曹洪は正史三国志に登場する人物で、主に軍事面で曹操を支えた功臣です。
曹洪は。豫州沛国譙県の出身だと伝わっています。
伯父の曹鼎は尚書令であり、曹洪を蘄春県長に任じた話があります。
曹洪は曹操の従弟であり、初期の頃から曹操と行動を共にしました。
特に董卓との戦いにおいて曹操は徐栄に大敗しますが、曹洪が馬を貸し与えた話しは有名です。
曹洪は軍事面では輝かしい実績がありますが、ケチな性格であり財貨を貪り女色を好みました。
太子時代の曹丕が曹洪に借金を依頼した時は断っており、根を持たれた後に曹丕により投獄された話もあります。
しかし、軍事面では間違いなく功績があり、曹操の覇道を支えた人物の一人だと言えるでしょう。
曹操の一族で初期の頃から付き従った夏侯惇、夏侯淵、曹仁、曹洪の4人を指して曹操四天王や曹魏四天王と呼ばれる場合もあります。
尚、曹洪は正史三国志では魏書の諸夏侯曹伝に下記の人物と共に収録されています。
天下に自分がいなくても
しかし、連合軍の諸将は戦意低く戦おうともせず、曹操は鮑信や張邈の助けを得て単独で董卓と戦う事にしました。
この時の曹操の軍には曹洪もいたわけです。
董卓は曹操に対し徐栄をぶつけて来ました。
滎陽の戦いが勃発しますが、曹操は大敗し衛茲が戦死するなど散々な結果となります。
こうした中で曹操まで自らの馬を失い生命の危機に脅かされる事態となります。
曹洪は自らの馬を曹操に渡そうとしますが、曹操は辞退しました。
曹操は遠慮しますが、曹洪は引き下がらず、次の様に述べています。
※正史三国志 曹洪伝より
曹洪「天下に私がいなくても問題はありませんが、貴方が天下にいないわけにはいきません」
曹洪は再び曹操を馬に乗せようとし、曹操は再び馬上の人となりました。
曹洪の人生を考えると、この時の曹洪が一番輝いていた様に感じています。
徐栄に敗れた曹操を救った時が、曹洪最大の名シーンだったとも言えるでしょう。
曹洪は徒歩で曹操に従い汴水に畔にまで辿り着きました。
曹洪は汴水の岸辺を歩き船を手に入れ曹操と共に、譙まで逃げ延びる事が出来たわけです。
この時に曹洪がいなければ曹操が亡くなってしまい三国志の世界は成立しなかったのかも知れません。
尚、曹操を破った徐栄ですが、この後に孫堅も撃破する手柄を挙げています。
揚州に赴く
戦いに敗れた曹操は兵士を多く失い軍を立て直さなければならない状態となります。
曹洪は揚州刺史の陳温と親しくしており、曹洪は陳温に助けを求めました。
曹洪は私兵一千を率いて陳温の元に赴く事になります。
ここで兵を募り廬江郡の精鋭武装兵二千を手に入れる事に成功しました。
さらに、東方の丹陽に行き数千を得て竜亢で曹操と合流する事になります。
この時に曹洪が集めた兵士は初期の曹操軍において中核を成したとも言われています。
ただし、丹陽兵などが乱を起こし曹操が自ら剣を振るい脱出するなどの困難もありました。
それでも、曹洪が集めた兵団は曹操の覇道を支える存在となります。
兗州の乱
194年に曹操は陶謙の討伐を行いますが、陳宮、張邈、張超らが兗州の大部分が反旗を翻し呂布を盟主にしようと画策しました。
これが兗州の乱です。
兗州を守っていた諸将の中で夏侯惇、荀彧、程昱らは曹操陣営に残りますが、兗州の大半は離反してしまいました。
当時は大飢饉もあり食料が不足していましたが、曹洪は本軍の前方を進軍し先に東平、范を占拠し食料を確保し本軍へ送っています。
後に曹操は濮陽の呂布や張邈と戦い勝利しました。
曹操が呂布に勝利を収めると、曹洪は反乱に与しなかった東阿を本拠地として済陰・山陽・中牟・陽武・京・密などの合計で10県以上を陥落させています。
曹洪の功績を曹操は高く評価し、鷹揚校尉に任命し、後には揚武中郎将に昇進しました。
帝を迎えに行くも阻止される
長安では李傕と郭汜の死闘が繰り広げられ献帝は、楊奉や韓暹に守られ洛陽を目指しました。
曹操陣営では荀彧と程昱が献帝を向か入れる様に進言し、曹操は曹洪に献帝を迎えに洛陽に向かわせています。
しかし、衛将軍の董承は曹操による献帝の保護を望んではおらず、袁術配下の萇奴が要害に籠り抵抗した事で、曹洪は進む事が出来ませんでした。
曹洪は献帝を迎えには行きましたが、任務は達成できなかったと言えます。
後に曹操と董承の間で和議が結ばれ献帝は、曹操の領内である許昌に入りました。
献帝が許に入ると曹洪は諫義大夫に任命されています。
曹操と同等の財産
魏略によると曹操が司空になった時に、自分が模範となり下の人々を見習わせようと考えました。
当時も毎年の税の徴収があったわけですが、本籍地の県に財産を調べさせています。
この時に譙県の令も曹操や曹洪の財産を調査したわけです。
役人は曹操と曹洪の財産を調査した結果として「曹洪の家の財産は曹操の家の財産と同等」としました。
曹操は結果報告があると、次の様に述べています。
※魏略より
曹操「儂の財産と子廉(曹洪)の財産が同じであるわけがない」
曹操は自分の財産と曹洪の財産が同じだとする結果を信じる事が出来なかったわけです。
魏略の曹操と曹洪の財産の話はここで終わっており、この後に曹操と曹洪の間でどの様なやり取りがあったのかは不明です。
後述しますが、曹洪はケチな性格をしており、それ位の財産があったのかも知れません。
因みに、曹操は婁圭を富貴の身にしてやり「婁圭は儂よりも財産があるし安楽である」と述べた話しがあります。
それを考えれば、曹洪が曹操の家よりも財産を持っていたとしても不思議ではないのかも知れません。
ただし、曹洪も婁圭も権勢においては、曹操の足元にも及ばなかったはずです。
官渡の戦い
呂布などの群雄を滅ぼした曹操と公孫瓚を破り河北四州を平定した袁紹の間で、天下分け目の官渡の戦いが勃発しました。
徐晃伝によると曹洪は徐晃と共に濦彊の賊・祝臂を打ち破る功績を挙げたと言います。
祝臂は袁紹に呼応し乱を起こし曹洪と徐晃で討伐したという事なのでしょう。
しかし、官渡の戦いの曹洪の見せ場は官渡の大本営の守備だと感じています。
曹操は局地戦では顔良、文醜を討ち取るなど勝利を得ましたが、袁紹軍の圧倒的な物量の前に後退を続けました。
こうした中で袁紹陣営の許攸が寝返り、北軍の兵糧庫が烏巣にある事を告げました。
曹操は楽進と共に自ら兵を率いて烏巣に向かい、官渡の大本営の守備を曹洪に任せています。
この時に袁紹軍では郭図と張郃の意見の対立があり、郭図は曹洪がいる曹操の本営を攻撃すれば、曹操は引き返し烏巣に救援を送るまでもないと主張しました。
張郃は曹洪が守る曹操の大本営は守りが高く攻撃しても落せないから、烏巣に救援を送るべきだと主張しています。
袁紹は決断を迫られますが、何故か反対したはずの張郃に曹洪が守備する大本営の攻撃を任せ、さらに烏巣にも救援軍を派遣しています。
袁紹は良く言えば圧倒的な戦力を武器に両方の作戦を展開した。悪く言えば中途半端な策を採用した。と言える状態でした。
曹洪が守る曹操の本営に張郃と高覧が攻撃を加えますが、曹洪は堅牢な守備を見せ敵を寄せ付けない活躍を見せます。
張郃は自分が反対した官渡の大本営を攻撃しているわけであり、これが成功してしまえば自分で自分を論破する事にもなり余り士気は高くなかった様にも感じています。
しかし、曹洪の守は固く粘り続け、そうこうしている内に烏巣の戦いで楽進が淳于瓊を斬り、曹操は袁紹の兵糧庫を全て焼きました。
これにより官渡の戦いの勝敗は決したわけです。
張郃と高覧は烏巣の淳于瓊が敗れた事を知ると、曹洪に降伏を願い出ました。
曹洪は張郃らを疑いますが、荀攸の進言により張郃と高覧の降伏が許されたわけです。
官渡の戦いでの曹洪の大本営防戦は見事な戦いだったと言えるでしょう。
官渡の戦いで大本営を守備する曹洪が敗れたなら、曹操は官渡の戦いで張郃と高覧に兵糧庫を焼かれ、戦いに負けていた可能性もあるはずです。
劉表を討つ
官渡の戦いが終わり袁紹が202年に亡くなると、曹操は北伐を志す事にします。
しかし、袁譚と袁尚は後継者争いをしても曹操が介入すれば、手を組む展開となりました。
郭嘉の進言により袁譚と袁尚は放置すれば互いに争うと考え、曹操は南の劉表に目を向け長沙で反乱を起こしていた張羨親子の救援を展開します。
曹操は軍を南に向けますが、想定よりも早く袁譚と袁尚が争った事で、軍を再び北進しました。
正史三国志の曹洪伝に曹洪が太祖(曹操)とは別に劉表を討伐した記述があります。
それを考えると、曹操は北に軍を移動させましたが、曹洪は劉表討伐を継続し荊州方面に残ったのではないかと感じた次第です。
曹洪は南下し舞陰・葉・堵陽・博望で劉表の軍の別将を破ったとあります。
曹操は曹洪の功績を評価し、厲鋒将軍に任命し、国明亭侯に封じました。
尚、曹洪が破ったとされる劉表の別将が誰なのかは記録がなく分かっていません。
曹洪は劉表の軍を破りましたが、劉表は長沙の乱を鎮圧しており、曹洪が単独で戦える相手では無くなっていたはずです。
劉表は新野に反曹操派の急先鋒である劉備を配置するなど、南下政策は曹操が袁氏を滅ぼすまで大規模な軍事行動は起こせなかったと考えるべきでしょう。
三国志演義では南郡の戦いで呉の韓当に一騎打ちで敗れた話しがありますが、正史三国志を見る限りでは曹洪が南郡の戦いに参戦した記録もありません。
阮瑀に辞退される
曹洪伝の記述によれば、さらに曹洪は曹操と共に各地を転戦し、都護将軍に任命されたとあります。
正史三国志の王粲伝に都護の曹洪が阮瑀を書記にしようと考えますが、阮瑀が辞退した話があります。
典略や文章志によると、阮瑀は曹洪の招聘を病気だと述べ応じなかったとあります。
しかし、曹操からの招聘があると阮瑀は即座に応じました。
曹洪に従わなかった阮瑀が曹操の招聘には即座に了承した理由は不明です。
一説では曹洪の蓄財や女色を好む人間性を問題にしたのではないか?ともされています。
ケチな性格
正史三国志に曹洪は家が裕福なのにケチな性格であったと書かれています。
曹洪のケチさを表す逸話として、曹丕が曹洪に借財を求め断った事が挙げられます。
魏略にも曹丕が曹洪に借財を頼む逸話があり、曹丕が東宮にいた頃の話だとしています。
東宮は太子の宮殿の事であり、曹丕が曹植との後継者争に勝利した後の事だったはずです。
魏略には曹丕は曹洪から100匹の絹を借りようとして、曹洪が曹丕の意向にそぐわなかったとあります。
曹洪は曹丕からの借金を断ったわけですが、曹丕は曹洪を恨む事になります。
ただし、曹洪は功臣であり曹操が生きているうちは、曹洪に手を出す事が出来ませんでした。
215年の張魯討伐でも曹洪は手柄を挙げていますが、自分の手柄を曹丕に伝えており、この辺りも曹丕が曹洪を嫌う理由だったのかも知れません。
武都の戦い
劉備は張飛、馬超などの天下に名が通った名将や呉蘭、雷銅などを下弁方面から侵攻させています。
曹洪は曹休、辛毗、張既らと共に迎え撃つ事となり、これが武都の戦いとなります。
尚、曹洪に所属された曹休や辛毗に対し、曹操は劉邦を例に出し苦言を述べています。
曹操は曹洪が蓄財に励み女性を好む事を知っており、曹休と辛毗に苦言を呈したわけです。
武都の戦いで曹操は総大将は曹洪としましたが、指揮権は曹休が持つ様に命じました。
曹操としても次世代の育成として、曹休を育てておきたかったのでしょう。
曹休に何かあっても、曹洪が対応できると考えていたはずです。
曹洪と曹休は協力し合い雷銅、呉蘭の軍を壊滅させ、張飛と馬超は撤退しました。
これにより武都の戦いは曹操軍の勝利が確定したわけです。
尚、武都の戦いには曹真や楊阜なども参加しています。
ただし、曹洪は定軍山の戦いでの夏侯淵の援軍となる事は出来ず、結局は漢中を失う事になります。
楊阜の諫言
正史三国志の楊阜伝に張飛と馬超を撤退に追い込んだ後に、曹洪が大宴会を催した話が残っています。
楊阜は過去に趙昂や王異らと主君の韋康の敵討ちを行い馬超を退けた人物でもあります。
大宴会で曹洪は余興の為に歌姫に薄いあやおりの衣装を身に着けさせ、太鼓を打たせました。
曹洪としては場を盛り上げる為のサービスでもあったのでしょう。
曹洪の計らいにより場は多いに盛り上がりますが、楊阜は曹洪の行動を問題視し諫言しました。
楊阜の言葉に感じ入るものがあったのか、曹洪は歌姫たちを下がらせ楊阜には座に戻らせ粛然としていたと言います。
楊阜との逸話は曹洪が女色を好むと同時に、人に対しての聞く耳はちゃんと持っているという事なのでしょう。
曹丕からの厚遇
曹丕が即位し魏の皇帝になると、曹洪は衛将軍に任じられました。
三国志演義では曹丕を皇帝にする為に献帝の御璽を預かる祖弼から玉璽を奪った話がありますが、これは史実ではありません。
史実では曹丕の時代に曹洪は驃騎将軍に昇進し、野王侯に封じられ千戸の加増があり合計で二千一百戸の領有を得たとあります。
曹洪は三公に次ぐ役職である特進となり、後に都陽侯に国替えされました。
曹丕は皇帝に即位したばかりの頃は、曹洪を厚遇したと言えそうです。
この頃になると、曹洪は戦場で槍働きをした記録がなく、ほぼ引退状態だったのでしょう。
兵権も国家に返上していたと思われます。
呉質の宴席
224年に呉質が参内しましたが、この時に魏の高官が呉質の宿舎に集まり宴会を催しました。
宴席には曹洪、曹真、王忠、朱鑠、呉質らがいたわけです。
この時に曹真は太っており、朱鑠が痩せていた事から、呉質は役者に太っている者と痩せている者に対し滑稽に喋らせました。
役者の言葉に曹真は激怒し怒りの矛先を呉質に向けました。
ここで曹洪と王忠は「ならば痩せている事を認めさせるべきだ」と、さらに曹真を煽るような事を述べたわけです。
曹真は剣を抜き呉質も威嚇で返しますが、朱鑠の言葉で場は何とか収まりました。
それでも、曹洪は曹真に対し馬鹿にした態度を取ってしまったと言えるでしょう。
曹丕に捕らえられる
食客の罪
曹洪は曹丕から厚遇されたわけですが、食客が罪を犯すと捕らえられてしまいました。
曹洪の食客が過去に納税を拒否し楊沛に足を叩きおられた話もあり、曹洪の食客は無法な者も多かったのでしょう。
曹丕が曹洪を逮捕した理由ですが、過去に曹丕が借金を曹洪にお願いした時に、曹洪が拒否した事が原因だともされています。
よく言われる所では、曹丕は夏侯尚の愛妾の話や于禁の最後の話などサイコパスな性格が目立ち、曹丕のサイコパスさが発揮された事が原因と考える人も多いです。
しかし、曹洪は曹操時代からの功臣であり、様々な方面からフォローが入る事になります。
曹真のフォロー
魏略によると、曹洪が捕らえられた時に、曹丕の側に曹真がいたとあります。
ここで曹真は曹丕に、次の様に述べました。
※魏略より
曹真「今の状態で曹洪を処刑してしまったなら、曹洪は必ずや私が誣告したと思う事でしょう」
曹真は曹洪を処刑してしまえば、曹洪に恨まれるのは自分だと述べ、曹洪を処刑しない様に嘆願しました。
曹真は過去に曹洪から太っている事をネタにされていますが、曹洪を恨む事もなく危機に際してフォローを入れたわけです。
三国志演義での曹真は諸葛亮に敵わない無能な将軍として描かれていますが、史実の曹真は王族としてのプライドの高さはありますが、人格としては非常に優れていました。
曹真は理由をつけて曹洪を庇いますが、曹丕は次の様に述べました。
曹丕「儂が自ら曹洪を始末するのだ。なぜ、お前と関係があると言うのだ」
曹丕は曹真の言葉を払いのけて、曹洪の処刑を決行しようとしたわけです。
曹洪の罪は「死罪」という程のものでもなく、誰が見ても「やりすぎ」と考えた部分もあったのでしょう。
卞氏のフォロー
曹洪の命は風前の灯火となってしまいますが、ここで曹丕の母親である卞氏が曹洪を救う為に動きました。
卞氏は卞皇后とも呼ばれ曹丕だけではなく、曹彰・曹植・曹熊の母親でもあります。
魏略によると卞氏は、次の様に曹丕を諫めました。
※魏略より
卞氏「梁で敗れた時に、子廉(曹洪)がいなければ、今日という日は無かったのですよ」
卞氏が曹操が董卓配下の徐栄に敗れ馬を失った時に、曹洪が励まし自分の馬を曹操に差し出した事を覚えていたわけです。
実際に、曹操が徐栄に敗れた時に、曹洪がいなければ曹操は単なる後漢王朝の忠臣で終わっていた可能性が高い様に感じています。
さらに、正史三国志によると、卞氏は皇后の郭氏に、次の様に述べました。
※正史三国志 曹洪伝より
卞氏「曹洪が処刑されたなら、明日にでも私は帝の元に行き貴方の皇后の位を剥奪する様に働き掛けます」
卞氏は脅しとも取れる言葉で郭氏に迫り、郭氏は涙を流し曹丕に曹洪の助命嘆願をしました。
曹丕は母親と妻から「曹洪を処刑しない様に」と言われ、曹洪の処刑を強行する事が出来なくなってしまったのでしょう。
曹丕は曹洪の処刑を取りやめました。
曹洪の財産の行方
正史三国志の曹洪伝によると、曹洪は死罪は免れますが、官職は免じられ爵位及び領地は削られたとあります。
曹洪の命の次に大事だと思われる財産が減らされてしまったわけです。
正史三国志だと曹洪が功臣であった事から多くの者が、曹丕のやり方に釈然としなかったとあります。
しかし、魏略の方では、ここでも卞氏のフォローがあり、没収された曹洪の財産は再び曹洪の元に返って来た事になっています。
曹洪の謝罪
魏略によると、曹洪は曹丕に捕らえられた時に「もう助からない」と考え観念していたとあります。
しかし、思いがけず釈放されると大喜びし、謝罪文を上書しました。
※魏略より
私は若年の頃より道理に従わず、間違った人間の仲間入りをしてしまいました。
長期間に渡り不相応な身分の職務をしており、そのおこぼれに預かってきた次第です。
私は自らをわきまえず、充足を足るとする考えも持ち合わせていませんでした。
それでいて、山犬や狼の如き性質を持ち、老いぼれてからは益々強欲となり貪って来た次第です。
欲を抑える事も出来ず、法を犯す事になってしまいました。
私の罪は三千を超える程であり、普通に考えれば許して貰える事ではありません。
私は処刑されて市場に晒されて当然の身であり、お許しを賜わる事が出来るような者ではないはずです。
しかし、天恩を賜わり肉体は生き返りました。
私は太陽を仰ぎ見て心霊に背いた事を恥ずかしく感じますし、うつむいては過失を熟慮し慚愧に震え恐怖しています。
首を自分で差し出す事も出来ず、宮門に拝礼しささげ文を奉り真情を口に出し述べたいと考えている次第です」
曹洪は自らが反省していると述べ、ある意味、曹丕に媚びるような謝罪をしたわけです。
曹丕は再び曹洪を逮捕する様な事はありませんでした。
曹洪逮捕事件はなぜ起きたのか
曹洪の逮捕事件ですが、曹丕が曹氏一族の力を削いでおきたいと考えていたとする説があります。
曹丕にとって一族というのは、自分の存在を脅かす存在だったとも考えられます。
実際に曹植との後継者争いは激化しており、死人も出た程ですし、弟の曹彰も帝位を狙っていたかの様な話しもあります。
さらに、曹植との後継者争いで曹丕を推したのが名士達であり、名士達を厚遇しなければならないと言うのもあったのかも知れません。
こうした中で、曹洪の様な元から嫌っており、一族の功臣でもある人物の力を削ぎたいと考えた説です。
さらに言えば、既に曹洪は戦場に出なくなっており、曹魏にとっても絶対に必要だという存在でも無かった事でしょう。
逆に司馬懿や陳羣の様な名士を曹丕は重用しました。
後に曹丕の一族の力を削ごうとした事が逆に、司馬懿の台頭を招き魏の滅亡を加速したとする見解もある状態です。
乳母の当
正史三国志の司馬芝伝に特進の曹洪の乳母の「当」が臨汾公主の侍女と共に無澗山の神に仕え獄に入れられたとあります。
これは曹洪の乳母の当が異端信仰を行い獄に入れられたという事なのでしょう。
ここでも卞氏は当を助けようとした話があります。
しかし、司馬芝は許さない様に上申し、刑は執行されました。
性格に問題があったと考えられる曹洪が天寿を全う出来たのは、卞氏による所も大きいと感じています。
曹洪の最後
曹叡が皇帝になると、曹洪は後将軍となり楽城侯に封じられ千戸を領有したとあります。
後に曹洪は再び特進となり、驃騎将軍に復帰しました。
曹叡は皇族優遇策を推進しており、曹洪は再び厚遇されたという事なのでしょう。
しかし、曹洪も年齢には勝たず太和6年(西暦232年)に亡くなりました。
既に夏侯惇、夏侯淵、曹仁と曹魏四天王と呼ばれた面子は死去しており、最後の一人であった曹洪も亡くなった事になります。
曹操時代前期に活躍した功臣の大半が亡くなっており、戦場に出なくなった曹洪も安らかに永眠したと言えるのではないでしょうか。
尚、曹芳の時代に曹操の元で功績があった臣下が曹操の霊廟と共に祀られており曹洪も含めた20人が選出されています。
曹洪の子孫
曹洪が亡くなると子の曹馥が侯の位を継ぎました。
過去に曹操は曹洪の領地を分割し、既に子の曹震は列侯となっています。
曹洪の娘は美人だったと伝わっており、荀粲に嫁ぎました。
荀粲は癖が強い人物だったと伝わっています。
曹洪の族父の曹瑜は誠実で慎み深かったあり衛将軍にまで昇進し列侯に封じられました。
曹洪の評価
曹洪ですが、曹操陣営の初期において絶大なる功績を挙げたと言えるでしょう。
性格に問題があった様ではありますが、曹操に対しては忠実であり忠臣と呼ぶ事が出来るはずです。
曹丕により窮地に陥った時も曹真など多くの人物がフォローした事を考えると、人望はあった様に感じました。
張郃が231年に亡くなっている事を考えると、三国志の前半から活躍した人物の中では、最も遅くなくなったのが曹洪ではないかとも感じています。
曹操時代を最後に戦場に立たなかったのが長生きの秘訣だったのかも知れません。