名前 | 張郃(ちょうこう) 字:儁乂 |
生没年 | 生年不明ー231年 |
時代 | 後漢末期、三国志、三国時代 |
主君 | 韓馥→袁紹→曹操→曹丕→曹叡 |
年表 | 200年 官渡の戦い |
228年 街亭の戦い | |
231年 第四次北伐(諸葛亮) | |
画像 | ©コーエーテクモゲームス |
張郃は正史三国志や後漢書に登場する魏の名将です。
張郃は冀州河間郡鄚県の出身であり、黄巾の乱から諸葛亮の第四次北伐まで活躍した武将でもあります。
活動期間を考えれば、張郃は三国志でも屈指のタフさを誇る名将とも言えるでしょう。
張郃は韓馥、袁紹、曹操と主君は代えていますが、決して不忠者という訳ではありません。
三国志演義では趙雲、馬超や黄忠や厳顔との戦いに敗れたりもしていますが、魏延や関興とは引き分けたりもしています。
しかし、史実の張郃は高い作戦遂行能力を持ち、諸葛亮ですら恐れた程の逸材です。
今回は魏の名将である張郃を解説します。
尚、正史三国志での張郃は張楽于張徐伝に収録され、魏の五大将の一人に数えられています。
張楽于張徐伝では下記の人物と共に収録されています。
張郃の前半生
正史三国志の記録によれば、張郃は張角が引き起こした黄巾の乱では、募兵に応じ軍の司馬になったとあります。
これを考えると、既に張郃は黄巾の乱の時には、戦場に行ける様な年齢であり役職を与えられる辺りは周囲の評価も高かったのでしょう。
張郃が名士だという事も考えられるはずです。
董卓が実権を握ると韓馥を冀州牧に任命し、張郃は韓馥に仕えました。
しかし、韓馥は袁紹配下の逢紀の策により、袁紹に冀州を譲る事になります。
韓馥が袁紹に冀州を譲った事で、張郃は沮授、田豊、審配らと共に袁紹に仕える事になりました。
袁紹は張郃を配下にすると校尉に任命し、公孫瓚を防がせたとあります。
具体的な功績は不明ですが、張郃は公孫瓚討伐においても大きく活躍したとあり、袁紹は寧国中郎将に出世させています。
ただし、官渡の戦いの前の曹操陣営の軍議において、孔融や荀攸の口から張郃の名前は出ておらず、当時の袁紹軍では顔良や文醜が代表的な将軍であり、張郃は1ランク下の立場だったのかも知れません。
官渡の戦
張郃の策
漢晋春秋に張郃が官渡の戦いの時に、袁紹に進言した言葉が残っています。
※漢晋春秋より
張郃「公(袁紹)は連戦して戦いには勝利していますが、曹公と戦ってはなりません。
密かに軽装の兵を繰り出し、南方を荒す様にしてください。
ここで敵の連絡を絶つ事が出来れば、自然と敵は崩壊します」
漢晋春秋の記述では、張郃が何処かのタイミングで袁紹に別動隊を派遣し、曹操の南方を揺さぶる様に進言した事になっています。
連戦連勝と記録がある事を考えると、袁紹が白馬の戦いと延津の戦いに敗れた後に、曹操軍を官渡まで押し込んだ事を指すのかも知れません。
それを考えると、白馬・延津の戦いの後に、官渡までの間に曹操軍に連勝し、官渡に押し込んだタイミングで張郃が進言した可能性が高い様にも感じています。
もしくは、連戦連勝は曹操との戦いを指すのではなく、公孫瓚との戦いを指し、張郃は沮授や田豊と同様に袁紹に持久戦を主張した様にも思いました。。
尚、袁紹は全く別動隊を派遣しなかったわけでもなく、劉備に徐州方面に侵攻させるなどもしています。
しかし、結局は上手く行かなかったと言えるでしょう。
漢晋春秋には張郃の策を袁紹は採用しなかったとあります。
張郃伝の記述
官渡の戦いでは、袁紹の前で張郃と郭図の意見が割れた話があります。
異説はありますが、正史三国志の張郃伝に沿って話を進めます。
曹操との官渡の戦いでは袁紹は烏巣に兵糧庫を設置し淳于瓊に守備させていました。
袁紹側の許攸が曹操に寝返り、烏巣の兵糧庫の場所をリークし、曹操は楽進を連れて烏巣を急襲する事になります
これにより烏巣の戦いが勃発したわけです。
ここで張郃は袁紹に次の様に進言しました。
※正史三国志 張郃伝より
張郃「曹公の兵は精鋭揃いであり、出撃したからには淳于瓊を破るに違いありません。
淳于瓊が敗北すれば、この戦いの負けが決定します。
急ぎ兵を連れて淳于瓊を救援すべきです」
張郃は淳于瓊が敗れれば兵糧を全て焼かれてしまう事で、軍を維持する事が出来なくなると主張し救援するべきだと述べたわけです。
張郃の考えに異を唱えたのが郭図であり、次の様に述べました。
郭図「張郃の考えは間違っております。
今の状況なら敵の本陣を攻撃した方がマシです。
曹操は本陣が攻撃されたと聞けば引き返すに違いありません。
これなら救援をしなくても、自然と烏巣の包囲は解けるのです。」
郭図は春秋戦国時代に活躍した孫臏の策である囲魏救趙の策を使おうと考えました。
しかし、張郃は郭図の意見に反対し、次の様に述べています。
張郃「曹公の陣営は強固に守りを固めているに違いありません。
守りが固い曹操の本営を攻撃しても、決して落とす事は出来ないでしょう。
仮に淳于瓊が敗北すれば、我等は全て捕虜になってしまいます」
張郃は頑として烏巣への救援を主張したわけです。
これに対し袁紹は軽装騎兵を淳于瓊への救援とし、重装歩兵で曹洪、荀攸、賈詡らが守る曹操の本営を攻撃しました。
袁紹は張郃と郭図の中間の策を採用したと言えるでしょう。
正史三国志の武帝紀や袁紹伝では、曹操本営に攻撃した将軍が張郃と高覧となっています。
しかし、正史三国志の張郃伝を見ると張郃が曹操の本営を攻撃した記述がない状態です。
烏巣の淳于瓊が楽進に斬られ、曹操軍の勝利が決まり面目を失った郭図は、次の様に述べました。
郭図「張郃は我が軍の敗北で調子に乗り、不遜な言葉をまき散らしております」
張郃は郭図の讒言を耳にすると、命の危険を考え曹操に降ったとあるわけです。
張郃伝の記述を見ると、張郃が高覧と共に曹操の本営に攻撃を仕掛けたとする記述が存在しません。
異説
裴松之も指摘していますが、正史三国志の武帝紀と袁紹伝を見ると、次の記述が存在します。
※正史三国志 張郃伝・裴松之の見解
袁紹は張郃と高覧に太祖の陣営を攻撃させた。
張郃らは淳于瓊が敗れたのを知ると、結局は降伏した。
袁紹の軍勢は、その結果として完全に崩壊した。
上記を見ると分かる様に、張郃は烏巣の戦いで淳于瓊の敗北を知り、勝ち目はないと悟り降伏した事になっています。
これだと張郃と高覧の降伏が決定打となり、袁紹軍は崩壊した事になります。
淳于瓊が敗れたから、袁紹の軍が崩壊し張郃が降伏したのか、淳于瓊が敗れ張郃が降伏した事で、袁紹軍が崩壊したのかは、記述の混乱があり分からないと言えます。
尚、官渡の戦いにおける謎の一つが、曹洪や荀攸が守る曹操の本営への攻撃に反対した張郃に、袁紹は曹操本営への攻撃を命じている所です。
張郃伝の記述だと、張郃は曹操の本営を落すのは難しいと述べており、これで張郃が曹操の本営を攻撃して落としてしまえば、自分で自分を論破する事になってしまいます。
曹操本営への攻撃に反対した張郃に、攻撃させたのは官渡の戦いの謎の一つだとも言えます。
ただし、郭図の考えだと曹操は官渡の本営が攻撃を受ければ、烏巣から引き返すと述べており、張郃はあくまでも形だけの曹操の大本営攻撃だったのかも知れません。
しかし、実際には曹操は張郃が本営を攻撃しても戻らず、淳于瓊を斬り捨てています。
尚、官渡の戦いの時に張郃が曹操の配下になった事だけは間違いないでしょう。
曹操配下に加わる
曹操は張郃を配下に加える事が出来ると、非常に喜んだと言います。
曹操は一部からは「人材コレクター」などとも呼ばれており、公孫瓚討伐などでも活躍した張郃を配下に加える事が出来たのを喜んだと言えるでしょう。
曹操は投降した張郃に、次の様に述べました。
※正史三国志 張郃伝より
曹操「昔、伍子胥は悟るのが遅かった為に、危険は身に及んだ。
微子は殷を去り、韓信が漢に仕えた時の様だ」
曹操の口から出た伍子胥は春秋戦国時代に、呉王闔閭や夫差に仕えますが、伯嚭に讒言され命を落としています。
曹操は伍子胥と伯嚭を張郃と郭図の関係に見出したのでしょう。
微子は殷の帝乙の長子でありながら位を継ぐ事が出来ず、殷の紂王の暴政を見ると逃亡し、最終的に周の武王から宋の地を与えられています。
微子は微子啓の名前でも有名です。
韓信は劉邦に仕えた天才将軍であり、曹操は張郃を韓信に例えるなど、極めて髙い評価をしている事が分かります。
曹操は張郃を重用し偏将軍に任命し、都亭侯としました。
袁氏を滅ぼす
202年に袁紹が亡くなると、曹操は北伐を開始し張郃にも軍勢を与えています。
張郃は旧主である袁氏を滅ぼしに掛かるわけです。
曹操の北伐において張郃は、審配が守る鄴を攻略するのに活躍しただけではなく、袁紹の長子である袁譚とも戦っています。
張郃は雍奴を包囲し、敵を散々に打ち破ったとあります。
袁煕と袁尚が北方に逃げると、張郃は曹操の柳城攻撃に郭嘉や張遼と共に参戦しました。
柳城の戦いでは張郃は張遼と共に先鋒となり、功績を挙げています。
曹操は柳城攻めでの張郃の働きを認め平狄将軍としました。
袁煕と袁尚は遼東に逃亡しますが、公孫康が二人の首を届けた事で、曹操の北方遠征は終焉を迎えました。
張郃が旧主である袁氏の滅亡をどの様な目で見ていたのかは不明ですが、戦いでの活躍を見れば、迷いなく袁氏を滅ぼしたと感じています。
この頃の張郃が忠誠を誓ったのは、曹操であり遠慮なく袁氏を滅ぼしに掛かったのでしょう。
尚、北方遠征が終わっても張郃は休むことなく軍を進め、東莱遠征を行い楽進、李典らと共に管承を討ち、さらには張遼と共に袁術軍の残党とも言える陳蘭や梅成らの討伐に出ます。
灊山の戦いでは張郃は張遼、于禁、臧覇らと共に、陳蘭や梅成を滅ぼしました。
関中での戦い
曹操は208年の赤壁の戦いでは、呉の周瑜に敗れますが、211年に馬超と韓遂の討伐を行っています。
正史三国志の張郃伝の記述によれば「渭南で馬超、韓遂を破った」とあります。
張郃伝のいう渭南での戦いは、潼関の戦いを指すのでしょう。
潼関の戦いで勝利した後に、安定を包囲し楊秋を降伏させました。
さらに、張郃は夏侯淵と共に鄜の梁興と武都の氐族の討伐に成功しています。
この後に、夏侯淵は馬超を再び破り宋建を平定したとあります。
夏侯淵は機動力抜群の将であり、夏侯淵の軍の機動力を支えた存在が張郃だったのでしょう。
漢中討伐
曹操は関中を平定すると、漢中に割拠する張魯討伐を決断します。
曹操は張魯討伐の手始めに、張郃に諸軍を指揮させ興和の氐族王竇茂を討伐しました。
さらに、曹操は張郃に五千の兵を与え散関から漢中への道を通じさせています。
陽平関の戦いでは張衛を破り、閻圃らの進言もあり張魯は降伏しました。
劉備が黄権を派遣し、張魯を自陣営に取り込もうとしますが、間に合わなかった話もあります。
曹操は呉を討伐する為に西方から離れますが、漢中の地を夏侯淵と張郃に任されました。
張郃は夏侯淵の副将的な立場となったわけです。
漢中争奪戦
張郃の南下
曹操が漢中を制圧した頃には、劉備は劉璋から蜀の地を奪い益州の主となっていました。
ここで張郃は南下を始め巴東、巴西の二郡を抜き住民を漢中に移しました。
張郃は渠宕まで進軍しますが、劉備配下の張飛に敗れ、南鄭まで引き上げる事になります。
この後に、張郃は盪寇将軍に任命されました。
張飛には敗れましたが、巴東、巴西の住民を強制移住させた事を評価されたのでしょう。
定軍山の戦い
劉備は漢中の奪取に動き陽平に駐屯しました。
ここにおいて、漢中争奪戦及び定軍山の戦いが勃発する事になります。
張郃は広石に駐屯しました。
劉備は精鋭1万を十の部隊に分けて、張郃に夜襲を仕掛けてきました。
張郃は定軍山の戦いでは、夏侯淵の軍の東端におり、劉備は東側を攻撃してきた事になります。
総大将の夏侯淵は張郃を救う為に半数の兵を割き、張郃の救援に向かわせました。
張郃は夏侯淵の信頼できる部下であり、失いたくはないと考え多くの兵を救援に向かわせたのでしょう。
張郃は親衛隊を率いて白兵戦を行いますが、劉備の攻勢を食い止めました。
後に劉備は走馬谷の防御陣地を焼き払い、夏侯淵が自ら修復に向かう出来事がありました。
劉備の軍師である法正は、このタイミングで夏侯淵を攻撃する様に進言し、黄忠が夏侯淵を討ち取っています。
夏侯淵が戦死すると、魏軍は崩れ張郃は陽平まで撤退しました。
尚、劉備は夏侯淵は討ち取りましたが、魏略によれば劉備は夏侯淵を軽く見て張郃を恐れていたとあります。
夏侯淵を討った後に、劉備は張郃を取り逃がしており、次の様に述べました。
※魏略より
劉備「一番の大物を取り逃がしてしまった。
こんな事でどうするのだ」
劉備が如何に張郃を警戒していたのかが分かる話でもあります。
尚、劉備は先に精鋭を率いて張郃を攻撃しましたが、勝つ事が出来ず、ここでの張郃の白兵戦は凄まじいものがあったのでしょう。
総大将・張郃
都督の夏侯淵が討たれてしまった事で、魏軍に不安が大きくなりました。
総大将の夏侯淵を失ってしまった事で「劉備に対処するのは難しいのではないか?」と全軍が恐怖し不安が広がったわけです。
魏軍の士気は低下しますが、ここで夏侯淵の司馬の郭淮が次の様に述べています。
※正史三国志 張郃伝より
郭淮「張将軍(張郃)は国家の優れた将軍であり、劉備にも警戒されている。
今は危急の事態となっているし、張将軍で無ければ軍を落ち着かせる事は出来ない」
郭淮の発言もあり杜襲も支持した事で、張郃が臨時の総大将となったわけです。
張郃は総大将となるや本営の外に出て、軍を周り慰撫し兵士らを落ち着かせました。
諸将は張郃を総大将だと認め、落ち着きを取り戻す事になります。
この時に曹操は長安にいましたが、夏侯淵の死と経緯を聞くと、使者を派遣し張郃に節を与えました。
曹操も臨時の総大将として張郃を認めたわけです。
その後に、曹操自身が漢中まで出向きますが、劉備は高い山に籠り守備を固め戦おうとはせず、曹操は漢中を棄て帰還しました。
張郃は陳倉に駐屯する事になります。
故郷に封じられる
曹丕が魏王になるや張郃は左将軍となり、都郷侯に爵位を進めています。
献帝からの禅譲により曹丕が帝位につくと、鄚候に封じられる事になります。
張郃は冀州河間郡鄚県の出身であり、曹丕は張郃に気を使い故郷の鄚県に領地を与えたのでしょう。
張郃は故郷に錦を飾ったとも言えます。
曹丕の時代になっても張郃の気力は衰えず、曹真と共に安定の盧水胡にいる異民族と、東羌を討伐しました。
異民族討伐が片付くと、張郃は曹丕から呼ばれ参内する事になります。
三方面作戦
劉備が関羽の敵討ちと称して夷陵の戦いが勃発しますが、陸遜に歴史的な大敗北を喫しました。
夷陵の戦いの後に、曹丕は曹仁、曹休、曹真らに三方面から呉に侵入させました。
この時に、曹真、夏侯尚ら江陵方面に侵攻し軍の中に張郃、徐晃もいたわけです。
正史三国志の張郃伝には「南に向かって進撃する様に、夏侯尚と共に命令を受けた」と書かれています。
江陵の戦いでは、朱然が守る江陵を攻めたわけですが、中々攻め落とす事が出来ませんでした。
こうした中で張郃は別動隊を率いて長江を渡り中洲にある砦を占拠したとあります。
しかし、孫権が諸葛瑾に朱然を救う為の救援軍を出したり、潘璋の奮闘もあり疫病が魏と呉で流行した事で魏軍は撤退に移りました。
三方面作戦は全ての方面で呉軍が魏を圧倒しています。
劉阿を破る
曹叡の時代になっても、張郃は戦い続ける事になります。
226年に曹叡は即位したわけであり、この時点で黄巾の乱から数えても30年以上も張郃は戦場に出続けたと言えるでしょう。
程昱や張昭など高齢になると兵士を返還し、半隠居状態にする場合もありますが、張郃は兵士を国家に返還する事もなく戦い続ける事になります。
三国志の世界の武将は現れては消えるが常にも関わらず、ここまで戦い続けた張郃は稀でありタフな武将だと感じました。
張郃の覇気は衰えず、南方の荊州に駐屯し、司馬懿と共に孫権配下の劉阿を攻撃し、祁口まで敵を追い詰め撃破しています。
街亭の戦い
諸葛亮は祁山を囲み涼州の三郡が蜀に靡くなど、魏にとっては困難な状況となります。
こうした中で張郃が特進となり諸軍を率いて、救援に向かう事になりました。
諸葛亮は街亭に馬謖を配置し、張郃への足止めとしています。
馬謖は南山に陣を布きますが、張郃は蜀軍の水源を断ちました。
馬謖率いる蜀軍は水不足で苦しみ、張郃は馬謖の軍を散々に打ち破る事になります。
蜀軍は王平が見事な撤退戦を演じますが、結果的にいえば街亭の戦いは張郃の一方的な勝利だと言えるでしょう。
馬謖と張郃では戦場での経験に圧倒的に開きがあり、歴戦の猛者である張郃の前に馬謖は成すすべもなく敗れました。
張郃が街亭の戦いで勝利した事で、諸葛亮の軍は撤退に移る事になります。
張郃は諸葛亮が撤退した後に、反旗を翻した涼州の三郡(南安、安定、天水)を平定しました。
尚、諸葛亮の第一次北伐は張郃により失敗に終わりますが、魏将の姜維が蜀軍に降りました。
曹叡の詔勅
曹叡は蜀軍を破った張郃を高く評価し、次の様な詔勅を発行しました。
※正史三国志 張郃伝より
賊の諸葛亮は巴蜀の軍を引き連れ、勇猛な我が軍に攻撃を仕掛けてきた。
将軍(張郃)は堅固な鎧を身にまとい鋭利な武器を手に取り敵を討ち破ってくれた。
朕はこの働きを評価し、千戸を加増し四千三百戸とする。
曹叡は即位したばかりの不安定な時期に、敵を討ち破ってくれた張郃を高く評価しました。
尚、魏で4300の戸数を領有するのは最上位クラスであり、魏の五将軍の張遼が2600戸、徐晃が3100戸となり、如何に張郃の戸数が多いかが分かります。
勿論、張郃の方が活躍時期が長い事はありますが、最終的に五将軍の中で最も俸禄を得たのは張郃だと言えます。
荊州に移動
司馬懿は荊州方面を任されていましたが、沔水から長江に入り呉に侵入する計画を立てました。
司馬懿は水軍を整えていたわけです。
張郃は司馬懿の作戦を遂行する為に、関中の軍勢を率いて荊州に行き司馬懿の指示を受ける様に命令が下りました。
張郃は荊州に到着しましたが、季節は冬であり水位が低く大型船の運航が出来なかった話があります。
これにより張郃は引き返して方城に駐屯しました。
張郃は荊州に行ったはいいが船が使えないなど拍子抜けしてしまった様に感じています。
陳倉への救援
228年の冬に再び諸葛亮は魏の領内に侵攻し郝昭が守る陳倉に押し寄せています。
曹叡は駅馬を使い急いで張郃を召喚しました。
曹叡自身が河南城に行き宴席を開いて張郃を見送ったとあります。
張郃は曹叡から絶大なる信頼があり、南北の軍勢3万だけではなく、張郃の護衛として武衛、虎賁を分け与えたとあります。
虎賁などは皇帝直属の親衛隊であり、如何に曹叡が張郃を大事にしていたのかが分かる話でもあります。
曹叡は張郃をつまらない事で失いたくはないと考え、護衛をしっかりと付けたのでしょう。
曹叡は陳倉が心配であり、張郃に次の様に尋ねました。
※正史三国志 張郃伝より
曹叡「将軍(張郃)の到着が遅れてしまえば、陳倉は諸葛亮の手に落ちてしまうのではないだろうか」
曹叡は即位してからまだ2年も経過してはおらず、最善は尽くそうと考えていましたが、戦況が心配だったのでしょう。
しかし、張郃は諸葛亮が漢中から秦嶺山脈を超えて陳倉に至ったと知っており、兵站が繋がらず長期戦を行えない事を知っていました。
そこで、張郃は次の様に述べています。
張郃「私が到着するよりも前に諸葛亮は撤退している事でしょう。
指を折って数えても諸葛亮の軍は十日もしないうちに引き上げる事になります」
それでも、張郃は諸葛亮の軍に圧力を与える為か、朝も夜も前進し南鄭に到達すると、諸葛亮は撤退に移りました。
諸葛亮が撤退した事で、張郃にも帰還命令が出されました。
張郃は西征車騎将軍に任命される事になります。
陳倉の戦いでは張郃の見通しも見事ですが、郝昭もよく城を守ったと言えるでしょう。
尚、諸葛亮の第二次北伐では魏の王双が撤退する蜀軍を追撃し戦死していますが、同じ事が第四次北伐の張郃に起こってしまう事になります。
張郃の強さの秘訣
正史三国志に張郃の強さの秘訣に関して書かれています。
張郃伝によると、張郃は変化を見るのが上手く、陣営を処置するのに巧みで敵味方の陣形や戦況、地形をよく考慮し作戦を立てたとあります。
張郃が動けば思った通りに行かない事はなかったと言います。
張郃の能力の高さには諸葛亮を始め、多くの蜀将が恐れました。
張郃は戦争ばかりを行っていた根っからの武人の様に思うかも知れませんが、儒学者にも目を掛け同郷の卑湛を経明行修に推薦した事もあります。
卑湛は張郃から経学、品行に優れていたと評価されたわけです。
曹叡は詔勅を発行し、次の様に述べています。
※正史三国志 張郃伝より
昔、後漢の祭遵は将軍になるや五経大夫の設置を上奏し、軍中にあっても学生たちと雅楽を奏で投壺を行ったと聞く。
現在の将軍は軍隊を指揮し、内では朝廷に心を配っている。
朕は将軍(張郃)の気持を讃え、推挙した卑湛を博士に任命しようと思う。
曹叡は張郃が推挙した卑湛を博士に推挙しました。
張郃が推挙したからこそ、曹叡は卑湛を博士に任命した部分もあるのでしょう。
蜀軍への追撃
諸葛亮は231年に第四次北伐を敢行し、再び祁山に軍を進めました。
詔勅が出され張郃にも出陣が命じられています。
張郃は諸将を率いて西行し略陽に向かいました。
張郃伝によると諸葛亮は祁山を守ったとあります。
蜀軍は兵糧不足に苦しみ漢中の李厳が兵站を繋げる事が出来ず、諸葛亮は撤退に移りました。
魏略によると、この時に司馬懿が張郃に蜀軍の追撃を命じる事になります。
ここで張郃は司馬懿に、次の様に述べました。
※魏略より
張郃「兵法には包囲した城は必ず逃げ道を作り、帰る軍を追ってはならないと書かれています」
張郃は兵法を交えて司馬懿に蜀軍の追撃を止める様に進言しました。
しかし、司馬懿は張郃に追撃を強行させています。
ここでも官渡の戦いと同様に張郃は反対したにも関わらず、反対した作戦を遂行する事になったわけです。
張郃の最後
危険な追撃戦
張郃は蜀軍の追撃を行い木門までやってきました。
ここで待ち伏せていた蜀軍と戦いになります。
魏略によると、蜀軍は高地に伏兵を配置しており、弓と弩が乱射されたとあります。
弓矢が張郃の腿や右膝に当たり、張郃は最後を迎えました。
黄巾の乱から40年近くも戦い抜いた張郃も、ここにおいて戦死してしまったわけです。
張郃は死後に壮侯と諡がされています。
曹叡や陳羣は張郃の死を惜しんだ話があり、魏の為に長年戦ってきた張郃の死を悼んだ人は多かったと感じています。
曹叡自身も即位したと思ったら諸葛亮が攻めて来て、魏の存亡を感じたはずですが、街亭の戦いで馬謖を破り打破してくれた張郃には、深い思い入れがあった事でしょう。
尚、張郃は魏の功臣として認められており、曹芳の時代である西暦243年に曹操の霊廟に祀られました。
曹操の霊廟に祀られた人物の一覧は下記の通りです。
張郃の死の謎
張郃の死には謎があります。
蜀軍は漢中の李厳が兵站を繋げる事が出来ず、諸葛亮は撤退したわけです。
蜀軍が戦いに敗れて兵を引いたわけではなく、兵糧不足で撤退した事になります。
諸葛亮が兵を引いた時点で、魏軍は防衛戦争に勝利したと言えます。
この時点で、魏は勝利が確定し、わざわざ孫子も危ぶんでいる様な追撃を行う必要はなかったはずです。
それも追撃を行ったのは、司馬懿に次ぐ高官であるはずの車騎将軍の張郃となっています。
わざわざ勝利が確定したのに、危険な追撃を軍のナンバー2に行わせたというのは不思議な事でもあります。
諸葛亮の第四次北伐の様な危険な追撃戦であれば、もっと身分の低い将軍でもよかったのではないか?とする説もあります。
尚、司馬懿が後に張郃を政敵となると考え、排除したかったのではないか?とする説もありますが、真相は不明としか言いようがありません。
それでも、張郃の死には謎が多いと言えます。
司馬懿がなぜ張郃に追撃をさせたのかは、メリットを見出す事が出来ず謎としか言いようがないでしょう。
張郃の子孫
張郃が亡くなると、子の張雄が後継者となります。
張郃は何度も功績を打ち立てた事で、曹叡は張郃の領地を分割し、張郃の四子を列侯に任命しました。
小子には関内侯の爵位を与えたと言います。
張郃の評価
陳寿は正史三国志の評の部分で、張郃に対し次の様に述べています。
※正史三国志 張楽于張徐伝より
張郃は変化に対し、巧みに対処する事を評価された。
上記の記述から変化に巧みとあり、臨機応変の才能が張郃にはあったのでしょう。
張郃の作戦遂行能力の高さに、諸葛亮や蜀将は恐れた様に感じました。
先にも述べましたが、三国志の世界では現れては短期間で消える武将が多い中で、40年近く戦い抜いた張郃は、かなりしぶとくタフな部分があった様に感じています。
三国志の中でタフな武将と言えば、劉備や曹操が挙げられるかと思いますが、張郃も五本指に入る位のタフネスな人物だと感じました。