甘寧(かんねい)は孫呉を代表する武将と言えるはずです。
甘寧の字は「興覇」であり、「甘興覇」と呼ばれる事もあります。
三国志のゲームなどでも、呉で最強の武力の持ち主が甘寧だったり太史慈だったりします。
史実の甘寧は益州の出身であり、鈴の音で恐れらた人物でもあります。
黄祖の元では冷遇されますが、孫権の元に行くと重用され、実力を如何なく発揮しました。
曹操軍40万に100人の兵士で斬り込みを掛けた話は、正史三国志にも記載されています。
甘寧は粗暴な人物でもありましたが、孫権に天下二分の計を進言するなど、優れた智謀の持ち主でもあります。
今回は呉でも最もメジャーな武将とも言える甘寧を解説します。
尚、横山光輝さんの三国志で鉄鎖を武器とし、「甘寧一番乗り」のセリフは有名です。
実際に甘寧は皖城の戦いで、一番乗りをした記録が正史三国志にあります。
甘寧は正史三国志では程黄韓蒋周陳董甘凌徐潘丁伝の中に甘寧伝が存在し、下記の人物と共に収録されています。
甘寧の動画
私が作ったユーチューブの甘寧の動画です。
文字ではなく、ゆっくり解説動画で知りたい方は、視聴してみてください。
益州時代の甘寧
甘寧と言えば、孫呉に仕えた事から、揚州の出身に思うかも知れません。
しかし、意外にも甘寧は益州の出身です。
益州の出身
正史三国志によれば、甘寧は益州巴郡臨江の出身とあります。
甘寧の先祖は秦の武王や昭王の時代に活躍した、甘茂や甘羅の子孫だとする話もあります。
甘茂や甘羅の子孫がどこかのタイミングで、益州に移住し、地方豪族になったとも考えられています。
ただし、呉書によれば甘寧は南陽の人であり、先祖が巴郡に住み着いたとする記録も存在します。
後に甘寧は孫権に天下二分の計を進言しますが、甘寧は益州の事情をよく分かっており、地理にも詳しい事から、益州を取る事が出来ると考えた可能性もあるでしょう。
甘寧が役人となる
甘寧と言えば、無法者のイメージがある様に思います。
しかし、意外にも甘寧は役人となり会計報告の仕事をしていた話があります。
この時に甘寧の職務の出来が優秀だったのか、甘寧が蜀郡の丞に任命されたました。
甘寧が会計を行い役人として出世するイメージが、湧かない人もいるかと思いますが、呉書に記録があるわけです。
因みに、甘寧が役人になれたり、蜀郡の丞になれたのは、甘寧が益州でも有力な豪族だったとする説もあります。
ただし、甘寧は役所仕事は自分に向かないと思ったのか、官を捨てて家に帰ったとあります。
甘寧の鈴
実家に戻った甘寧は、ド派手な格好をして、無法者たちを集めて頭目になってしまいました。
無法者の甘寧らしさが見えるのは、実家に帰ってからだと言えます。
甘寧の一味は大勢いて、弓や弩で武装し、鈴を身に着けていた話があります。
甘寧の集団が鈴を身に着けていた事から、鈴の音が鳴ると、民衆は甘寧がやってきたと考え恐れたわけです。
甘寧は地方長官で自分たちを持て成すと、一緒に楽しみ、邪魔者扱いした場合は、配下の者に財産を奪わせたとあります。
これを考えると、甘寧の周りは治外法権でもあり、民衆に恐れられるのは当たり前とも言えるでしょう。
尚、甘寧が属する長官の管轄で、殺傷事件などが起きた場合は、甘寧らが摘発と制裁を行った話があります。
これを考えると、甘寧は用心棒的な役割を果たしていたはずです。
甘寧はどちらかと言えば、任侠系の人だとも言えます。
読書家となる
甘寧はゴロツキの様な生活を20年ほど続けますが、暴力はやめる事にしました。
代わりに甘寧は読書を好むようになります。
若かりし頃の甘寧は勢いでやっていたのかも知れませんが、年を取り何か思う所があり、読書を好むようになったのかも知れません。
正史三国志によれば甘寧は「先賢たちの本を読んだ」とあるので、史記や春秋左氏伝や諸子百家などを読んだ様に思います。
後に甘寧は孫権に天下二分の計を進言したり、智謀の将たる片鱗を見せてくれますが、この時の読書が役に立った可能性もあるでしょう。
ただし、甘寧は本は好みましたが、荒々しさだけは残っていた様です。
益州を出る
黄巾の乱は皇甫嵩、朱儁、盧植らの活躍に鎮圧されますが、黄巾賊の残党は存在していたわけです。
甘寧がいた益州でも、益州刺史の郤倹の政治は評判が悪く、馬相が黄巾を名乗ると、瞬く間に大勢力となり、馬相は天子を名乗った程です。
郤倹の後に、中央から益州に配置されたのが、劉焉であり、劉焉は高沛、楊懐、冷苞、鄧賢などの東州兵を使い、益州の乱れを鎮圧しました。
劉焉が亡くなると、劉璋が益州の主となりますが、東州兵の行動は横暴となり、甘寧ら益州豪族と対立する事になります。
益州豪族と東州兵の対立は深まりますが、甘寧ら益州豪族は東州兵の敗れたと考えられています。
東州兵に敗れた甘寧は、益州で居場所を無くし、荊州の劉表の元に向かいました。
甘寧が益州を後にしたのは、不本意な形だったはずです。
劉表を見限る
益州を後にした、甘寧は800人の手下を従えて、荊州の劉表の元に身を寄せる事になります。
正史三国志によれば劉表はインテリであり、軍事に精通しておらず、甘寧を失望させた話があります。
劉表をじっくりと観察した甘寧は、劉表のやろうとしている事は結局は失敗に終わると考えた様です。
甘寧は天下の豪傑が立ち上がった今の状態では、劉表の元にいては破滅の道に歩むと思い、呉に行こうと考えました。
黄祖の配下となる
甘寧は呉に向かいますが、夏口で足止めを食らってしまいます。
黄祖の配下となる
甘寧は呉を目指しますが、夏口には黄祖が駐屯していました。
甘寧一人であれば夏口も通る事は出来たでしょうが、甘寧には800人の部下がおり、部隊を率いて通るのは難しい状態だったと考えられます。
甘寧は任侠の人でもあり、配下の者達を置いて、自分だけが呉に行く事は出来なかったのでしょう。
甘寧は黄祖の配下となりますが、黄祖は甘寧を嫌い重用しようとはしませんでした。
しかし、黄祖配下の蘇飛は甘寧を高く評価し、黄祖に何度も推挙する様に求めた話があります。
黄祖は甘寧を食客として扱う事になります。
淩操を射殺
西暦203年になると、黄祖の勢力と呉の孫権の勢力が戦う事になります。
呉では孫策が亡くなり孫権が後継者になっていました。
さらに、孫策、孫権の父親である孫堅を射殺したのは、黄祖の軍だった事もあり、呉では復讐戦に燃えていたわけです。
黄祖と孫権の軍が戦いますが、孫権軍が有利となり、黄祖は負け戦となり撤退しています。
この時に、甘寧が殿となり、孫権配下の淩操を射殺するなど、大きな手柄を立てています。
甘寧が殿で奮戦した事で、黄祖は無事に撤退に成功しました。
尚、甘寧が射殺したとされる淩操には、淩統なる子がおり、甘寧は淩統に恨まれる事になります。
黄祖に冷遇される
甘寧は大きな功績を挙げた事で、普通であれば絶大なる恩賞を貰ってもよいはずでした。
しかし、黄祖は甘寧を嫌い、重用する事もなかったわけです。
呉書には「手柄を立てた後も、甘寧への待遇は変わらなかった。」とあります。
黄祖の都督である蘇飛は、強く甘寧を用いる様に進言しますが、黄祖が聞き入れる事はありませんでした。
さらに、黄祖は甘寧の食客達を自分の配下にしようと考え、引き抜きを行っています。
これにより、甘寧の配下は減り、甘寧の勢力は縮小に向かいます。
蘇飛の言葉
甘寧は黄祖の元を離れようとも考えますが、脱出は不可能だと考えます。
これにより、甘寧は悩み悶々とした日々を過ごす事になります。
蘇飛は甘寧の気持を察し、甘寧を酒宴に招きました。
蘇飛は自分は何度も甘寧を重く用いる様に黄祖に話したが、黄祖は全て却下したと話します。
蘇飛は現状を語った上で、次の様に述べています。
蘇飛「人生は一度きりのものだから、自分の事を本当に知ってくれる、
主君を探してみてはどうだろうか。」
蘇飛の言葉に対し、甘寧は次の様に返しています。
甘寧「私もその気持ちはありますが、どうすればいいのか分からないのです。」
蘇飛は甘寧の気持を理解し、次の様に述べました。
蘇飛「私が其方を邾県の長になれる様に推挙致そう。」
邾県であれば、甘寧はどこにでも行けると蘇飛は考えたのでしょう。
さらに言えば、蘇飛は暗に甘寧に孫権の元に移れと述べた事にもなります。
甘寧は邾県の長に任命されると、黄祖の元に移った食客達の一部を呼び戻しました。
甘寧は蘇飛の計らいにより、孫権配下にまる道筋が出来たと言えるでしょう。
尚、甘寧は孫権の元に向かいますが、手下は百人ほどだった話があります。
益州を出た時は、800人もいた甘寧の配下も、多くが黄祖に取られてしまった事が分かるはずです。
周瑜と呂蒙が甘寧を推挙
甘寧は呉に移りますが、孫権に謁見する前に、周瑜や呂蒙に会っていた様です。
周瑜と呂蒙は共に、甘寧を評価し、孫権に推挙する事になります。
周瑜や呂蒙が甘寧を高く評価したのは、先の戦いでの甘寧の殿が見事だった事や、実際に話してみての献策に驚いたのでしょう。
周瑜と呂蒙が甘寧を孫権に推挙すると、孫権は甘寧を高く評価した様で、特別な待遇をしたとあります。
甘寧は元からの臣下と変わらない待遇で迎えられ、黄祖とは打って変わり、孫権には絶大なる評価をされたわけです。
天下二分の計
甘寧が天下二分の計を説いた話です。
荊州と益州を取る様に進言
甘寧は孫権に献策を求められると、漢王朝の命運は衰え、曹操が帝位を簒奪するのは遠い話ではないと語ります。
甘寧は荊州を攻略するのが良いと献策し、次の様に述べています。
甘寧「劉表は遠い先への配慮が全くなく、息子達も凡庸です。
荊州を取るのに、曹操に後れを取ってはなりませぬ。」
甘寧の言葉に、孫権は荊州を取る為の策を聞きます。
甘寧「荊州を取るには江夏太守である黄祖を討つべきです。
『江夏に黄祖あり』と呼ばれたのは、昔の話であり、今は黄祖も耄碌し資金も食料も貧しくなっています。
黄祖は金策に走り、役人たちから摂取しているので、多くの人々から恨まれ、武器の整備も怠っています。
黄祖の軍は軍法も守られてはおらず、孫権様が軍を勧めれば黄祖を打ち破る事も出来るはずです。」
孫権は甘寧の話をかなり気に入ったのでしょう。
甘寧は、さらに孫権に次の様に述べています。
甘寧「黄祖を取った後は、荊州を取り軍を西に進めて、巴蜀の地を取る事が出来るはずです。」
甘寧は荊州を取った後に、益州に進軍するべきだと、孫権に言った事になります。
これだと、孫権の勢力は揚州、荊州、益州を制圧する事になり、天下二分の計となります。
周瑜も天下二分の計を実行しようとした話があり、甘寧は高い見識を持っていた事になるでしょう。
甘寧と張昭
孫権は甘寧の事を気に入りますが、張昭が次の様な言葉を述べ横やりを入れています。
張昭「まだ、呉の人心は安定してはおりませぬ。
今の状況で西を攻めれば、反乱が起きる事は必須でございます。」
張昭は時期早々だと述べたわけです。
甘寧は張昭に対し、次の様に述べています。
甘寧「張昭殿は孫権様から蕭何の役目を任されているはずです。
留守を任される張昭様が反乱の心配をして、どうなさいますか。」
甘寧の口から出た蕭何は劉邦の家臣であり、劉邦が項羽と戦っている間に、兵站の管理や関中の安撫した人物であり、楚漢戦争終了後に韓信、張良と並んで漢の三傑と呼ばれた名臣です。
甘寧は多くの書物を読んでおり、「蕭何が反乱の心配をした話は聞いた事がない。」と思ったほかも知れません。
ここで孫権は甘寧に対し、次の様に述べました。
孫権「甘寧殿は、張長史(張昭)の事はお気になさらぬ様に。
今後の軍事行動は、甘寧殿に任せる様にしたいと思う。
甘寧殿はひたすら軍略に心を配り、黄祖を倒すのを確実なものになる様に計画して貰いたい。
黄祖攻略を確実にするのが、甘寧殿の務めだと思って欲しい。」
孫権は甘寧の言葉を評価し、用いる様になったわけです。
孫権陣営にとっても、黄祖側から寝返ってきた甘寧は、黄祖陣営の事も分かっているわけであり、重用すべき人物でもあったのでしょう。
黄祖討伐
孫権は西暦208年に、遂に念願の黄祖を討ち取る事に成功しました。
黄祖を破る
孫権は長かった黄祖との戦いに終止符を打つべく、周瑜を総大将にして黄祖討伐を始めます。
ここにおいて孫家と黄祖の最後の戦いである夏口の戦いが勃発しました。
呉軍の先鋒は甘寧を恨んでいる淩統が選ばれ、董襲、呂蒙などの将軍が参戦しました。
呂蒙配下として甘寧もいたわけです。
甘寧は黄祖配下におり、江夏近辺の地形にも明るかったはずであり、かなり力になった様に感じます。
黄祖は配下の陳就や蘇飛と共に迎え撃つ事になります。
呉軍は呂蒙が陳就を討ち取り、江夏城も落す事に成功し、孫堅の敵討ちにも成功したわけです。
三国志演義だと黄祖を討ったのは甘寧になっていますが、史実では馮則という一兵卒が黄祖を討ち取っています。
一兵卒の馮則の名前が登場するあたり、孫権軍が黄祖を討ったのは、大戦果だったと言うのが分かる気がします。
尚、黄祖を破った事で孫権は黄祖の兵も手に入れ、甘寧に兵を授けて当口に駐屯させました。
蘇飛の助命を願う
黄祖が呉軍に敗れると、都督の蘇飛は捕らわれの身になってしまいます。
孫権は蘇飛を処刑しようと考えていました。
蘇飛は獄中から甘寧に手紙を送り、窮状を訴える事になります。
甘寧は孫権に蘇飛の処遇を確認しますが、孫権は次の様に述べています。
孫権「父親の孫堅を討った憎き黄祖の都督である蘇飛も処刑し、黄祖の首と共に、孫堅の墓前に共えようと考えておる。」
孫権の言葉に対し、甘寧は次の様に述べ、蘇飛の助命嘆願を願います。
甘寧「蘇飛は私に恩義を施してくれました。
蘇飛がいなければ、私はとっくに野垂れ死んでいた事でしょう。
蘇飛がいなければ、孫権様の配下として戦う事も出来なかったのです。
此度の功績も蘇飛のお陰であり、蘇飛の首を私に預けては貰えぬでしょうか。」
この時に、甘寧は地に頭を付けて、血と涙を流し、孫権に嘆願したとあります。
孫権は「蘇飛が逃亡したらどうするのか?」と述べると、甘寧は次の様に述べています。
甘寧「蘇飛が助けられた恩を忘れ逃亡するとは思えませぬ。
蘇飛が逃亡した場合は、私の首をお取りください。」
孫権は甘寧の言葉を聴き入れ、蘇飛を許したわけです。
甘寧としてみれば、蘇飛は大恩人であり、蘇飛の苦難を見過ごす事は出来なかったのでしょう。
南郡攻防戦
曹操は袁紹の遺児である袁譚、袁煕、袁尚を滅ぼすと南下を始め、赤壁の戦いが起こりました。
甘寧が赤壁の戦いで、どの様な動きをしたのかは不明ですが、赤壁の戦い後に南郡攻防戦に参加した記録があります。
尚、三国志演義では赤壁の戦いの前哨戦である三江口の戦いで、甘寧が蔡勲を射殺した話がありますが、蔡勲はそもそも架空の人物であり、史実とは言えないはずです。
赤壁の戦い
黄祖を滅ぼした西暦208年に、呉は曹操との間で赤壁の戦いが勃発する事になります。
孫権軍は周瑜と程普を都督に任命し、曹操軍を迎え撃つ事になりました。
赤壁の戦いでは、黄蓋らの活躍により、呉軍の勝利に終わっています。
赤壁の戦いは謎が多いのですが、甘寧がどの様な活躍をしたのかは分かってはいません。
しかし、赤壁の戦い後に、南郡攻防戦がありますが、ここでは甘寧の記録が残っています。
尚、三国志演義では赤壁の戦い後に、曹操配下の馬延や張顗を甘寧が討ち取った記述がありますが、これは正史三国志には記載されておらず、史実とは言えないでしょう。
夷陵を奪取する様に進言
曹操は江陵城を曹仁に任せ、北方に退去しました。
周瑜は呉の将軍らと江陵を攻めますが、曹仁の堅守に手を焼いたわけです。
ここで甘寧は周瑜に次の様に進言しています。
甘寧「私が思うに夷陵まで軍を進め、先に夷陵を奪取するべきかと存じます。
私に数百の兵を預けてくれれば、夷陵は奪取する事が出来るはずです。」
甘寧は周瑜に夷陵を先に落とす様に進言し、少数の兵士で落とす事が出来ると述べたわけです。
甘寧は益州の出身であり、西方に関しては地理的にも詳しく、少数の兵でも夷陵を落とす自信があったのでしょう。
この時に、周瑜は甘寧の策を採用し、甘寧は少数の兵で夷陵を襲撃し、見事に夷陵を奪取しました。
6倍の兵に囲まれる
甘寧は夷陵の城を奪取しますが、この時に甘寧の下には千にも満たぬ兵士かいなかった話があります。
甘寧に対して、曹仁はあろうことか、6千の兵を割き夷陵城を攻撃したわけです。
甘寧は必死に防戦しますが、曹仁軍を撤退させる事が出来ず、籠城が長期化しました。
甘寧は夷陵城で防戦しますが、曹仁軍は高い櫓を作り、城に向かって矢の雨を降らせた話があります。
曹仁軍の攻撃が厳しかった事もあり、夷陵城の兵士は恐れおののいてしまいます。
これに対し、甘寧は兵士たちに声をかけて励まし、兵士達と楽しく談笑した話があります。
甘寧は城内の士気を落とさない為に、あえて余裕を見せて兵士達を安心させたのでしょう。
夷陵の包囲が解かれる
甘寧は城内の士気を落とさぬ様に配慮しますが、流石に苦しくなり、周瑜に援軍要請をしています。
周瑜の陣に甘寧の援軍要請の使者が来ると、呂蒙は次の様に進言しました。
呂蒙「淩統殿だけを残し、全軍で甘寧殿の援軍に向かうべきです。
甘寧殿を救うには敵の包囲を破るだけであり、時間は掛からないはずです。
淩統殿であれば、曹仁に急襲されたとしても、10日は持ちこたえる事が出来ると、私が保証できます。」
周瑜は淩統だけを江陵城に残し、全軍で夷陵の救援に向かう事になります。
呂蒙が淩統だけを残すと言ったのは、淩統が甘寧の事を恨んでいる事を知っていたからでしょう。
周瑜らが夷陵に来ると、包囲は解かれ甘寧の救出は成功したわけです。
孫権や呂蒙は周りの人に対し、かなり配慮をしており、誰と誰を組ますかなどはよく考えていた事が分かります。
性格的に難しい部分がある甘寧が活躍出来たのは、孫権や呂蒙の配慮による部分も大きいと言えます。
尚、南郡攻防戦は、曹仁が北に撤退した事から、江陵城は呉軍が占拠するのに成功しました。
荊州南部にいた徐晃や満寵なども荊州北部に撤退しています。
周瑜の死と天下二分の計の挫折
南郡攻防戦の時に、劉備は韓玄、劉度、金旋、趙範らを降しています。
孫権は荊州を劉備に借用しましたが、周瑜は劉備を危険視していました。
周瑜は益州を攻め取ろうと画策し、準備を始めますが、病死してしまいます。
周瑜がもう少し長生きしていれば、益州に侵攻しており、甘寧は益州の地理に詳しい事から、大活躍したとも考えられます。
他にも、益州出身の甘寧であれば、益州豪族を寝返らせる事も可能だった様に思いました。
尚、周瑜の代わりに劉備が益州に侵攻しますが、その際に法正は劉璋に対して、次の様な手紙を送っています。
「張飛の数万の軍勢が巴東を平定し蜀の国境に入りました。
兵を分けて資中、徳陽を平定し三方向から同時に侵攻してきています。
さらに、孫権が自らの弟と李異、甘寧を後続部隊とし、蜀に軍勢を差し向けています。」
法正は既に劉璋を見限っており、劉備の事を考え劉璋に手紙を送ったのでしょう。
実際には李異も甘寧も後続部隊にはなった記録はありません。
しかし、甘寧は地元の益州では名が通っており、劉璋への脅しとして甘寧の名前を出したのでしょう。
因みに、李異も益州出身だと考えられています。
周瑜が亡くなり劉備が益州を取った時点で、甘寧の天下二分の計は大きく挫折したとも言えそうです。
関羽と対峙
孫権と劉備派同盟関係にありましたが、劉備が蜀を取ると荊州の事で揉める事になります。
千の兵士で関羽を足止め
周瑜の後継者は魯粛となります。
魯粛は親劉備派とも言われますが、荊州の領有を巡って呉と蜀は争う事になります。
孫権は役人を荊州に派遣しますが、関羽は追い返してしまいました。
怒った孫権は呂蒙に命じて、荊州の長沙、零陵、桂陽の三郡を力づくで奪い取ってしまったわけです。
孫権の動きに対し関羽は自ら兵を率いて、軍を動かしました。
この時に魯粛の陣に、関羽が3万の軍で浅瀬に陣を張っている情報が入ってきます。
さらに、関羽は5千の兵を自ら指揮している話を入手すると、甘寧は次の様に述べています。
甘寧「私の現在の兵は300しかいません。
あと、500の兵を預けてくれましたら、私が関羽を防ぎましょう。」
すると、魯粛は甘寧に1000の兵を授けたと伝わっています。
さらに、甘寧は魯粛に次の様な話をしました。
甘寧「関羽は私が来たと知れば、川を渡る事はないでしょう。
もし関羽が河を渡ったとしたら、関羽を虜にする事が出来ます。」
魯粛は甘寧に関羽と対峙する事を許しました。
関羽を撤退させる
関羽は甘寧が出て来た事を知ると、川を渡河しようとせず、撤退した話があります。
関羽も甘寧の勇猛さを知っており、戦いたくない相手だったのでしょう。
尚、関羽が陣を張った浅瀬を関羽瀬と呼ばれる様になった話もあります。
関羽と魯粛は単刀赴会と呼ばれる会合を行い、魯粛は荊州の二郡を劉備勢から取り戻した話があります。
単刀赴会を有利に進める事が出来たのも、甘寧が関羽を撤退させる事に成功した功績も大きい様に感じています。
孫権は甘寧を高く評価し、西陵太守に任じ陽新と下雉の2県を授けました。
甘寧は黄祖の所にいた事が嘘の様に出世していく事になります。
甘寧一番乗り
横山光輝さんの漫画三国志で「甘寧一番乗り」の言葉がありますが、史実でも甘寧が城壁をよじ登り一番乗りになった話があります。
皖城の攻撃
甘寧は皖城の戦いにも参加しています。
皖城はよく土地が肥えており、数年すれば魏の勢力圏に完全に収まってしまう事を、呂蒙は危惧しました。
この時に、呉の多くの将はじっくりと皖城を攻める様に進言しますが、呂蒙と甘寧は短期決戦を考えていた話があります。
皖城には魏の援軍がまだ到着していませんでしたし、皖城の防備が整っていないと考えたわけです。
実際に、この時に魏の張遼は、皖城の援軍に向かっていました。
呉軍総大将の呂蒙は、短期決戦を選択します。
甘寧が突撃隊長となる
皖城の戦いでは、甘寧が升城督と呼ばれる突撃隊長に任命されています。
さらに、呂蒙が後詰めの軍になる事が決まりました。
この時の甘寧は兵士達の先頭を切って城壁を昇った話があります。
甘寧の猛攻もあり、敵将の朱光も捕えるなど、皖城を陥落させる事に成功しました。
皖城の戦いでの評定では手柄の一位は呂蒙となり、次が甘寧になったわけです。
総大将の呂蒙には功績の首座は持って行かれましたが、甘寧の功績を孫権は高く評価し折衝将軍に任命しています。
尚、皖城攻めでは甘寧が先頭を切って城壁を昇った記録がある事から「甘寧一番乗り」となるのでしょう。
鉄鎖
横山光輝さんの漫画三国志での「甘寧の一番乗り」で甘寧が手にしている武器があります。
鉄球が先端にあり振り回す武器は「鉄鎖」と呼ぶそうです。
三國志演義だと甘寧は鉄鎖の使い手となっており、横山三国志でも甘寧の手に鉄鎖を持たせたのでしょう。
ただし、正史三国志に甘寧が鉄球を振り回した話や鉄鎖を使ったとする話もなく、三国志演義のオリジナル設定だと考えられます。
余談ですが、光栄の三国志のゲームでも甘寧は鉄鎖を持っていたりもします。
合肥の戦いで張遼に大敗
皖城の戦いで勝利すると、孫権は北上し合肥を攻める事になります。
合肥の戦いでは、魏の張遼、楽進、李典の3将が合肥の城を少数の兵で守っていたわけです。
主君である曹操は西方の張魯討伐などで手が回らなかったのでしょう。
合肥の戦いでは張遼に散々にやられ、疫病が流行った事もあり、退却しました。
しかし、孫権の撤退の仕方が稚拙であり、張遼に不意を衝かれる事になります。
これに対応したのが、呂蒙、蒋欽、淩統、甘寧、徐盛、陳武、潘璋、賀斉、韓当らです。
合肥の戦いでは陳武が戦死し、徐盛は負傷し軍は壊滅、淩統の隊は全員が戦死し、淩統自身も傷だらけになりながら何とか退却するという酷い有様でした。
こうした中でも、甘寧は自ら弓を手に取り命を的にして戦ったとあります。
張遼の余りの強さに、呉軍の軍楽隊は音楽を鳴らすのをやめてしまった話がありますが、甘寧は「なぜ音楽を鳴らさぬのか」と叱りつけた話があります。
正史三国志によれば合肥の敗戦の中でも、甘寧は猛々しく戦い、孫権は甘寧の姿を見て大層喜んだ話があります。
しかし、戦いの内容で言えば、呉軍は張遼に完敗したとも言えるはずです。
濡須口の戦い
甘寧の最大の見せ場は、濡須口の戦いと言えるのかも知れません。
100人の兵士で斬り込みを依頼される
曹操は濡須口に軍を進める事になります。
江表伝によれば、曹操は騎兵と歩兵を合わせると40万もの大軍だったと伝わっています。
それに対し、孫権は自ら7万の兵を率いて、決戦を挑む事になります。
この時に、孫権は甘寧を前部督に任命し、三千の兵を甘寧に授けた話があります。
孫権は夜陰に乗じて、甘寧に魏を攻撃する様に命じました。
甘寧は三千の兵の中から、勇猛な百人を選別し、曹操軍に斬り込みを掛けようと考えました。
部下が委縮
甘寧の出撃が決まると、孫権は甘寧や斬り込みを掛ける百人に、米や酒やご馳走を下賜しました。
甘寧は孫権から下賜されたご馳走を料理し、部下に与えています。
食事が終わると甘寧は二杯の酒を飲み干し、配下の都督に酌をしようとします。
しかし、都督は斬り込みに行けば死ぬと思ったのか、直ぐに甘寧の酌を受け取ろうとはしなかったわけです。
甘寧は刀をひざの上に置くと、都督を次の様に怒鳴りつけています。
甘寧「お前が陛下(孫権)から大切にされているのと、儂が大切にされているのとでは、どちらが勝っているであろうか。
その儂が命を惜しまぬのに、お前が命を惜しんでどうするのだ。」
甘寧は都督を一喝しました。
都督は甘寧の怒りの形相を見ると、直ぐに酌を受け取り、百人の兵士全員が酌を受け取る事になります。
普通に考えれば、100人で40万の大軍に斬り込みを掛けると言えば、拒否反応を起こすのが普通でしょう。
しかし、甘寧は部下を叱責し、奮い立たせました。
甘寧の突撃
甘寧は夜半に近づくと出発し、曹操軍を目指す事になります。
甘寧らは曹操軍の陣営の中に忍び込む事に成功し、曹操軍の数十人の敵を斬りつけました。
甘寧の百人隊は暴れ回り、曹操軍は不意を衝かれて急いで太鼓を鳴らし、騒ぎ立てたわけです。
曹操軍の陣営に灯りがともされた時には、甘寧の軍は自陣に引き上げており、万歳を唱えていた話があります。
正史三国志によれば、曹操軍はかなり驚いた様で、「そのまま退却した。」とする記述が甘寧伝にあります。
尚、三国志演義だと甘寧の百人隊は損害ゼロだった事になっていますが、正史三国志を見ると損害に対しての記載が掛かれいてない状態です。
孫権が甘寧を絶賛
江表伝によれば、甘寧は呉軍の陣に戻ると、そのまま孫権に目通りしました。
孫権は甘寧に、次の様に述べています。
孫権「老いぼれの曹操を驚かしてやる事が出来た。あなた(甘寧)の肝っ玉の凄さを見せて貰った。」
孫権はその場で甘寧に絹千匹と刀百口を賜わったと伝わっています。
直ぐに恩賞を与える所に、孫権の喜びの大きさが分かるような気がしました。
さらに、孫権は甘寧に対し、次の様に述べています。
孫権「孟徳(曹操)には張遼がおり、儂には興覇(甘寧の字)がいて、うまい具合につりあっているのだ。」
孫権は甘寧が張遼に匹敵する名将だと認めた事になるはずです。
孫権は過去に合肥の戦いで張遼、楽進、李典らと戦い、張遼の猛攻により、孫権は捕虜になる寸前まで行った事があります。
張遼は呉では極端に恐れられており、甘寧が張遼に匹敵する武将だと述べたのは、甘寧への最大限の賛辞だった事でしょう。
料理人殺害で呂蒙と親交を深める
甘寧は約束を反故にして料理人を殺害した事があります。
しかし、呂蒙の母親の言葉により、呂蒙と甘寧は親交を深める事になりました。
甘寧の性格をよく現わしている逸話でもあります。
甘寧の料理番が逃亡
甘寧の料理番がミスをしでかし、呂蒙の元に逃げ込んだ事がありました。
呂蒙は甘寧が料理番を殺害する事を心配し、料理番を直ぐに甘寧の元に返さなかったわけです。
甘寧は暫くすると、呂蒙の母親に贈り物をして、呂蒙の母親に会って挨拶をしたいと申し出ました。
甘寧は呂蒙の母親の面会に先立ち、呂蒙は甘寧に料理番を殺さないと約束した上で、料理番を甘寧の元に送り返しています。
呂蒙が甘寧の船を包囲
甘寧は料理番が戻ってくると、桑の木に縛り付けて自らの弓で射殺してしまいました。
さらに、甘寧は船の中に入り、上着を脱ぎ棄てると、横になったままで動こうともしなかったわけです。
呂蒙は甘寧が約束を破って、料理番を殺害した事に激怒し、兵を集めて甘寧の船を囲んでいます。
呂蒙は甘寧の乗っている船に攻撃を仕掛けようとしますが、甘寧は横になったままで動こうともしませんでした。
呂蒙の母親の言葉
呂蒙の母親は、呂蒙が甘寧の船を包囲した話を聞くと、驚き呂蒙の元までやってきます。
この時に、呂蒙の母親は裸足で飛び出してきた記録があり、かなり慌てていたのでしょう。
さらに言えば、呂蒙も過去に「呉下の阿蒙」とも呼ばれ、ゴロツキの様な時もあったわけです。
母親も呂蒙を止めないと、本気で甘寧の船を攻撃すると思ったのでしょう。
呂蒙の母親は呂蒙に対して、次の様に述べています。
呂蒙の母「陛下(孫権)はお前(甘寧)を肉親の様に厚遇し、大事を託しておられます。
私情で腹を立て、甘寧を攻めて殺害してしまっても良いのでしょうか。
甘寧が死ぬような事があれば、陛下から問責が無かったとしても、お前は臣下としてあるまじき事をした事になるのです。」
呂蒙は怒っていましたが、母親に対しては孝の気持が強く、甘寧への怒りを解きました。
呂蒙は自ら甘寧の船にやって来くると、甘寧に対し笑いながら、次の様に述べています。
呂蒙「興覇殿(甘寧)、老母があなたと食事をしたいと言っておる。
急いで岸に上がって下され。」
呂蒙の言葉に甘寧は涙を流し、嗚咽をし、次の様に述べています。
甘寧「あなたには本当に申し訳ない事をした。」
呂蒙は甘寧を連れて母親の元に行き、歓待した話があります。
甘寧の料理番の話は、甘寧の激情家としての面がよく表れている様に思いました。
甘寧の性格
甘寧の性格や人心掌握術に関する記述が、正史三国志に残っています。
正史三国志によると、甘寧は粗暴で人を直ぐに殺したとあります。
先の料理番の話にある様に、甘寧は激情型の人であり、カッとなると歯止めが聞かなかったのでしょう。
しかし、甘寧はオープンな性格であり、将来への見通しも持っており、物惜しみせずに有能な人物を厚遇したとあります。
甘寧は怖いだけではなく、高い見識や智謀を持っていたとも言えます。
さらに、甘寧は勇敢な兵士を養い育てる事に務めたとあり、これが甘寧の強さの秘密だった様に思いました。
甘寧は怒らせると怖い人物ではありましたが、普段は気前が良い人物だったのでしょう。
どちらかと言えば、任侠向きの性格だとも言えそうです。
甘寧と淩統
甘寧は淩操を射殺した事で、淩操の子である淩統から恨まれていました。
甘寧と淩統で正史三国志と三国志演義の違いを解説します。
正史三国志の記述
甘寧と淩統の関係を示す資料として、正史三国志の注釈である呉書に記録が残っています。
呉書によれば淩統は父親を射殺された事で、甘寧を恨んでいたとあります。
甘寧も淩統に恨まれている事を知っており、淩統を警戒していたわけです。
孫権も淩統が甘寧の事を恨んでいる事を知っており、淩統には次の様に述べています。
孫権「甘寧に対して遺恨を晴らそうなどとしてはならぬ。」
孫権にとってみれば、甘寧も淩統も頼りになる将軍であり、失いたくなかったのでしょう。
ある時に、呂蒙の家で将軍達が集まり、宴会が行われました。
宴たけなわとなるや、淩統は剣舞を舞い始めます。
甘寧は淩統が殺気だっていると感じたのか、次の様に述べています。
甘寧「私も双戟の舞を披露致そう。」
甘寧も淩統に負けじと、戟を手に取り舞を始めたわけです。
甘寧と淩統の異常な空気に気が付いた呂蒙は、次の様に述べています。
呂蒙「甘寧の戟も見事であるが、儂には及ばぬ。」
呂蒙は戟と盾を手に取り、甘寧と淩統の間に割り込んで入りました。
呂蒙の機転もあり、淩統と甘寧は何事もなく宴会は終わったわけです。
孫権は淩統の気持の深さを汲み取り、甘寧に兵を率いて半州に駐屯する様に命じています。
孫権は甘寧と淩統が同じ場所にいない様に配慮した事が分かるはずです。
正史三国志を見る限りでは、最後まで甘寧と淩統は仲直りしなかった様に感じています。
三國志演義の記述
三國志演義を見ると、甘寧と淩統は劇的な展開で仲直りした事になっています。
三國志演義で孫権は北上する為に、濡須口に兵を進める事になります。
これに対し、合肥を守る張遼、楽進、李典らは曹操に援軍要請をしました。
南下した曹操の大軍に対し、甘寧が百人で夜襲を仕掛け活躍します。
甘寧の活躍を見た淩統は、負けじとばかりに、五千の兵を繰り出す事になります。
こうした中で、淩統と楽進の一騎打ちが始まります。
しかし、淩統と楽進の一騎打ちは中々決着が着かず、それを見た曹操が曹休に命じ、淩統に弓を射させています。
曹休の矢は淩統の馬に当たり、淩統は落馬してしまいました。
楽進はすかさず、淩統を槍で狙い、淩統は死の直前まで行ったわけです。
しかし、この時に呉軍から弓矢が飛んできて、楽進の顔面に矢が当たります。
淩統を救ったのは甘寧でした。
三國志演義では甘寧が淩統を救うのは、甘寧と淩統の因縁と友情の始まりという設定になっているわけです。
因みに、史実で楽進は「建安23年逝去」と書かれており、この話は史実ではないと言えます。
尚、楽進は名将にも関わらず、三国志演義では甘寧と淩統の引き立て役にされてしまい、気の毒だと考える人もいます。
甘寧の最後
甘寧の最後は史実では簡略な記述しかありませんが、三国志演義だとオリジナルの特別な最後を用意してあります。
正史三国志と三国志演義の甘寧の最後を解説します。
正史三国志の甘寧の最後
史実と考えられる陳寿が書いた正史三国志には、甘寧の最後は次の記述となっています。
「甘寧が死去すると、孫権はその死を痛惜した。」
甘寧が何年に死んだのかの記載もなく、最後の言葉や死因なども不明です。
しかし、近年では関羽が樊城の戦いで敗れた頃に、荊州で大規模な疫病が発生した事が分かっています。
疫病により樊城の戦いで活躍した呂蒙、蒋欽、孫皎なども亡くなった事が分かっており、甘寧も同じ様に疫病で亡くなったと考えられる様になってきています。
史実だと甘寧は夷陵の戦いの前に亡くなってしまったのでしょう。
三國志演義の甘寧の最後
三國志演義では、関羽が呉軍に殺害されると、劉備は怒りに身を任せて荊州に攻め込みました。
この時に、張飛が部下に殺されるなどもあり、劉備は義兄弟の関羽、張飛を失う結果となり、悲しみを深めて呉へ軍を進めます。
劉備軍の勢いは凄まじく、孫桓が敗れ夷陵城に籠城する事になります。
孫桓が敗れた孫権は、周泰、韓当、潘璋、淩統を援軍に向かわせています。
この時に甘寧は下痢を伴う病気でしたが、病を押して出陣しました。
呉軍は周泰らが援軍に向かっても不利な状況が続き、馬良が味方につけた蛮王の沙摩柯が甘寧に向かって攻撃を仕掛けて来たわけです。
甘寧は今の状態では勝てないと判断し退却しますが、沙摩柯が放った矢が甘寧の頭に命中します。
甘寧は頭に矢が刺さった状態で、富池口まで逃げ込みますが、最後は大木の下で命を落としています。
甘寧が亡くなった後に、鳥が大木の周りを数羽飛び回った話があります。
少し奇怪な亡くなり方ですが、甘寧は三国志演義ではオリジナルの死を用意されていたわけです。
尚、甘寧に致命傷を与えた沙摩柯ですが、呉の陸遜の火計が大成功し、蜀軍を大破した時に、沙摩柯は周泰に討ち取られています。
甘寧の仇は周泰が討ったとも言えるでしょう。
甘寧の評価
甘寧は高い智謀や戦闘能力を持ちながらも、人間性が粗暴であり扱いにくい人物だった様に思います。
実際に、甘寧は孫皎の下になりそうになりましたが問題があり、呂蒙の下で落ち着きました。
甘寧は孫権、呂蒙だからこそ使いこなせたのであり、他の主君であれば、誰しも扱える様な人物ではなかった様に思います。
ただし、劉備の様な人であれば、甘寧を上手く使う事は出来た様に感じています。
諸葛亮の下に甘寧がいたとすれば、魏延の様な状態になってしまった様にも感じました。
甘寧が天下二分の計を進言したり、読書を好んだ話を聞くと、孫子や呉子などは読んでおり、高い智謀も持っていた様に感じます。
甘寧は孫呉を代表する武将だと言えるでしょう。
レッドクリフの甘興将軍
赤壁の戦いを題材にした映画でレッドクリフがあります。
主人公は周瑜でしたが、呉の海賊出身の将軍として甘興将軍が登場しました。
甘興将軍のモデルは明らかに甘寧だったはずです。
レッドクリフで甘寧ではなく、甘興としたのは、最後に甘興将軍が戦死するシーンを描き、クライマックスを盛り上げる為だった仕様だった様に思います。
レッドクリフは前編と後編を合わせてみると、非常に長い映画ですが、面白い映画だと感じています。