三国志

黄忠の史実・劉備の入蜀や夏侯淵を破るなど活躍した猛将!

2021年4月6日

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宮下悠史

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黄忠と言えば、蜀の中でも非常に優れた将軍で、正史三国志では「関羽張飛・黄忠・馬超趙雲」で同じ伝に治められています。

これが三国志演義では、蜀の五虎大将軍となり非常に人気があります。

黄忠が劉備の配下になったのは遅く、赤壁の戦い後に、荊州を保有した時です。

尚、黄忠は老人と言う事になっていますが、正史三国志では年齢については記載がありません。

ただし、関羽が黄忠と同列になるのを嫌がり「老いぼれ」扱いをした事で、「老人」だと考えられたのでしょう。

「老いてますます、盛んな人」としても有名な人でもあります。

今回は、三国志演義の黄忠と正史三国志の黄忠を見ていきたいと思います。

諸葛亮、劉備、関羽に見る「黄忠の老いぼれ」扱いについて考察してみました。

因みに、上記の画像は横山光輝さんが描く漫画三国志の黄忠の一コマです。

老将とはいえ非常に凛々しく描かれています。

尚、春秋戦国時代廉頗も年老いてからも活躍した武将であり、黄忠の姿と似ていると考える人もいるようです。

三国志演義の黄忠

三国志演義の黄忠ですが、史実の黄忠と比べて活躍を盛っています。

関羽と一騎打ちをしたり、黄忠の最後のシーンは史実にはない話です。

実際に、陳寿の書いた正史三国志では黄忠の記述は少なく、それだけでは五虎将軍としてインパクト不足と言えます。

それを考えて、三国志演義の著者である羅貫中は、黄忠の話しを盛ったと自分は考えています。

関羽と一騎打ちをする

黄忠が三国志演義に登場するのは、赤壁の戦い以後です。

赤壁の戦いは、魯粛曹操と戦う事を主張して、周瑜が実践指揮官に任命されています。

周瑜は、黄蓋などの意見を聞き取り上げて、火計により勝利を収めました。

曹操の方も疫病が発生していた事もあり、江陵を曹仁に任せて北に撤退したわけです。

周瑜は、江陵を攻めますが1年以上かかって、曹仁を破り江陵を取りました。

その間に劉備は、劉度金旋趙範韓玄を破っています。

この韓玄の配下であり、弓の名手として登場するのが黄忠です。

韓玄は長沙を守っていたわけですが、劉備は関羽をやって戦いを挑みます。

関羽は一騎打ちを挑むと、黄忠が応じています。

関羽と黄忠は、互角の一騎打ちを展開しますが、黄忠の馬が躓いて倒れてしまいます。

ここで関羽が攻撃を仕掛けていれば、勝利したわけですが、関羽は正々堂々と戦って勝つことをモットーにしている事から黄忠を追撃しませんでした。

この日の一騎打ちは、ここで終わるのですが、翌日に再び対決する事になります。

この時は、黄忠は得意の弓矢を使い、関羽の帽子の天辺の部分を弓で射たわけです。

本当であれば射殺出来る腕前だったようですが、昨日の追撃しなかった事への恩返しのつもりで矢を外しています。

これは三国志演義では、美談となるわけですが、黄忠の主君である韓玄は黄忠が内通していると思い首を斬ろうとします。

しかし、同じく韓玄の配下である魏延が韓玄の首を斬り落とし、劉備に降伏したわけです。

主君が死んでしまった事で、黄忠も劉備の臣下となります。

尚、関羽と黄忠の一騎打ちの話しですが、敵を倒せるのに信義とか考えて、倒さないのは納得がいきません。

自分が卑怯者なだけかも知れませんが、戦いでは多くの兵士が死ぬわけで、それを信義とか考えてやるのは、良くないと思いました。

これで関羽か黄忠のどちらかが死んでしまったら、死んでしまった方は天下の物笑いになったと思われます。

三国志版の「宋襄の仁」となっていた事でしょう。

この黄忠と関羽の一騎打ちに関しては、過去に記事にしましたので読んでみてください

定軍山の戦いで夏侯淵を斬る

劉備は、荊州を支配下に治めると、劉璋がいる益州を手に入れる事を諸葛亮や龐統から進められています。

内応者として、劉璋側の孟達、張松、法正などがいました。

落鳳坡で龐統が死ぬ事故的な事はありましたが、張飛などの活躍もあり蜀を手に入れています。

関羽だけは荊州を任されて、お留守番をしていました。

益州を手に入れた劉備は、漢中を手に入れようと考えるようになります。

漢中は、曹操が張郃夏侯淵に守らせていました。

漢中を攻め落とすのに、張郃と戦う将軍として自薦したのが黄忠です。

しかし、諸葛亮は「黄忠では難しい」と却下しようとします。

その言葉を聞いた黄忠は、向きになり「まだまだ自分は健在で老いてはいない」という事をアピールします。

それを見た諸葛亮は、黄忠に出撃の許可を出したわけです。

黄忠は副将として、同じく老将である厳顔を選んでいます。

厳顔を選んだのは、老人扱いされた黄忠の意地だったのでしょう。

黄忠と厳顔を心配した趙雲が大丈夫なのか?と心配するシーンもありますが、諸葛亮は笑いながら大丈夫だと答えるシーンもあります。

黄忠と厳顔は、任地に到着するわけですが、「この年より達はなんだ?」と味方にも侮られてしまいますし、魏の張郃も敵将が黄忠と厳顔だと知ると侮られています。

しかし、黄忠は驕兵の計を考え出して、魏の張郃や夏侯尚韓浩を破っています。

韓浩は、韓玄の兄という設定になっていて、蜀を倒す事に燃えていたわけですが、黄忠に討ち取られています。

黄忠と厳顔のタッグは見事に、魏軍を破ったわけです。

張郃らを破ったわけですが、次は夏侯淵と対決する事になります。

ここで蜀軍は軍議を開くわけですが、黄忠はまたもや自分が戦いたいと自薦します。

しかし、諸葛亮は「張飛でないと夏侯淵の相手は務まらないから、張飛を呼び寄せる」と言い出します。

これにまたもや、黄忠は自分が健在だと言う事をアピールし、出撃の許可を貰い定軍山に蜀軍を率いて出陣するわけです。

この戦いは黄忠の軍師として法正が参戦しています。

法正は高い山を取る事を進言して、夏侯淵の陣を見る事で相手を苛立たせています。

ここでは、趙雲の活躍などもありましたが、黄忠が見事に夏侯淵を討ち取り大勝利を収めています。

黄忠は定軍山の戦いの勝利に大きく貢献しました。

劉備は、曹操に対しては負け続けていましたが、黄忠の活躍もあり曹操から漢中の地を奪い取っています。

五虎将軍となる

劉備は、曹操から漢中を奪うと漢中王に即位します。

この時に、漢中での黄忠の大活躍を認めて、五虎将軍に任命しています。

五虎将軍とは、蜀の将軍では最高位に位置します。

黄忠の他のメンバーは、関羽、張飛、馬超、趙雲です。

しかし、関羽はプライドが高く黄忠と同じ位に就くのは嫌だと言い出します。

費詩が関羽を巧みに説得した事で、関羽も納得し五虎将軍が誕生したわけです。

三国志演義の不思議な所なのですが、関羽と黄忠は、長沙で一騎打ちをしています。

この時に、関羽は黄忠が義の武人だと言う事や一騎打ちの強さ、弓の巧みさなどを見ているはずです。

明らかに黄忠の事を認めているような発言すらあります。

それにも関わらず、五虎将軍就任の時に黄忠の事を「老いぼれ」と馬鹿にし、同列になるのは嫌がるのは明らかにおかしいと思いました。

三国志演義の羅漢中は、この辺りはもう少し辻褄が合うようにした方がいいのでは?と思った次第です。

黄忠の最後は夷陵の戦いで死亡

荊州にいた関羽は、劉備達に連動するかのように北上して魏を攻める事になります。

于禁龐徳(ほうとく)などの魏の将軍を破りますが、呉の孫権が同盟を破棄して呂蒙が本拠地を襲います。

さらに、北方からは徐晃などの援軍が到来した事で撤退を決意しますが、最後は呉に敗れて首を斬られています。

劉備は関羽の死を聞くと悲しみ、報復を考えて呉に攻めこもうと考えます。

諸葛亮や趙雲は反対しますが、張飛が熱く語った事もあり劉備は呉に攻め込んだわけです。

しかし、呉軍と対峙する前に、張飛が部下の張達と范彊の恨みを買い暗殺されてしまいます。

これにより劉備は、さらなるショックを受けますが、復讐に燃えて呉を攻めたわけです。

この時に黄忠も劉備に従い参戦しています。

ここにおいて夷陵の戦いが勃発する事になりました。

この時に、関羽の子である関興や張飛の子である張苞が敵を蹴散らして大活躍したわけです。

関興と張苞の活躍を見た劉備は思わず「昔から付き従ってきた将は、年老いて役に立たなくなってしまったが、関興と張苞がいれば安泰だ」と言ってしまいます。

これを聞いた黄忠は「自分が使い物にならないと言っている」と思い、怒って敵陣に突撃を掛けたわけです。

因みに、三国志演義の設定ではこの時の黄忠の年齢は75歳であり、かなり高齢となっています。

黄忠は呉の潘璋を散々に蹴散らすのですが、やっぱり黄忠は老人でした・・。

呉の馬忠の矢が、黄忠に当たってしまい深手を負ってしまいます。

深手を負った黄忠を、関興と張苞の二人が助け出し劉備の元に届けたわけです。

深手を負った黄忠を見た劉備と黄忠には次のようなやり取りがありました。

劉備「貴公に、傷を負わせてしまったのは自分の責任だ」

黄忠「陛下(劉備のこと)天下をお取りください・・・」

そういうと、黄忠は劉備の手の中で息絶えたわけです。

劉備は義兄弟である関羽や張飛の死でさえ、看取る事は出来ませんでした。

しかし、黄忠の死は見届ける事が出来たわけです。

同じ五虎将軍の一人である馬超は病死であり、最後は劉備が見守る中、同族の馬岱を劉備に託して死んでいます。

趙雲は、息子である趙統、趙広が諸葛亮に死の報告をしただけです。

それを考えれば、五虎将軍の中では黄忠の死にざまが一番カッコよくも感じます。

正史三国志には、夷陵の戦いに黄忠が参戦した記録はなく、黄忠の最後は三国志演義の創作だと言えます。

しかし、三国志演義の著者である羅貫中は粋なことをしたと言えるでしょう。

黄忠の最後は感動的に仕上げられています。

ただし、夷陵の戦いは陸遜の火計により劉備は大敗しています・・・。

正史三国志の黄忠

正史三国志の黄忠ですが、蜀書の関張馬黄趙伝第六に列伝があります。

関羽・張飛・馬超・黄忠・趙雲の5人を同格とみなして同じに収めたとされています。

ただし、関羽・張飛・馬超・黄忠の4人は前後左右将軍になるなど、元帥ともいえる役職ですが、趙雲だけは役職はかなり下です。

しかし、趙雲は同等の働きをしたと陳寿に見なされて、同列に扱ったのでしょう。

黄忠は、列伝の部分では4番目に書かれてはいますが、記述で言えば一番短いです。

関羽伝と比べてみると、文字数で考えれば八分の一位しかありません。

厳顔と黄忠で老将コンビを結成した記述も存在しません。

さらに、注釈を書いた裴松之のコメントもなく非常に記述が少ないです。

尚、正史三国志には黄忠が「老人」だったという記載はなく、年齢も分かっていません。

ただし、関羽が黄忠の事を「老いぼれ」といい見下した発言はあります。

劉表の配下となる

正史三国志によると、黄忠は最初は劉表に仕えた事になっています。

黄忠は南陽郡出身だと言う記述があるので、荊州出身なのでしょう。

同じく荊州南陽郡出身の黄姓で、蜀の光禄勲になった黄柱がいますが、関係性は不明です。

江夏太守の黄祖とも姓は同じですが、黄祖の出身地が不明であり、黄忠との関係は分からないとしか言いようがありません。

黄忠は南陽郡出身だった事で、荊州を治める劉表に、そのまま仕えたのだと思われます。

劉表配下では、中郎将になった記述があります。

さらに、劉表からは劉磐と共に長沙の攸県の守備を任されています。

孫策は江東を支配下に治めていましたが、劉磐の事を警戒していたという話が残っています。

孫策は劉磐対策として、太史慈を配置した話があります。

そのため、太史慈と黄忠は戦った可能性があるでしょう。

ただし、太史慈の能力が高く侵攻は控えるようになったようです。

韓玄に仕える

曹操は袁紹官渡の戦いで破り、袁譚・袁煕・袁尚なども撃破して北方を安定させます。

曹操は荊州の劉表が亡くなり、劉琮が後を継ぐと南下を始めています。

劉琮は、、曹操に降伏するわけですが、劉備は南下して呉の魯粛に会い孫権と同盟を結びます。

この時に黄忠は、劉備達には合流をせずに、そのまま任地である長沙に残ったようです。

曹操は長沙を治める魏の長官として、韓玄を送り込んで来たのでしょう

これにより黄忠も韓玄の部下となったのだと思われます。

劉備の配下となる

孫権と曹操の間で赤壁の戦いが起こりますが、大都督である周瑜の活躍もあり呉が勝利します。

周瑜は江陵を取りに行くわけですが、その間に劉備は荊州四郡である長沙、零陵、武陵、桂陽を取ったわけです。

三国志演義では、関羽、張飛、趙雲らの活躍がありましたが、史実だと武陵の金旋だけが戦い、その他は降伏したとだけ書かれています。

黄忠の上司である韓玄は、戦わずに降伏した可能性が高く、三国志演義のように切れやすい性格だったとか、疑心暗鬼だったとする話はありません。

多分ですが、韓玄は劉備に降伏した後は、北方に帰ったのではないかと思われます。

黄忠ですが、劉備の配下となっています。

長沙で関羽と一騎打ちもしていませんし、弓の腕を見せた記録も正史三国志にはありません。

尚、三国志演義だと韓玄の弟が韓浩となっていますすが、正史三国志には韓玄の弟が韓浩だった記述も存在しません。

劉備の入蜀でも活躍

劉備は、諸葛亮や龐統と策を練り、益州の劉璋の土地を奪う事を考えます。

劉璋を助ける振りをし、益州に進軍しています。

劉璋配下の王累や厳顔などは反対するわけですが、劉璋は益州に劉備を入れてしまったわけです。

途中で劉璋は、劉備の企みに気が付き全面戦争となります。

この時に、張飛が厳顔を破ったり、戦いは劉備軍が優勢でした。

正史三国志によれば、黄忠は葭萌(かぼう)より引き返して劉璋を攻撃したとあります。

黄忠は真っ先に敵陣に攻撃を仕掛けて、その勇敢さは三軍の筆頭であったと記載されています。

これを見る限りでは、劉備の入蜀ではかなり大活躍した事は間違いないでしょう。

さらに、勇猛な武将だった事が分かります。

劉備の入蜀は、順調に進み残すところは、劉璋のいる成都と雒(らく)城のみとなりました。

城を守っていたのは、劉璋の子である劉循張任です。

城は龐統が指揮を執って攻めていましたが、一向に落ちる気配がありませんでした。

1年ほど経過しても、龐統は落とす事が出来なかったわけです。

劉璋軍の城が次々と陥落する中で、龐統が指揮を執る城だけは落とす事が出来ません。

龐統は戦略を練るのは得意でしたが、現場で城を落とすのは苦手だったの可能性もあります。

もしくは、劉循と張任の守が鉄壁であり、隙が無く落とせなかった可能性もあります。

龐統は、城を落とせずに焦ったのか、自ら矢が飛び交う前線に行き指揮を執る事にしました。

しかし、この時に、矢を受けてしまい死亡しています。

この龐統の軍にもしかしたらですが、黄忠もいた可能性があります。

猛将黄忠と知将龐統が上手くかみ合わずに、城を落とせなかったのかも知れません。

劉循や張任がしっかりと守りを固めていて、落とす事は出来なかった事も十分に考えられます。

龐統は不慮の事故のようなもので亡くなってしまいましたが、その後は城を陥落させて、馬超が降伏してくると成都の劉璋も降伏しました。

これにより劉備は、益州の主となっています。

ここでの黄忠の功績は絶大だったはずです。

夏侯淵を破る

三国志演義では、黄忠が夏侯淵を破った事になっていますが、これは史実です。

正史三国志の黄忠伝によれば、漢中の定軍山の戦いにおいて夏侯淵を攻撃したとあります。

夏侯淵の軍勢は精鋭で非常に強かったが、黄忠は鉾を突き立てて進撃して、率先して兵士を励ましたとあります。

さらに、鐘と太鼓は天が震えるほどで、歓声は谷を動かし、一度の戦闘で夏侯淵を斬ったと記録されています。

一度の戦闘で勝ったと言う事は、黄忠の軍が圧勝したと言う事でしょう。

実際に、黄忠伝には夏侯淵は大敗北を喫したとあります。

定軍山の戦いの描写を見ても、圧倒的に黄忠の軍に勢いがあった事が分かります。

この勝利を聞くと劉備は、黄忠を征西将軍に任命しています。

後将軍となる

劉備は曹操から、漢中の地を奪取すると、漢中王に即位しました。

劉備を漢中王に推挙した人物の中に「征西将軍の臣黄忠」の名前が見えます。

下記が黄忠と共に劉備を漢中王に推挙した代表的な人物です。

馬超許靖龐羲射援諸葛亮関羽
張飛黄忠頼恭法正李厳

劉備は、黄忠の入蜀や漢中での戦いを評価して「後将軍」に任命しようとしました。

しかし、諸葛亮は黄忠の後将軍に対して、難色を示します。

張飛や馬超などの入蜀や漢中での戦いを見て来た臣下は文句は言わないが、関羽は別だと言うわけです。

劉備は、長年勝てなかった曹操に勝利の立役者となった黄忠を高く評価し「関羽は自分で説得する」と言い後将軍に任命しました。

この時に関羽は文句を言ったのは、三国志演義と同じです。

史実でも三国志演義と同様に、費詩になだめられて、結局は関羽は前将軍となっています。

前後左右将軍は、関羽、黄忠、張飛、馬超の4人となり蜀の軍事の中心人物として期待されたわけです。

黄忠の最後と子孫

黄忠は、後将軍になったわけですが、その翌年には亡くなったと黄忠伝に記載があります。

どの様に亡くなったのかは記載がなく、最後はどうだったのかは分かりません。

ただ、剛侯の諡号を追贈された記述があります。

入蜀や定軍山の戦いの剛勇な所を見れば、剛侯と言うのは黄忠に相応しい諡号だとも言えるでしょう。

尚、前後左右将軍になった関羽・黄忠・張飛・馬超ですが、関羽と黄忠は220年に死亡、張飛は221年に死亡、馬超は222年に死亡しています。

前後左右将軍は、史実では3年のうちに4人全員が亡くなった事になっています。

さらに、劉備も223年には死亡していますので、蜀漢にとっては打撃が大きかった事でしょう。

黄忠の子孫ですが、黄叙という息子がいたようですが、黄忠よりも先に亡くなっていました。

黄忠の後継者は無く断絶した事も、正史三国志には記載があります。

黄忠が老人にされてしまう理由

黄忠は正史三国志には、何歳だったのか?の記載がありませんが、三国志演義では老人として描かれています。

黄忠が老人になってしまう原因ですが、関羽が黄忠の事を「老いぼれ」扱いした事が原因でしょう。

一説によると関羽の言う「老いぼれ」というのは、差別用語であって、本当に老人ではなかったとする説もあります。

関羽が黄忠を見下すために使った言葉だという説です。

それを考えると、黄忠の顔が実年齢よりも老けていた可能性もあります。

さらに、自分の息子である黄叙の方が先に亡くなっているのも、老人だと考えられる要素となります。

黄忠が長生きをし過ぎてしまって、息子の方が先に死んでしまったと言う事です。

しかし、黄忠が老人であれば、どこからか養子を貰ってもおかしくはないはずです。

諸葛亮も最初は、子供が出来ずに呉の諸葛瑾から養子を貰っています。

それを考えると、黄叙は夭折であり、黄忠がまだまだ若かったために、養子をとらなかった可能性はないでしょうか?

実際に、この辺りは実際の黄忠でないと分からない部分がありますが、老人では無かった可能性も残っているでしょう。

ただし、老人だったとしても、老いても活躍出来る黄忠は理想の人物とも言えるでしょう。

中国では老いてもますます盛んな人を「老黄忠」と呼ぶそうです。

黄忠が五虎将軍最強だった?

黄忠が五虎将軍の中で最強だったとする説があります。

「黄忠五虎将最強説」ですね。

この理由ですが、黄忠だけは三国志演義の中では、圧倒的に老人として描かれているのが原因です。

つまり、武器、馬、鎧、年齢などを全て同じ状態にすれば、黄忠が最強なのでは?と考えられてもおかしくはありません。

黄忠は年寄りにも関わらず、関羽と互角の一騎打ちをしたり、名将である張郃夏侯淵を破っているからです。

どんな人間も20歳と60歳では圧倒的に、20歳の頃の方が体力もあり強かったはずです。

60歳の方が経験値は高いかも知れませんが、戦かうとなると体力がついてきません。

そのため、五虎将軍の中で条件を合わせて対決をしてみれば黄忠が最教でもおかしくはないでしょう。

実際に、戦わせる事は不可能だと思いますので、結果は分かりませんが・・・。

ただし、以前に五虎将軍で誰が最強なのか?のアンケートを取ったら、張飛が圧倒的に多かったです。

関羽の言葉で、自分よりも張飛の方が強いという言葉があったのが、大きな原因だと言えるでしょう。

因みに、五虎将軍の中で一番強いと思われていなかったのが馬超でした・・・。

馬超もかなり強いと思うのですが・・・。

しかし、条件を全て整えた上で戦えば黄忠がナンバーワンの強さを誇った可能性は十分にあるはずです。

関羽、劉備、諸葛亮に見る黄忠への老いぼれ発言について

三国志演義では、関羽、劉備、諸葛亮が黄忠の事を老いぼれ発言をしています。

この老いぼれ発言をした事での、黄忠の行動について考えてみたいと思います。

まず関羽の黄忠への老いぼれ発言ですが、これは思いやりもなく差別用語でしかないので論外だと考えています。

関羽みたいに、黄忠はちゃんと功績を挙げて評価されているわけですから、「老いぼれ」と言うのは人として良くないと考えられるはずです。

劉備は夷陵の戦いで、悪気はなかったのですが、結果として黄忠を老人扱いしてしまいました。

これに激怒した黄忠は、敵陣に突入して傷を負い死亡するわけですが、劉備の黄忠への老人発言は明らかにマイナスだったはずです。

諸葛亮も漢中争奪戦の前に黄忠の事を老人扱いしています。

しかし、なぜか諸葛亮だけが黄忠を老人扱いしても、黄忠は発奮し敵を撃破してしまいます。

諸葛亮は黄忠の能力をよく理解しての言葉だったとされていますが、これは物語だからと思って片づけた方がよいでしょう。

言われた人の性格などもありますが、侮辱されたような人は感情的になり失敗したのでは?と思える例が歴史上ではあるからです。

馬謖は、諸葛亮は高く評価していましたが、劉備は「馬謖は使い物にならない」と酷評しています。

馬謖は劉備に言われた言葉を覚えていて、「今に見てろよ!」と変に発奮してしまい意固地になり、王平の進言を却下し街亭の戦いで敗北した可能性もあります。

春秋戦国時代に、子玉というの将軍がいて晋の文公重耳に敗れています。

子玉も蔿賈に侮辱されて、向きになり戦いを挑み大敗した結果があるわけです。

中国の戦国時代でも、趙括は父親である趙奢に机上の空論を言っているだけと酷評されています。

趙括は、長平の戦い白起に敗れて、趙軍40万を生き埋めにされています。

これらの人は、いざと言う時に侮辱された事が頭に残っていて、向きになり最悪の結果を招いたような気がしてなりません。

それを考えれば、黄忠も侮辱された事で向きになり敗北する事だってあるのではないでしょうか?

史実では、関羽に「老いぼれ」と言われてから、翌年には亡くなってしまった為、戦場に出た記録はありません。

しかし、生きていて「老いぼれ」発言を気にしていたら、変な所でミスをして失敗した可能性もあるでしょう。

ただ黄忠は漢中や入蜀での戦いぶりに、自信を持っていて老人扱いされても、何とも思わなかった可能性もあります。

関羽の事は「功のない奴がほざいているだけ」と考えた事も考えられますが・・・。

それでも、関羽は論外だとしても、劉備や諸葛亮のように侮蔑するような事は上司や同僚に対して言うべきではないと個人的には思います。

そういうのは、相手の足を引っ張る行動でもありますし、よくないと思いました。

それを考えてみれば、自分も黄忠や関羽、諸葛亮や劉備の事をあれこれ言えるような、立派な人間ではないと思うので、それを考えるとこの記事もよくないのかも知れません・・。

それを考えてしまうと、ブログの存在意義を失ってしまうわけですが・・・。

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