王粲は正史三国志に伝がある人物であり、劉表や劉琮、曹操などに仕えた人物です。
王粲は文学の天才と言ってもよい人物であり、数多くの詩や賦を残しています。
王粲は孔融、劉楨、陳琳、阮瑀、徐幹、応瑒らと共に建安七子なる文学メンバーの一人に数えられています。
王粲が著した歴史書である「英雄記」や文学作品を纏めた「王粲集」などがあり、後世にも影響を残しました。
王粲は曹操を讃える為の詩を残すだけではなく、親交があった士孫瑞を讃えた詩などもあり、高い評価を得られています。
しかし、性格的な問題や冴えない風貌もあり、王粲は才能はありながらも、尊重されないなどもあったようです。
三公を輩出した一族
王粲は兗州山陽郡高平県の人だと、正史三国志の王粲伝に記録があります。
王粲の曽祖父の王龔、祖父は王暢は後漢王朝において三公を歴任しており、一流の名士だった事は間違いないでしょう。
宦官による清流派弾圧事件である党錮の禁が起きると、王粲の祖父である王暢は免職された話があります。
王粲の父親である王謙は何進に仕え、何進が自分の子を王謙の娘を嫁がせようしますが、王謙は断りを入れました。
名門意識が強い王家では、何皇后が霊帝に嫁いだ事で、権力を得た何進に対する嫌悪感もあったのでしょう。
こうした環境の中で、王粲は西暦177年に生まれた事が分かっています。
長安に移る
王粲の父親・王謙は何進の縁談を断わった事から、何進に嫌がれたのか後に病気になり免職にされています。
張角による黄巾の乱が勃発し終焉にすると、何進は宦官の粛清に乗り出しますが、逆に討たれてしまいました。
袁紹や袁術が宦官を撲滅させますが、少帝が行方不明となってしまい董卓が帝を保護した事から、実権を握りました。
しかし、董卓に対する反発は強く反董卓連合が結成され、陽人の戦いなどが起きますが、董卓は長安に都を移しています。
王粲伝に「献帝が西方に移ると王粲も長安に移住した」とする記録があり、王粲も董卓らと共に長安に移動したのでしょう。
董卓が長安に遷都したのは191年の事であり、この時の王粲の年齢は14歳だったと考えられます。
蔡邕に認められる
蔡邕は盧植を救った事もあり、董卓政権では良心とも呼べる存在でした。
蔡邕は中郎将に任命され、多くの賓客が訪ねてくるなど噂の人物だったわけです。
王粲が蔡邕に面会を求めると、蔡邕は、はきものを逆さまに履き、王粲を出迎えた話があります。
蔡邕は既に王粲の名を知っており、驚き慌てて対応したのでしょう。
王粲が蔡邕と面会した時に、王粲の容姿が貧相だった事もあり、周りの者は驚いた話があります。
ただし、蔡邕は王粲に対し、次の様に述べました。
蔡邕「この方は王公(王暢)の孫であり、特別な才能を持った人物であり、私も及びません。
私の家にある書籍や、私が書いた物は全て、王粲殿に与えてる事に致します」
蔡邕は王粲の事を高く評価し、多くの書物を与えたわけです。
蔡邕は王粲を見た目で判断せず、能力で判断したとも言えます。
仕官を断わる
王粲は17歳になると司徒に招かれ、詔勅により黄門侍郎に任命されています。
王粲が司徒に招かれた時には、董卓が王允と呂布により殺害され、蔡邕も処刑されています。
長安は董卓の配下であった李傕と郭汜が、賈詡の進言を受け長安に雪崩れ込み政権を樹立しました。
しかし、李傕や郭汜は天下を治められる人材ではなかったわけです。
長安は荒れていた事もあり、王粲は司徒も黄門侍郎も辞退して、仕官しようとはしませんでした。
劉表の元の赴く
王粲は混乱する長安を離れ、荊州の劉表の元に向かいました。
王粲は劉表と面会しますが、王粲は体が弱く風采も上がらず、それでいて王粲がおおまかな性格をしている事を嫌い、重用しなかったとあります。
蔡邕は王粲の中身を評価してくれましたが、劉表は王粲を外見で判断したとも言えます。
因みに、劉表は身長が八尺あり張飛や趙雲と同じだけの体格を持っており、自分と比べて王粲が貧相に見えたのかも知れません。
劉表政権下では王粲は重用されなかったのでしょう。
王粲は司馬芝や裴潜と親しくしていましたが、裴潜は司馬芝と王粲の前で劉表が失敗すると述べた話があります。
裴潜の劉表の評価の話が、後に王粲が漢水の畔での主演で、曹操を讃えた話しとも繋がってきます。
劉琮に降伏を決断させる
劉表は208年に亡くなり、劉琮が後継者となりました。
劉琮を後継者にする様に蔡瑁、張允、蔡夫人らの後押しがあり、黄祖が孫権に敗れた後に、長男の劉琦が江夏太守となり、劉琮が劉表の後継者に確定したわけです。
この時に北方を制圧した曹操が南下しており、劉琮は決断を迫られていました。
「文士伝」に劉琮が王粲の助言を求めていた話があります。
劉琮が王粲の意見を聞くあたりは、王粲は劉表には好かれませんでしたが、劉琮には好かれた事の表れにも感じています。
王粲は劉琮に対し「混乱した時代は皆が帝となる事を望み、多くの人が王侯になる様に願っている」と述べました。
王粲は時代の変化を見定めた者が勝者になると述べ、劉琮に曹操とではどちらが勝っているのか?と訪ねます。
王粲の問いに劉琮は答える事が出来ませんでした。
王粲は答えられない劉琮に対し、次の様に述べています。
王粲「曹操は人傑であり、袁紹を官渡で破り、孫権を長江の向こうに駆逐し、劉備を追いやり、烏丸を白登で破りました。
曹操が討ち果たした者は数多くおり、神の如くです。
これらを考えてみれば、誰に味方すればよいのかは明らかであり甲を巻き、矛を倒して、天命に順応し曹操に帰順するのが一番となるはずです。
曹操は必ずや貴方様(劉琮)を徳とし、重んじてくれます。
己を保ち、一族は全うされ、福を長く享受する事が出来ますし、後嗣に授ける事こそが最良の策です。
私は乱に遭っては流浪し、将軍(劉琮)の父子には重い恩があり、思い切って言葉を尽くして申し上げずにはいられなかったのです。」
王粲は曹操が袁紹に官渡の戦いで勝利し、残った袁譚、袁煕、燕尚を滅ぼし烏丸賊を破り、劉備を打ち破った事を述べ、曹操への降伏を劉琮に進言しました。
劉琮は曹操と戦う意思もあった様ではありますが韓嵩、蒯越、傅巽らの進言もあり、劉琮は降伏を決断しています。
ただし、樊城にいた劉備は曹操に帰順する事へ反対の意を表明しており、劉備には内密に降伏交渉が進められたわけです。
劉琮が降伏すると、劉備は孫権と共に曹操軍を赤壁の戦いや南郡攻防戦で破り、曹操の勢力は荊州北部まで後退しました。
しかし、王粲は曹操に仕え丞相掾となり、関内侯の爵位を与えられています。
尚、先ほどの王粲の言葉に孫権を倒したかの様な記述がある事など、裴松之はでたらめだと述べています。
実際の歴史を考えると、王粲の言葉から整合性を取るのは難しくなってしまうわけです。
裴松之は文士伝の著者である張隲に対しても、批判を加えている状態だと言えます。
祝いの言葉を述べる
王粲は劉琮が曹操に帰服する以前に、曹操と面識があったらしく、漢水の近くで宴会をした時に、次の様な祝いの言葉を述べています。
「現在の袁紹は河北で強盛を誇り、天下を併呑しようと考えております。
しかし、袁紹は賢士を用いる事が出来ず、賢者たちは袁紹の元を去っている状態です。
劉表は荊州の地を観望し、自分が西伯(周の文王)の様になれると信じています。
荊州には天下の桀人が集まっていますが、劉表は適所に任命する事が出来ず、国は危ういのに補佐がいない状態です。
曹操様は冀州を平定するや、鎧武者を従え、その地の豪傑を傘下に収め彼らを起用し、天下を横行しております。
漢中や長江を平定した時も賢人俊才を招き、彼らに官位を授けました。
曹操様の下では文人、武人ともに起用され英雄は力を尽くしておられます。
これこそ三王の行動と同じです。」
王粲は袁紹は配下の者を使いこなす事が出来ないと述べ、劉表は周の文王の真似をしているが、国は危ういと述べました。
それに比べ、曹操は優れた人材を適所に用いて、部下は力の限り任務をこなしていると絶賛しました。
王粲の口から出た「三王」は夏王朝の禹、殷の湯王、周の文王と同じであり、王朝の始祖になるのに相応しいと述べたに等しいはずです。
曹操は王粲の能力も認め軍謀祭酒に任命しました。
王粲は曹操が魏公に就任する時も、名前が挙がっており、魏国が出来ると衛覬、杜襲、和洽と共に侍中に任命された話があります。
王粲は博学多識であり聞かれた事で、応えられない事はなかったとされています。
正史三国志によれば新しい制度が出来た場合は、常に王粲が主宰したとあり、魏国で多いに活躍した事が分かるはずです。
尚、西暦213年に曹操が魏公に就任する話が出た時に、、曹操の魏公就任を受諾する様に進言したメンバーは下記の通りです。
聖人でなければ太平を招く事は不可能
正史三国志の司馬朗伝に、王粲と鍾繇が著した論文に、次の言葉があったと記述されています。
「聖人でなければ太平を招く事は不可能である」
中華の世界観で聖人と言えば、黄帝、堯、瞬に代表される三皇五帝の君主や夏王朝の禹、殷の湯王、周の文王などを指すのでしょう。
それに対し司馬朗は孔子の一番弟子である顔回や殷の湯王の参謀となった伊尹は聖人ではないが、彼らの様な人物を数代に渡って政治をさせたなら、天下太平を招く事が出来ると述べています。
王粲や鍾繇が君主の力を重視しているのに対し、司馬朗は優秀な臣下を数代に渡り輩出すれば、天下統一が出来ると考えたのでしょう。
抜群の頭脳
石碑を暗誦
正史三国志に王粲の記憶力に関する記述があります。
王粲は友人と歩いている時に、道端で石碑を見つけます。
友人は「暗誦する事が出来るか?」と問うと、王粲は「出来る」と答えました。
友人は王粲を後ろに向かせ、石碑の内容を述べさせると、王粲は一字も間違えずに石碑の内容を暗誦したわけです。
この逸話から王粲は石碑の内容を一瞬で暗記し、述べさせた事が分かります。
囲碁の盤を戻す
囲碁の見物をしている時に、盤がぐちゃぐちゃになってしまった事がありました。
王粲は元通りに並べると述べ、別の盤を持って来させ並べる作業に入ります。
元の盤は布で隠し見えないようにした話もあります。
王粲は別の盤に並べ始めると、完全に元通りにする事が出来たと言います。
王粲は見ただけで記憶が出来る「瞬間記憶」の持ち主だったのでしょう。
王粲は計算も得意で算法まで考案し、道理を極めたともあります。
常人では真似できない程の頭脳を持っていた事は間違いない様に思います。
努力の天才でもあった
王粲は「石碑」と「囲碁」の話から、天才的な頭脳の持ち主だったと思うかも知れません。
当時の人は王粲の文章が見事で、直ぐに出来上がる事から「あらかじめ作っておいたものを発表している」と思っていた話があります。
しかし、実際の王粲は意を込めて想いを張り巡らせ、それ以上に不可能な程に努力していたとあります。
王粲は「英雄記」を著しただけではなく、60篇ほどの詩、賦、論、議を著したとされています。
王粲は元々頭が良かったとは思いますが、努力をしっかりと行い「努力の天才」でもあったのでしょう。
王粲は曹操の子で天才的な詩人でもあった曹植とも親交があり「王仲宣誄」の評価は非常に高いと言えます。
鍾繇や王朗も認めた実力
『典略』に王粲の事が書かれており、王粲は才能がずば抜けており、弁論も臨機応変で見事だったとあります。
王粲は朝廷に提出する上奏文や様々な文章を提出していました。
鍾繇や王朗は魏の大臣ではありましたが、王粲の書いた文章に対しては、手を加えたり修正する事が出来なかったとあります。
王粲の文才に関しては鍾繇や王朗であっても、納得せざるを得ない様な出来になっていたのでしょう。
競争心の強い性格
王粲は先に述べた様に、優れた記憶力を持っており見識も高かったわけです。
曹操は物見に出ると王粲を同乗させる事が多かったと伝わっています。
しかし、王粲は競争心が強い性格であり、尊敬を受けた点では和洽や杜襲に及ばなかったとあります。
杜襲はある時に、曹操に一人で目通りし夜半まで過ごしました。
この時に、王粲は落ち着かず立ったり座ったりを繰り返し、その場にいた和洽に次の様に述べています。
王粲「いったい公(曹操)と杜襲は何を話しておられるのだろう」
和洽は「貴方は昼間に近似していれば宜しいのです」と、王粲を窘めた話があります。
曹操は王粲の能力は高く評価していましたが、尊敬の念を受けたのは和洽や杜襲だったのでしょう。
王粲の最後
王粲の最後の記述ですが、下記の記述が王粲伝にあります。
「建安21年(西暦216年)付き従い呉を征伐した。
22年(217年)春、道中で病死した。時に41歳だった」
上記の記述を見ると、王粲は呉の征伐に向かう途中で病死した事が分かります。
216年の10月に曹操が呉の討伐に向かい、217年に濡須口の戦いが起きた話があります。
216年と217年の濡須口の戦いの前に、曹操の陣営では疫病が猛威を振るった記録が残っています。
この時に王粲も病で亡くなってしまったと言う事なのでしょう。
曹操陣営の疫病の被害は甚大で、司馬朗は兵士達に薬を与えていましたが、司馬朗自身は薬を飲まずにいた事で、自身が病に掛かり病死した話も残っています。
曹操の軍中で疫病が蔓延し、兵士らも多くが病で倒れ、こうした中で王粲も感染し、疫病により亡くなったと見るべきでしょう。
王粲は天才的な頭脳は持っていましたが、体は弱かった話もあり、疫病に対しては免疫力が低かったのかも知れません。
因みに、217年に行われた濡須口の戦いですが、呉軍の徐盛や呂蒙の活躍があり、魏軍はいい所もなく敗れさりました。
王粲の子孫
王粲には二人の子がいた事が分かっています。
ただし、王粲の二人の子の名前は伝わっていません。
劉備は赤壁の戦い後に荊州を領有し、定軍山の戦いで勝利し曹操から漢中を奪う事に成功しました。
劉備が漢中王になると、荊州の関羽は北上を始め曹仁が守る樊城を包囲しています。
これが樊城の戦いであり幸運も重なり、関羽は于禁や龐徳の軍を破りました。
この時の関羽は波に乗っており、印綬を魏の領内でばらまき内紛を起こす様に仕向けています。
鄴では魏諷が反乱を企て、魏諷に同調したメンバーの中に王粲の二人の子がいました。
魏諷は劉偉、張泉、宋忠の息子、王粲の二人の子らと共に反乱を起こそうとしますが、陳禕が曹丕に密告した事で乱は未然に防がれています。
関羽も徐晃に敗れるなど、魏は窮地を脱しました。
王粲の二人の子は魏諷に加担していた事が明るみとなり、処刑されています。
『文章志』によれば、曹操はこの時に漢中に遠征しており、王粲の二人の子が処刑された事を知ると、次の様に述べた話があります。
曹操「儂がもし、その場にいたのであれば、仲宣(王粲)の跡継ぎがいなくなる様な事はさせなかったのに」
曹操は王粲に対し、高い評価をしており、王粲の二人の子が謀反に加担し、王粲の子孫が断絶した事を嘆いたのでしょう。
王粲の評価
陳思王植伝の楊修の言葉で「仲宣(王粲)は漢水の南にあって、並ぶ者はいなかった」とあり、王粲は当時から文学に対する評価が高かった話があります。
楊修は鶏肋などの言葉で有名であり、最後は曹操によって処刑されてしまいますが、楊修も頭脳明晰でした。
楊修も王粲の才能を認めているわけです。
『魏略』の呉質の項目では建安七子のメンバーである徐幹、応瑒、陳琳、劉楨、阮瑀らが評されており、王粲は次の様に述べられています。
「仲宣(王粲)だけは、辞・賦が上手であったが、残念な事に骨格が弱く、文に力強さがない。
しかし、王粲の優れた個所においては、過去の人にもひけはとらない出来である」
王粲は文章の弱さを指摘されながらも、文の巧みさにおいては多いに評価されたと見る事が出来ます。
王粲は文学の才能においては、一流の人物であったのでしょう。
王粲の能力値
三国志14 | 統率6 | 武力3 | 知力79 | 政治80 | 魅力57 |