏侯惇が衛臻を赦免した理由ですが、衛臻の父親の衛茲は曹操を絶大なる評価をした人であり、曹操も衛茲を高く評価していました。
曹操は衛茲に多くの事を相談したとあり、夏侯惇も衛茲の子である衛臻の事を、処分出来なかったとも考えられるはずです。
それでも、夏侯惇であれば後で自らの過ちに気が付き、衛臻に詫びを入れて釈放した可能性もある様に感じています。
高順に敗れる
198年に劉備は呂布配下の高順に攻撃され、曹操に援軍要請しました。
曹操は夏侯惇を劉備への援軍として派遣する事となります。
しかし、劉備は援軍が来るまでの間に、高順に敗れ敗走しました。
この後に、夏侯惇は高順が戦いますが、夏侯惇は高順に敗れています。
三国志演義では高順よりも夏侯惇の方が格上感がありますが、史実の高順は陥陣営と呼ばれた名将であり、夏侯惇であっても適う相手ではなかったのでしょう。
尚、正史三国志では「夏侯惇が高順に敗れた」とあるだけで、どの様に敗れたのかは不明です。
夏侯惇が敗れると曹操は自ら兵を率いて東遷し、下邳の戦いで呂布を滅ぼす事に成功しました。
因みに、呂布が滅びた199年に夏侯惇は河南尹となっています。
官渡の戦いでは後方を守る
西暦200年に官渡の戦いが行われていますが、夏侯惇は本戦には参加しておらず後方に待機していました。
官渡の戦いの時に孫策が献帝がいる許都を狙っている話もあり、夏侯惇は荀彧らと共に後方にいて守りを固める事になったのでしょう。
さらに言えば、後方から敵に襲われても困るわけであり、曹操は信頼できる夏侯惇に後方を任せたとも言えます。
呉書の孫策伝によれば、官渡の戦いの時に夏侯惇が、石威則なる人物に手紙を送った話があります。
夏侯惇の手紙には「孫賁に長沙郡を授け、張津には零陵と桂陽の任務を与える」と書いてありました。
曹操は官渡の戦いの時に、劉表に後方を脅かされる事を恐れており、孫策の勢力に劉表を牽制して貰いたかったのでしょう。
さらに、前年である199年に劉表配下の黄祖と孫策が沙羨の戦いで戦っており、引き続き孫策には劉表と戦って欲しいと願っていたのかも知れません。
尚、官渡の戦いの時に張羨や桓階が長沙で劉表に対し反旗を翻し、張羨は曹操を支持した話があります。
夏侯惇としてみれば、張羨の反乱を助ける意味もあり、石威則に手紙を送った様にも感じました。
官渡の戦いの時に夏侯惇は荀彧と共に、後方を見事に守り切ったと言えるでしょう。
楚漢戦争で言えば、蕭何の役目を果たしたといえるのかも知れません。
尚、官渡の戦いでは苦戦しながらも曹操は袁紹を破りました。
五関の最後の相手(三国志演義)
三國志演義で曹操軍の客将として関羽がおり、袁紹配下の顔良、文醜を討ち取った話があります。
その後に、関羽は曹操に別れを告げ、糜夫人と甘夫人を連れ劉備の元を目指しました。
この時に関羽は五関を突破しますが、途中で夏侯惇の部下である秦琪を一撃で斬り捨てています。
ここで夏侯惇が200の騎兵を率いて現れ、関羽と夏侯惇の一騎打ちとなります。
関羽は三国志では最強クラスの人物ですが、夏侯惇は関羽と互角の戦いを繰り広げる事となります。
曹操からの使者が夏侯惇と関羽の間に入り、一騎打ちを止めさせようとしますが、夏侯惇は聞きませんでした。
ここで張遼が止めに入り「曹操は全てを知った上で関羽を通らせよ」と述べていると告げる事となります。
これにより夏侯惇は引き下がりましたが、三国志演義の読者は「夏侯惇は関羽と互角の一騎打ちが出来る」と武勇に優れた印象を持ったはずです。
博望坡の戦い
西暦203年に博望坡の戦いがあり夏侯惇、于禁、李典で劉備と戦った記録があります。
この時に曹操は北方で袁紹の遺児である袁譚、袁煕、袁尚と戦っていましたが、夏侯惇は荊州にいる劉備と戦っていました。
博望坡の戦いで劉備は、突如として陣を焼き撤退の構えを見せます。
ここで夏侯惇は劉備への追撃を主張しますが、李典は伏兵を心配し反対しました。
しかし、夏侯惇は李典の意見を退け劉備への追撃を強行します。
夏侯惇は追撃しましたが、劉備の伏兵により危機に陥る事となります。
ここで李典が、夏侯惇を救援に来た事で、劉備は撤退を指示しました。
博望坡の戦いは李典の判断力の良さを示すと同時に、夏侯惇の戦下手な様子も見受けられます。
尚、三国志演義だと博望坡の戦いは諸葛亮が劉備軍の軍師としており、関羽、張飛、趙雲を上手に使った策で夏侯惇、于禁、李典らは破れ夏侯蘭が討ち取られた事になっています。
しかし、正史三国志を見る限りでは、劉備が大勝した記述もありませんし、諸葛亮の名前も出てはこない状態です。
曹操から自己判断を許される
今までの夏侯惇を見ていると、戦で負けたケースが目立ち凡将に感じるかも知れません。
しかし、曹操の夏侯惇への信頼は揺るがなかったわけです。
曹操は夏侯惇に「自己判断で物事を処置してもよい」とする権限を与えられました。
夏侯惇に自己判断を許す辺りは、曹操が夏侯惇に絶大なる信頼を寄せていた事の表れでもあります。
曹操も夏侯惇が後方にいるからこそ、遠征に集中できた部分が多々ある様に思いました。
衛固を破る
206年に高幹が反旗を翻し、曹操は河東の衛固らが劉表と結託し反旗を翻す事を心配しました。
この時に曹操は荀彧に劉邦を補佐した蕭何や、光武帝を補佐した寇恂の様な人物を推挙して欲しいと述べています。
荀彧は迷うことなく杜畿を曹操に推挙しました。
杜畿は河東太守となりますが、衛固らの妨害があり河東に入る事も出来なかったわけです。
こうした事情もあり曹操は、夏侯惇に大軍をつけて衛固討伐を行わせました。
しかし、杜畿は夏侯惇がすぐに衛固を攻める事には反対であり、杜畿が河東に行き敵を分断させると述べます。
杜畿は衛固の所に行くと、1カ月で衛固の配下たちを分断させ、敵が分裂した所を見計らって夏侯惇は大軍で衛固を攻撃しました。
衛固の配下の者達は既に分裂しており、夏侯惇は大勝利を収めています。
夏侯惇と田疇
田疇は在野の士でしたが、曹操の烏桓征伐に随行し、郭嘉や田豫と共に功績を挙げています。
田疇は白狼山の戦いにも従軍しました。
しかし、田疇は烏桓征伐が終わると問題行動等もあり、再び曹操に仕えようとはしなかったわけです。
曹操は人材コレクターでもあり、田疇を自分の臣下として迎えようと考えていました。
曹操は田疇は多くの者と関係を断っていましたが、夏侯惇だけは田疇と親しく付き合ってる事に目を付けます。
曹操は夏侯惇に自分の命令だと告げず、田疇の元に行き夏侯惇の真心で説得して欲しいと依頼しました。
田疇の方では、夏侯惇の狙いに気付いていた様ではありますが、友として接した様です。
夏侯惇は田疇の元から去る時に「我が主君の田疇殿への対応は懇切丁寧であり、いつまでも仕官を断わっている訳にはいかんぞ」と述べました。
夏侯惇は冗談交じりに述べたのでしょう。
しかし、田疇は夏侯惇の言葉を聞いた瞬間に顔色が変わり「私は貴方が自分を理解して下さっていると思っていた」と述べ、心情を語っています。
夏侯惇は田疇を曹操に仕官させる事は出来ないと考え、曹操にもその様に伝えています。
田疇は特殊な人間であり心を許せる人は殆どおらず、夏侯惇だけは信頼できる人だと思っていたのでしょう。
夏侯惇は田疇を仕官させる事には失敗していますが、田疇が夏侯惇に寄せた信頼は別格だったはずです。
26軍を統括する
207年に夏侯惇は今までの様々な功績が認められ、2500戸を領有したとあります。
208年に曹操は赤壁の戦いで、呉の周瑜らに敗れますが、この時に夏侯惇が何をしていたのかは不明です。
多分ですが、官渡の戦いと同様に、後方を守っていたのではないかと感じています。
217年に孫権との間で濡須口の戦いが起きていますが、撤退した後に曹操は夏侯惇に26軍を統括する司令官に任命しました。
26軍を統括された事を考えれば、当時の曹操軍が如何に強大であり、夏侯惇の信頼が如何に厚かったのかが分かるはずです。
この時の夏侯惇は他者を寄せ付けない程の尊貴な将軍だったと言えるでしょう。
曹操が魏公となる
曹操は213年に魏公に就任する事となります。
この時に曹操は魏公を辞退しますが、群臣らが曹操に対し魏公就任を要請し、その中に下記の夏侯惇の名前もあります。
正史三国志だと「伏波将軍高安侯の夏侯惇」と書かれており、夏侯惇が213年の段階で伏波将軍及び高安侯だった事がわかるはずです。
曹操は何度も断りますが、結局は夏侯惇らの要請により魏公に就任しました。
尚、名士の世界では就任要請があった場合は、数度断るのが礼儀であり、曹操の魏公就任は最初から決まっていたのでしょう。
夏侯惇と共に、曹操の魏公就任を勧めた群臣は下記の通りです。
不臣の礼
曹操は夏侯惇に敬意を示し不臣の礼を行った話があります。
曹操は216年に魏王となっており、曹操の臣下の大半は、曹操が建国した魏の役職に就いていたわけです。
しかし、夏侯惇だけは相変わらず、漢の役職に就いていました。
夏侯惇は魏の役職に、そろそろ任命して欲しいと曹操に告げます。
しかし、曹操は出来たばかりで、取るに足らない魏の役職に、夏侯惇を就けるわけにはいかないと述べました。
曹操は臣下として最高の待遇は、自らの師として待遇する事であり、次は臣下を友として扱う事だと伝えます。
曹操が夏侯惇を魏の役職に就かせてしまえば、臣下として夏侯惇を待遇する事になると告げました。
夏侯惇が魏の役職に就任すれば、曹操の臣下となってしまい、夏侯惇は曹操には臣下として頭を下げる必要があり、それを曹操は危惧していたわけです。
既にお分かりかと思いますが、不臣の礼は、曹操が夏侯惇を臣下として扱わない事を指します。
曹操は夏侯惇に「臣下として頭を下げさせたいとは思わない」と伝えますが、夏侯惇は「自分は臣下で構わない」と曹操を説得しました。
しかし、夏侯惇が熱心に説得した事が原因なのか、最終的に曹操は夏侯惇を魏の前将軍に任命しています。
劉備が漢中王になった時に前将軍には関羽を任命しており、魏王となった曹操が夏侯惇を前将軍にしたのは、魏の武官の中で最高の待遇をしたとも言えるでしょう。
曹操は夏侯惇を心底より信頼しており、自分の寝室にも出入りを許していた程です。
正史三国志には「夏侯惇に比肩する者はいなかった」と記録されています。
曹操と帝位
曹操が皇帝になる話が魏氏春秋と曹瞞伝に2つのパターンがあるので両方を紹介します。
曹操に帝位を勧める
魏氏春秋だと夏侯惇は曹操に帝位に就くように、次の様に進めた話があります。
※魏氏春秋より
夏侯惇「世間の人の多くが漢の時代が終わり、新しい時代が来る事を知っております。
古代から考えてみも、民の災害を除き人民の帰服を得た人が、人民の主となります。
殿(曹操)は30年以上も戦場で過ごし、功業や恩徳は庶民も知っている事です。
天意があり民衆が従っているのに、ためらわれているのはなぜでしょうか」
魏氏春秋の記述を見るに、夏侯惇は曹操に帝位を勧めている事になるでしょう。
夏侯惇の言葉に対し、曹操は「周の文王を見ならいたい」と述べ、聞く耳を持ちませんでした。
周の文王は殷の紂王の諸侯でありながら、周の文王の時代に既に天下の三分の二は、周に帰服したとする話もあります。
それでも周の文王は殷の諸侯であり続け、殷を倒すのは子である周の武王の時代でした。
魏氏春秋を見る限りでは、夏侯惇は曹操に帝位を勧めましたが、断った事になるはずです。
ただし、曹操の子である曹丕は後漢の献帝から禅譲により帝位を譲られ皇帝となっています。
それを考えると、曹操の言葉は自分の後継者である「曹丕が帝位に就く」と述べている様にも感じました。
帝位に就くには早いと述べる
曹瞞伝に記述によると桓階が曹操に皇帝になる様にと意見し、曹操は夏侯惇に相談しました。
夏侯惇は次の様に応えています。
曹瞞伝より
夏侯惇「皇帝を名乗るのであれば蜀にいる劉備を滅ぼしてからにするべきです。
蜀の劉備さえ滅ぼせば、孫権は自ら頭を下げてくるでしょう。
蜀と呉を滅ぼしてから、漢から禅譲を受けるべきです」
曹瞞伝の記述を見るに、夏侯惇は劉備や孫権が健在な事を理由に、曹操が帝位に就くのを反対しています。
曹操は夏侯惇の進言を受け入れ、天子になろうとはしませんでした。
お分かりかと思いますが、魏氏春秋では夏侯惇は曹操が帝位に就くように進言し、曹瞞伝では帝位に就くのに反対しています。
魏氏春秋と曹瞞伝で差異が出てしまっていますが、どちらが正しいのかは不明です。
ただし、時間系列で考えると最初に曹操は帝位に就きたいと考えた時は、夏侯惇は「時期尚早」だと諫め、後に勢力が拡大すると夏侯惇は「帝位につくように」と進言しますが、曹操は断ったとする説も存在します。
尚、曹瞞伝では曹操が帝位に就く事を夏侯惇が諫めていますが、これが夏侯惇の最期と繋がる事となります。
夏侯惇の最期
曹瞞伝の記述によると、夏侯惇は曹操が帝位に就くのを諫めていますが、この後に曹操が亡くなった話があります。
曹操は220年の3月15日に亡くなりました。
夏侯惇は曹操が亡くなると「帝位に就かない様に」と進言した事を悔い、病気となり亡くなってしまったとあります。
正史三国志の曹操死後の夏侯惇を見ると、後継者となった曹丕が献帝から禅譲により皇帝に即位しました。
皇帝となった曹丕は夏侯惇を大将軍に任命し重用しています。
曹丕も曹操を支え続けた夏侯惇に対しては高い評価をしていたのでしょう。
夏侯惇は魏で最も尊貴な将軍となったわけです。
しかし、夏侯惇も曹操の後を追う様に220年6月13日に亡くなっています。
それを考えると夏侯惇は曹操が亡くなってから3カ月ほどで、この世を去ったと言えます。
夏侯惇は忠侯の諡を与えられました。
曹操への忠義を評価され忠侯と諡されたのでしょう。
夏侯惇は生涯に渡って曹操を唯一の君主としています。
夏侯惇の評価
正史三国志の夏侯惇を見ると、三国志演義とは違い派手な活躍がないと思うかも知れません。
しかし、史実の夏侯惇は勤勉な人であり、軍中にあっても先生の講義を開かせるなど、学問を好んだ話があります。
さらに、蓄財は好まなかった話があり、清貧を貫いた事になるでしょう。
ただし、夏侯惇の子である夏侯楙などは蓄財に励み、酒と女を好んだ話があり、夏侯惇とは真逆な人物にも感じました。
清貧を貫いた夏侯惇の反動が、夏侯楙に来てしまった可能性もある様に思います。
尚、曹操が戦下手ともいえる夏侯惇に対し、絶大なる信頼を寄せたのは、人を纏める力があったからなのかも知れません。
曹操は改革者な部分が多く見受けられます。
しかし、改革をすれば、反発も多く出るのが世の常とも言えるはずです。
それらを上手く纏め上げ曹操政権を円滑に運営させたのが、夏侯惇の手腕だった様にも感じました。
実際に夏侯惇は曹操から26軍を任されている事実があります。
曹操の覇業の陰には夏侯惇がいた事は間違いなく、夏侯惇がいなければ曹操は大勢力になる事が出来なかった可能性も高い様に感じています。